土曜日の昼下がり。
暖かい日差しが差し込むリビングで、南雲遥はスマホをいじりながら寝転がっていた。
別にこれといって予定はない。
かといって、ずっと家でゴロゴロしているのも性に合わない。
かといって、ひとりで出かけるほどテンションも高くない。
──そんなとき、頼るのは決まっていた。
「……ん」
スマホの画面を開く。
連絡先リストの中から、指が迷いもなく「笠桐勇斗」の名前をタップする。
数コールで応答があった。
『もしもし、遥? どした?』
「おう。今日、暇だろ」
『……まあ、暇だけど』
「じゃあ、買い物行こうぜ」
『……は? 急だな』
「いいだろ別に。暇なんだろ? オレも暇。だったら暇な者同士、潰し合うしかねぇじゃん」
『潰し合うって言うなよ……』
電話口の向こうで、勇斗が苦笑しているのが想像できた。
そのリアクションに、遥はにやりと口角を上げる。
「つーか、ちょうど欲しいもんあったんだよ。服とか。ついでにお前もなんか見ろよ」
『俺別に服に困ってないけど』
「いいから黙って付き合え。どうせ引きこもってるだけだろ」
『図星だけど……』
「じゃ、30分後にお前んち行くからな。準備終わってなかったら罰ゲームだからな」
スマホの通話を切ってから三十分後。
遥は軽くヘアゴムで髪をまとめ、財布とスマホをショルダーバッグに放り込みながら、スニーカーを履いた。
軽やかに玄関を出ると、そのまま隣家へ向かう。
チャイムを押すのも、今となっては当たり前の日常だった。
ピンポーン、と乾いた音が鳴る。
数秒後、勇斗が玄関から顔を出した。
「おう、来た」
いつも通りに声をかける遥──のはずだったが、勇斗の目はほんの一瞬、遥の姿に引っかかった。
──あれ。
遥はいつものようにラフな格好だった。
だが、いつものように適当な男らしい雑な服ではない。インナーに着た白いブラウスがどこかふわりと柔らかく、
脚に合わせたスニーカーもスリムで、どことなく女の子らしいバランスにまとまっている。
そして何よりシンプルながらのプリーツスカート。
中学時代、あれだけ「スカートとか絶対ムリ」だの「制服ダルい」だの言っていた遥とは、微妙に雰囲気が違っていた。
勇斗がじっと見ていることに気づいた遥が、眉をひそめた。
「……なに見てんだよ」
「いや……なんか、お前、今日……」
言いかけて、勇斗は言葉を飲み込む。
「なんか、女の子っぽい」──そんなこと、今さら本人に言えるわけがなかった。
「いや、別に。似合ってるなって」
遥は一瞬ぽかんとし、それから妙に不機嫌そうにそっぽを向いた。
「そりゃオレだって、ちっとは考えるわ。バカにすんな」
「バカにはしてねぇよ」
勇斗は苦笑しながら、家の鍵をポケットに突っ込む。
遥は先にくるりと背を向け、手を振った。
「ほら、行くぞ。駅前、人混みになる前にな」
「はいはい」
勇斗は遥の後ろ姿を追いながら、またふと思う。
──やっぱり、ちょっと、変わったよな。
スニーカーで跳ねるように歩く後ろ姿は、昔と同じなのに、
風に揺れるブラウスの裾や、さりげなくまとめた髪が、妙に目に焼きつく。
そんなことを思っている自分に、勇斗自身が少し驚いていた。
───
土曜日のショッピングモールは、昼過ぎを迎えて一層の賑わいを見せていた。
人波に揉まれながら、南雲遥と笠桐勇斗は並んで歩いていた。
「混みすぎだろ、これ……」
「まあ、土曜だしな」
互いにぼやきながら、目的地の玩具屋へと向かう。
その途中。
ふと、向かいから歩いてくる女性グループが視界に入った。
露出の多いタンクトップにホットパンツ。
健康的で派手なファッション。豊かな胸元と、鮮やかな笑顔。
通路を行き交う男たちの目を自然と集めていた。
勇斗も、無意識のうちにそちらに視線を向けてしまった。
その瞬間、隣を歩いていた遥が、無言で肩を小突く。
「ジロジロ見てんじゃねぇよ、バカ」
吐き捨てるような声。
刺すような棘が混じった、いつもの軽口とは違う響きだった。
「……っ」
「痴漢になるぞ、訴えられてぇのか?」
勇斗は慌てて視線を逸らしたが、遥はじとりとした目で睨みながら前を向いた。
「いや、見たわけじゃ──」
「言い訳すんな、バーカ」
小さく吐き捨てたあと、遥はほんの僅かに肩を落とし、勇斗にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「……どうせ、わたしは貧相ですよ」
勇斗は聞き取ったが、どう返すべきか迷った。
結果、曖昧な苦笑いを浮かべるしかなかった。
遥はそれを見て、心の中で静かに、しかし確実に、黒い感情を滲ませた。
──他の女なんかに、目を向けるなんて。
──そんなの、許せるわけないじゃん。
──誰だって? どこの馬の骨だって?
──そんな知らないメスに、わたしの勇斗を、渡してたまるか。
──なのに、お前は、私を見てないの。
無意識に唇を噛み締めながら、遥は前を向いて歩いた。
少し早足になる。それでも、勇斗は何も気づかない。
遥が拗ねていることにも、怒っていることにも、悲しんでいることにも。
ただ隣で、何事もなかったかのように、普段通りの顔をしてついてくるだけだった。
目的の玩具屋に着く頃には、遥の表情はすっかり元通りに戻っていた。
「お、あったじゃん」
棚に山積みされた新作ゲームのパッケージを見つけ、声を上げる。
「これな、絶対面白いやつ。神ゲー確定」
「まあ、評判はいいらしいしな」
勇斗も隣でパッケージを手に取る。
「早くやりてぇな。今日帰ったら即インストールな」
「お前、そればっかだな」
「生きる糧だからな、ゲームは」
軽口を交わしながら、二人はレジへと向かった。
購入を済ませると、遥は得意げに袋を掲げる。
「へっへー、今日の戦利品だな。オレ様に感謝しろよ」
「なんでだよ。買ったの俺もだろ」
「オレが誘ったからだろうが。論破」
「くそ理論すぎる……」
やりとりだけを見れば、まるでさっきの小さな諍いなどなかったかのようだった。
──だが、遥の心には、あの一瞬の出来事が、刺さったままだった。
エスカレーターを下り、フードコートを目指す。
「腹減った。カツカレーな、オレ」
「またそれかよ」
「米と肉は正義」
「知ってる」
そんなどうでもいいやり取りすら、遥には心地よかった。
だからこそ、壊されたくない。
奪われたくない。
──誰にも、あいつの隣を譲る気なんか、ないんだよ。
遥はそう心の中で強く、強く噛み締めた。
フードコートに着くと、案の定、人でごった返していたが、どうにか席を確保できた。
二人は並んでカツカレーを食べながら、また他愛のない話に花を咲かせる。
勇斗は、何も知らず、いつも通りの笑顔だった。
遥は、それを見つめながら、スプーンをぎゅっと握りしめた。
──あんたが気づかないなら、それでもいい。
──でも、わたしは、絶対にあんたを渡さない。
遥の視線は、いつになく鋭かった。
けれど勇斗は、そんな彼女の想いに気づくこともなく、今日も無邪気に笑っていた。
─
フードコートのざわめきは絶え間なく続いていた。
カツカレーを平らげた南雲遥は、スプーンを置いて立ち上がる。
「オレ、お茶取ってくるわ。お前、動くなよ」
「はいはい、俺はここで待ってますよ」
勇斗は苦笑いを浮かべ、テーブルに肘をついた。
遥は軽く手を振り、人混みの中へと消えていった。
──そして、遥が席を離れてからわずか数分。
「ねぇ、笠桐くん」
不意に、可愛らしい声が背後からかかった。
振り返ると、そこには数人の女子グループが立っていた。
見覚えのある顔。入学式の日、勇斗に声をかけてきた、カースト高めの女子たちだった。
制服を私服に着替えた彼女たちは、今も目立っていた。
派手なメイクに、露出の多いファッション。
それぞれが作ったような笑顔を浮かべ、勇斗を囲い込むように立っていた。
「偶然だねー。今なにしてんの?」
「暇なら、ちょっと一緒に遊びに行かない?」
「映画とかー、カラオケとかー?」
まくし立てるように言葉を重ね、勇斗に距離を詰めてくる。
勇斗は戸惑いながらも、苦笑して立ち上がりかけた。
「あー、でも……今、友達と──」
言いかけたところで──
「すみません。勇斗はわたしと一緒にいるので」
穏やかな、しかしはっきりとした声が割り込んだ。
勇斗も女子たちも同時に振り向く。
そこには、ペットボトルのお茶を両手に抱えた遥が立っていた。
柔らかな笑顔を浮かべながら、何一つ怒りも苛立ちも見せずに。
「わたしと約束してるので、すみません。遊びはまた今度──」
にこりと、誰が見ても完璧な笑顔。
けれど、その笑顔の奥にあるものを、勇斗以外の誰も読み取れなかった。
女子たちは一瞬顔を強張らせたが、すぐに取り繕うように笑って引き下がった。
「そ、そっかぁ、じゃあまたねー」
「うん、また今度ねー」
ぺこぺこと頭を下げながら、彼女たちはそそくさとその場を離れた。
去っていく背中を見送りながら、遥は静かに座り直した。
──クソビッチどもが。二度とあいつに近づくな。
心の中で吐き捨てる。
表情は変えず、笑顔のまま。
勇斗は何も気づかず、手元の空になったカップを弄んでいた。
「助かった……なんか、すげー囲まれてビビったわ」
「へぇ?」
「いや、ホント助かったって。ありがとな、遥」
「……べつに」
遥は小さく笑い、カップにお茶を注いだ。
その動作はいつもと変わらず、自然だった。
──あんなもんに、あいつを奪われるわけにはいかない。
何食わぬ顔で、遥はペットボトルを置く。
ふたりの間には、もう割り込むものなどない。
少なくとも、遥はそう信じていた。
──世界中があいつに手を伸ばしてきても、
──わたしだけは絶対に、離さない。
静かな決意だけを胸に、遥はまたいつもの軽口を飛ばした。
「おい、もう一戦やるぞ。ゲーセンな」
「まじかよ……俺、体力限界なんだけど」
「うるせぇ、青春は根性だ。甘えんな」
「ブラック企業かよ……」
軽やかな言葉が交わされ、二人はフードコートを後にした。
遥の笑顔の下に潜むものを、勇斗はまだ知らなかった。
---
フードコートを出た南雲遥と笠桐勇斗は、ゲーセンに向かうべくエスカレーターへ向かっていた。
人混みをかき分けながら歩いていると、ふいに耳慣れた声が飛んできた。
「おーい、遥!」
振り向くと、そこには麻川綾子の姿があった。
春らしいカーディガンにミニスカートという軽やかな格好。
手にはいくつか買い物袋を提げている。
「うわ、マジで偶然じゃん!」
綾子はにこにこ笑いながら小走りで近づいてきた。
「お前、今日来てるって言ってたっけ?」
「言ってねぇ。偶然だよ、偶然」
遥は面倒くさそうに言いながら、そっぽを向いた。
しかし綾子はそんな態度などお構いなしに、遥をじろじろと眺めた。
「……あれ?」
「なんだよ」
「いや……あんた、スカート履いてんじゃん」
その一言に、勇斗も思わず遥を見た。
確かに、今日の遥はパーカーにジーンズ──ではなく、薄手のスカートを合わせていた。
派手ではない。シンプルな膝丈のプリーツスカート。
けれど、それだけで遥の印象は少しだけ柔らかく見えた。
本人は気にしていなかったのか、勇斗も今さらになって気づいたくらいだった。
「別にいいだろ」
「いや、全然いいけど? めっちゃレアだし」
綾子は悪戯っぽく笑い、遥の腕をがっしり掴んだ。
「せっかくだからさー、もっと女子力上げてこ?」
「はぁ?」
「ほらほら、あっちに可愛い服いっぱい売ってたから! 一緒に見に行こ!」
「いや、オレ、別に……」
「ダメ! こういうのは勢いが大事! オシャレは慣れだから!」
「待て、オレは──」
遥の抵抗もむなしく、綾子はずるずると彼女を引っ張っていった。
取り残された勇斗は、きょとんとその様子を見ていたが、すぐに我に返った。
「あ、ちょ……!」
急いで二人の後を追う。
モールの人混みの中、遥は必死に踏ん張っていたが、綾子の勢いには勝てなかった。
「おい、綾子! 離せ!」
「うるさーい! ちょっとくらい付き合えって!」
「オレはゲーセンに行く予定だったんだよ!!」
「あとで行けばいいじゃん! 今はこっち!」
力関係は一目瞭然だった。
勇斗は二人の少し後ろを走りながら、思わず苦笑した。
「……巻き込まれてるな、遥」
けれど、置いていかれる気にはならなかった。
気づけば自然と、遥の背中を追いかけている。
人混みをかき分け、綾子に引きずられていく遥に追いつく。
「おい、待てって!」
「勇斗も来たか。ナイス!」
「ナイスじゃねぇ! オレまで巻き込むなよ!」
「いいじゃん、女子の買い物に付き合ってくれる優男って株上がるよ?」
「……いや、別にそういうの狙ってねぇし」
「いいからいいから!」
勢いそのままに、三人はモール内の服屋へ突入した。
入り口付近には春物のブラウスやスカートが所狭しと並べられている。
「はい、遥、これとか似合いそう!」
「いらねぇ!」
「これもいいなー。あ、これも絶対可愛い!」
「勝手に盛り上がるな!」
「着るだけ着てみなよ〜。見るだけでも楽しいって!」
綾子は次々と服をピックアップし、遥の腕に押し付けていく。
遥は明らかに不満そうな顔だったが、あらがう元気はないらしかった。
勇斗はというと、入口付近で所在なげに立ち尽くしていた。
「俺はなんでここにいるんだろうな」
自問しながらも、逃げ出す気にはならなかった。
結局のところ、遥が連れて行かれるなら、
その隣にいるのは、自分じゃなきゃ嫌だった。
ふと視線を向けると、
遥が押し付けられたブラウスを手に取り、
心底めんどくさそうな顔で綾子に抗議しているのが見えた。
──まぁ、あいつらしいな。
勇斗は小さく笑い、
遥たちの後ろを、静かに追いかけていった。
服屋の中で綾子にあれこれ服を押し付けられながら、遥はひたすらため息をついていた。
「だからオレは別にいいって言ってんだろ」
「そういうこと言う子ほど、可愛くなれる可能性秘めてるんだってば!」
「何その根拠ゼロ理論……」
遥はぐったりしながら、選ばされたブラウスやスカートを腕いっぱいに抱えていた。
勇斗は入口付近で所在なく突っ立っていたが、声をかける隙もなかった。
そして、何着かを選ばされたあと。
綾子は遥の腕を再びがっしりと掴み、にやにや笑いながら言った。
「じゃ、次行こっか!」
「まだあんのかよ!?」
「もちろん。オシャレはトータルコーディネートが大事!」
「トータルって、お前……!」
遥が抗議する間もなく、綾子は遥を引きずり、モール内をぐいぐいと進んでいく。
勇斗も「おい待てって!」と後を追った。
たどり着いた先──そこは、明らかに違う雰囲気だった。
ふわっと甘い香りが漂い、
柔らかい照明と、パステルカラーに彩られた店内。
陳列されているのは──下着。ランジェリーだった。
勇斗はその瞬間、動きを止めた。
「ちょ、ちょっと待て……ここは、さすがに……」
小声で必死に制止を試みる。
目を逸らしながら、居心地の悪さに耐えきれない様子だった。
しかし、綾子は涼しい顔をして振り返る。
「いいじゃん。可愛いのたくさんあったよ? 遥に似合いそうなやつとかさ〜」
「や、やめとけって……!」
勇斗が焦りながら止める中、綾子は悪戯っぽく遥に囁いた。
「ほら。笠桐くん、あんたのこと、ちゃんと見てるかもよ?」
その言葉に、遥がぴくりと反応する。
「……は?」
「笠桐くんの好みとか、好きな色とか、さりげなく聞けるチャンスかもよ?」
「…………」
遥は一瞬だけ考えた。
そして、迷いを振り切るように、ぐいっと勇斗の手首を掴んだ。
「行くぞ」
「ちょ、ちょっと待て待て待て! オレは別に──」
「オレだけ恥かくのイヤだからな。お前も生贄だ」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……!」
「うるせぇ。つべこべ言うな」
遥は半ば無理やり勇斗を引っ張り、綾子と共にランジェリーショップの中へ突入した。
甘い香りの中、
遥と勇斗は並んで、居心地悪そうに立ち尽くした。
「……マジで、帰りてぇ」
勇斗が呟くと、
遥は隣で腕組みしながらふんと鼻を鳴らした。
「文句あんなら先に帰れよ」
「いや、それはそれで……お前を一人にするのも……」
「だろ?」
遥がにやりと笑った。
勇斗は観念したように溜め息をついた。
一方、綾子はやる気満々で店内を物色していた。
「ほらほら、これ可愛くない? シンプルだけどリボンついててさー」
「し、知らねぇよ……」
勇斗が目を逸らす。
遥は赤くなりながら、綾子に押し付けられたブラを睨んだ。
「なぁ、オレ、ほんとにこれ見る必要あんのか?」
「必要。あんた、これから女子の味方にならなきゃいけないんだから」
「どんな理屈だよ……」
結局、遥も勇斗も、綾子の勢いに抗えないまま、
甘い香りと柔らかな生地に囲まれた空間に居続ける羽目になった。
──こうして、ふたりは知らぬ間に、
より深い沼へと引きずり込まれていくのだった。
ランジェリーショップの中、甘い香りと柔らかな光に包まれた空間を、笠桐勇斗は所在なさげに歩いていた。
綾子はノリノリで店内を物色していたが、勇斗は完全に浮いていた。遥は心底不機嫌そうだ。
勇斗は暇を持て余して、何となく視線を彷徨わせた。
その途中、ふと目に入ったのは、棚の奥に並んだひときわ大きなサイズのブラジャーだった。
──うわ、でけぇな。
そんな感想を抱いた瞬間だった。
隣から突き刺さるような視線を感じた。
「……」
遥が、心底不機嫌そうな顔で、じっと勇斗を睨んでいた。
「え、なに」
勇斗はきょとんとした。
何か悪いことをした覚えはない。
ただ、ほんの一瞬、あの棚に視線が向いただけだ。
しかし、遥は眉をひそめ、低い声で吐き捨てた。
「やっぱ男ってさぁ、そういうのが好きなんだなー」
「いやいや、別に! 違うって!」
慌てて手を振って否定する。
勇斗は必死だったが、遥の顔色は一向に晴れなかった。
何が悪かったのか、まるでわからない。
ただ、ものすごく怒らせてしまったことだけは肌でわかる。
「べ、別に、そういうわけじゃ……」
「ふーん」
興味なさげに遥は返す。
勇斗はますます混乱した。
何を弁解すればいいのかもわからない。
遥はふいにそっぽを向き、
手近にあったランジェリーの棚を、無言で眺めた。
勇斗は焦った。
焦るだけで、どうしていいかわからない。
隣では綾子が、何も気づいていない様子で可愛いランジェリーを物色している。
「ねー遥、これとかどう?」
呼びかけられた遥は、短く答えただけだった。
「知らねぇよ」
いつもの遥なら、もう少しツッコミを入れるはずだった。
そのぶっきらぼうさに、さすがの綾子もちらりと視線を送る。
「……なに、機嫌悪い?」
「別に」
会話はそれっきりだった。
勇斗は居心地悪くなり、無理やり話題を変えようとした。
「な、なぁ、もう帰ろうぜ? ゲーセン行くって言ってたじゃん」
「……好きにすれば」
突き放すような声。
勇斗は心底困り果てた。
遥が何に怒っているのか、さっぱりわからない。
ただ、機嫌を損ねたという事実だけが、胸に重くのしかかっていた。
「マジで、悪かったって……」
とりあえず頭を下げる。
自分でも、何に対して謝っているのかわからないまま。
遥はチラリと勇斗を見た。
「……今度、なんか奢れよ」
「……はい」
ほとんど反射で答える。
遥はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けた。
勇斗は深くため息をつき、遥の背中を追った。
甘い香りが漂うランジェリーショップの中で、
世界で一番居心地の悪い男が、静かに項垂れていた。
その隣で、遥は無表情を装いながら、心の奥では黒い感情を煮えたぎらせていた。
──やっぱり、あいつもそうなんだ。
──胸がでかい女のほうが、目を引くんだ。
──わたしなんか、目に入らないんだ。
心の奥底で、静かに沸騰する独占欲。
それを悟られないように押し隠しながら、遥はそっけなく歩き続けた。
ふたりの間に流れる微妙な空気を、綾子だけがちらりと見て、
楽しそうに口元を緩めた。
「……ま、若いっていいよねぇ」
誰にも聞こえないように、綾子は小さく呟いた。
---
夜。
遥は自室のベッドに寝転びながら、スマホをいじっていた。
布団にくるまり、ぼんやりとSNSを眺めていたが、ふと目に留まった記事があった。
「……バストアップマッサージ、だと?」
スクロールする指が止まる。
そこには「簡単!誰でもできる!」「これであなたも理想のバストに!」などと、派手なキャッチコピーが踊っていた。
馬鹿らしい──そう思いながらも、遥はしばらく画面を眺めていた。
──今日のことを、思い出す。
ショッピングモールで。
ランジェリーショップで。
勇斗の視線が、一瞬だけ、大きなサイズの下着に向かった。
──わたしじゃ、ダメなんだ。
遥はスマホを布団の横に放り出し、
小さく息を吐きながら、仰向けになった。
パーカーの裾をめくり、
自分の胸元に触れる。
手のひらに収まる、それなりの膨らみ。
女として標準くらいだと、自分でもわかっている。
──でも、あいつは。
──もっと、目立つものに目を奪われた。
指先に、力がこもる。
雑な自己流ながら、スマホで見た通りに胸を揉みしだく。
押し上げ、ほぐし、叩く──。
ただの気休めにすぎないと、遥自身が一番わかっていた。
それでも、止められなかった。
──絶対、負けたくない。
マッサージを繰り返しながら、遥は心の中で静かに毒づいた。
──誰にって? そんなの決まってる。
──あの、モールで勇斗に群がってきた、くだらない女ども。
──あいつらみたいな派手な見た目で、体ばっかり武器にして。
──そうやって、簡単に勇斗を攫っていこうとする。
──そんなの、絶対、許せない。
爪が食い込むほど強く、自分の肌を押し上げる。
──わたしが。
──わたしが、ちゃんと選ばれなきゃ意味がないんだ。
遥の呼吸が、少しだけ荒くなった。
顔は平然としている。
だが、胸の奥では、黒い感情が渦を巻いていた。
──勇斗の目を、わたしだけに向けさせる。
──あいつの隣に立てるのは、わたしだけだ。
──誰にも、渡さない。
掌を強く滑らせながら、遥は何度も何度も、繰り返した。
──わたしだけが、
──あいつの一番になるんだ。
夜の静けさの中、
南雲遥は、誰にも見せない執念を、ただ一人、育て続けていた。
---
春らしい柔らかな光が差し込む教室の一角。
南雲遥は、机に肘をつきながら、隣の席に腰掛けた麻川綾子と話していた。
「っつーか、マジで課題多すぎんだろ。春からエンジンかけすぎなんだよ先生どもは」
「まーねー。でも、課題なんか適当にやっとけば?」
「適当なもんか。オレはな、提出物で手抜くやつ見ると虫唾が走るタイプなんだよ」
「めんどくさ……」
綾子はくすくす笑いながら、遥の文句を聞き流していた。
そんなくだらない雑談を続けながら、ちらちらと遥の様子をうかがう。
今日の遥は、いつもよりほんの少しだけ落ち着かないように見えた。
言葉の端々で、一瞬だけ柔らかい響きを挟み、すぐまたラフな口調に戻る。
「ところでさー」
綾子は、わざと何気ない風を装って話題を切り出した。
「聞いたよ。他クラスの女子たち、結構笠桐くん狙ってるっぽいじゃん?」
遥の手がぴたりと止まった。
「……あ?」
表情は変わらない。
けれど、その周囲の空気だけが、ぞわりと重くなる。
「なんかさー、○組の子が言ってたんだよね。『笠桐くんって背高いし、優しいし、彼女いるのかなー』とか」
「ふーん」
声色は軽い。
だが、その目は冷え冷えとしていた。
綾子はそんな遥を見て、心の中でにやりと笑う。
「で、さ? もし彼女いないなら、今度ご飯誘っちゃおっかなーって言ってた子もいたよ?」
「……へぇ」
短い相槌。
机の下では、遥の指が無意識に拳を握っていた。
「結構いるんだって、笠桐くんファンクラブ的な?」
「ファンクラブ?」
「うん、うちのクラスにもいるし、隣のクラスにもいるって聞いたよー。人気者だね、勇斗は」
その言葉に、遥は薄く笑った。
「わたし、知らなかったな。そんなに人気あるなんて」
声は、あくまで穏やかだった。
その穏やかさが、逆に恐ろしいほどに冷たかった。
綾子はわざと気づかないふりをしながら、さらに畳みかける。
「やっぱ、顔もいいし、優しいし、頼りがいあるし、モテないわけないよね〜」
「……」
遥は何も言わなかった。
ただ、静かに、静かに、周囲の空気を凍らせていく。
──近づくな。
──触れるな。
──わたしのものに、手を出すな。
そんな叫びが、声にならないまま教室に満ちていく。
「……まあ、本人全然自覚してないみたいだけどね?」
綾子は最後にそう付け加えて、くすくすと笑った。
遥は深く息を吐き、机に肘をついて頬杖をつく。
「オレ、知らねぇからな。あいつがどう思われようが、オレには関係ねぇし」
それは明らかに強がりだった。
しかし本人にその自覚はなかった。
綾子は、にやにやしながら続きを促す。
「でもさー、もし勇斗が、他の女子に告られたらどうする?」
「……」
遥は答えなかった。
ただ、机の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
──そんなの、許せるわけないじゃん。
胸の中で呟きながら、遥は無言を貫いた。
綾子は、その反応に満足したように笑った。
「ま、あんたが何考えてるかなんて、聞かなくてもわかるけどね」
「……うるせぇ」
小さく悪態をつきながら、遥は顔を背けた。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、本人は気づいていなかった。
春の光が差し込む教室。
何も知らない勇斗は、別の席で友達とくだらない話をしていた。
その背中を、遥はじっと、静かに見つめていた。
──絶対に、誰にも渡さない。
その決意だけが、胸の中で静かに燃え続けていた。
綾子がトイレに捌けて一人になった…その時だった。
「なあなあ、南雲さん?」
遥は顔を上げる。
声をかけてきたのは、短く切った髪と、ぱっちりした目元が印象的な少女だった。
「えっと……狭山、だっけ?」
「そやでー。狭山アイカ。よろしくな!」
快活な笑顔。
初対面にもかかわらず、まったく物怖じしない様子に、遥は少し面食らった。
「なんか用?」
「んー、うち、ちょっと気になってたんやけどな」
狭山は隣の空いた机にちょこんと腰掛ける。
「笠桐くんって、南雲さんの幼馴染なんやろ?」
「まあ、そうだけど」
遥は警戒心を隠さずに答えた。
それに対して狭山は全く気にした様子もなく、にこにこと続ける。
「うち、クラスで隣の席なんよ。結構話すんやけど──」
「……へぇ」
「めっちゃ話しやすいし、優しいし、ちょっと天然入ってるやろ?」
「……そうかもな」
遥は曖昧に頷いた。
狭山はさらに身を乗り出してきた。
「それでな? うち、笠桐くんの昔の話、ちょっと聞いてみたかってん」
「昔の?」
「うん。小っちゃい頃とか、どんな子やったん?」
遥はほんの一瞬、考えた。
警戒心と、微かな優越感がないまぜになった気持ちで。
「……バカだったぞ、昔から」
「うそやん、あんなしっかりしとるのに?」
「しっかりはしてるけど、天然は筋金入りだったな。オレがよく助けてやってた」
「へー、意外!」
狭山は本当に興味深そうに目を輝かせた。
それに遥は内心で警戒を強めながら、しかし表向きは平然と続けた。
「ガキの頃はな、木登りして降りられなくなったり、雪で滑って田んぼに突っ込んだり、バカ丸出しだった」
「想像つかへん!」
狭山が楽しそうに笑うのを、遥はじっと見ていた。
──あんまり、楽しそうにすんな。
心の奥で、黒い感情が静かにうねる。
「あと、昔から変なとこで頑固だったな。自分が正しいって思ったら絶対譲らねぇ」
「うわ、それ今もちょっとあるかも!」
狭山はけらけらと笑った。
その様子に、遥は無意識に笑みを作ったまま、机の端をぎゅっと握りしめた。
──楽しそうに、勇斗の話するなよ。
──うちの勇斗みたいな顔すんな。
「──ま、今もバカには変わりねぇけどな」
吐き捨てるように言いながら、遥は視線を逸らした。
狭山はそれに気づく様子もなく、元気よく立ち上がった。
「ありがとなー! また話聞かせてな!」
「ああ、好きにしろ」
手をひらひら振って、狭山は席に戻っていった。
教室の中に再びざわめきが戻る。
遥は、誰にも気づかれないように、静かに息を吐いた。
──ああいうタイプが、一番やっかいなんだよな。
誰とでもすぐに打ち解けて、
誰にでも明るく笑いかけて、
勇斗にも、きっと簡単に入り込んでくる。
遥の指先が、震えるように机をなぞった。
──絶対に、気を抜くわけにはいかない。
教室の隅、誰にも知られない内側で南雲遥は静かに、独占欲を膨らませ続けていた。
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放課後の道は、夕陽に照らされてゆっくりと色を変えていた。
笠桐勇斗と南雲遥は、肩を並べて歩いていた。
「……今日、狭山さんと話した」
ふと、遥が口を開いた。
勇斗は隣で小さく目を丸くする。
「へぇ、マジで?」
「ちょっとだけ。お前の昔話とか聞かれた」
「俺の?」
勇斗は苦笑しながら鞄を持ち直した。
「なんか、隣の席だからって興味持たれてんだよな。俺、そんなに面白いネタないんだけどなー」
「……そりゃな。お前、基本バカだったし」
「ひでぇな!」
互いに笑い合いながら歩く。
そんな軽い空気の中で、勇斗がふと思い出したように言った。
「でもアイカ、いいやつだよな。話してても楽しいし、明るいし」
その言葉に、遥の足がほんのわずかに緩んだ。
「……」
勇斗は気づかず、続けた。
「なんつーか、元気もらえるっていうか。ああいうタイプ、周りにいると助かるよな」
「……」
遥は何も言わなかった。
ただ歩きながら、無表情で前を向いていた。
「あと、ちょっと天然っぽいとこもあってさ。変なこと言うんだけど、悪気なくてさ」
「……そう、なんだ」
声は穏やかだった。
その裏で、遥の心の奥底に、黒い感情が静かに燃え上がっていた。
──わかってない。
──あいつは、全然わかってない。
自分が何を言っているかも、誰を傷つけているかも。
──なんで、そんな顔で他の女の話するの。
──なんで、あいつのことばっかり褒めるの。
胸の内側が焼けるようだった。
どろりとした嫉妬が、理性を侵食していく。
──わたしが、どれだけお前を見てるか知らないくせに。
──わたしが、どれだけお前を独り占めしたいと思ってるか、知らないくせに。
勇斗は、何も知らずに隣を歩いている。
「でもまあ、クラスに明るい子がいると助かるよな。ムードメーカーっていうか」
「……」
遥はうつむいたまま、ぼそりと呟く。
「……わたし、ああいう子にはなれない」
勇斗は横目で遥を見た。
「別に、なる必要ないだろ。遥は遥でいいじゃん」
「……」
肯定されたのに、嬉しさはなかった。
むしろ、その言葉が痛かった。
──わたしじゃ、ダメだってことなんじゃないの。
──もっと明るくて、可愛くて、無邪気なやつが、お前の隣にはふさわしいって、
──そういうことなんじゃないの。
心の中で、何度も何度も呟いた。
──でも、譲らない。
──たとえ、どれだけ眩しい奴が現れたとしても。
──わたしは、絶対に、お前の隣にいる。
誰にも渡す気なんてない。
誰にも奪わせる気なんてない。
──お前は、わたしだけを見てればいいんだよ。
遥は目を伏せたまま、黙って歩いた。
その小さな背中に、誰も知らない独占欲が静かに、けれど確かに滲んでいた。
「なあ、帰りにコンビニ寄ってかね?」
勇斗が何気なく言う。
「……うん、そうするか」
住宅街を抜け、駅前の通りに出る。
コンビニの看板が遠くに見えてきたころ、
南雲遥は、なんとなく思いついたように口を開いた。
「なぁ、勇斗」
「ん?」
「……じゃあさ」
少しだけ言葉を選んでから、遥は口角を持ち上げた。
「そんなに狭山さんのこと褒めるなら、いっそ彼女にしたら?」
軽い調子だった。
ふざけるような口ぶり。
ただの冗談だと、誰が聞いてもわかるような声音だった。
「お前から告白すりゃいいじゃん。案外うまくいくかもよ?」
遥は、からかうように言った。
笑って、ごまかすように、冗談みたいに。
けれど。
勇斗は、すぐには否定しなかった。
「……うーん」
ほんの一瞬、考えるような素振りを見せた。
「……アイカ、いい子だしな。そういうのも、まあ……アリっちゃアリ、かもな」
曖昧に笑いながら、そんなことを口にした。
──その瞬間。
遥の心に、真っ黒な感情が溢れ出した。
──ああ、そうなんだ。
──わたし以外を、そうやって選ぶ可能性があるんだ。
──わたしじゃなくてもいいんだ。
胸の奥が、きつく締め付けられる。
喉が痛いくらいに、怒りと悲しみと焦りがせめぎ合う。
──許せない。
──絶対に、許さない。
勇斗が、無邪気に、他の誰かの名前を口にする。
それだけで、世界がぐらりと揺らぐ。
──なんで。
──なんで、わたしだけを見ないの。
ずっと隣にいたのは誰だと思ってる。
誰よりも、お前のことを知ってるのは誰だと思ってる。
──お前にとって、わたしはなんなんだよ。
遥は無理やり顔を上げ、笑った。
「へぇー、意外と乗り気?」
「いや、そんなわけじゃ……」
勇斗は慌てて手を振った。
けれど、最初に言ったあの言葉は、もう取り消せない。
──わたしじゃなくてもいい、なんて。
──そんな可能性を、口にしたことが、もう許せない。
遥は黙って、前を歩いた。
何も言わずに、ただ歩幅だけをほんの少しだけ早めた。
コンビニの明かりが、夕闇の中で滲んでいた。
「おい、待てって!」
後ろから勇斗の声が追いかけてきた。
──追いかけてくるなら、ちゃんと捕まえてみろよ。
──捕まえないなら、絶対に許さないから。
遥は心の中で、そう静かに呟いた。
──いや、いっそわたしの元に縛りつけておこうか。