TS転生者はヤンデレなんかになったりしない   作:しが

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Red Day

 

春の陽気が、窓の外に広がる青空をやさしく照らしていた。

学校の昼休み、教室の片隅。

 

南雲遥は、ぐったりと机に突っ伏していた。

 

──どうして、こんなことになったんだろう。

 

心の中で、何度目かの嘆息を漏らす。

 

あの日。

あの休みの日。

ベッドで甘え、勇斗にしがみつき、そして──あの軽い口づけをしてから。

 

遥の中で、何かが壊れてしまった。

 

自覚した。

いや、させられた。

 

──わたしは、勇斗を異性として、どうしようもなく意識している。

 

ほんの少し隣に立つだけで。

何気ない笑顔を向けられるだけで。

名前を呼ばれるだけで。

 

胸が、喉が、全身が、どうしようもなく熱くなる。

 

そのたびに、頭の奥で聞こえてくる欲望の声。

 

──抱きしめたい。

──キスしたい。

──もっと、深く、触れたい。

──全部、欲しい。

 

恐ろしいほどに生々しいそれらの願望が、洪水のように遥の理性を押し流そうとしていた。

 

「……遥?」

 

勇斗の声。

 

顔を上げると、隣の席に座った勇斗が、首を傾げてこちらを見ていた。

 

「大丈夫か? 顔赤いぞ」

 

「……だいじょうぶ」

 

必死で作った笑顔は、きっと引きつっていただろう。

 

それでも、精一杯だった。

 

──だって。

 

今、こうして真正面から見つめられるだけで。

 

「……っ」

 

息が詰まりそうになる。

 

勇斗の瞳。

まっすぐで、優しくて、何の曇りもないその眼差し。

 

それに、遥はどうしようもなく惹きつけられる。

 

引き寄せたくなる。

その唇に、もう一度触れたくなる。

 

──その先も。

 

指先が微かに震える。

 

無意識に、勇斗の制服の袖に触れそうになって、慌てて手を引っ込めた。

 

ダメだ。

 

そんなことをしたら、本当にもう、戻れなくなる。

 

「……どうした?」

 

不安そうな勇斗の声が、遥を現実に引き戻した。

 

「ごめん、ちょっと寝不足でさ」

 

苦し紛れの言い訳。

 

勇斗は心配そうに眉をひそめたが、すぐに「そっか」と納得してくれた。

 

「無理すんなよ。あとでポカリ買ってきてやるから」

 

「……ありがと」

 

小さく答えながら、遥は心の中で必死に叫んでいた。

 

──違うんだよ。

 

──寝不足なんかじゃないんだよ。

 

──お前のせいだよ。

 

こんなにも苦しくて、こんなにも愛しくて、

こんなにも、どうしようもない感情に押し潰されそうなのは。

 

全部、勇斗がいるから。

 

勇斗が、優しいから。

 

勇斗が、隣にいるから──。

 

授業が始まる。

 

先生が何か話している。

 

クラスメイトたちが笑ったり、ざわついたりしている。

 

けれど、遥には、そんなものすべてが遠い世界のことのようだった。

 

目の前にいる、勇斗の存在だけが、鮮烈だった。

 

──隣にいるのに、触れられない。

 

──こんなにも近いのに、抱きしめられない。

 

──こんなにも愛おしいのに、手を伸ばせない。

 

遥は、机の下で拳を握った。

 

爪が手のひらに食い込む。

 

必死で、理性を保っていた。

 

でも、ふとした瞬間。

 

授業中、勇斗がノートをめくるときに袖が触れた。

 

それだけで、遥の心臓は跳ねた。

 

──ああ、ダメだ。

 

──こんなにも、求めてる。

 

こんなにも、飢えてる。

 

たった一つのきっかけで、理性なんて簡単に崩れそうだった。

 

昼休み。

 

購買に向かう道すがら。

 

勇斗と並んで歩くだけで、遥は無意識に肩が触れないように距離を取っていた。

 

──触れたら、壊れてしまいそうだったから。

 

「……本当に大丈夫か?」

 

勇斗がもう一度心配そうに尋ねる。

 

「……ああ」

 

苦し紛れに頷いた。

 

心配されるのが、嬉しい。

 

それだけで、救われる。

 

でも、同時に、怖かった。

 

この想いを知られたら、勇斗はきっと困る。

戸惑う。

距離を取ろうとするかもしれない。

 

──そんなの、絶対にイヤだ。

 

遥は、ぎゅっと胸の奥で叫んだ。

 

だから、隠す。

 

必死に、隠し通す。

 

どれだけ苦しくても、どれだけ壊れそうでも。

 

購買から戻るとき、勇斗が何気なく「今度、またゲームでもしような」と言った。

 

その無邪気な言葉に、遥は胸を締めつけられた。

 

──一緒にいたい。

 

──もっと、隣にいたい。

 

──ずっと、わたしだけを見ていてほしい。

 

そんな願いを、必死で飲み込む。

 

「……うん、楽しみにしてる」

 

ようやく絞り出した声は、かすれて震えていた。

 

勇斗は気づかない。

 

遥が、どれだけ必死で自分を抑えているかなんて。

 

教室に戻ると、友人たちが集まってきて、自然と話題はいつもの他愛ない雑談に移った。

 

勇斗もその輪の中に加わる。

 

遥は、少し離れた席で、その様子を見ていた。

 

──こんなにも、手が届く場所にいるのに。

 

──こんなにも、遠い。

 

胸が、痛い。

 

じんわりと、焼けるような痛み。

 

──どうして。

 

──どうして、こんなに苦しいんだろう。

 

知っている。

 

答えは、ずっと前からわかっている。

 

遥は、そっと目を閉じた。

 

──わたしは、勇斗が好きだ。

 

ただ、それだけなのに。

 

それだけが、こんなにも苦しみを生む。

 

机に頬を乗せて、ぼんやりと天井を見上げる。

 

誰にも、この想いは知られたくない。

 

でも、隠し続けることも、きっとできない。

 

どこかで、崩れる。

 

そんな予感が、遥の胸に静かに芽生えていた。

 

教室の空気は、春の陽気のせいか、どこかぼんやりとしていた。

生徒たちの笑い声も、教師の冗談めいた声も、すべてが遠く聞こえる。

 

遥は、机に頬を乗せたまま、勇斗の横顔を盗み見た。

 

楽しそうに、周りの男子たちとふざけ合っている。

気の置けない友達に囲まれて、自然に笑っている。

 

──その笑顔が、苦しかった。

 

誰かに向けられる無邪気な笑み。

それを見ているだけで、胸の奥が締め付けられる。

 

──わたしだけに、向けてほしい。

 

欲望が、また頭をもたげる。

 

勇斗の笑顔を、手に入れたい。

独占したい。

誰にも渡したくない。

 

──キスしたい。

──抱きしめたい。

──全部、欲しい。

 

そんな願望が、脳裏にこびりつくように離れない。

 

遥は、ぐっと目を閉じた。

 

──だめだ。だめだ。だめだ。

 

必死に、自分に言い聞かせる。

 

そんなことを望んだら、きっと、今の関係は壊れる。

勇斗は困る。

戸惑う。

遠ざかる。

 

そんなの、絶対にイヤだ。

 

だから──耐えなきゃいけない。

 

この想いを、押し殺さなきゃいけない。

 

ぐっと拳を握りしめた時だった。勇斗が、笑顔で手を振ってきた。

 

「一緒に帰ろーぜ!」

 

何も知らない無邪気な声。

まっすぐな、何の曇りもない誘い。

 

遥は、一瞬、呼吸を忘れた。

 

こんなにも苦しいのに。

こんなにも、胸が張り裂けそうなのに。

 

──それでも、嬉しい。

 

遥は、机から顔を上げた。

 

そして、できるだけ自然な笑みを浮かべた。

 

「……ああ、いいよ」

 

声は少しだけ震えていたかもしれない。

 

でも、勇斗は気づかなかった。

嬉しそうに頷き、先に廊下へと駆け出していく。

 

遥は、重たい体を引きずるように立ち上がった。

 

肩にかかるカバンの重さも、春の匂いを含んだ風も、すべてが遠く感じた。

 

──どうしようもないな。

 

そう自嘲しながら、遥は勇斗の後ろ姿を追いかけた。

 

──これだけ、苦しいのに。

──これだけ、つらいのに。

 

それでも、勇斗の隣にいたいと思ってしまう。

 

胸の奥で、静かに呟く。

 

──好きだ。

 

──どうしようもなく、好きだ。

 

たとえ、この想いがどれだけ歪んでいても。

どれだけ醜くても。

どれだけ苦しくても。

 

この気持ちだけは、もう止められない。

 

遥は、ぎゅっとカバンの紐を握りしめた。

 

そして、歩き出した。

たったひとりを、追いかけるために。

 

──

 

五月の風が、初夏の匂いを運んでいた。

 

大型連休を間近に控えた放課後、校舎の廊下には浮き足立った空気が漂っていた。

どこか心が軽くなるこの季節、南雲遥も例外ではなかった。

 

「なあ、勇斗。今度の休み、どっか行こうぜ」

 

帰り支度をしながら、遥は何気ない口調でそう切り出した。

勇斗はいつも通りの緩やかな笑顔で頷いた。

 

「いいよ。どこ行きたい?」

 

「ゲーセンとか、映画とか……まあ適当に」

 

「はは、ざっくりだな。まあ、はるから決めろよ」

 

「おう、任せとけ」

 

そんな何気ないやりとりが、遥にはとても幸せだった。

これが当たり前のことのように続くと、どこかで信じていた。

 

──その時までは。

 

「遥〜」

 

背後から、能天気な声がかかった。

 

振り向くと、麻川綾子が手を振って近づいてくる。

 

「ちょっといい? 話あるんだけど〜」

 

「……なんだよ」

 

「いいからいいから!」

 

問答無用で腕を引っ張られる。

勇斗が苦笑しながら手を振るのを横目に、遥は綾子に連れ去られた。

 

「おい、何だよ急に」

 

「遥さぁ、そろそろ本気出さないとマジでヤバいよ?」

 

「は?」

 

綾子は深刻な顔で言った。

 

「だって、笠桐くん、モテるもん。すっごい狙われてるよ? 同じクラスだけじゃなくて、上級生にも」

 

「……知ってる」

 

遥は俯いた。

 

知っている。

痛いほど知っている。

 

「だからさ、今のうちにちゃんと関係進めないと! 告白でも、デートでも、なんでもいいから、動かなきゃ!」

 

綾子の言葉は、真っ直ぐで、優しかった。

 

でも──。

 

「……無理だよ」

 

遥は小さく呟いた。

 

怖かった。

動くことで、何かが壊れるのが。

 

勇斗との今の距離が、何よりも愛おしかったから。

 

綾子はしばらく何も言わなかったが、やがて軽くため息をついた。

 

「……ま、無理にとは言わないけどさ」

 

そして、にっと笑った。

 

「せめて、後悔しないようにね?」

 

遥は答えられなかった。

 

綾子と別れて、教室に戻った時には、勇斗の姿はなかった。

 

「……あれ?」

 

鞄もない。

机の上も片付けられている。

 

帰った──のか?

 

違和感が胸を刺した。

 

そんなに急ぎの用事があるとは聞いていない。

それに、いつもなら一緒に帰ろうと声をかけてくるはずだった。

 

嫌な予感が、遥の背筋を撫でた。

 

教室を飛び出し、校舎のあちこちを探す。

昇降口、体育館の裏、校庭の隅──。

 

そして、ふと足が止まった。

 

校舎裏の薄暗がり。

そこに、見慣れた後ろ姿があった。

 

勇斗だった。

 

彼の目の前には、見知らぬ女子生徒が立っていた。

 

遥は、木陰に身を潜めたまま、耳を澄ませた。

 

「……ずっと、好きでした。付き合ってください!」

 

女子の声が、震えながらもはっきりと響いた。

 

遥は、呼吸を忘れた。

 

心臓が、痛いほど高鳴る。

 

勇斗は、黙ったまま立ち尽くしていた。

 

答えを探しているような、迷っているような、その沈黙が──遥には耐えがたかった。

 

──なんで、迷うの。

 

──なんで、即座に断らないの。

 

ぐつぐつと煮えたぎる黒い感情が、胸の奥で膨れ上がった。

 

──奪われる。

 

──わたしの、大切なものが。

 

カッと目の前が熱くなる。

 

身体が勝手に動き出した。

 

気づけば、遥は木陰から一歩、また一歩と踏み出していた。

 

勇斗の背中が、すぐそこにある。

 

女子生徒の不安げな顔が、遥の視界に入る。

 

──奪われるくらいなら。

 

──お前を壊してやる。

 

遥は、決意した。

 

この手で、あの女を──破滅させる。

 

勇斗を奪おうとした罰を、しかと与えてやる。

 

勇斗は、告白を受けた先輩の女子に対して静かに頭を下げた。

 

「……すみません、少し時間をください。考えさせてほしいです」

 

その言葉に、女子生徒はわずかに眉をひそめた。

だが、すぐに作り笑いを浮かべてうなずく。

 

「……はい。待ってます」

 

勇斗はその場を去った。

 

──その背中を見送りながら、女子生徒ははっきりと舌打ちをした。

 

まるで、欲しかったアクセサリーを取り逃したかのような、露骨な苛立ち。

 

それを木陰から見つめながら、遥は心の中で嘲笑った。

 

──随分と欲深い顔をするんだな。

 

スマホを取り出し、勇斗に短いメッセージを送る。

 

『先に帰ってて』

 

それだけ。

 

言葉を重ねる必要はない。

 

勇斗が素直に従ってくれることはわかっていた。

 

送信を終えた遥は、深く呼吸を整える。

 

そして──静かに、行動を開始した。

 

────

 

放課後。

 

遥は、教師に頼まれて備品を取りに行く「予定」になっていた。

 

当然、その「依頼」は遥が細工したものだ。

 

放課後、あの女たちがよくたむろしている旧倉庫。

そこに、あらかじめ備品を置かせ、先生には「遥に取りに行かせるよう」仕向けた。

 

すべては、綿密に計算された段取りだった。

 

「──失礼します。先生に頼まれて、備品を取りに来ました」

 

何も知らないふりで倉庫の扉を開ける。

 

中では、例の女子生徒と、その取り巻きたち数人が集まっていた。

 

こちらに気づくと、女子たちは顔をしかめる。

 

そして、告白してきた女子が、皮肉な笑みを浮かべた。

 

「……あれ? 南雲さんじゃん。なに?彼氏にフられた?」

 

遥は、無表情のまま一歩踏み込んだ。

 

備品を取りに来た、という建前を守るために。

 

だが、その心は冷え切っていた。

 

──さあ、始めようか。

 

「……彼氏?」

 

遥は首を傾げて、からかうような微笑みを浮かべた。

 

「ふふ、残念でしたね」

 

告白した女子の表情がぴくりと引きつる。

 

遥は歩み寄る。

 

飄々とした足取りで、まるで何でもないことのように。

 

「せっかく狙ったのに、ほしいアクセサリー、手に入らなかったんですね?」

 

取り巻きの女子たちがざわつく。

 

告白した女子の顔から、みるみる怒りが滲み出る。

 

「……は?」

 

「悔しいですか?」

 

遥は、あくまでにこやかに問いかける。

 

「せっかく頑張ったのにね。残念でしたね」

 

「っ……!」

 

告白した女子が拳を握りしめた。

 

「……あんた、調子乗ってんじゃないわよ」

 

「乗ってるのはどっちでしょう」

 

遥は、薄く笑う。

 

その挑発的な態度に、ついに女子たちが動いた。

 

取り巻きの一人が遥に近づき、胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてくる。

 

だが、遥は一歩下がり、軽くそれをかわした。

 

「……っざけんな!!」

 

怒声とともに、女子たちが一斉に遥を取り囲んだ。

 

狭い倉庫。

逃げ場はない。

 

それでも、遥は怯まなかった。

 

──これでいい。

 

これで、あとは「トリガー」を引くだけだ。

 

その時。

 

告白した女子が、傍にあった備品の箱に目を向けた。

 

そして、中から彫刻刀を取り出した。

 

鋭い刃先が、蛍光灯の光を受けて鈍く光る。

 

「……あんたさえ、いなければ……!」

 

怒りに任せて振りかざされた刃先。

 

遥は、微動だにせず、それを見つめた。

 

──来い。

 

──今だ。

 

次の瞬間。

 

「──何をしている!」

 

怒声が飛び込んできた。

 

ガラリと扉が開き、教師と──そして勇斗が駆け込んでくる。

 

教員の怒鳴り声に、女子たちは凍りついた。

 

彫刻刀を持った手が震え、音を立ててそれが床に落ちた。

 

「な、何もしてません!」

 

「そうよ! 私たち、ただ……!」

 

口々に言い訳を並べる女子たち。

 

だが、教師の目は厳しかった。

 

そして、何より。

 

勇斗の目が──信じられないほど冷たかった。

 

遥を囲んでいた女子たちを、無言で、冷ややかに睨みつける。

 

その視線は、明確な敵意に満ちていた。

 

「……遥」

 

勇斗は、遥に駆け寄った。

 

その身体を、そっと、だがしっかりと抱きしめる。

 

まるで、二度と離さないと誓うかのように。

 

遥は、勇斗の胸に顔を埋めた。

 

計算通り。

すべて、思い描いた通り。

 

それでも──胸の奥が、痛かった。

 

遥は、勇斗の腕の中でそっと目を閉じた。

 

あたたかい。

心地よい。

でも、その奥には、どうしようもないざらついた感情があった。

 

──これが、わたし。

 

策を弄し、罠を張り巡らせ、結果的に勇斗の庇護を引き出した。

 

全部、計算通りだった。

あの女生徒が暴力に走るのも、教師が到着するタイミングも、勇斗がそれを目撃することも。

 

すべては、勇斗の中で彼女たちへの信頼を徹底的に破壊し、遥だけを選ばせるための布石だった。

 

「遥、大丈夫か?」

 

耳元で、勇斗の低く優しい声がした。

 

遥は小さく頷く。

 

「うん……もう、だいじょうぶ」

 

その声は震えていなかった。

覚悟していたから。

 

「南雲、すぐに保健室に行きなさい。君たちも……」

 

教師が取り巻きの女生徒たちを睨みつける。

彼女たちは言い訳を重ねるどころか、まともに顔を上げることもできなかった。

 

──当然だ。

 

遥は内心で冷たく吐き捨てた。

 

あの時、あの瞬間。

 

刃を向けた時点で、もう彼女たちに逃げ道はなかった。

 

告白してきた女子は、震えた手を必死に握りしめながら、彫刻刀を見下ろしていた。

 

顔面蒼白で、唇をかすかに噛んでいる。

 

──これで終わりだ。

 

そう、遥は確信していた。

 

勇斗の腕の中で、ひとつ深く息を吐く。

 

ほんの少しだけ、罪悪感が胸をよぎった。

 

でも、それもすぐに消える。

 

だって──。

 

──奪われるくらいなら、壊した方がマシだ。

 

遥は、そっと勇斗のシャツの裾を掴んだ。

 

「勇斗……ごめんね」

 

震える声で呟く。

 

演技だった。

 

でも、勇斗はそれに気づかない。

 

「何言ってんだよ。謝るのはこっちだ」

 

勇斗は遥を強く抱きしめた。

 

誰も触れさせない。

誰にも渡さない。

 

──勇斗だけは、絶対に。

 

「……帰ろう」

 

勇斗がそう言って、遥の手を取った。

 

その手は、これまでになくしっかりと、遥を引き寄せていた。

 

「うん」

 

遥は微笑んだ。

 

心の中で、静かに、そして冷たく笑いながら。

 

──これで、また一歩。

 

──わたしは勇斗を、自分だけのものに近づけた。

 

薄暗くなった校舎を背に、二人は並んで歩き出す。

 

---

 

遥は、勇斗に付き添われながら、家へと辿り着いた。

 

何かあったわけでもないのに、足取りは重く、力ない演技を重ねる。

それを見た勇斗は、何も言わず、そっと肩を貸してくれた。

 

玄関の鍵を開ける手元も、わざと震わせる。

その様子に勇斗は自然に手を伸ばして、鍵を代わりに回した。

 

「……入るよ?」

 

「……うん」

 

遥はかすかに頷き、家の中に勇斗を引きずり込んだ。

 

扉を閉め、鍵をかける。

 

カチリという音が、妙に響いた。

 

「遥、本当に大丈夫か?」

 

不安そうな声。

 

優しい声。

 

その響きが、遥の心を冷たく、熱く揺らした。

 

──今だ。

 

遥は、そっと勇斗に向き直った。

 

そして、わざと体を小さく震わせた。

 

「……怖いの」

 

か細い声で呟く。

 

「怖くて、まだ……震えが止まらないの」

 

演技だった。

 

でも、勇斗は信じた。

 

遥の腕をそっと抱き寄せる。

 

「……ごめん、もっと早く──」

 

「──お願い」

 

遥は勇斗の胸に額を押し付ける。

 

「今だけ……慰めて」

 

「遥……」

 

「何も、抵抗しないで。ね?」

 

涙声を織り交ぜた甘えるような声音で、遥は懇願した。

 

勇斗は苦しそうに息を飲み込み、ゆっくりと頷いた。

 

それを見届けた遥は、そっと顔を上げた。

 

そして、迷いなく。

 

勇斗の唇に、自ら唇を重ねた。

 

以前みたいな、軽い触れ合いではない。

 

──本気の、キス。

 

唇と唇が、確かに押し付けられ、重なり合う。

 

勇斗は一瞬驚いたように硬直したが、遥の腕が首に回され、逃げ場を封じられると、微かに受け入れるように身を預けた。

 

それに、遥は息を詰めた。

 

──嬉しい。

 

──でも、苦しい。

 

ゆっくりと、遥は舌を滑り込ませた。

 

勇斗の唇を、そっとなぞるように。

控えめに、しかし確実に、勇斗の内側に踏み込んでいく。

 

勇斗は戸惑いながらも、拒絶はしなかった。

 

遥の舌が、勇斗の舌に触れる。

 

濡れた音が、微かに耳に届いた。

 

──ああ。

 

──ここまできたんだ。

 

遥は、心の中でそっと自嘲した。

 

──我ながら、とんでもない悪女になったな。

 

でも、もう退けない。

 

ここで手を離したら、もう二度と、勇斗を繋ぎ止められない気がした。

 

遥は、唇を押しつける。

 

舌を絡める。

 

自分でも信じられないほど、必死に、貪るように。

 

勇斗の体温が、呼吸が、遥を狂わせる。

 

もっと欲しい。

 

もっと深く繋がりたい。

 

胸の奥から、そんな欲望が滲み出してくる。

 

それでも、遥は必死で自制した。

 

──今は、まだ。

 

──今は、ここまで。

 

苦しくなるほど名残惜しく、遥はそっと唇を離した。

 

勇斗は、目を見開いたまま、何も言えずにいた。

 

頬が紅潮し、微かに肩が震えている。

 

遥は、そんな勇斗を見上げて、柔らかく微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

何に対する感謝なのか、自分でもわからなかった。

 

けれど、今はただ、この瞬間だけを大切にしたかった。

 

遥は、勇斗の胸に顔を埋めた。

 

鼓動が速い。

自分も、勇斗も。

 

この瞬間だけは、すべてを忘れたかった。

 

欲望も、罪悪感も、自己嫌悪も。

 

全部、押し込めて。

 

ただ、勇斗の温もりだけに、溺れていたかった。

 

遥は、勇斗の胸に顔を埋めたまま、そっと瞼を閉じた。

 

耳元に聞こえる心臓の音が、どこか遠くて、でも確かに近かった。

それを頼りに、遥はまた顔を上げる。

 

そして、ためらいも迷いも見せず、再び勇斗の唇にそっと自分の唇を重ねた。

 

今度は、勇斗の反応を待つこともしなかった。

 

押し当てるように、深く、深く、

自分から求めるように──貪るように。

 

震える吐息が交わる。

 

遥の指が、勇斗の制服の袖をぎゅっと掴んだ。

 

──ごめんね。

 

心の中で、何度も謝った。

 

──本当は、こんなことしちゃいけないのに。

 

──でも、止められないんだ。

 

勇斗が少しだけ強張る。

けれど、逃げることはなかった。

 

遥は、その温もりに縋るように、さらに唇を押し当てた。

 

軽く啄むように何度もキスを繰り返し、

時に舌を滑り込ませ、勇斗の口内を優しく撫でた。

 

勇斗の息が震える。

 

遥も、苦しくて仕方なかった。

 

なのに、どうしても離れられなかった。

 

「……ごめんね、勇斗」

 

唇を離す合間、掠れた声で謝る。

 

それでもまた、遥は勇斗の唇を奪った。

 

求めずにはいられなかった。

 

あたたかくて、やさしくて、大切で。

けれど、自分がこんなにも醜い欲望を向けている相手だという罪悪感に押し潰されそうだった。

 

──ごめん。

 

──でも、譲れない。

 

──誰にも、渡したくない。

 

遥は、勇斗を抱きしめた。

 

ただ、必死に。

 

手のひらに感じる勇斗の背中のぬくもりに、胸が軋んだ。

 

──わたしは、もう、戻れない。

 

静かに、決意する。

 

この腕を、二度と離さないと。

 

遥はどこまでも女の子らしく、蠱惑的で、情感を持って言った。

 

 

「…続きはわたしの部屋で、ね?」

 

勇斗はその姿に見惚れてただ頷くことしかできなかった。




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遥の性感帯は舌
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