夜の静寂は、まるでふたりだけを閉じ込めるかのように、静かに、深く降りてきていた。
遥は勇斗の腕の中で、そっと身を寄せていた。
ベッドの柔らかな感触、微かなシーツの擦れる音、そして勇斗の体温。
すべてが、遥にとっては現実感のない、けれど幸福な感触だった。
遥の指先は、勇斗のシャツの裾をそっとつまんでいる。
自分がどれだけ震えているか、勇斗に気づかれたくなくて、必死に力を込めた。
でも、すぐにそれが無意味だと気づいた。
勇斗の手が、何も言わず、遥の指を優しく包み込んできたのだから。
触れ合うだけで、すべてが伝わってしまう。
そんなふうに、ふたりの距離はもう、言葉のいらないものになっていた。
勇斗は、遥の髪をそっと撫でた。
指先が髪をすくい、耳元に落ちた束を整える。
それだけの仕草に、遥は胸を締めつけられた。
「……遥」
勇斗が小さく呼んだ。
それだけで、遥は涙が出そうだった。
それでも、逃げたくなかった。
こんなにも勇斗を欲している自分を、もう誤魔化したくなかった。
遥は、顔を上げた。
そして、ためらいがちに、勇斗の胸に手を置いた。
「……ねえ、勇斗」
微かに掠れた声。
「わたし、さ……ずっと、ずっと、怖かった」
勇斗は何も言わずに、ただそっと耳を傾けた。
「お前の隣にいるのが、当たり前みたいになってて」
「だけど、いつか、誰かに奪われるんじゃないかって」
「そう思うたびに、胸が苦しくなって」
遥は、手のひらをぎゅっと勇斗のシャツに押し当てた。
「……それが、恋だって、やっと、気づいたんだ」
声が震える。
「わたし、お前のこと、親友だって、自分に言い聞かせてきた」
「男だった頃の自分がいるから、女の子として好かれるなんて無理だって……」
涙が、そっと頬を伝った。
「だけど、違った」
「わたしは──女の子で、勇斗を好きになったんだ」
勇斗の指が、遥の涙をそっと拭った。
何も言わず、ただ優しく、ぬぐうだけだった。
遥は、かすかに笑った。
「……こんな、めんどくさい女になって、ごめん」
その言葉に、勇斗は首を振った。
そして、遥の額にそっと唇を押し当てた。
微かな温もり。
遥は目を閉じ、静かに身を預けた。
「遥は、遥だよ」
耳元で囁かれた声に、遥の胸がぎゅっと締めつけられた。
「ずっと、そうだった。これからも、きっと」
遥は、堪えきれず、勇斗の胸に顔を埋めた。
「……好きだよ、勇斗」
小さな、小さな声だった。
それでも、確かに伝わった。
勇斗は、遥を強く抱きしめた。
抱き寄せられた身体は、あたたかくて、確かで、
ずっと夢に見ていたものだった。
遥は、そっと勇斗のシャツの裾をつまみながら、微笑んだ。
「ねぇ……もう少しだけ、こうしてていい?」
勇斗は、何も言わず、ただ頷いた。
ふたりは、ベッドの上で寄り添ったまま、静かに夜を過ごした。
何度も何度も、確かめるように触れ合って、
小さなキスを交わして、
指を絡め合って、
互いの体温を分け合った。
遥は思った。
こんなにも欲しかったものが、
今、手の中にある。
それだけで、胸がいっぱいになった。
この幸せを、誰にも壊させない。
心の奥で、強く誓いながら、
遥は、勇斗に微笑みかけた。
そして、そっと囁いた。
「勇斗……だいすきだよ」
勇斗もまた、微笑んで、遥の額にもう一度、そっとキスを落とした。
夜の静寂が、まだふたりを優しく包み込んでいた。
遥は、勇斗の胸に耳を当てたまま、微かに震える息をついた。
鼓動の音が心地よく響く。
生きている、確かにここにいる──そんな当たり前の奇跡に、今、遥は身を委ねていた。
「ねぇ、勇斗」
静かな声で呼びかけると、勇斗はそっと遥の背に手を回し、軽く抱きしめ返した。
夜の帳はすっかり降りて、窓の外に星が瞬き始めていた。
二人きりの世界は、誰にも邪魔されることなく、穏やかな熱を帯びたまま続いていた。
遥は、勇斗の胸に体を預けたまま、うとうとと微睡みかけていた。
けれど、ふと勇斗の低い声が耳元に落ちた。
「……なんかさ」
「ん……?」
遥は小さく返事をする。
そのまま目を閉じたまま、彼の声に耳を澄ませた。
「初めてって、もっと……ロマンチックなもんだと思ってた」
遥の体がびくりと反応する。
「……へ?」
思わず顔を上げると、勇斗は苦笑していた。
「いや、悪い意味じゃないからな?」
慌てて手を振る勇斗に、遥はじっと睨みつけた。
「……わたしじゃ不満かー?」
ぷくりと頬を膨らませて抗議する。
勇斗は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっと笑った。
「そんなわけ、あるかよ」
その言葉に、遥の胸がきゅうっと締めつけられる。
勇斗は、優しく、遥の髪を撫でた。
指先がそっと頭をなぞり、耳の後ろ、首筋をくすぐるように撫でていく。
それだけで、遥の心臓は簡単に跳ねた。
「遥じゃなきゃ、ダメだった」
勇斗の声は、真剣だった。
冗談でもお世辞でもなく、まっすぐな言葉だった。
遥は、熱くなった顔を隠すように、また勇斗の胸に顔を埋めた。
「……バカ」
小さな声で呟く。
勇斗は笑いながら、さらに優しく撫でた。
「それに」
「……ん?」
「こういうの、ロマンチックとか、そういうんじゃ測れないよな」
「……どういう意味?」
「……好きな奴と一緒にいられるだけで、十分すぎるってこと」
遥は、もう言葉にならなかった。
胸がいっぱいで、呼吸すら苦しい。
必死で声を押し殺して、勇斗のシャツをぎゅっと握りしめる。
勇斗は、それに気づいているのかいないのか、
ただ穏やかな手つきで、ずっと遥の髪を撫で続けた。
「……遥」
「……なに」
「これから先も、ずっと一緒にいような」
遥は、目を閉じたまま、小さく頷いた。
この胸に溢れる気持ちを、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
だから、代わりに、
勇斗の胸にそっとキスを落とした。
たったそれだけの仕草が、今の遥にできる精一杯だった。
勇斗の手が、また一段と優しく、遥を抱き寄せる。
まるで、決して離さないと誓うかのように。
二人の間に、言葉はなかった。
けれど、それ以上に確かなものが、
この夜には、確かに息づいていた。
耳元に落ちる、優しい問いかけ。
遥は、しばらく黙っていた。
言うべきか、言わないべきか。
ずっと心の奥にしまい込んできた秘密を、今ここで開くべきなのか。
迷いはあった。
怖さもあった。
でも──勇斗なら。
遥は、小さく深呼吸した。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「わたし、普通の人間じゃないんだ」
勇斗は驚きもせず、ただ静かに耳を傾けた。
「生まれる前……生まれ変わる前、って言った方がいいかな。
わたしには、もうひとつの人生があったんだ」
胸の奥を抉るような記憶。
それを、そっと吐き出していく。
「その時のわたしは……男だった」
勇斗の腕が、わずかに強くなった。
でも、離れたりはしなかった。
それに安心しながら、遥は続けた。
「男だった意識が、なぜか消えないまま、この世界に生まれた。
だから、幼い頃からずっと違和感だらけだった。
周りと馴染めなくて、笑われて、怖がられて……」
声が震えた。
「──生まれてこなきゃよかった、って思ったことも、たくさんあった」
喉の奥が詰まる。
それでも、止めなかった。
「だけどね」
遥は、そっと顔を上げた。
勇斗の瞳が、まっすぐに自分を見ている。
何一つ、否定せず、拒絶せず。
それが、どれだけ救いだったか。
「勇斗が、そばにいてくれたから──わたしは、ここにいるんだ」
遥は、微笑んだ。
泣きそうな、でも幸せそうな笑顔で。
「お前が、何も知らずに笑ってくれて、話しかけてくれて、守ってくれて」
「それが、どれだけ、わたしを救ったか、勇斗は知らないだろ?」
勇斗は、何も言わなかった。
ただ、遥を強く、強く抱きしめた。
遥は、彼の胸に顔を埋めながら、静かに続けた。
「勇斗がいたから、わたしは──
前世の記憶に縛られたままじゃなくて、ちゃんと、『南雲遥』になれたんだ」
「男でも、女でもない、わたしだけの存在になれたんだ」
頬を濡らす涙を、勇斗のシャツにそっと拭った。
「……ありがとう、勇斗」
かすれた声で、でも確かに伝えた。
勇斗は、遥の髪をそっと撫でながら、囁いた。
「遥が遥でいてくれたことが、俺には一番嬉しいよ」
遥は、声を上げて泣きたくなるのを堪えた。
誰にも言えなかったこと。
誰にも見せられなかった弱さ。
それを、勇斗だけにさらけ出すことができた。
この人なら、すべてを受け止めてくれる。
そんな確信が、遥の胸を満たしていた。
ふたりは、再び静かに寄り添った。
言葉はいらなかった。
ただ、互いの存在だけを感じていれば、それでよかった。
夜は、静かに、けれど確かに、ふたりの間を深めていった。
──
朝の光が、うっすらとカーテン越しに射し込んでいた。
まだ完全に覚めきらない空気の中、遥は微かな寝息を立てながら、勇斗の腕の中で眠っていた。
静かな時間だった。
勇斗の腕に絡みつくように寄り添っている遥の体温は、夜を越えてもなお、あたたかかった。
お互いの呼吸が、ゆったりと重なり合う。
──心地よかった。
そんなことを、勇斗はぼんやりと思いながら、もう少しこのままでいられたらいいのにと願った。
けれど、どこかで、それだけでは済まない予感もしていた。
遥が、勇斗の胸元で微かに動いた。
勇斗も同じようなタイミングでまどろみから覚め、目を開けた。
「……ん」
遥が小さく声を上げて顔を上げる。
まだ寝起きのぼんやりした目で、勇斗を見つめた。
その無防備な表情に、勇斗の胸が跳ねた。
「……おはよ」
かすれた声で遥が囁く。
「……おはよう」
勇斗も、少し照れくさそうに返した。
こんな距離で、目を覚ますのは初めてだった。
どちらも何をすればいいか分からず、ほんの少しだけ気まずい空気が流れる。
その空気を破ったのは、遥だった。
「ねぇ、勇斗」
遥は、ふにゃりと笑った。
それは、夜の激情とはまた違った、朝の柔らかな無防備さを帯びた笑顔だった。
「これから──」
遥は、いたずらっぽく微笑んだ。
「他の女に、目移りしないでね」
その一言に、勇斗は一瞬で目が覚めた。
心臓が、跳ねた。
遥は、勇斗の胸元に手を置きながら、さらに言葉を重ねた。
「親友が欲しいなら、『オレ』で遊んでやるし──」
囁くような声。
「彼女とイチャイチャしたいなら、『わたし』が、存分に甘やかしてあげるから」
その言葉に、勇斗の鼓動は跳ね上がった。
いたずらっぽく、無邪気に言ったはずのその言葉に、
しかし確かに、深い愛情と独占欲が滲んでいた。
勇斗は、ドキッとした。
たまらなく、遥が愛おしかった。
こんなふうに、誰にも見せない表情を自分だけに向けてくれることが、
たまらなく嬉しかった。
「……欲張りだな」
勇斗は、かすかに笑いながら言った。
遥は、得意げに胸を張った。
「うん、わたしは欲張りだもん」
勇斗は、そんな遥を愛おしそうに見つめた。
そして、そっと遥の頬に手を添えた。
「でも、安心しろよ」
「……?」
「もう目移りなんて、できないくらい──
お前に、夢中だからさ」
遥の目が、ぱちりと瞬いた。
そして、すぐに頬が真っ赤になった。
「……ば、ばか」
小さな声で呟きながら、遥は顔を背けた。
でも、勇斗はその耳まで赤く染まった横顔を見て、
心の底から、嬉しそうに笑った。
こんな朝が、ずっと続けばいい。
勇斗は、そっと遥を引き寄せた。
遥も、何も言わずに勇斗の胸に顔を埋めた。
遥は、勇斗の胸に顔を埋めたまま、ふわふわとした意識の中でぼんやり考えていた。
こんなふうに抱き合って、キスをして、心も身体も預け合って、
それなのに──。
「あれ……?」
遥がぽつりと声を漏らす。
「どうした?」
勇斗が不思議そうに覗き込む。
遥は顔を上げた。
目と目が合う。
そして、困ったような笑みを浮かべた。
「……そういえばさ」
「うん?」
「わたしたち、まだ──」
遥は言葉を切った。
勇斗も、遥の顔をじっと見つめたまま、何かに気づいたように目を見開いた。
「──付き合ってないよな」
二人の声が、同時に重なった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ふたりはお互いの顔を見て、堪えきれずに吹き出した。
「は、ははっ……!」
「うそ、でしょ……ばかじゃないの……!」
笑いながら、遥は勇斗の胸を軽く叩いた。
勇斗も肩を震わせながら、必死で笑いを堪えようとしていたが、
無理だった。
「……だってよ、普通、逆だろ……!」
「うん、逆……普通、付き合ってからこうなるよね……!」
笑いすぎて、二人とも涙がにじんでいた。
こんなにもおかしくて、
でも、こんなにも幸せで、愛おしい時間はなかった。
遥は、苦しそうに笑いながら、勇斗のシャツに顔を押しつけた。
「……ばか、勇斗のばか」
「お互い様だろ」
勇斗は、そう言って遥の髪をくしゃりと撫でた。
そして、二人は再び顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
──これが、わたしたちなんだ。
遥は心の中で、そっと思った。
不器用で、順番なんかめちゃくちゃで、
だけど誰よりも、確かに繋がっている。
それでいい。
それがいい。
遥は、勇斗の腕の中で、もう一度小さく笑った。
そして、そっと囁く。
「ねえ、勇斗」
「ん?」
「これから、ちゃんと……恋人になろうね」
勇斗は、にこりと微笑んで、
まるで当たり前だというように答えた。
「ああ。これからも、ずっとな」
そう言って、勇斗はそっと、遥の額にキスを落とした。
まだ外は、春の涼しさが残っていたけれど、
ふたりの間に流れる空気は、それだけで十分あたたかかった。