──
気づけば、あれからずいぶん日が経っていた。
毎日が、驚くほど穏やかで、だけど確実に変わっていった。
遥は──あの頃の遥とは、少し違っていた。
男みたいな口調で喋ることは、極端に少なくなった。
ふとした瞬間に昔みたいな雑な言葉が出ることもあるけど、今の遥は、間違いなく──女の子だった。
可愛かった。
素直で、甘えたがりで、ちょっと照れ屋で。
そして何より──俺だけを、まっすぐに見てくれる。
遥は、毎朝手作りの弁当を作ってきてくれるようになった。
最初は、別にいいよって言ったのに、嬉しそうに押し付けてきて。
そして一緒に、教室の隅でそれを食べた。
それが、俺たちの日常になった。
休日には、普通にデートもする。
最初は気恥ずかしくてたまらなかったけど、遥は無邪気に手を引っ張ってきて、俺も自然と笑ってた。
そして──
いわゆる、そういうことも、何度も経験した。
夜に、互いの身体に触れて、重ね合って、
遥が震えながら俺の名前を呼ぶたびに、
ああ、本当に好きなんだなって、胸が締めつけられた。
だけど。
最近になって、ようやく気づいたことがある。
──遥って、案外分かりやすい。
たとえば、教室で誰か女子が俺に話しかけるとき。
ちょっとノートを貸してほしいとか、部活の相談だとか、そういう他愛ない話。
俺は、特に意識することもなく普通に対応していた。
でも──
ふと視線を感じて振り返ると、
遥が、ものすごい目で俺を見ていた。
怒っているわけじゃない。
睨んでいるわけでもない。
ただ、感情のハイライトが抜け落ちたような、
真っ黒な、底の見えない視線。
無表情で、無言で、ひたすらじっとこちらを見ている。
最初に気づいた時は、正直、ちょっと怖かった。
でも、すぐに分かった。
──ああ、これ、ヤキモチなんだ。
何も言わないけど、何もしてこないけど、
それでも全身全霊で「いやだ」「嫌いだ」と訴えている。
それが、遥のやり方なんだ。
おかしかった。
そして、たまらなく愛しかった。
バカだな、遥は。
そんなに心配しなくたっていいのに。
──目移りなんか、するわけないだろ。
心の中で、何度も何度も、そう呟いた。
だって俺は、もうとっくに決めたんだ。
ずっと、遥だけを見ていくって。
他の誰かなんて、最初から眼中になかった。
──遥だけ。
あの日、遥が涙ながらに自分をさらけ出してくれた夜から。
俺の中で、それだけは、何一つ揺らいでいなかった。
教室で、昼休みに、部活帰りに、休日の街中で。
ふとした瞬間、遥の視線を感じるたびに、
俺は、胸の奥があたたかくなる。
誰にも渡したくない。
誰にも触れさせたくない。
そうやって、俺だけを見てくれる、その真っ直ぐさが。
遥の不器用で、拙くて、でも真剣な愛情が。
全部、全部、愛おしかった。
だから、これからも──
ずっと、遥だけを守りたい。
遥だけに、愛されたい。
遥だけを、愛していたい。
そんなことを、初夏が差し込む教室で、
俺はふと、改めて思った。
──
放課後の教室には、期末テストの解放感が満ちていた。
答案も返却され、あとは終業式を待つばかり。
ざわめきの中で、南雲遥は、のんびりと机に頬杖をついていた。
制服の袖をたくし上げ、腕に頬を押し当てながら窓の外を眺めている。
もうすぐ夏だ。
じりじりとした陽射しが、校庭を白く照らしているのが見えた。
「ねー、遥」
そんなとき、隣の席から声がかかった。
振り返ると、麻川綾子が机に頬杖をつきながら、にやにやと笑っていた。
「夏休みさ、どっか遊び行こうよ。せっかくだしさ」
「……遊び?」
遥はゆっくりとまばたきをした。
そして、すぐにふにゃりと微笑んだ。
「悪くないね。行きたいな」
素直にそう思った。
綾子と一緒に出かけるのはきっと楽しいだろう。
あの無駄に元気で、遠慮のないノリについていけるかは別として──。
「でしょー?」
綾子は得意げに笑った。
「夏休み、やっぱ友達と遊ばなきゃ始まんないよね! 海とかプールとかさ! あ、あとお祭りも行きたい!」
「うん、楽しそうだね」
遥はまた窓の外に目を向けた。
でも、すぐに、ぽつりと呟いた。
「……でも、それで勇斗との時間が減るのは、嫌だなぁ」
静かに、だけどはっきりと。
その言葉に、綾子はぴたりと動きを止めた。
そして次の瞬間、破顔した。
「──お熱いねぇ」
からかうような声。
遥は、頬を少しだけ赤らめながらも、ふにゃりと笑った。
恥ずかしがる様子も隠そうとせず、
ただ小さく「うん」と頷いた。
「だって、勇斗と一緒にいるの、好きだから」
ぽつりと、当たり前みたいに言った。
その無防備な言葉に、綾子は思わず苦笑いを浮かべた。
「……ここまで素直になると、もうツッコめないわ」
「へへ」
遥は、照れたように笑う。
でも、その瞳は真剣だった。
教室の喧騒の中で、二人だけが静かな空気を纏っていた。
「……ま、いいけどさ」
綾子は肩をすくめた。
「愛しの勇斗くんも連れてきゃいいじゃん。三人で」
「……いいの?」
「別に? あたし、空気読める女だし」
「うん、綾子、好き」
「はいはい、ありがとー」
軽口を交わしながら、二人は笑い合った。
窓の外では、セミの声が鳴き始めていた。
夏が、すぐそこまで来ている。
新しい季節。
新しい思い出。
遥は、机の上に突っ伏しながら、小さく息をついた。
──今年の夏は、きっと特別な夏になる。
そんな予感が、胸の奥で静かに、でも確かに芽生えていた。
──
あたしには、親友がいる。
男っぽくて、口も態度も悪くて、
小学生の頃なんて男子と喧嘩して泣かせた伝説まで持ってるような──
そんな、ちょっとガサツな親友が。
南雲遥。
初めて同じクラスになったのは中学一年の時だった。
最初は正直、ちょっと怖かった。
だって、初対面で「あ? 何見てんだよ」ってガン飛ばしてきたんだもん。
今思い出しても笑っちゃうくらい、最悪な印象だった。
でも、不思議と、あたしはそのガサツなやつとすぐに打ち解けた。
理由はたぶん──あたしがちょっと鈍いから。
普通の子だったら、絶対怖がって距離を取るんだろうけど、
あたしはなぜか、「あ、この子、本当はすっごい優しいんだな」って直感で分かってしまった。
あたしがノート忘れて困ってたら、黙って自分の貸してくれたし。
あたしが体育で転んで膝すりむいた時も、顔を真っ青にして保健室までおぶってってくれた。
見た目も態度も男みたいだったけど、
でも、誰よりも繊細で、誰よりも優しい。
そんなところに、あたしはどんどん惹かれていった。
「綾子、お前はアホだな」
なんて悪態つきながらも、ちゃんと心配してくれるその手が、あたたかかった。
だから、気づけば、自然と隣にいるのが当たり前になっていた。
授業中、寝そうになったら机を軽く蹴って起こしてくれる。
昼休み、購買のパン争奪戦では、ちゃっかりあたしの分まで確保してくれる。
そんな、照れ屋で不器用な優しさが、あたしはすごく、すごく好きだった。
──それでも、思ってた。
この子は、いつか変わっていくんだろうな、って。
少しずつ、周りに合わせて、
少しずつ、女の子らしくなっていくんだろうな、って。
でも──
遥は、遥だった。
頑固なまでに「オレ」で、
周りにどう言われても、誰にどう見られても、
自分を曲げようとしなかった。
そんな姿に、あたしは時々、少しだけ不安になった。
──このままだと、きっと傷つく。
──このままだと、きっと孤独になる。
それでも、あたしは何も言えなかった。
だって、それが遥だったから。
どんな遥でも、あたしの親友だったから。
そんな中学三年間。
あたしにとっては宝物みたいな時間だった。
でも──高校に入って、
遥は、少しずつ変わった。
あの勇斗と付き合いだしてから。
最初は、正直、驚いた。
あの遥が、あんなに甘えた声を出して、
あんなに優しい笑顔を見せて、
あんなに、女の子らしくなっていくなんて。
けれど、それは無理して作ったものじゃなかった。
遥は、遥のまま、
ゆっくりと、自分の殻を破っていったんだ。
誰かに合わせるためじゃない。
誰かに媚びるためでもない。
ただ、好きな人のために、
自分から変わりたいって、そう思ったんだろう。
あたしには、分かる。
あたしはずっと、遥を見てきたから。
そして──
今の遥は、誰よりも女の子らしくて、
誰よりも、幸せそうに笑う。
それが、あたしには、たまらなく嬉しい。
だって。
あたしの親友は、世界で一番素敵な女の子だから。
男っぽくて、一人称が「オレ」で、
ちょっと態度悪くて、
でも誰よりも繊細で、優しくて、
不器用で、まっすぐで。
そんな遥が──
今、ちゃんと女の子として愛されて、
ちゃんと自分自身を受け入れて、
幸せになってる。
それが、なによりも、なによりも、嬉しい。
「……はぁ」
あたしは、窓の外に目を向けながら、小さくため息をついた。
夏の陽射しが、校庭をまぶしく照らしている。
教室の片隅で、遥は今日もふにゃりと笑っていた。
恋人と何か話して、嬉しそうに頬を染めていた。
ああ、もう完全に「オレ」じゃなくなったな、と思う。
でも、それでいい。
それが、遥なんだから。
変わったっていい。
変わらなくたっていい。
どんな遥でも、あたしにとっては──
「世界一、かけがえのない親友だよ」
誰にも聞こえないように、あたしはそっと呟いた。
夏の風が、窓からそっと吹き込んできた。
それはそれとして、だ。
あたしは、ふと思う。
昔──中学の頃までは、
遥がまだ「オレ」って言ってた頃はさ。
笠桐くんとの仲をからかうと、すぐに顔を真っ赤にして、
「ちげーよバカ!」
「オレがそんな……ねーよ!」
って、めちゃくちゃ分かりやすく反応してくれた。
打てば響くって、まさにああいうのを言うんだと思ってた。
あれが、すごく楽しかった。
からかえばからかうほど、
遥はバチバチに睨んできたり、机をバンバン叩いてきたりして。
でもその裏では、
耳まで真っ赤になって、
本当は恥ずかしがってるのがバレバレで。
そんな遥を見るのが、
正直、すごく好きだった。
……なのに、今。
今の遥は、違う。
「笠桐くんとラブラブだね〜」
ってからかっても。
「うん、だって好きだもん」
って、ふにゃっと笑って、
全然動じない。
むしろ、堂々と惚気てくる。
あまつさえ、たまに
「綾子も彼氏できたら分かるよ〜」
とか、逆にからかってきたりする。
お前、誰に向かって言ってんだよ、って思う。
──ちょっと、寂しい。
いや、嬉しいよ?
嬉しいんだよ?
あの遥が、あんなに幸せそうに笑ってるんだもん。
それは、すごく、すごく嬉しい。
だけど、ほんの少しだけ。
あの、すぐムキになって、
からかったら全力で食いかかってきた、
あの頃の遥を思い出すと──
やっぱり、少しだけ。
ほんの、ほんの少しだけ。
寂しいなって、思ってしまうんだ。
あたしだけ、ちょっと置いていかれたみたいな、そんな気持ち。
もちろん、そんなこと、遥には言わないけど。
遥は、遥の幸せを掴んだんだから。
あたしは、それを全力で祝福してやりたい。
だから、今日もまた、
からかうフリして、
心の中でそっとエールを送る。
「……幸せになれよ、ばか」
誰にも聞こえない小さな声で、 あたしはそっと、そう呟いた。
そんなこんなで親友を語ったなら親友の彼氏も語らねばなるまいて。
笠桐勇斗。
あたしの親友──南雲遥が、心から愛してる男。
正直、最初にちゃんと話したときは、
「なんだこの落ち着き払ったやつ」って思った。
中学生の男子なんて、普通はもうちょっとガサガサしてるもんだ。
ふざけたり、騒いだり、くだらないことで盛り上がったり。
でも笠桐くんは、違った。
落ち着いてて、優しくて、
無駄に群れないし、誰かを見下したりもしない。
あたしが、最初に感じた彼への印象は──
「こいつ、なんか大人びすぎてて、逆に信用できねぇな」だった。
そりゃそうだろう。
こんな完璧そうな男子、現実に存在していいわけないって思った。
けど、付き合いが長くなるうちに分かった。
笠桐くんは、別に"完璧"なんかじゃない。
単に、不器用なだけだ。
感情をストレートに出すのが苦手で、
ちょっと無茶されても、自分のことは二の次にして、
周りに無理して合わせようとする、
そんな、妙に不器用な奴だった。
でも──
遥に対してだけは、違った。
遥が困ってたら、すぐに気づく。
遥が怒ってたら、そっとフォローに回る。
遥が泣きそうになったら、何も言わず隣にいてくれる。
それはもう、わかりやすいくらいに、特別だった。
ああ、この人は、
遥にとって、ちゃんと「帰れる場所」になってくれるんだな、って。
そう思ったら、
あたしは、自然と何も言えなくなった。
からかう気にも、茶化す気にもなれなかった。
二人でいるときの空気感が、優しすぎて、
柔らかすぎて、
誰も割って入れないくらい、あたたかくて。
──この人なら、大丈夫だ。
遥を、ちゃんと守ってくれる。
遥を、ちゃんと愛してくれる。
そんな確信が、どんどん強くなっていった。
そして今では──
「はぁ〜……やっぱ世の中、不公平だわ」
なんて、冗談まじりに呟きながら、
あたしは心の底で、ちゃんと祝福してる。
だって、笠桐くんは、
遥にとって世界で一番大切な存在になったんだから。
……それに。
あたしも、ちょっとは憧れてるのかもしれない。
誰かを、あんなふうに、
当たり前に、信じられること。
誰かと、あんなふうに、
自然に、支え合えること。
──いいなぁ。
そんなことを思いながら、
今日もまた、遥と笠桐くんをからかうチャンスを狙っている。
もちろん、
ちょっとだけの、やきもちと一緒に。
──
オレは、今、幸せだ。
……いや、もう、オレじゃないのか。
今のわたしは、南雲遥という、ひとりの女の子。
それでも、時々、ふと昔の一人称がこぼれそうになる。
それぐらい、まだ心のどこかに、拭いきれない自分がいる。
でも──
わたしは、今、幸せだ。
本当に、心の底から。
だって、勇斗と通じ合えたから。
わたしのことを、幼馴染でも、親友でもなく、
ちゃんと、"女の子"として、"恋人"として、大事にしてくれている。
あんなに怖かった。
自分の中にあった、どうしようもない独占欲とか、
醜い嫉妬とか。
そんなものをぶつけたら、勇斗に嫌われるんじゃないかって、
ずっと怖がってた。
でも、勇斗は──
わたしを受け入れてくれた。
どれだけわたしが面倒でも、
どれだけわたしが重たくても、
何もかもを抱きしめて、
「それでいい」って、笑ってくれた。
あの時、抱きしめられた瞬間のこと、今でも忘れられない。
あたたかくて、
あったかくて、
心がぎゅうって締めつけられて、
泣きたくなるくらい、嬉しかった。
わたしは、勇斗と繋がれて、本当に良かったって思った。
……でも。
それでも。
わたしの中の、醜いものは消えてくれなかった。
教室で、勇斗が誰か女子と笑いながら話していると。
コンビニで、レジのバイトの女の子にニコッと微笑みかけられているのを見ると。
胸の奥が、ズキズキと痛んで、
黒い感情が、わきあがってくる。
わたしだけを見て。
わたしだけを好きでいて。
わたし以外の女なんか、見ないで。
そんな、わがままで、
醜くて、
どうしようもない感情が、溢れて止まらない。
わたしは、勇斗が好きすぎる。
わたしは、勇斗を独り占めしたくてたまらない。
そんな自分が、時々、怖くなる。
勇斗に嫌われたくないのに、
わたしの中には、どうしようもない独占欲が渦巻いている。
こんなわたし、最低だ。
……そう思うたびに、自己嫌悪に押し潰されそうになる。
でも、それでも。
やっぱり、わたしは、勇斗が大好きだ。
勇斗の、どこが好きって──そんなの、全部に決まってる。
まず、顔がかっこいい。
整った目鼻立ちとか、じゃない。
あの、ちょっと眠たげな、けど優しさの滲む目。
たまに見せる、照れた時の無防備な笑顔。
話すとき、相手をちゃんと見てくれる、まっすぐな視線。
全部、かっこいい。
それに、声。
あったかくて、落ち着いてて、
聞いてるだけで安心する声。
わたしだけに甘くなる、あの声が、大好きだ。
それから、手。
勇斗の手は、指が長くて、でも骨ばってなくて、
触れると、すごく優しくて、包み込んでくれる。
あの手で撫でられると、
もう何もかもどうでもよくなってしまうくらい、幸せになれる。
歩き方も、座り方も、ちょっとした仕草も。
全部が、わたしの心を掴んで離さない。
勇斗は、自分じゃ全然気づいてないんだろうけど。
わたしは、見逃してない。
勇斗が、誰よりも優しいこと。
誰よりも不器用なこと。
誰よりも、あったかいこと。
全部、知ってる。
誰よりも、知ってる。
そして、誰よりも、愛してる。
わたしは、勇斗の全部が好きだ。
きっと、この先、もっともっと好きになる。
時々、自分でも怖いくらいに。
それでも──
勇斗に恋をして、
勇斗に愛されて、
今、わたしは、世界で一番幸せだ。
だから、わたしは。
どれだけ嫉妬しても。
どれだけ独占欲に溺れそうになっても。
絶対に、手放さない。
絶対に、離れない。
勇斗と、ずっと一緒にいる。
前世のオレのことを、忘れたわけじゃない。
男だった頃の意識感覚。
あの、ぎこちなくて、未熟で、でも必死だった自分。
確かに、わたしの中に今でも息づいている。
小さな痕跡みたいに。
消えることのない、遠い日の景色みたいに。
時々、ふとした拍子に思い出すことがある。
男の子だった自分が、仲間たちとバカみたいに笑い合ったこと。
無邪気に走り回ったあの頃の感覚。
胸を張って、前だけを見ていた気持ち。
懐かしい。
そして、少しだけ、胸が痛む。
もしあのまま生きていたら、
どんな未来があったんだろう。
そんなことを、考えたこともあった。
でも。
わたしは、今、ここにいる。
南雲遥として、生きている。
オレだったわたしを、否定するつもりはない。
あの時のわたしがいたから、
今のわたしがいるんだ。
男だった過去も、迷いも、痛みも。
全部ひっくるめて、わたしは──わたしだ。
だから、もう。
無理に忘れようともしないし、
無理に否定もしない。
あれは、わたしにとって、大切な「思い出」だ。
きっと、これからも、完全に消えることはないだろう。
だけどそれは、胸の奥に静かにしまっておこう。
わたしの一部として、
温かい記憶として。
そして──
わたしはもう、オレである必要はない。
今は、こうして、
勇斗の隣に立って、
南雲遥として、笑っていられる。
誰かを憎むためでも、誰かに抗うためでもなく。
ただ、わたし自身として、
誰かを好きになり、
誰かに愛されて、
愛し返すために、生きていく。
それでいい。
それが、いい。
胸の奥に静かに沈んだ、過去のオレに、
そっと微笑みかける。
「ありがとう」
心の中で、そう呟く。
そして、わたしはまた、勇斗のもとへ歩き出す。
もう振り返ることはない。
さようなら、名前も思い出せない男の子。
これからのわたしは──南雲遥として
この世界を、生きていく。