十一年前。四歳の頃。
南雲遥は、周囲の子供たちと明らかに違っていた。
他の子たちは無邪気に笑い、泥まみれになって走り回っていたが、遥は一歩引いたところからそれを眺めていた。無意識に浮かべる微笑みは、子供にしては不自然なほど乾いていて、幼い世界には馴染めなかった。
──本当に、子供だったらよかったのに。
遥の胸の奥には、男子中学生だった頃の意識が、ぼんやりと、しかし確かに残っていた。誰よりも幼く、誰よりも老成していた。そんな違和感を、周囲の大人たちは本能的に感じ取った。子供たちもまた、理由もわからず、遥を避けた。
「あの子、ちょっと変だよね」
「なんか、怖い」
無邪気な言葉は、何よりも残酷だった。
遥は気にしないふりを覚えた。誰も自分に近づかないことに、早々に慣れてしまった。ブランコを一人で揺らし、砂場で一人穴を掘り、誰にも話しかけない。そんな日々が当たり前になっていた。
そんな遥に、無邪気に近づいてくる存在が、ひとりだけいた。
笠桐勇斗。
彼は、砂だらけになったズボンも気にせず、泥水の跳ねた顔も拭きもせず、いつもまっすぐに遥に向かってきた。
「はるかー! あそぼー!」
その声に、最初は戸惑った。
自分に話しかける子供など、もういないと思っていたからだ。
「……オレと遊んでも、つまんねぇぞ」
ぽつりと呟いた遥に、勇斗はきょとんとした顔を向けた。
「なんで?」
「……オレ、みんなと違うから」
理由になっていない理由を口にした。けれど勇斗は、にこっと笑った。
「だってぼくは、はるかのことがすきだから!」
その言葉に、遥は何も言えなくなった。
こんなにもまっすぐに。こんなにも無条件に。
遥の胸に、あたたかい何かが静かに降り積もった。
「……バカだな」
「ばかじゃないもん!」
ぷうっと頬を膨らませる勇斗を、遥はおかしくて笑った。心から、久しぶりに。
それからの日々、遥の隣にはいつも勇斗がいた。
公園の滑り台も、ブランコも、泥だんご作りも、かけっこも、鬼ごっこも。
誰も遥に声をかけなかった世界で、勇斗だけが手を引き、隣を走ってくれた。
勇斗は無邪気で、鈍感で、あたたかかった。
転んで膝を擦りむいたとき、涙を堪える遥に、勇斗は小さなハンカチを押し当てた。
「だいじょうぶ? いたい?」
その瞳に、怯えも嫌悪もなかった。
ただ、心配と、優しさだけがあった。
「……だいじょうぶだよ」
遥はかすれた声で答えた。
本当は痛かった。膝も、心も。
でも、泣いたら勇斗が困る気がして、必死で堪えた。
そんな遥を見て、勇斗は屈託なく笑った。
「はるか、つよいな!」
「……うるせぇ」
強がる遥に、勇斗はさらに笑った。
何度も、何度も。
遥が誰にも見せなかった顔を、勇斗だけが引き出した。
時には喧嘩もした。
勇斗が無神経なことを言って、遥がムキになって怒る。
けれど、少し時間が経てば、また隣にいる。
謝るでも、謝られるでもなく、ただ自然に。
気がつけば、遥の世界に勇斗は欠かせない存在になっていた。
世界は相変わらず遥を拒絶していたけれど、勇斗だけが、違った。
夕焼けの公園。
沈みかけた太陽に染められながら、勇斗は砂場に座り込んでいた。
「はるかー、ほら!」
得意げに差し出したのは、崩れかけの泥だんごだった。
「……ヘタクソだな」
「うっさい!」
笑い合う声が、静かな街に溶けていく。
遥はその瞬間を、胸の奥に焼き付けた。
この温度を、絶対に忘れないと。
この存在を、絶対に手放さないと。
遥は心に深く誓った。
たとえこの先、何があっても。
誰よりも近くで、誰よりも深く、勇斗を抱きしめると。
世界が拒んでも、勇斗だけは、わたしのものだと。
初めて、そう強く願った、春の終わりだった。
───
保育園の午後、子供たちの歓声が響く園庭の隅で、南雲遥は一人、砂を指でなぞっていた。
誰にも呼ばれなかった。誰とも目が合わなかった。
──まただ。
今日もまた、自分だけが輪の外にいた。
声をかけられたふりをして笑っても、みんなの目は冷たかった。
どうしてだろうと、もう考えることすらしなくなっていた。
そんなとき、ふと、園舎の影から大人たちの声が聞こえた。
「南雲ちゃん、さ……落ち着きすぎてて、ちょっと怖くない?」
「ああ、わかるわかる。子供らしくないっていうか……あれはちょっと、不気味よね」
「大人のマネしてるみたいな感じ? 笑うときも、妙に乾いてるし」
くすくすと笑う声が重なった。
遥は、その声を、はっきりと聞いた。
胸が、締め付けられた。
痛いとか、苦しいとか、そんな生易しいものじゃなかった。
何か鋭いもので、心臓を抉られたような、そんな痛みだった。
指先が、震えた。
それでも、振り返ることはできなかった。
園庭の隅で、ただうつむいたまま、じっとしていた。
気づかれないように、誰にも見られないように。
少しだけ、涙が滲んだ。
ぐっと唇を噛み締めて、声を殺して、震える肩を必死で抑えた。
泣きたくなかった。
泣いてしまったら、もっと「子供らしくない」と言われる気がしたから。
だから、必死に堪えた。
でも、どうしても、零れた。
そのときだった。
「……はるか?」
顔を上げると、そこに勇斗がいた。
小さなハンカチを握りしめて、心配そうな顔で、遥を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
遥は、咄嗟に顔をそむけた。
泣いているところを、誰にも見られたくなかった。
だけど、勇斗は、そんなことお構いなしに、そっとハンカチを差し出してきた。
「ないちゃだめだよ」
そう言って、遥の頬に触れた。
小さな手だった。
温かくて、柔らかくて、どこまでも優しかった。
ごしごしと雑に拭くでもなく、そっと、涙をぬぐうように。
遥は声を出すことができなかった。
ただ、されるがままに、勇斗の手に涙を拭われた。
「……へいき?」
小さな声で問われて、遥はかすかに首を振った。
「……ぜんぜん、へいきじゃねぇ」
震える声で、かろうじてそう答えた。
勇斗は少し困ったように笑った。
「そっか。でも、だいじょうぶだよ」
根拠のない言葉だった。
でも、その一言が、どんな理屈よりも遥を救った。
遥は、ハンカチを握ったまま、ぽろぽろと涙を流した。
勇斗は何も言わず、そばに座り込んで、ずっと隣にいてくれた。
誰にも聞こえないように、誰にも見えないように。
夕暮れが近づき、園庭に長い影が落ちる頃まで。
遥は、勇斗の隣で、小さな声で泣き続けた。
勇斗のハンカチは、すっかりぐしゃぐしゃになった。
けれど、勇斗は一度もそれを嫌がらなかった。
むしろ、にこにこと笑って、遥の頭をぽんぽんと撫でた。
「だいじょうぶ。はるかは、すごくいいこだよ」
遥は、それを聞いて、また涙をこぼした。
けれど今度の涙は、さっきまでのものとは違っていた。
温かくて、少しだけ、ほっとするような。
そんな涙だった。
この世界に、たったひとり。
どれだけ周囲が拒絶しても、
どれだけ大人たちが気味悪がっても、
どれだけ子供たちが離れていっても。
勇斗だけは、遥をまっすぐに見てくれた。
遥は、小さな拳をぎゅっと握った。
あの日、心の奥に誓った。
──絶対に、この手を離さない。
──絶対に、この温もりを手放さない。
まだ幼い胸にそういう執着が残るのだった。
──
保育園の昼休み、園庭に小さな輪ができていた。
その中心に、南雲遥はいた。
周囲を囲むのは、同じクラスの子供たち。無邪気な顔をして、けれどその口から吐かれる言葉は、刃よりも鋭かった。
「お前、なんかおとこみたい!」
「ほんと、声も変だし、へんなやつ!」
「ぜったいおんなじゃないよなー!」
遥は拳を握りしめた。ぎゅうっと、爪が掌に食い込むくらいに。
心臓が、強く脈打っていた。
頭に血が昇る感覚があった。
怒りで、体が震えた。
──やめろ。
──やめろって。
震える声で叫びそうになった。
けれど、言葉にならなかった。
代わりに、体が動きかけた。
拳を振り上げてしまいそうになった。
目の前でにやにや笑う子供たちの顔に、何も考えずに叩きつけてしまいそうだった。
もう少しで、本当に手が出るところだった。
──そんなとき。
「やめろよ!」
割って入ったのは、笠桐勇斗だった。
小さな体で、遥と子供たちの間に立ちはだかる。
勇斗は顔を真っ赤にして、周囲の子供たちを睨みつけた。
「はるかはおとこでもおんなでもない! はるかは、はるかなんだ!」
怒鳴り声が、園庭に響いた。
一瞬、誰もが言葉を失った。
遥自身も、呆然と勇斗を見た。
勇斗は、ぐっと拳を握りしめたまま、遥を振り返る。
「だいじょうぶだよ、はるか。ぼくがいるから」
その言葉に、遥の全身から一気に力が抜けた。
拳が、だらりと下がった。
涙が滲んだ。
悔しくて、情けなくて、それでも、救われた気がした。
勇斗はさらに、周囲の子供たちに向き直った。
「ちゃんとあやまれ!」
強い声だった。
躊躇った末に、子供たちはばつが悪そうに顔を伏せ、「ごめん」と口々に言った。
勇斗はそれを見届けると、遥の手を取った。
「行こ、はるか」
引っ張られるまま、遥は歩き出した。
足が震えていた。
でも、勇斗の手の温かさが、それを支えてくれた。
園舎の影に隠れると、勇斗は手を放し、遥の顔を覗き込んだ。
「ごめんね、こわかったよね」
遥は首を振った。
こわかったんじゃない。
ただ、苦しかった。
自分の存在を否定されるような気がして。
そんな思いを、勇斗は全部、受け止めてくれた。
「おとことかおんなとか、そんなの、どうでもいいよ」
勇斗は笑った。
「はるかは、はるかなんだよ!」
その言葉は、遥の胸にまっすぐ突き刺さった。
涙が、こぼれた。
こんなにも、簡単な言葉で。
こんなにも、温かい言葉で。
遥は、救われた。
誰にも理解されなかった存在を、勇斗だけが、丸ごと肯定してくれた。
遥は、ぐしゃぐしゃになった顔で、勇斗を見た。
「……ばか」
かすれた声で、そう呟いた。
勇斗はにこっと笑って、遥の頭を優しく撫でた。
──お前はすごいや
───
昼休み。三年生の教室の片隅。
南雲遥は、窓際の机に座りながら、無言で教科書を眺めていた。
遠くからは、運動場で遊ぶ子供たちの元気な声が聞こえる。
けれど教室の中は、妙に静かだった。
数人の女子たちが、遥を取り囲んでいた。
「さぁ、南雲さん?」
にやにや笑いながら、先頭に立つ女子が声をかけてくる。
「そんな男の子みたいに振る舞ったら、男の子に好かれるとでも思ってるの?」
遥は顔を上げなかった。
睨み返すことも、言い返すこともなく、ただ冷たく教科書をめくった。
けれど、嘲る声は止まらない。
「ほんと、痛いよね」
「自分が特別だとでも思ってるのかな?」
「ぜんぜん可愛くないのにね」
遥はゆっくりと顔を上げた。
そして、淡々と言った。
「──少なくとも、お前らよりは勇斗と仲良くなれてるけどな」
空気が凍った。
女子たちの顔から笑みが消える。
次の瞬間、誰かが遥の腕を掴んだ。
「なに、調子乗ってんの」
「ちょっと、おしおきしないとね」
遥は抵抗しようとしたが、人数が多すぎた。
細い腕をねじり上げられ、無理やり椅子に押さえつけられる。
そして──。
「ねえ、ハサミ持ってきた?」
誰かが机の中から銀色に光るハサミを取り出した。
ぞっとする音を立てて、刃が開閉される。
遥は、初めて、本能的な恐怖を感じた。
──やばい。
本当に、何かされるかもしれない。
女子たちはハサミをちらつかせながら、にやにやと笑った。
「ちょっとだけ髪、切っちゃおっか」
「ほら、おとこみたいなんだから、別にいいよね?」
手に汗が滲む。
腕を押さえつける力が強くなる。
ハサミが、遥の顔の近くで開かれた。
そのときだった。
「──やめろ!!」
激しい音と共に、教室の扉が開いた。
ドンッ、と壁に当たって跳ね返るほど勢いよく。
そこに立っていたのは、笠桐勇斗だった。
顔を真っ赤にして、息を荒げ、今にも飛びかかりそうな勢いで女子たちを睨みつけていた。
「先生呼んだからな!!」
勇斗の背後には、怒りに満ちた表情の担任がいた。
女子たちは一斉に顔色を変え、ハサミを机に落とした。
「な、なんでもしてないよ!」
「うそだよ! ちょっとふざけてただけ!」
言い訳を並べる声が重なる中、勇斗は一目散に遥に駆け寄った。
拘束を解かれた遥は、ぐしゃぐしゃになった制服を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……大丈夫か?」
勇斗が、震える声で聞いた。
遥は、小さく頷いた。
本当は怖かった。
本当は泣きたかった。
けれど、そんな顔は絶対に見せたくなかった。
だから、いつものように、ふてぶてしく笑った。
「オレがやられたくらいで騒ぐなよ」
勇斗は、ぎゅっと拳を握った。
「……ムカつく」
「……だろ?」
「でも、いちばんムカつくのは」
勇斗は言った。
「はるかが傷つくのを見るのが、いちばんムカつくし……悲しいんだ」
遥は、目を見開いた。
勇斗は、ぐしゃぐしゃな顔で、それでもまっすぐに遥を見つめていた。
「だから、守るって決めたんだ。はるかを、絶対に」
その言葉に、遥の胸が、きゅっと締めつけられた。
喉が、かすかに震えた。
何も言えなかった。
ただ、拳をぎゅっと握り返した。
教室の隅で、壊れた静寂の中、
遥は小さく、息を吸い込んだ。
──絶対に、この手は離さない。
──この人だけは、絶対に手放さない。
心の中で、深く深く、そう誓った。
また季節は巡る。
遥がそれに気づいたのは、初夏を迎えた頃だった。
その日、学校から帰った遥は、ズボンを脱ごうとして、異変に気がついた。
内側に、赤黒い染み。
血だった。
最初は何が起きたのかわからなかった。
けれど、すぐに思い当たった。
──ああ、これが。
前世では男だったはずの自分。
それでも、この身体は紛れもなく「女」なのだと、改めて、突きつけられた。
遥はその場に座り込み、震える手で握りしめた。
──なんでだよ。
心の中で、何度も叫んだ。
泣きたくなんかなかった。
だけど、気づいたときには、もう涙が零れていた。
結局、遥は親にも何も言わず、部屋に閉じこもった。
窓もカーテンも閉め切った暗い部屋で、布団をかぶって、ひたすら泣いた。
小さな嗚咽が漏れるのを、枕に顔を埋めて誤魔化しながら。
──オレは、オレだったのに。
──男でも女でもなく、ただ「オレ」でいたかったのに。
これまで、無理に意識しないようにしていた。
男らしいとか女らしいとか、そんなものに縛られるつもりはなかった。
けれど、身体は、容赦なく現実を突きつけてくる。
それが、どうしようもなく、悔しかった。
どれくらいそうしていただろう。
部屋のドアを、控えめに叩く音がした。
「……遥」
勇斗の声だった。
反応しなかった。
できなかった。
また、ノック。
「遥。開けてくんない?」
布団の中で、遥はぎゅっと目を閉じた。
それでも、ドアノブがゆっくり回る音が聞こえた。
「……入るぞ」
恐る恐る、勇斗が入ってくる。
そして、暗い部屋の中、布団にくるまった遥を見つけて、小さく息を吐いた。
「……遥」
勇斗は、迷ったように立ちすくんだ。
しばらく、何も言わずに。
けれど、意を決したように、ベッドの端に腰を下ろすと、布団越しに小さな声で話しかけてきた。
「……俺には何があったか、よくわかんないけど」
遥は、何も答えなかった。
「でも……」
勇斗は言った。
「泣くくらい、つらいことだったんだろ?」
布団の中で、遥の肩がびくりと震えた。
「つらいなら、泣いていいよ」
遥は、堪えていたものが一気に決壊するのを感じた。
嗚咽が、漏れた。
勇斗は焦ったように立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。
「……えっと、その」
もどかしそうに、勇斗は頭をかきながら、必死に言葉を探していた。
「……俺にはよくわかんないけどさ」
遥は、布団の中で、小さく耳を澄ませた。
「遥は……『遥』だろ?」
遥の名前を、はっきりと呼んだ。
それは、今までみたいな気安い呼びかけじゃなかった。
はっきりと、「南雲遥」という存在を、名前ごと抱きしめるような、そんな呼び方だった。
「男女とか、そんなん関係ない。俺にとっては、遥は遥だし」
勇斗の声は、不器用で、どこまでも真っ直ぐだった。
「だからさ」
ぽん、と布団の上に、勇斗の手が置かれる。
「そんなに泣くなよ」
遥は、顔を上げた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、布団の隙間から勇斗を見た。
勇斗は、照れたように笑った。
「……泣き顔、見たくないんだよ」
遥は、ひくひくしゃくり上げながら、ようやく小さく笑った。
「ばか」
かすれた声で、そう言った。
勇斗は、にかっと笑った。
「バカでいいよ。だから、笑えよ」
手を伸ばして、そっと遥の頭を撫でた。
その手は、少しだけ震えていた。
でも温もりを只管に感じた。
遥は、もう何も言えなかった。
ただ、勇斗の手の下で、ぽろぽろと涙を流し続けた。
しばらくそうして、泣き疲れた頃、遥は小さな声で呟いた。
「……ありがとな」
勇斗は何も言わなかった。
ただ、静かに、遥の頭を撫で続けていた。
───
中学二年の初夏。夕暮れ間近の校舎裏。
人目のないその場所に、南雲遥は立たされていた。
「なぁ、南雲」
三年生の男子が、取り巻きを連れてにじり寄ってくる。
嫌悪感を隠しもしない態度で、遥は彼らを睨みつけた。
「ちょっと付き合えよ。悪い話じゃねぇだろ?」
「興味ねぇ。帰る」
即答だった。
教室で渡された手紙にも、今こうして呼び出された理由にも、最初から興味なんてなかった。
遥の冷たさに、先輩たちの顔から笑みが消える。
「後輩のくせに、女のくせに……調子乗ってんじゃねぇぞ」
「うるせぇ。オレに構うな」
一言一言が火種になった。
先輩たちは、明らかに苛立ちを募らせ、周囲を囲む輪が狭まった。
──やばいかもな。
けれど、引くつもりはなかった。
明らかに貞操の危機があろうともこのクソどもに従順に従う気にはなれなかった
「やれ」
低く、誰かが呟いた。
次の瞬間、遥は腕を掴まれ、無理やり押し倒されそうになった。
「離せ!」
暴れるも、体格差があまりに大きい。
制服の襟元を引き裂かれそうになる。
──誰か来い。誰でもいい。
そんな奇跡を願った、その瞬間だった。
「──遥!!」
叫び声と同時に、ドン、と鈍い音が響いた。
遥を押さえつけていた手が、急に緩んだ。
振り向くと、そこには、必死の形相で駆け込んできた笠桐勇斗の姿があった。
「何してんだ、てめぇら!!」
勇斗は叫びながら、先輩たちに飛びかかった。
殴った。蹴った。
だが、同時に殴られ、蹴られた。
小柄な勇斗は、あっという間に顔を殴られ、口元を切り、制服も泥だらけになった。
「うるせぇ小僧が!」
「まとめてやっちまえ!」
複数人に囲まれ、殴られ、地面に叩きつけられる。
それでも、勇斗は倒れなかった。
顔を腫らし、唇を切り、鼻血を垂らしながら、それでも立ち上がった。
「──離れろ、彼女から!」
咆哮のような声とともに、勇斗はまた拳を振るった。
殴られた先輩が一人、よろめいた。
すかさず、もう一人にも体当たりする。
体重差など無視するように、必死に食らいついた。
当然、また殴られる。蹴られる。
けれど勇斗は、それを意にも介さず、何度も立ち上がった。
「こいつ、マジでおかしいだろ……」
「チッ、めんどくせぇ!」
次第に、先輩たちの中に焦りが混じり始める。
「先生呼ばれたら、やべぇって!」
「逃げろ!」
罵声と怒鳴り声を残し、三年たちは一人、また一人と逃げていった。
最後まで残った一人を、勇斗が殴り飛ばした瞬間、校舎裏には、遥と勇斗だけが残った。
勇斗は、その場に膝をついた。
肩で大きく息をし、顔は血と泥にまみれていた。
遥は、駆け寄った。
「バカッ……!」
膝をついて、勇斗の顔を覗き込む。
鼻血、口の中からも血が滲んでいる。
腕も擦りむき、制服はボロボロだった。
「なんで……なんで一人で突っ込んできたんだよ!」
遥は怒鳴った。
けれど、その声は震えていた。
勇斗は、ぼろぼろになりながら、にかっと笑った。
「……遥 、無事で……よかった」
遥は、堪えきれずに拳を握った。
そして、その拳を、勇斗の胸に何度も叩きつけた。
「ばか! ばか! ばか!」
叩きながら、涙が零れた。
「お前が……お前に何かあったらどうなるんだよ!」
「……へへ、大丈夫、大丈夫だから」
勇斗は、ぐらつきながらも、遥の頭に手を置いた。
震える手だった。
遥は、その手をそっと握った。
「……もう、無茶すんなよ」
「遥が、泣くのが……いちばん嫌なんだ」
勇斗は、笑ったまま、ゆっくりとその場に倒れた。
遥は慌てて抱き起こす。
「……バカ、死ぬなよ」
遥は震える手で、勇斗の背中を支えながら、自分の胸に引き寄せた。
汚れた制服越しに感じる体温が、どうしようもなく愛しくて、悔しかった。
「……早く、保健室、行こう」
勇斗は力なく頷いた。
遥は、勇斗の腕を肩に回し、よろよろと立ち上がった。
小柄な遥には重たかったが、それでも、絶対に手を離したくなかった。
ゆっくり、少しずつ、歩き出す。
校舎の裏手から、ぐるりと回って、正面玄関を目指す。
途中で何人かの生徒に出くわしたが、皆、あっという間に顔を背けた。
泥だらけで、血まみれの二人を見て、関わりたくないと思ったのだろう。
それでも構わなかった。
遥にとっては、今、勇斗が無事でいることだけが重要だった。
歩きながら、勇斗がかすれた声で言った。
「……痛い」
「だろうな」
「……でも」
「でも?」
「……遥が傷付かなくて、よかった」
遥は、俯いたまま、ぎゅっと勇斗の肩を抱き寄せた。
言葉が、喉に詰まった。
何も言えなかった。
──この馬鹿は、なんでいつも、オレのことばっかりなんだよ。
涙が滲みそうになるのを、必死で堪えた。
足を引きずりながら、どうにか保健室に辿り着いた。
保健の先生が飛び上がるほど驚き、すぐに勇斗をベッドに寝かせた。
「傷が……!」
「早く手当てしてやってください」
遥は、強い口調で言った。
震える手で、勇斗の制服のボタンを外すのを手伝いながら、心の中で何度も何度も繰り返した。
──無茶すんな。
──オレを守るために、無理すんな。
──オレを傷つけるな。
そんなふうに、心の奥で叫び続けていた。
勇斗は、ベッドに横たわりながら、かすかに目を開けた。
「……遥」
「んだよ」
「泣いてない?」
「泣いてねぇよ」
即座に答えた。
勇斗は、ふっと満足そうに笑った。
「よかった……」
そのまま、安心したように、目を閉じた。
穏やかな寝息が、保健室に静かに響いた。
遥は、その隣に座ったまま、しばらく動けなかった。
小さな手で、勇斗の手を包み込む。
あたたかい命の重みを、指先で確かめながら、そっと呟いた。
「……バカ」
涙は、もう流さなかった。
ただ、ぎゅっと、勇斗の手を離さずにいた。
──この温もりはわたしだけのものだ。
誰かに渡すなんて許せはしない。