マイン・ケーニヒの事件簿   作:ひろせとら

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人間、オーク、ダークエルフ

 翌朝、私は彼女の指定通り午前十時に、件のベイカー街221Bへと赴いた。

 

 彼女との邂逅が思いもよらぬ化学反応を引き起こしたように、物件の下見が単なる下見で終わるはずもない。

 

 そんな確信があったゆえに、「いいものを見た」とひとりごちてそのまま立ち去ろうとしたスタンフォードを問い詰め、新聞や情報媒体にあたって彼女について調べてみたところ、いくつかのことがわかった。

 

 ディネルース・アンダリエル。

 職業は私立探偵に近く、時たま警察へのコンサルティングをやっているらしい。警察をはじめとした法執行機関が困り果てた時に頼る、法ではなく推理の番人。一笑に付すべき、フィクションの登場人物のようであるが、昨日の洞察からするに、誇張というわけではないらしい。

 

 世間からの評価は様々で、彼女を智の英雄と称える声もあれば、犯罪現場をかき乱す素人と激しく非難する声もある。いずれにせよ、一般的な評価の埒外にいることに間違いはない。

 が、総じて、

 

「人間族であろうが魔種族であろうが、彼女に苛立たない生き物など存在しない」

 

 というのが共通する見解であるようだった。無理もない。初対面で根掘り葉掘り言い当てられてしまえば、誰でも苛立ちを抑えられないというもの。

 

 私とて彼女の容姿がなければ、いや、私は彼女に苛立っただろうか。わずかな間ながら、私の仔細を見抜かれて、喜び、快感のようなものを覚えたことは否定できない。

 

 そう、彼女の容姿。彼女が正真正銘のダークエルフであることは間違いないようだった。しかし、私立探偵になる前の彼女の経歴は一切の謎に包まれており、なぜ探偵を志したのかも明らかではない。

 

 そして不思議なことに、彼女の眼帯や木塊、魔術力に関しても、なんら情報を得ることができなかった。あれだけ特異であれば、誰かが気にかけてもよいものの、こちらも一切の情報がない。

 

 まるで誰かが消し去ったかのように。彼女自身か、あるいは誰かが、彼女の過去を隠そうとする作為さえ感じられた。しかし、私とて脛に疵がないわけでもない。彼女の今が、悪しき存在でないとわかれば十分だ。

 

 付け加えるならば、彼女は変わった、とても変わった書籍を出しているようだ。

 

 例えば、『灰図鑑』。古今東西数多の植物を燃やした後の灰について、その形状、味、肌触り、薬理作用、魔術力の残滓、吸い心地に至るまで、あらゆるデータが載せられている奇書。執筆者の執念と緻密さには驚かされるばかりであり、また彼女の「葉巻」の悪癖が伺えるものであったが、悲しいかな、読み物としては全く面白くなかった。

 

 図鑑と聞けば誰しも心躍る書物であり、読み始めてから気付く頃には膨大な時間を費やしかねない危険な代物のはずが、活字中毒者の私にあっても、読み続けられる代物ではなかったのだ。

 

 なにせ載せられている灰の写真が良くない。ほぼ全てが同じものにしか見えないのだから。昨日の彼女が嬉々として『灰図鑑』を編纂している姿はなぜか克明に想像できるが、その心情は常人の理解が及ばないところにあるらしい。

 

 つまるところ、彼女について調べたところで、謎は深まるばかりであった。

 

◆◆

 ちょうど私が221Bのドア前に辿り着いた時、見計らったかのように彼女が颯爽と現れた。

 

 シングルブレストのスーツにホワイトグレーのシャツ。艶のない黒のレザーシューズと指先の開いた革手袋。そして膝下まで伸びる長大な黒のインバネスコートは、襟が立てられている。中性的なシルエットを活かしつつ、キャメロットのスタイルを存分に取り入れたシックな装いだ。

 

「ディネルース・アンダリエルさん、昨日はどうも」

「ディネルースでいい。ダークエルフの名辞については知っているのだろう?なんなら私も君をファルケンハイン氏と呼ぶ方がいいかな?」

 

 傲慢にして不遜、何が彼女の絶対的な自信を支えているのだろうか。

 

「いや、失礼した。グスタフでいい。私も遠慮なくディネルースと呼ばせてもらおう」

「それはよかった。何度も呼ぶには舌が絡まりそうだからな。それではグスタフ。準備はいいかな?」

「ああ、しかしここはとても家賃が高そうだ」

 

 ベイカー街はログレスの中心部にほど近く、高級住宅街ではないものの地下鉄駅からのアクセスは良好だ。

 その上、今目の前にある221Bの扉はとてもしっかりした造りで、年季は入っているもののよく手入れされており、家主の性格が伺える。おまけに外壁には防音防振の刻印魔術が施されていて、中は通りの雑踏とは無縁のはずだ。ホテルであればスウィート並みの仕様といえる。

 

 

「なに、安心したまえ。家主のハドソン夫人とはちょっとした悩みを解決して差し上げた過去があってね、当分は割り引いてくれるはずだ」

「ちょっとした悩み?」

 

 ディネルースはドアに取り付けられた重厚そうなドアノッカーをこつこつと叩いた。

 

「ああ。彼女の少々、問題のあった事業から資産を切り離して、洗浄するのを手伝ったんだ」

 

 およそ探偵業とはかけ離れている聞き捨てならない言葉が飛び出したが、恐らく、彼女の一言一言に気を配っていれば私も長くはもたないだろう。であるから、あえて聞き捨てることにした。

 

「ディネルース!やっと来たわね」

「ハドソン夫人、久方ぶりです」

 

 出迎えたハドソン夫人とディネルースは軽い抱擁を交わす。

 

 ――人間族。老婆から一歩手前ほどの婦人。

 

 てっきり事業に余裕のあるコボルト族あたりだろうと思っていたのだが、ダークエルフとオークに軒を貸そうとする家主が、まさか人間族とは。

 

 いくら多民族国家として栄えるキャメロットとはいえ、ハドソン夫人の若き日には魔種族などほとんど見なかったはずだ。それが人間族に容姿の近いダークエルフならまだしも、オークを迎え入れるとは到底――。

 

「あらあら、こちらのおっきな方がグスタフさん?本当にたくましくて大きいわね。階段、通れるかしら」

 

 到底思えなかったのにも関わらず、ハドソン夫人は躊躇なく私に近付いてくる。

 

「ご心配なく、彼が全盛期ほど鍛えなければ、通れなくなることはないでしょう」

「それはよかったわ。グスタフさん、お医者さまなんですって?よろしくねえ」

「ええ、お会いできて光栄です、ハドソン夫人。どうぞよろしく」

 

 何をどう「よろしく」なのかわからなかったが、ハドソン夫人は人間族とは思えないほどの力強さで私の手を掴むと、ぶんぶんと振ってみせた。握手のつもりだろうか。オークの牡相手にまるで物怖じしない、なかなか豪胆な婦人であった。

 

 にしても、ディネルースの発言はいったい?確かに長い戦役と粗食に耐えて身体は少し細くなったものの、一見してわかることではないはずだ。

 

 もしかすると彼女は、本当に昔の私を知っているのだろうか。ロザリンドの会戦であれば、あるいは。だが、あの時の私は若く、青く、今その面影は残っていない。

 

 戸惑う私に構わず、二人はドアの正面に位置した細長い階段を昇ってゆく。その姿は背丈の隔絶を除けば孫と祖母のようでいて、しかし実年齢は真逆であり、曾孫や玄孫をも超えているのであろう事実に、思わず口角が上がってしまう。

 

 確かに、階段と廊下は私が引っかかる寸前の幅であった。人間族の住まいだけあって階段の床材には不安を覚えたが、そっと足を乗せてみると、なるほど。こちらも構造的かつ魔術的にしっかりと補強されている。オークが複数なだれ込んでも、駆け上がっても、びくともしないだろう。

 

 ディネルースの言動も謎であったが、人間族にしては異様に頑丈な家を持つハドソン夫人もまた謎であった。

 

「もじもじしていないで、早くおあがりなさいな」

 

 ハドソン夫人が上から声をかける。年齢でいえば私にとっても彼女は小娘か赤子同然ではあるが、オークの元とはいえ王をつかまえてもじもじとは、うん。何か反論しにくい威厳が備わっているようだった。

 

 階段を上がりドアを抜けると、落ち着いた居間が広がっていた。本や雑貨で散らかっているものの、無駄に華美なところがなく、質実剛健、生活に必要な配慮が行き届いている。小さなキッチンのついたダイニングに接続されていて、住み心地はよさそうだ。

 

 唯一の欠点、気になる点があるとすれば、壁にずらりとかけられた刃物のコレクションだろうか。星欧の古い剣からダークエルフの山刀、道洋の湾曲した巨大な獲物や秋津洲のカタナまで、実に多種多様で物騒な戦争の道具が並んでいる。

 

 ディネルースはというと、居間の中央に設置された大きな安楽椅子にどっかりと腰を下ろしていた。どこか自慢げな顔でここが私の定位置だと主張しているかのようだった。

 

「グスタフ、どうだ。悪くないだろう?」

「とてもいい。とてもいい感じだ。前の借主は物好きだったようだ。ここら辺を少し片付ければ」

 

 私が壁の刃物を指すと、ディネルースは椅子から飛び上がって壁のコレクションを引き剥がし始めた。

 

「問題ない、もう少しくらいならスペースを作れるはずだ」

「君のものだったのか…」

 

 褐色の頬を少し赤らめて、居心地悪そうにしているディネルースの姿は新鮮で、妙に可愛らしい。

 

 実験室での彼女もそうであったが、理知的とはいえ、片付けが大の苦手であることは明らかだ。

 

「ディネルース、やっと片付けてくれるのね。この間あなたが持ち込んでから、ずっとそのままで本当に困っていたのですからね。こんな物騒なもの集めてどうするつもり?うちは鍛冶屋じゃないのよ」

「わかっている!もう少しで片付くから静かにしてくれ!」

 

 どうやらディネルースは今日の下見の前から、ここ221Bに私物を持ち込んでいたらしい。先ほど「久方ぶり」と言っていたことから、随分と日を開けていたようだ。人間族のハドソン夫人に社交儀礼を合わせているようでいて、まったく常識的でないところも、彼女らしい。

 

 ハドソン夫人に茶化されて、彼女の耳にまで朱の色が届いたようだった。私もハドソン夫人に加勢したかったが、ディネルースのこれまでの言動から鑑みるに、あることないこと、特に実際に私の身にあったことを指摘されかねない。貸主には聞かれたくない話も含めて。

 

 彼女は誰かを傷付ける嘘を敢えて言うタイプには見えなかったが、誰かを守るために嘘をつくタイプにも見えなかった。

 

 今度は私が、ディネルースの安楽椅子の対面に置かれたソファに腰を下ろした。予想通り、このアンティーク調のソファもかなり質がよく、オークの体重をかけても悲鳴ひとつあげない。大型の魔種族にとって至れり尽くせりだ。

 

「今なら質問、してもいいぞ」

 

 ディネルースは手を動かしながらぶっきらぼうに言い放った。まるで今でなければつまらない質問は許さないと言わんばかりに。

 

「では、遠慮なく」

 

 ミステリアスな彼女に魅力を感じているとはいえ、昨日から抱えていた疑問をそろそろ解消したいところだ。

 

「なぜ私がアフェルカ帰りの軍医だと?」

 

「そんなことか。だが、いいだろう、説明しよう。定年間際のスタンフォードが親しげにオークの友人を連れてきた。彼はヴィルトシュヴァイン大学の出身でオルクセン滞在期間も長く、オークの旧友がいても不思議ではないが、二人の態度は久しく会っていなかったことを示している。

 

 その友人の格好も手がかりになる。君の着ているアルスターコートは五十年ほど前に流行の終わったもの。となるとキャメロットを訪れたのは初めてか久方ぶりだ。ちなみにだが、魔種族だって今どきそんなコートを身に着けているものは少ないのだから、替えがあるなら着替えた方がいい。

 

 そしてグスタフ、君はというと、立ち姿歩き方から明らかに軍人か元軍人だ。完治しているにも関わらず左腕の後遺症を気にしており、つまりは身体の外傷だけではなく、心的外傷も受けた。オークの頑丈さをもってして身体のみならず心まで傷付ける方法は自然と限られる。

 

 当世の軍人が赴く凄惨な現場、それは紛争地帯だ。目下のところ、争いが激化しているのはアフェルカ大陸南部とイスマイル東部。ではどちらか?日焼けの跡が頭部と腕部に残っているが、どちらも状況によっては容易に焼ける。しかし休職中に俸給が出るほどに統率され、末端まで人員の行き届くような大義名分のある紛争はどちらか?それはアフェルカ大陸だ。

 

 そして君はあの実験室に入った際に「なかなかの設備」とつぶやき、私の魔術力スペクトラム解析法を八割程度は正しく理解していた。技官の可能性もあるが、その肉体は最前線の戦場を耐え抜いた結晶だ。

 

 以上を総合的に勘案すると、君はアフェルカ帰りの軍医との結論に至る」

 

 彼女は予め用意された台本を読んでいるかのような早口で自信満々に一気にまくしたてると、満足気に頷く。私はただ一言の感想を漏らすしかなかった。

 

「素晴らしい」

「今なんと?」

 

「素晴らしい、と言ったんだ。実に、素晴らしい。ほとんど言葉も交わさずに、いや、言葉を交わす必要もなく私の経歴を言い当ててみせた。全くもって素晴らしいじゃないか」

 立ち上がってブラボーと叫び、拍手してもよかったが、彼女には言葉の方が伝わると踏んだ。

 

「そうか、そうか。珍しい反応だな」

 私の読みは当っていたようだ。彼女は先ほどまでの自信に満ち溢れていた覇気を失って、感慨深そうに小さくため息をついた。

 

「というと?」

「大抵の人間族や同族、警察の連中は私を遮るか、無視するだけだ」

「はははっ、無理もない」

「私もわかってはいるのだが、どうにも止められなくてね」

 

 彼女は刃物を片付けるのを諦めて、再び安楽椅子に身を沈めると、ぼんやりと椅子を揺らす。

 

「もっと詳しく、君の嫌がりそうなことまで解説してもよかったのだが、どうにも調子がずれた」

 

 ――危ない、藪蛇になるところだったか。

 

「しかし、私が気付いていないと思われるのも癪だから、これだけは言っておこう」

 

 彼女は身体を揺らすのをやめて、膝に両肘を乗せると、身を乗り出すようにして言った。

 

「私はディネルース・アンダリエル。どうぞお見知りおきを、マイン・ケーニヒ」

 

 ――やはり。

 

「なに、面白くならないのであれば、私から言いふらしたりはしないよ。スタンフォードが気付いていないのがおかしくてしょうがないが、あいつはそういう人間だからな」

 

 彼女は一瞬だけみせた剣呑な雰囲気をすぐさま崩すと、少女のようにくすくすと笑いながら続けた。

 

「ああ、羨ましい!そんなとっておきを隠しているなんて!いざって時に名乗りを上げたらさぞ痛快なことだろう。魔種族たちはパニックになるし、人間族は泡を食って逃げ惑うに違いない。私も今のうちに何か設定を練っておこうか。キャメロットの真のクイーン、というのはどうかな」

 

「今のキャメロットはキングによる治世ですよ」

 ハドソン夫人が台所から大きな声をあげた。ディネルースはこそこそと小さな声で

 

「大丈夫、ハドソン夫人は耳がものすごく遠いんだ。どうせまともに聞こえちゃいない」

「ディネルース!聞こえてますからね!」

 

 彼女の爆弾発言には心胆寒からしめられるところがあったが、一見すれば厄介者で他を寄せ付けない彼女の中に、年端の行かない少女を見つけたこと、それを自分しか知らないのではないかという事実によって、私の心は乱れる、よりも穏やかであった。

 

 無理に隠し通そうとしているつもりはなかった。元より、長命種がこれだけいる世界だ。私を一目見ただけで王だと看破するものは星の数ほどいるだろう。それに、彼らの忠誠心を疑ったことなどないのだから。

 

 だが、どうせなら、このキャメロットの地では、過去とは無縁なままで過ごしてみたかったのもまた事実。

 

 ディネルースは「面白くならないのであれば」と言った。つまり、面白くなるのであれば躊躇いなく私の正体を口にするということだ。それが彼女なりの譲歩で気配りなのだろうか。

 

 煮え切らぬ部分はあるが、取り敢えずはよしとしよう。

 

「ついでに、まだ聞きたいことがあるのだが、いいかな」

「いいだろう、いや、いいでしょう。あと2つ3つはお答えしましょう」

 彼女はあくまで冗談のつもりのようだった。

 

「私のコートは古臭いそうだが、君のインバネスコートだって古風なんじゃないか?」

「私のは、私が着ているからいいんだ」

 

 あまりに不遜な態度に笑ってしまう。これが、ディネルース・アンダリエルか。

 彼女は指を二本立てた。あとふたつ。

 

「君の『灰図鑑』を読んでみた」

 

 ディネルースは片方の瞳をきらめかせる。言い辛い……。

 

「どうだった?」

 

「あれは、いったいなんなんだ?素人目で恐縮だが写真が全部同じに見えて、ひどく読みにくい」

 

「なんだと!灰が証拠品として示す価値がわからない君ではないだろう!写真も全部違うものだ、今この場で叩き込んでやる!」

 

 ディネルースは先よりもはるかに強く、弾丸のように椅子から飛び上がると、あちこちをひっくり返し始めた。

 

「どこだ、どこにいった?ここに、ない。ここにも、ない!ハドソン夫人!ハドソン夫人!私の『灰図鑑』をどこにやった?あれだけ私の本を動かすなと言ってあっただろう!」

 

 彼女に淑女のふりは数秒間ほどが限界だったようだ。気が変になったかのように辺りをかき回している。

 

「私はどこも触っていませんよ。あなたがこれだけ散らかして、触ったらナイフを投げて拳銃をぶっ放すっていつも癇癪を起しているのに誰が触るものですか」

 

 ハドソン夫人も負けじと声を張り上げる。

 

「静かにしてくれ!今思い出す!」

 

 凄まじい騒音。バイオリンがなんだ、リュートがなんだ、防音防振がなんだ。まだ入居を決める前から、こんなに騒がしいとは。おかしくてしょうがない。

 

「はっはっは」

 

「うるさい!笑うな!ああ、腹が立つ。グスタフ、君の頭に私の頭の中の写真を送りつけられたのなら、どんなによかったことか!最高品質の画像を注ぎ込んで、猛省させられるのに!」

 

「はっはっは!」

 

 私はもっと声高らかに、笑った。こんなにくだらないことで笑うのはいつ以来だろうか。もう思い出せないくらいだ。

 

 ディネルースは歯を食いしばり、沸騰しそうなほど顔を赤らめながら、私を睨みつけたが、怒ったり、にやけたり、表情を目まぐるしく変化させた後、ひとりで納得したような顔でいった。

 

「まあいい。これから私のコレクションを見せつける時間など、いくらでもある。ハドソン夫人!今日から二人で世話になるぞ」

 

「はいはい、わかっていましたよ。お二人はわかっていないようなので言っておきますけど、私は家政婦ではないのですからね。片付けくらい、自分でやるように」

 

 ディネルースはハドソン夫人の返事を待たずに葉巻を取り出して火を付けると、聞こえないふりをして豪快にぼっと煙を吹いた。私もパイプを取り出す。ただ吸いたいから、だけではない、そうすべきと感じたのだ。

 

 彼女は指を一本だけ立てた。あとひとつ。

 

「最後の質問は、またの機会にとっておこう。どうやら短くない付き合いになりそうだからね」

 

「ふん、贅沢なやつだ。今でなければ、私が答える保証はしないぞ?」

「ああ、それで構わない」

 

 出会ってからたったの一日。たったの一日だけ。

 

 彼女のことはまだ何も知らないのに、何か大事なところを知ったような気がした。

 

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