TS転生者はヤンデレなんかになったりしない   作:しが

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Blue Day

春の朝。

まだ薄い光がカーテン越しに差し込む静かな時間帯。

 

南雲遥は、ゆっくりと目を開けた。

瞬間、全身を襲う重いだるさに、眉をひそめた。

 

──おかしい。

 

寝起き特有の怠さとは明らかに違った。

喉が渇き、頭がぼんやりしている。

さらに、腹部には鈍い痛みがじわりと広がっていた。

 

そっと身体を起こそうとして──遥はすぐに悟った。

 

──ああ……また、来たんだな。

 

忌々しい、女性として避けられない「月のもの」。

毎月のこととはいえ、どうしても慣れることはなかった。

 

特に遥の場合、それが人よりも重かった。

下腹部を締め付けられるような痛みと、貧血に似たふらつきが一緒に押し寄せてくる。

それでも、普段なら何とか我慢して、学校へ行き、日常をこなしていた。

 

だが、今日は違った。

 

目を開けているのも辛い。

少しでも動こうとすると、腹部に走る鈍痛が全身を引き攣らせる。

枕元のスマホに手を伸ばそうとするだけで、腕が震えた。

 

──無理だ。

 

遥は、情けないほど素直に認めた。

 

動けない。

立ち上がることすら、できない。

 

額にじわりと汗が滲む。

吐き気までこみ上げ、ただ目を閉じて耐えるしかなかった。

 

──どうする。

──誰か……。

 

助けてほしかった。

けれど、こんなことを誰に頼めというのか。

 

親は不在だ。

こんな朝早くから頼れる大人はいない。

 

それでも、脳裏に一人だけ顔が浮かんだ。

 

──勇斗……。

 

幼馴染。

たぶん、この世界で一番、何もかもをさらけ出せる相手。

 

プライドも何もかも、かなぐり捨てなければならない。

情けない自分を見せる覚悟も必要だった。

 

それでも、今は。

 

遥は、震える手で、必死にスマホを手繰り寄せた。

画面を開き、勇斗の連絡先を探す。

手が震えて、何度も押し間違えそうになる。

 

ようやく、通話ボタンを押した。

 

数回のコール音の後、勇斗が出た。

 

『──もしもし、遥?』

 

「……たすけて」

 

声はかすれていた。

それでも、必死に絞り出した。

 

『……わかった! 今すぐ行くから!』

 

言葉少なに、それだけを言って、通話は切れた。

 

スマホを手放し、遥はぐったりとベッドに沈み込んだ。

 

助けを求めた安堵と、情けなさで、涙が滲んだ。

 

けれど、それすらも、もうどうでもよかった。

 

ただ、勇斗が来てくれる。

その事実だけが、今の遥の唯一の救いだった。

 

──頼む、早く。

 

痛みに震える身体で、遥は小さく祈るように目を閉じた。

 

時間の感覚が曖昧になった頃、玄関のチャイムが鳴った。

すぐにドアの開く音がする。

 

「遥、入るぞ!」

 

勇斗の声が、どこか焦ったように響く。

 

遥は、声を出す気力もなく、ベッドに伏せたままだった。

 

足音が近づき、ドアが開く。

 

「……遥」

 

ベッドの横に膝をつく音がした。

 

「ごめん、待たせた」

 

遥はかすかに首を振った。

 

勇斗はすぐに状況を察したらしく、カバンから水のペットボトルとタオルを取り出した。

 

「水、飲めるか?」

 

遥は、微かに手を伸ばした。

勇斗がすぐにボトルを開け、キャップごと口元に持ってきてくれる。

 

ほんの少しだけ飲み込んだ。

 

冷たい水が喉を潤し、わずかに意識がはっきりする。

 

「……ありがと」

 

かすれた声でそう言うと、勇斗は微笑んだ。

 

「なんでも言えよ、なんでもするから」

 

遥はまた、涙が滲んだ。

 

情けなくて、悔しくて、それでも──嬉しかった。

 

勇斗の手が、そっと額に触れる。

 

熱を測るように、優しく撫でるその仕草に、遥は目を閉じた。

 

「大丈夫。俺がいるから」

 

勇斗の声は、まるでおまじないのようだった。

 

遥は、ぼんやりと意識を手放しながら、ただその言葉にすがった。

 

もう、強がることも、意地を張ることも、必要なかった。

 

窓の隙間から差し込む春の光は、静かに部屋を満たしていた。

 

遥は、浅い眠りの中にいた。

微かな微熱と鈍い腹部の痛み。

意識はぼんやりと浮かんだり沈んだりを繰り返していた。

 

けれど、ふと、自分の手に温もりを感じた。

 

──ああ、そうだ。

 

思い出す。

この部屋に、たった一人だけ駆けつけてくれた人がいたことを。

 

遥の右手は、しっかりと誰かの手に握られていた。

熱くて、力強くて、それでいて優しかった。

 

ゆっくりと目を開ける。

 

視界の中に、椅子に腰掛け、机に突っ伏して眠る勇斗の姿があった。

 

無防備な寝顔。

寝癖のついた髪。

うっすらと開いた口。

 

遥は、かすかな微笑みを浮かべた。

 

──バカだな。

 

こんな情けない自分のために、必死で駆けつけてくれて。

疲れた顔で、手を握ったまま寝落ちしてくれて。

 

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 

世界で一番、ありがたくて、愛おしい存在だった。

 

遥は、掠れた声を絞り出した。

 

「……勇斗」

 

かすかに呼ぶと、勇斗の眉がぴくりと動いた。

 

「……ん……遥?」

 

勇斗は目を開け、眠たげにこちらを見た。

すぐに意識がはっきりしたのか、顔を上げて遥を見つめた。

 

「大丈夫か!?」

 

声を潜めながらも、必死な様子だった。

 

遥は小さく首を振った。

 

「……まだ、きつい……」

 

「どこか……他に痛いとこある?」

 

「……カバン……」

 

息を継ぎながら、遥は指を動かして、自分の学生カバンを示した。

 

「中に、痛み止め……生理用の……それと……下の救急箱に、解熱剤……お願い……」

 

勇斗はすぐに立ち上がった。

 

「わかった! 待ってろ!」

 

バタバタと小走りで部屋を出ていく音がする。

 

遥は、ベッドの上で目を閉じた。

 

申し訳なかった。

本当は、自分で何もかもできるようでありたかった。

 

人に頼るのが、こんなにも恥ずかしいものだとは思わなかった。

 

けれど、それでも。

 

──今だけは、頼らせて。

 

弱い自分を晒して、それでも隣にいてくれる人に。

 

数分もしないうちに、勇斗が戻ってきた。

 

手には、遥のカバンから取り出した痛み止めと、救急箱から持ってきた解熱剤と、水の入った新しいペットボトル。

 

「ほら、これ!」

 

勇斗は慣れない手つきで薬を取り出し、水と一緒に遥の手に渡してくれる。

 

遥は、震える手で痛み止めを一粒、口に含んだ。

水を少しずつ飲み込み、何とか喉を通す。

 

次に解熱剤も飲み、力なく枕に頭を預けた。

 

「……ありがと」

 

声はまだ掠れていたが、今度ははっきりと聞こえた。

 

勇斗は、椅子を引き寄せて遥の隣に座り直した。

 

「いいって。気にすんなよ」

 

その言葉に、遥の胸がまた熱くなった。

 

気にするなと言われても、気にせずにはいられなかった。

どれだけ情けない姿を見せても、勇斗は顔をしかめるどころか、当たり前のように傍にいてくれる。

 

遥はそっと、勇斗の袖を掴んだ。

 

「……迷惑……じゃない?」

 

勇斗はきょとんとした顔で遥を見下ろし、すぐに笑った。

 

「バーカ」

 

「……っ」

 

「遥が困ってるのに、迷惑なわけねーだろ」

 

遥は、ぐっと唇を噛み締めた。

今にもまた涙が零れそうだった。

 

──情けない。

──だけど、こんなにも。

 

「……ありがと」

 

もう何度目かもわからない、その言葉を、遥はまた繰り返した。

 

勇斗は、静かに遥の頭を撫でた。

 

子供の頃から何度もしてきた仕草。

だけど今は、その手が、世界で一番温かく感じた。

 

遥は目を閉じた。

 

痛み止めが効き始めたのか、腹部の痛みが少しだけ和らいできた。

 

そして、心の中ではっきりと確信した。

 

──わたしは、今、世界で一番、救われてる。

 

この人が隣にいてくれることが、何よりの救いだった。

 

遥は、勇斗の手をそっと握り返した。

 

 

少しずつ、痛み止めの効果が現れてきた。

 

腹部を締めつける感覚が、わずかに和らぎ、遥はようやく上半身を起こせるようになった。

枕にもたれ、深く呼吸を整える。

 

「……うっ……」

 

ベッドから立ち上がろうとした途端、激しい痛みが腹の奥から這い上がった。

遥は顔をしかめ、すぐにベッドに崩れ落ちた。

 

勇斗が慌てて支える。

 

「無理すんなって!」

 

「……学校、行くつもりだったんだけどな……」

 

遥は苦笑して呟いた。

けれど、現実を突きつけられる。

この身体では、到底、教室までたどり着けないだろう。

 

「……休む」

 

遥は、かすれた声でそう告げた。

 

勇斗は黙って頷いた。

眉間に皺を寄せ、遥の顔をじっと見つめる。

 

「遥が休むなら……俺も休むわ」

 

「……は?」

 

「こんな状態の遥、放っとけるわけねぇだろ」

 

勇斗は、当然だと言わんばかりの顔で言った。

 

遥は呆れて、だけどどこか嬉しくて、口元をわずかに緩めた。

 

「バカだな……」

 

「バカでいいよ」

 

勇斗は、にかりと笑った。

 

「とりあえず、コンビニ行ってくる。ゼリーとか、おかゆとか、なんか消化にいいもん買ってきてやるから」

 

「……ありがと」

 

遥は小さく頷いた。

 

勇斗は立ち上がり、カバンを手に取った。

 

「すぐ戻るから、ちょっとだけ我慢しとけよ」

 

そう言って、ドアに向かおうとした、そのときだった。

 

「──やだ」

 

か細い声。

 

勇斗が振り返ると、遥が必死に手を伸ばしていた。

その指先が、勇斗の服の裾をきゅっと掴んだ。

 

「……行かないで」

 

遥は、消え入りそうな声で言った。

 

涙ぐんだ瞳。

微かに震える肩。

普段なら見せない、弱さそのものをさらけ出していた。

 

「遥……」

 

勇斗は一歩も動けなかった。

 

掴まれたまま、そっと膝をつく。

 

遥は、さらにその手を勇斗の胸元に滑らせると、ぎゅっと抱きついた。

 

「……お願い」

 

自然に口から漏れたその声は、もう完全に女性のものだった。

 

柔らかく、儚く、胸の奥に染み渡るような響き。

 

勇斗は、どうしようもなくなった。

 

腕を、そっと遥の背中に回した。

 

そして、優しく、しっかりと、遥を抱きしめた。

 

遥は、勇斗の胸元に顔を埋める。

 

「……こわいの」

 

「……うん」

 

「ひとりにしないで……」

 

「絶対にしない」

 

勇斗は、力強く答えた。

 

遥の身体は、思った以上に華奢だった。

震える背中を、そっと撫でながら、勇斗は誓った。

 

絶対に、どんなことがあっても、守ると。

 

遥は、勇斗の腕の中で、少しずつ呼吸を整えていった。

 

鼓動が、静かに重なる。

 

どちらからともなく、腕に力を込めた。

 

遥は、かすかに笑った。

 

「……ありがと」

 

「バカ、礼なんか言うなよ」

 

勇斗は、わずかに頬を赤らめながらも、さらに遥を抱き寄せた。

 

そのぬくもりが、今は何よりの薬だった。

 

遥にとっても、勇斗にとっても。

 

遥は勇斗の胸の中でしばらくじっとしていた。

 

時間の感覚は曖昧だったが、腕の中にある温もりと心音に包まれているうちに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。

 

まだ体の痛みは完全には引かない。

けれど、精神的な焦燥感は、勇斗のおかげでだいぶ和らいだ。

 

「……ありがと」

 

遥は小さく呟いた。

 

勇斗はそれに応えず、ただ静かに背中を撫で続けてくれた。

 

もう、これ以上甘えるわけにはいかない。

わかってはいた。

 

遥はそっと勇斗の胸から離れた。

 

「……引き留めて悪かったな」

 

かすれた声ながらも、どこか冗談めかして言う。

 

「お詫びってわけじゃねぇけどさ……ハーゲンダッツ、頼むわ」

 

弱々しい笑みを浮かべながら。

 

勇斗は、一瞬呆れたように目を細めたが、すぐに笑った。

 

「はいはい、買ってきてやるよ。何味がいい?」

 

「チョコ」

 

「了解」

 

勇斗は軽く手を振り、ようやく部屋を後にした。

 

玄関の閉まる音がして、遥は静かな部屋の中にひとり取り残された。

 

ベッドに身を沈め、ぽつりとため息をつく。

 

──さみしい。

 

さっきまで隣にあった温もりが消えてしまったことに、想像以上の寂しさを覚えた。

 

情けない。

いつからこんなに、勇斗に依存しているのか。

 

そう自嘲しながら、枕に顔をうずめたその時だった。

 

スマホが振動する。

 

通話アプリの着信だった。

 

画面を見れば、麻川綾子の名前が表示されている。

 

遥は重たい身体を引きずりながら応答した。

 

「……もしもし」

 

『ちょっと! 遥!? どこいったの!?』

 

開口一番、怒涛の勢いだった。

 

『今日学校来てないから、先生もめっちゃ困ってたんだけど!? あんた風邪!? 倒れた!? 大丈夫なの!?』

 

あまりの心配ぶりに、遥は苦笑した。

 

「……大げさだな。ちゃんと生きてる」

 

『生きてるだけじゃダメ! 無事じゃないと意味ないの!』

 

「はいはい……」

 

『で? どうしたの? 何があったの?』

 

遥は枕に頬を押し付けたまま、答えた。

 

「……生理。しかも、いつもより重い」

 

『えっ』

 

「だから休んだ。後で先生には連絡する」

 

『……あ、そっか』

 

綾子の声のトーンが、ぱたんと落ち着いた。

 

『びっくりした、あんたさあんま体調悪いって聞かないからさ。心配するじゃん』

 

「……ごめん」

 

『いいって。でも、ちゃんと休め。無理すんなよ?』

 

「わかってる」

 

『あ、ちなみに──』

 

綾子の声が、少しだけ茶化すようなものに変わった。

 

『笠桐くんもいないんだけど? 愛しの彼も一緒なの?』

 

遥は一瞬だけ黙った。

 

照れ臭いような、恥ずかしいような。

 

でも、もう隠す気力もなかった。

 

「……うん」

 

小さな声で、素直に答えた。

 

そして、ぽつりと漏れるように続けた。

 

「だいすき」

 

電話越しに、綾子が息を呑む気配があった。

 

『……マジか』

 

沈黙のあと、小さな笑い声が漏れる。

 

『……そっか。よかったね』

 

その言葉に、遥は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。

 

何もかもが、世界で一番優しかった。

 

『中学のとき、そんなに酷かったっけ? はるかの生理』

 

綾子が不思議そうに尋ねた。

 

スマホを握る手に微かな力を込めながら、遥はベッドに沈み込む。

 

「……いや。中学のときは、まだ痛み止め飲めばどうにかなった」

 

『だよね。体育も普通に出てたじゃん。サボり癖もなかったし』

 

「うん……今考えると、あの頃はまだ軽かったんだろうな」

 

『じゃあ、なんで今こんなに重いの?』

 

綾子の声は真剣だった。

心配してくれているのが、痛いほど伝わる。

 

遥はゆっくりと目を閉じ、考える。

 

──なんで、こんなに重くなったんだろう。

 

「体質……かな」

 

無理やり言葉を絞り出す。

 

『体質?』

 

「成長すると、ホルモンバランスとか変わるって言うじゃん」

 

『あー、たしかに』

 

綾子は納得しかけたが、すぐに続けた。

 

『でも、それだけでこんなに急にひどくなる? ほんとに最近だよね、こんなバテバテになったの』

 

「……うん」

 

遥は、ゆるく頷いた。

 

自分でも、理由がはっきりしない。

 

『ストレスとか?』

 

「ストレス?」

 

『ほら、高校入学とかでさ。環境変わったし、人間関係とか、勉強とか。無意識に疲れてたんじゃない?』

 

その指摘に、遥は少しだけ考え込んだ。

 

たしかに、環境は大きく変わった。

知らないクラスメイト、増えた勉強量、新しい生活リズム。

無理してなかったつもりでも、体は正直だったのかもしれない。

 

「……かもな」

 

『だよ。身体って、メンタルと直結してるからさ』

 

「綾子、意外とまともなこと言うな」

 

『失礼だな!?』

 

思わず笑いが漏れた。

綾子も向こうでぷりぷり怒っているのが伝わってくる。

 

それだけで、少し気が楽になった。

 

「でも、ストレスって言っても、そんなに自覚なかったけどな……」

 

『無自覚がいちばんやばいんだよ。気づいたらガタがくるってやつ』

 

「そっか……」

 

遥は、ベッドに深く沈みながら天井を見上げた。

 

改めて、自分の体を労らなきゃいけないんだと、ようやく実感した。

 

『……で、もしかしてさ』

 

綾子が、妙に含みのある声を出す。

 

「なに」

 

『ストレスっていうか──』

 

一拍置いて、綾子は楽しそうに言った。

 

『愛のストレス?』

 

「……は?」

 

『だって、ほら。笠桐くんと高校でも一緒になって、距離感変わったり、色々意識したり……』

 

「────」

 

思わず息を呑んだ。

 

図星だった。

 

たしかに、最近の遥は、勇斗に対する感情の揺れ動きが激しかった。

 

楽しかったり、苦しかったり、嬉しかったり、怖かったり。

そんな感情の波が、ずっと心の奥で渦巻いていた。

 

それが、身体にも影響を与えていたのかもしれない。

 

「……うるさい」

 

「はいはい、図星図星」

 

綾子はからかうように笑った。

 

『でも、まぁ、無理しないで? いまは身体を第一に考えなさい。ね?』

 

「……うん」

 

『なにかあったら、すぐ言えよ。あたしも、笠桐くんも、ちゃんと頼れ』

 

「……ああ」

 

言葉に出すと、胸が少しだけ軽くなった。

 

綾子の存在が、勇斗とはまた違った意味で、遥にとって大きな支えになっていることを、改めて感じた。

 

「ありがとな、綾子」

 

『ふふん、感謝しなさいなー。まったく、手間のかかる親友だよ』

 

「うるせぇ」

 

吐き捨てながらも、遥はふっと笑った。

 

ふわりと香るような、軽い笑い声。

少しだけ、春の光が暖かく感じられた。  

 

──

 

通話が切れると、部屋の中は一気に静まり返った。

 

スマホを胸元に置いたまま、遥は天井をぼんやりと見上げる。

 

──ストレス、か。

 

確かに、環境の変化も影響しているかもしれない。

新しいクラス、新しい人間関係、不慣れな生活リズム。

 

でも──。

 

遥は、ゆっくりと目を閉じた。

 

本当は、わかっていた。

 

こんなにも心がかき乱されて、体までおかしくなっている理由なんて。

 

全部──勇斗のせいだ。

 

勇斗の、周りに集まる「メスブタ」どものせいだ。

 

中学までは、まだよかった。

 

周りに女子はいても、勇斗は無自覚だったし、近づいてくる奴もそこまで多くなかった。

遥の隣にいるのが、当たり前だった。

 

けれど、高校に入ってから、状況は変わった。

 

制服を着て、少し大人びた顔つきになった勇斗は、遥が思っている以上に「男」として他人の目に映るようになった。

 

クラスの女子たちはもちろん、隣のクラスの女、廊下ですれ違う女、購買でちょっとぶつかっただけの女──。

 

どいつもこいつも、勇斗をちらちら見ていた。

 

声をかけるタイミングを伺っていた。

 

ニヤニヤしながら、勇斗を品定めするような目で見ていた。

 

──気持ち悪い。

 

遥は、歯を食いしばった。

 

心の底から、そう思った。

 

あんな奴らに、勇斗の何がわかるんだ。

笑顔の奥にある臆病さも、意地っ張りな優しさも、

泣きたい夜に一緒に笑ってくれたあったかさも──

何一つ知らないくせに。

 

なのに、ただ顔がいいとか、背が高いとか、そんな薄っぺらい理由で勇斗を欲しがる。

 

冗談じゃない。

 

勇斗は、わたしのものだ。

 

誰にも渡す気なんか、これっぽっちもない。

 

だけど──現実は残酷だった。

 

勇斗は、鈍感で無自覚で、誰にでも優しいから、

無意識に「隙」を作ってしまう。

 

別に特別扱いしてるわけじゃない。

 

わかってる。

 

それでも、嬉しそうに話しかける女どもの顔を見るたび、遥の胸は焼き焦げそうになった。

 

冷静になんてなれなかった。

 

頭の中がぐしゃぐしゃになった。

 

──なんで笑うんだよ。

 

──なんで、他の女とそんな普通に喋るんだよ。

 

──なんで、わたしだけを見てくれないんだよ。

 

許せない。

 

許せない。

 

許せない──。

 

遥は、ぎゅっとシーツを握りしめた。

 

爪が食い込むほど強く。

 

心臓が痛い。

 

息が詰まりそうだった。

 

こんな感情、誰にも知られたくなかった。

 

ましてや勇斗になんて、絶対に知られたくなかった。

 

わたしが、どれだけ醜く、嫉妬にまみれているかなんて。

 

──でも。

 

それでも、止められなかった。

 

勇斗の隣に、誰か別の女がいる未来なんて、想像するだけで発狂しそうだった。

 

笑顔で、優しい声で、他の女の名前を呼ぶ勇斗を。

 

あの温もりを、別の誰かに向ける勇斗を。

 

そんなもの、耐えられるわけがなかった。

 

──赦せない。

 

遥は、シーツを握りしめたまま、かすかに震えた。

 

自分でも信じられないほど、どす黒い感情が心の奥で渦巻いているのを感じる。

 

愛しさと、憎しみと、独占欲と、恐怖と、絶望が、

ぐちゃぐちゃに混ざり合って、遥の中で煮えたぎっていた。

 

──勇斗は、わたしのものだ。

 

──わたしだけのものだ。

 

──絶対に、誰にも渡さない。

 

たとえ──何をしてでも。

 

玄関の扉が静かに開く音がした。

 

遥は、慌てて顔を整えた。

胸の奥で渦巻いていたどす黒い感情を、必死で奥底に押し込める。

 

──見られたくない。

 

こんな醜い独占欲も、嫉妬も、憎しみも。

目の前の彼には、絶対に知られたくなかった。

 

だから、いつも通りを装う。

 

ベッドの上で上半身を起こし、なるべく平静な表情を作る。

どれだけ胸が痛んでも、吐き出したくなる衝動に駆られても──。

 

「ただいま」

 

勇斗が、少し息を切らしながら部屋に戻ってきた。

 

両手にはコンビニの袋がいくつも提げられている。

 

「あんま待たせなかったよな?」

 

「……うん。ありがと」

 

掠れた声で応じると、勇斗はホッとしたように笑った。

 

「とりあえず、ハーゲンダッツとゼリーと、おかゆっぽいやつと、あとポカリと……いっぱい買ってきたからな」

 

「……買いすぎだろ」

 

「いいだろ。食えるもんだけ食えよ」

 

どこかぎこちない微笑みを浮かべながら、勇斗は袋の中身を取り出し始めた。

 

保冷バッグからは、頼んだハーゲンダッツがきちんと出てくる。

 

「ほら。チョコ」

 

「……ありがと」

 

言葉にして、また胸が詰まった。

 

──優しい。

 

こんなに、変わらず、当たり前に。

 

こんなにも、自分を大事にしてくれているのに。

わたしの内側には、黒い感情しかなかった。

 

遥は、心の中でそっと叫んだ。

 

──ごめん。勇斗。

──こんなわたしで、ごめん。

 

「……熱、測っとこうな」

 

勇斗が体温計を取り出し、そっと遥に手渡してくる。

 

遥は、黙ってそれを受け取り、脇に挟んだ。

 

ぴぴっと計測が終わると、勇斗がそれを覗き込む。

 

「……微熱だな。でもさっきよりは下がってる。よかった」

 

本当に、安堵したような顔をして。

 

それがまた、胸に刺さった。

 

「なんか食えるか? ゼリーくらいならいけるか?」

 

「……うん」

 

勇斗は、ゼリー飲料のパッケージを破り、ストローを差して渡してくれた。

 

遥は受け取り、少しずつ口に含んだ。

 

甘さが喉に優しく染み渡る。

 

「ゆっくりでいいからな」

 

「……ん」

 

頷きながら、遥はゼリーを飲み込んだ。

 

その間も、勇斗は椅子に座り、ずっと遥の様子を見守っていた。

 

その視線が、何よりもあたたかかった。

 

何も言わず、押しつけることもなく、ただ隣にいてくれる。

 

──これ以上、何を望む?

 

自問しても、答えはわかっている。

 

彼の優しさは、誰にでも向けられるものではない。

けれど、それでも。

 

勇斗の隣にいる権利を、わたし以外の誰かに与えるなんて──絶対にできない。

 

心の奥で、真っ黒な感情が渦を巻く。

 

誰にも譲れない。

 

譲らない。

 

渡さない。

 

たとえ、どんなに醜くても。

 

どんなに独占欲にまみれていようとも。

 

遥は、そっと勇斗の袖を指先で摘んだ。

 

気づかれない程度に、ほんの少しだけ。

 

「……ありがと、勇斗」

 

掠れた声で呟くと、勇斗は優しく微笑んだ。

 

「……当たり前だろ、遥」

 

その笑顔が、救いだった。

 

同時に、胸を引き裂かれるほど苦しかった。

 

こんな優しさを、他の誰かと分かち合う未来なんて──絶対に認めない。

 

遥は、何もなかったような顔で、ゼリーを飲み続けた。

 

けれど、胸の奥では、決して消えない黒い焔が、静かに燃え続けていた。

 

ゼリーを半分ほど飲み終えたころだった。

 

遥はふと、先ほどの自分の行動を思い返していた。

 

──あの時。

 

勇斗を、縋るように引き止めた。

それどころか、しがみつくように抱きしめて、お願いなんて、あんな甘えた声で──。

 

思い出した瞬間、顔から火が出そうになった。

 

遥はゼリーのパックでそっと顔を隠す。

 

視線の先にいる勇斗は、そんな遥の変化にすぐ気づいたらしい。

 

「……どうした、遥?」

 

「な、なんでもねぇ……」

 

「顔、赤いぞ?」

 

「気のせいだ」

 

言いながら、ますます顔が熱くなるのを感じた。

 

勇斗は、不思議そうに首を傾げ、それからふっと笑った。

 

「……なあ」

 

「……なに」

 

「さっきのさ?」

 

遥は、びくりと肩を震わせた。

 

「何?」

 

「俺がコンビニ行こうとしたら、すげー勢いで引き止めたろ?」

 

「…………」

 

遥はゼリーのパックをぎゅうっと握った。

 

何も言えなかった。

言えるわけがなかった。

 

勇斗は、面白がるように言葉を続ける。

 

「しかも、抱きついてきたしな」

 

「……うるせぇ」

 

「お願い、だなんてさ。可愛すぎんだろ」

 

「っ──うるせぇって言ってんだろ!!」

 

顔を真っ赤にしながら怒鳴ると、勇斗は大げさに肩をすくめた。

 

「はいはい、悪かったよ」

 

謝るふりをしながら、まったく反省していない顔だった。

 

遥は枕に顔を埋めたくなった。

 

心臓がうるさい。

頭まで熱くなって、ゼリーどころじゃない。

 

「……あれは、その、仕方なかったんだよ」

 

「仕方なかった、ねぇ」

 

ニヤニヤ笑いながら、勇斗は椅子の上で脚を組み直した。

 

「珍しいもん見れたわ。あんな甘えた声」

 

「っっっ!」

 

遥は枕にバンと拳を叩きつけた。

 

「もう死ぬ……」

 

「大げさだなー」

 

「勇斗が悪いんだろ!!」

 

「オレのせい!?」

 

「当たり前だ!!」

 

声を張り上げたものの、すぐに腹部に痛みが走り、遥は顔をしかめた。

 

「いって……」

 

「バカ、無理すんな!」

 

勇斗が慌ててベッドに駆け寄った。

 

遥は痛みに耐えながら、じろっと睨み上げる。

 

「……オレをからかうから、悪いんだろ」

 

「ごめんごめん」

 

勇斗は、笑いながらもそっと遥の額に手を当てた。

 

「まだ熱あるな。無理すんなって、マジで」

 

その手は、相変わらず優しかった。

 

触れるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

遥は、枕に頬を押し付けたまま、小さな声で呟いた。

 

「……勇斗が、からかうから」

 

「はいはい、悪かった」

 

勇斗は素直に謝り、そして小さな声で付け加えた。

 

「でもさ」

 

「……なに」

 

「可愛かったから、つい」

 

遥は顔を真っ赤にして、もう何も言えなくなった。

 

枕に顔を埋め、ベッドの上で小さくもがく。

 

──こいつ、ぜってぇあとで仕返ししてやる。

 

そんなことを心の中で毒づきながら、でもどこか、嬉しくて。

 

どうしようもなく、胸がきゅっと締め付けられた。

 

それが、苦しくて、あたたかかった。

 

枕に顔を埋めたまま、遥は小さく呻いた。

 

顔は火照りっぱなしだし、心臓はうるさいし、勇斗の気安い態度にも腹が立っている。

なのに、頭のどこかが冷静だった。

 

──こういうときくらい、少しはわがまま言ってもいいだろ。

 

そんなふうに、自分に都合よく言い訳をして、遥は枕から顔を上げた。

 

「……なあ、勇斗」

 

「ん?」

 

椅子に座り直していた勇斗が振り向く。

 

遥は顔を赤くしながら、それでも真正面から言った。

 

「悪いと思ってんなら──もう一回、抱きしめろ」

 

勇斗は、きょとんとした後、くくっと肩を震わせて笑った。

 

「命令かよ」

 

「そうだよ」

 

遥はふてくされたように言い切った。

 

「……バカみたいな顔して命令すんなよ」

 

「うるせえ」

 

勇斗は立ち上がり、ベッドに近づくと、わざとらしく一礼した。

 

「お姫様の仰せのままに」

 

「……殺すぞ」

 

「はいはい、怖い怖い」

 

そんな軽口を叩きながら、勇斗はベッドに腰掛け、遥の細い肩をそっと抱き寄せた。

 

ぎゅう、と強くではない。

あくまで、優しく、包み込むように。

 

遥は、その腕の中に無防備に身体を預けた。

 

勇斗の温もりが、背中に、腕に、胸にじんわりと広がっていく。

 

普段よりも、ずっと近い距離。

 

呼吸が耳元にかかるたびに、遥の体温はさらに上がった。

 

──ああ、ダメだ。

 

胸の奥で、何かが軋む音がした。

 

このまま、ただ抱きしめられているだけじゃ、満足できない。

 

自分でもわかるくらい、どうしようもなくなっていた。

 

魔が差す、とはこういうことを言うのかもしれない。

 

遥は、そっと勇斗の顔を見上げた。

 

無防備な、気の抜けた顔。

 

自分にすべてを預けるような、油断しきった表情。

 

──こんな顔、わたしだけしか見たらだめだ。

 

遥は、思わず笑った。

 

「な、なに笑ってんだよ」

 

勇斗が怪訝そうに見下ろす。

 

遥は、静かに言った。

 

「……ご褒美」

 

「は?」

 

「よく頑張ったご褒美だよ」

 

そして。

 

遥は、そっと、勇斗の唇に口づけを落とした。

 

ほんの一瞬。

軽く、触れるだけのキス。

 

でも、それは間違いなく、はっきりとした意志を持ったものだった。

 

勇斗は、目を丸くした。

 

遥は、顔を赤くしながらも、勝ち誇ったようににやりと笑った。

 

「……バーカ」

 

勇斗は何も言えず、ただ真っ赤になった顔で遥を見つめていた。

 

遥は、そんな勇斗を見上げながら、心の中でそっと呟いた。

 

──わたしだけの勇斗。

 

絶対に、誰にも渡さない。

この手で、絶対に、守り抜く。

 

そんな静かで、けれど確固たる決意を、胸の奥に灯しながら、遥は勇斗のシャツをそっと握り締めた。

 

遥は、勇斗を軽く突き飛ばすようにして、そっと身体を離した。

 

これ以上はまずい。

このままじゃ、絶対に自分を止められなくなる。

そんな予感が、全身を駆け巡っていた。

 

「──もういい」

 

かすれた声で、遥は言った。

 

「ありがとな。……もう、帰れ」

 

勇斗は、驚いたような顔をしたが、すぐに苦笑して立ち上がった。

 

「……わかった」

 

素直に、だがどこか名残惜しそうに荷物を持つと、勇斗はドアの方へ向かった。

 

その背中を見送りながら、遥は心臓が壊れそうなくらい早鐘を打っているのを感じた。

 

ドアが開き、閉まる音。

玄関で靴を履く微かな音。

そして──家を出ていく気配。

 

完全に一人きりになったことを確認した瞬間、遥はベッドに突っ伏した。

 

「──っ、バカ……!!」

 

顔から火が出そうだった。

 

ベッドの上で、手足をばたばたと動かし、枕をぎゅっと抱きしめる。

 

「バカバカバカバカ!!」

 

叫びたい気持ちを必死に堪え、枕に顔を埋める。

 

何やってんだよ、自分!!

 

あんな、あんな、キスなんて。

 

いくら、あの場の空気がそうさせたとはいえ。

いくら、勇斗が無防備すぎたとはいえ。

 

普通しないだろ!?

 

しかも──ご褒美って。

 

ご褒美って、なんだよ!!

 

自分で言ってて、死にたくなるほど恥ずかしかった。

 

「……っ、あああああ」

 

枕に顔を押し付け、ひたすら身悶える。

 

どう考えても、後戻りできないことをしてしまった。

 

もし、勇斗に引かれたらどうしよう。

 

気持ち悪がられたらどうしよう。

 

今までみたいな関係に戻れなかったらどうしよう。

 

不安と後悔と羞恥が、ぐちゃぐちゃに胸の中を駆け巡る。

 

──でも。

 

それでも。

 

遥は、目を閉じながら、そっと呟いた。

 

「……悪く、なかった」

 

あの一瞬。

勇斗の驚いた顔。

触れた唇の、あたたかさ。

 

すべてが、心の奥に深く焼き付いている。

 

たった一瞬だったけれど、確かに、勇斗を独り占めできた気がした。

 

だから──後悔なんて、してない。

 

悶え苦しみながらも、遥は小さく笑った。

 

それが、たとえどれだけ醜くて、どす黒い感情の上に成り立ったものだとしても。

 

─────

 

その頃。

 

家を出た勇斗は、道路を挟んだ自分の家へと向かっていた。

 

春の柔らかな風が吹いているのに、全身が熱くて、まともに歩けなかった。

 

「……っ、マジかよ」

 

ぼそりと呟く。

 

さっきの感触が、どうしても頭から離れない。

 

唇に触れた、遥の柔らかな口づけ。

ぎこちなくも確かな温もり。

 

──あれ、絶対夢じゃなかったよな。

 

思い出すたびに、顔が熱くなる。

 

「……これで意識すんなって方が、無理だろ……」

 

溜息混じりに呟いて、顔を覆った。

 

ずっと幼馴染で、気の置けない存在だった。

 

男女とか、そんなの意識する間柄じゃなかったはずなのに。

 

──でも、もう。

 

あの瞬間から、何かが決定的に変わってしまった気がしてならなかった。

 

家に辿り着くと、勇斗は玄関のドアにもたれかかり、しばらく動けなかった。

 

頭の中は、遥の顔と、声と、柔らかな感触でいっぱいだった。

 

これから、どう接すればいいんだろう。

 

そんなこと、今まで考えたこともなかった。

 

「……ったく」

 

小さく笑って、勇斗は空を見上げた。

 

───────

 

 

ベッドの中、遥はぼんやりと天井を見上げていた。

 

先ほどまでの騒ぎで、体力も気力も使い果たしているはずなのに、どうしても眠れなかった。

 

胸の奥で、じわじわと熱いものが滲んでいた。

 

──どうして、こんなに、苦しいんだろう。

 

目を閉じると、自然と昔のことが浮かんできた。

 

まだ小さかった頃。

勇斗と、ただ笑いながら、泥だらけになって遊んでいた頃。

 

自分には、確かに「前世の記憶」があった。

 

男子中学生だった、という曖昧な記憶。

 

だからこそ、幼い頃は心のどこかで、自分は「男」だと思い込もうとしていた。

この身体は女だけど、心は男だから──だから、勇斗を「親友」として見ていればいい。

 

ずっと、そう誤魔化してきた。

 

男女の意識なんか、しないふりをしてきた。

 

──なのに。

 

遥は、ぎゅっとシーツを握り締めた。

 

どうしてだろう。

 

いつの間にか、勇斗の隣にいる女の影に怯えるようになって。

 

いつの間にか、勇斗の笑顔を、誰にも向けたくないと願うようになって。

 

誰にも触れさせたくない。

誰にも盗られたくない。

 

勇斗が、わたし以外の誰かを見たら、胸が抉られるほど痛くて。

 

そんなふうに、どうしようもなく、独占欲と嫉妬にまみれている自分がいた。

 

──元男だったはずなのに。

 

遥は、乾いた笑いを漏らした。

 

「……元男で、こんな醜い嫉妬するやつ、いるかよ」

 

情けなかった。

惨めだった。

 

だけど、すぐにもう一度、心の中で呟く。

 

──いや、ここにいるか。

 

ベッドに沈み込んだまま、遥はそっと目を閉じた。

 

もう、誤魔化せない。

 

勇斗に向けるこの感情は、ただの友情なんかじゃない。

 

ただの親しみでもない。

 

もっと、どうしようもなく、わがままで、独りよがりで、

手に入れたら最後、絶対に誰にも触れさせないと誓いたくなるほどに、

「恋」という名の独占欲だった。

 

──わたしは、どうしようもなく「女」だった。

 

男だった意識も、誇りも、

勇斗の前では全部無力だった。

 

彼に触れられただけで、

優しく名前を呼ばれただけで、

胸の奥がこんなにもかき乱される。

 

もう、逃げられない。

 

わたしは、勇斗が好きだ。

 

心の底から、狂おしいほどに。

 

「……はぁ」

 

深いため息をつきながら、遥は枕に顔を押し付けた。

 

痛み止めが少しずつ効いて、腹の鈍痛も落ち着いてきた。

 

でも、胸の痛みだけは、どうしても収まらなかった。

 

──こんな自分を、勇斗が知ったら、どう思うだろう。

 

きっと、引かれる。

きっと、怖がられる。

 

だって、わたしは普通じゃない。

 

前世は男で、今は女で、

それでいて、こんなにも醜い感情にまみれてる。

 

普通じゃない。

 

だけど、それでも。

 

遥は、そっと両手を胸の上に重ねた。

 

──それでも、勇斗だけは、手放したくない。

 

誰よりも、強く、深く、欲している。

 

醜くてもいい。

歪んでいてもいい。

 

この想いだけは、誰にも否定させない。

 

ベッドの中、暗い天井を見上げながら、

遥は静かに、そして確かに、そう誓った。

 




ちなみに勇斗が家に入ってこれたのは互いに家の鍵が植木鉢の下にあるのを知ってるからです
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