「監督、こんにちは。」
「詩音さん。」
地下に降りる前、詩音は入江に声をかけるために入江が診察時間外によく居る部屋に寄った。その部屋は医療器具もある程度置いてある部屋だった。
「あれ、この点滴って悟史くんが使ってたやつですか?」
「あぁ、はい。昨日の数値的に大丈夫だと判断したので。」
その言葉を聞いて詩音は目尻を下げた。つまりはリハビリさえ終われば悟史はいつでも退院できるのだ。
「後で僕も部屋に行きますので先に行って待っておいてください。」
「はい。」
嬉しそうに詩音は鼻歌を歌い部屋を出た。そして慣れた手つきで地下へと降りる。手に提げた鞄には沙都子が映った写真を入れて。どんな話をしよう、と心を弾ませていた。こんこん、と病室の扉を叩き開ける。
「こんにちは、悟史くん。」
詩音はすぐに違和感に気づいた。返事がなかったのだ。悟史は毎回律儀に返事をしてくれた。悟史は俯いていた。顔はよく見えないが少なからず良い表情には思えなかった。
「どうしたんですか?」
詩音がベッドの傍に寄ったその時。どん、と勢いよく突き放された。衝撃が強くいたたた…と詩音は呟く。詩音が何事かを聞く前に悟史が口を開いた。
「どうして僕に近づいた?」
「えっ…?返事がなくて、元気も無さそうだったので…」
「違う!」
いきなり怒鳴られ詩音はびくりと身体を震わす。悟史はベッドから降り、尻もちをついた詩音の前に立つ。
「お前は沙都子が北条だから殴ったのか?」
「…え。」
「どうなんだよ、答えろよ。」
「悟史くん…記憶、が…?」
悟史はゆっくりと詩音に近づく。避けるように詩音は後退りをする。
「そうか、僕が傷つくとか言って避けてたのはこの事実を隠したかったからか。」
「…っ」
図星だった。思い出させたくない、と同時に向き合うことから避けていたのだ。勿論思い出したらちゃんと謝ろうと決めてはいたのだが、夢なら覚めないで、と祈っていた。
「僕に何をするつもりだったんだ?言ってみなよ。」
「何って…何も、ただ私は…」
「そんな訳ないだろう!じゃあなんで過去に沙都子を殴って!今いい顔して僕に近づいたんだ?!」
あの時と同じだった。詩音が沙都子を殴った時と同じように悟史が迫り詩音が意見を述べようとして。詩音は身体を震わせていた。
「なぁ、答えろよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい…っ!」
悟史は力強く壁に背をつけ震えた詩音の肩を掴み、すごい剣幕で睨んだ。詩音は震えた声でごめんなさい、と謝るばかりだった。
「悟史くん、何事ですか!」
勢いよく隣の扉が開き、入江が入ってくる。持っていた書類を床に投げ捨て詩音から悟史を剥がした。
「監督も…っ、こいつの仲間なのかよ!」
「悟史くん、落ち着いてください。誰にどんな事をしていたのか、ちゃんと理解していますか?」
「分かってるよ!敵を問い詰めてただけだ!」
敵、という言葉に詩音は目を見開いた。でも想像はできていた。思い出した時に、伝えた時にどうなってしまうのか。
「詩音さん、応援を呼んできてもらえますか!」
「ぅあ…あ、はいっ。」
入江の焦りを感じ取った詩音は震えた身体に無茶をかけ、病室を出て看護師たちを呼びに行った。
「大丈夫ですか?」
悟史の病室から少し離れた場所で詩音は壁にもたれていた。入江は安心させるように優しい声で話しかけた。
「悟史くんは…?」
「なんとか睡眠薬をさせまして。今他の方に再発防止の点滴をお願いしているところです。」
「そうですか。」
詩音はそれを聞き小さく息を漏らした。その様子を見て入江はとある個室へ案内した。その個室は悟史が居る病室とはまた違った共同の病室で、ベッドが部屋の両端にあった。
「本当なんですか?過去に沙都子ちゃんに暴行を振るったというのは。」
「…紛れもない事実です。」
詩音は促されるままベッドに座り、俯いて答えた。入江は出来ることであれば親権が欲しいと思うほど沙都子を気にかけている。きっと許して貰えない。怒られることを覚悟していた。だが。
「仲直り、したんですか?」
「本心で許してもらえたかは分かりませんが、勿論謝りました。」
入江が尋ねてきたのはそんな事だった。詩音は入江の質問にすぐさま答えた。声は震え、確証がない事も伝わった。その言葉を聞いて入江は口元を緩ませた。
「なら、大丈夫じゃないですか。」
「…え?」
「詩音さんは許して貰えたか分からない、と仰いましたが、沙都子ちゃんは詩音さんのことを許していると思いますよ。」
じゃないとねーねーなんて呼ばないじゃないですか、と入江は続けた。詩音はそれでも自信が無さそうに俯いた。
「悟史くんにも同じように謝れば大丈夫ですよ。悟史くんは今の貴方を知っている。若い頃の過ちだと分かってくれるはずですよ。」
「本当に、そうでしょうか?」
入江の言葉に詩音は納得していなかった。あの時にも今回もあの様に怒られたのだからもう許されるとは思えなかったから。
診療所の公衆電話に十円を入れ、電話をかける。その先は葛西ではなかった。
『はい、園崎です。』
「はろろ〜んお姉。突然ですが今日空いてます?」
詩音は出来る限りの元気な声で話す。電話に出た魅音に詩音の本心が伝わっているのかは分からなかった。
『詩音、急だね…ごめんけど今日は予定があって。』
「そうですか。ごめんなさい、急に。それなら気にしないで。」
『…詩音。』
「なんです?」
妹の名を呼ぶ姉の声は、断った時の申し訳なさそうな声と少し変わり、覚悟したような声だった。
『それは、詩音なりのSOSってとってもいい?』
まさか魅音からそんな言葉が出てくるとは思わず詩音は目を見開く。
「…そう思います?」
『うん。詩音、辛そうだもん。』
これは双子だからか、はたまた魅音の勘が冴えていたからか。思わぬ言葉を聞き詩音は自分の感情を取り繕おうとした。自分自身でもわかっていた、そんなことは無理だと。
「助けて、お姉…」
『ありがとう、助けを求めてくれて。葛西さんに私と詩音拾ってもらうように言うね。』
「え、でも予定…」
『そんなのブッチすりゃいいよ。そんな予定より詩音の方が何倍も大切だよ。』
「…じゃあ、よろしくお願いします。」
そう言って電話を切った。詩音は受話器を元の位置に戻したまま手を動かさず、ずるずるとしゃがみこんだ。
「園崎さん、大丈夫ですか?」
さっき詩音が呼びに行った看護師が尋ねる。詩音はゆっくりと首を振った。
「お迎えが来るまで、別室でお話しませんか?」
優しく語りかけられたが詩音はまた首を振った。
「いえ、そこまでは。大丈夫です。」
「そうですか…」
詩音は立ち上がり平気そうな顔をしてみせた。看護師は持ち場に戻るまで何度も詩音の様子を見るために振り返っていた。
詩音は野菜炒めやひややっこなど簡素なおかずをテーブルに置いていく。
「ごめんね、本当は今日買い出しに行くつもりだったんだけど…余り物になっちゃった。」
「いいよいいよ、むしろありがとう。」
「私が誘ったんですからそりゃご飯くらい作りますよ。」
葛西に買ってきてもらう手もあったが、車の中ではそれを切り出すどころか話せる空気ではなかった。迎えに行った時に詩音は会話に相槌も打たず、外を見ているだけだった。魅音も葛西もただ事でないというのはすぐに察した。ただ、詩音の隠れ家に帰ってきたもののすぐにいつものように振る舞うから前のこともあり魅音からは切り出しにくかった。
「詩音一応自炊もするんだ。」
「朝はちょっと面倒くさくて葛西に買ってもらうことが殆どですけど…バイトがない日は作ってますね。節約ですよ節約。」
ふふん、と詩音は自慢げに話すが、目の腫れからその気持ちは作りものだという事を物語っていた。
_詩音、そんな顔しないで。泣いていいんだよ。
そう口に出せたらどれだけ良かったか。魅音は詩音の作り笑顔に作り笑顔で返した。
「あ、そうだ詩音。」
「なんですか?」
「お、お風呂一緒に入らない?…なんて。」
咄嗟に思いついた事を魅音は口にした。詩音はあー、と歯切れの悪い返事を返した。
「うちのお風呂狭いですからねぇ…ちょっと厳しいかも。」
「あっそうだった。ごめん。」
「いえいえ。」
少し重々しい空気になり、魅音はえっと、とかその、とかなにか言葉を零した。その様子を見て詩音はくすりと笑った。
「無理に話題を作ろうとしなくたっていいんですよ。」
「あ…あはは、お見通しかぁ。」
「舐めてもらっちゃ困ります。しかもお姉は顔に出やすいんですから。」
魅音は恥ずかしそうに頭をかいた。その様子を見て詩音も口元を緩ませる。そこからは魅音の近況報告をして、場を和ませた。
「さて、乾かし終わり、と。」
詩音はふぅ、と小さく息をした。先に風呂を終えていた魅音はこの部屋にある雑誌を読んでいた。詩音の声が聞こえ、魅音は詩音の方をじっと見た。夕方にSOSがあって、声も震えていた、にも関わらずこの家に来て数時間何もボロを零さないんだから恐れ入った。でも切り出すのは詩音がしたほうがいいと思っていた。変に触れるのは怖かったから。でも、言い出せる空気くらいは作れるかもしれないと魅音は立ち上がった。
「ん?どうしました?」
立って向かい合う。そんな時間が数秒続いた。詩音はきょとんと首を傾げ、魅音の頬は少し赤くなった。
「なに赤くなってんですか。」
「い、いや…恥ずかしくて、自分がやろうとした事が空回りしそうで。」
「へんなお姉。」
詩音はくすくすと笑ったが、その笑顔はすぐに消え去った。ため息が重々しかった。お風呂の中で泣いていたのだろうか、と悟った魅音はゆっくりと詩音に歩み寄り、手を握った。
「私待ってるから。詩音が言いたい時に言って?」
「…私がお姉のこと分かるんだから、お姉も私のことはお見通し、か。」
詩音は手を握り返した。それが嬉しくて魅音の口元が綻んだ。
「さて、何処から話しましょうか。あ、悟史くんのことからか。」
「そこからだと有難いな。」
「分かりました。」
詩音は先程と変わらず明るく振る舞う。魅音はそんな詩音を見てちくりと心が痛んだが、話を黙って聞いた。
悟史の現状を一通り話し、魅音はほっとした様子だった。てっきり悟史の状態が急変したと思っていたからだ。
「今は元気なんだね。良かった良かった!」
「…そう、ですね。」
そこで歯切れの悪い返事が返ってきたのだ。魅音は不安そうに隣に座っていた詩音を見た。
「まぁ身体は元気そうなので良かったのですが…記憶がないって話だったじゃないですか。」
「うん。」
「今日、思い出しちゃってまして。何処までかは分かりませんが、私が沙都子を殴ったことを知っていました。」
「え…っ?!なん…」
誰にも見分けが付かないのに。魅音は目を丸くした。詩音はあははと悲しそうに笑った。
「自業自得、因果応報…あはは、馬鹿みたいですね。ごめんなさい、こんなこと相談して。」
「…馬鹿じゃん。」
「ですよねぇ。」
魅音はボソリと呟く。それに詩音は自虐で返した。しかし次の瞬間、魅音は勢いよく詩音に抱きついていた。
「馬鹿なのは…悟史だよ。」
「え?」
「今の詩音を知ってるんでしょ?少なからずもうあんなことする子じゃないって、分かんないのかな?分かんないなら彼奴の目は相当節穴だね!」
「…お姉。」
「まだ今の詩音を知らないで言うならまぁ仕方ないとは思う。でも知ってる。詩音のいい所を知る機会は充分あった。なのに分からないで、過去にやってしまったから?人は変わるんだよ!罪を認めて、反省してるのに、頑張ってるのに、詩音はずっと…」
魅音は後ろからぐっと強く詩音の肩に押し付けられ話を遮られる。詩音の肩は少し震えていた。
「もういい、もういいよ。ありがとう、お姉。」
詩音の声は電話の時と同じ声だった。今にも泣きそうで、苦しそうで。魅音も自然と涙がこみ上げてきた。
「私、悟史がずっとそのスタンスでいくなら、詩音の恋愛猛反対してやる。詩音の良いとこ分かんないやつに詩音なんかあげない!」
「ふふ、ありがとう、お姉。」
「…詩音も無理しないで。私はずっと詩音の味方だから。」
その言葉を聞いて、涙が静かに詩音の頬を伝った。抱きしめられる力が強くなって、そして小さな嗚咽が聞こえてきた。魅音はずっと詩音を抱きしめていた。