「最近悟史くん、調子良さそうですね。」
もう見慣れた医療機器から出された結果を見て詩音は言った。
「はい。目を覚ますのも、もうすぐかもしれませんね。」
入江がそう言うと詩音はぱぁ、と嬉しそうな顔をした。もうかれこれ三年も待っているのだ。やっと訪れる彼との再会に詩音は心を躍らせるのは当然だ。
「はい詩音さん。症候群患者に接するときの注意点三つ。」
「最初は距離を詰めすぎない、精神に負担がかかる言葉はかけない、不安がっているときは優しく寄り添う!」
「正解です。」
ふふんと詩音は得意げな顔をした。この注意点はあくまで入江が診察に来た人たちに気をつけていることだ。症候群のレベルが上がれば上がるほど暴力的な行動に出てしまう。だから距離をとる。レベルが上がってしまうので精神に負担がかかる言葉はかけない。疑心暗鬼になっているのでなんでも疑ってしまう。その疑いは否定せず、でも相手を疑うことはないと促す。この二年間、詩音はただ悟史につきっきりだっただけではない。同時に症候群のことを学んでいたのだ。自称、雛見沢で監督の次に症候群に詳しい人、らしい。しかしそれは大袈裟な話ではなかった。
「頑張って、悟史くん。私はずっと待ってますから。」
詩音は固定された彼の手をきゅっと握った。起きた時に暴れてしまうかもしれないから、と固定された彼の体。いつ見ても痛々しく心が苦しくなる。でも、それも最後かもしれない。そして、どんな状態で目覚めようとも、彼を受け入れよう。そう決意を固めた。
「詩音さん。」
「どうしたんですか、監督。電話してきて話は診療所って…。」
詩音は息を荒げて入江の元へやって来た。最悪の事態も頭によぎったのだから。
「大丈夫ですよ、詩音さん。いい知らせなので。」
「…え?」
入江は立ち上がり、地下の鍵を手に取った。詩音は目をぱちくりとして、入江の後ろをついて歩いた。いい知らせがどこまでのものなのか、詩音は喜びと緊張を胸に歩いた。
悟史の部屋の前になり、詩音は目を丸くした。
「固定具が…!」
悟史の体についていた固定具がなくなっていたのだ。つまりレベルが低いことが確定した証拠だ。
「それだけではないですよ。」
入江はくすりと笑い、部屋の扉に手をかけた。
「悟史くん、お客さんですよ。」
入江はそう言って入った。いつも声をかけて入るのは詩音のみ。ということは。
「かん、とく。」
か細く、小さな声だったが、彼の声が、静かな病室に響いた。顔がこちらを向く。キラキラとした目がこちらを見つめた。詩音は入江の方を向いた。入江は何も言わず、頷いただけだった。
「…っ、よかった…悟史くん…!」
大粒の涙がこぼれ、拭うのが間に合わない。詩音は両手を口で抑え泣いた。膝から崩れ落ち、床に座り込む。
「み、おん…?」
詩音の啜り泣く声がなかったんじゃないかと思うほどに彼のその言葉はこの部屋に響いた。さっきより、ずっと。入江の顔が青ざめていく。心配になった入江はすぐに詩音の方を向いた。確かに彼女は固まっていた。だが。
「…うん、そう。魅音。…覚えてて、くれてたんだね。」
彼女から発せられたその言葉は紛れもなく彼女の片割れ、魅音だった。
「元気?ってまだ起きたばっかだし元気なわけないか。」
詩音は相槌をうつだけで会話が成立する話を悟史に振る。その気遣いを見て、入江は二人から目を逸らした。
「ごめんなさい!まさかこうなるとは思ってなくて…」
「監督そんな、頭を上げてください。想定内だったので。」
入江は恐る恐る頭を上げる。詩音の顔は至って普通の顔だった。
「それで…悟史くんの記憶の方は?」
「多分五十七年の五月で止まっているかと。綿流しはまだ行われていないと言ったことからあの事件の事は記憶に残っていません。」
そう言うと、入江はメモを詩音に手渡した。入江の詩音に対する信頼度が窺えた。そのメモには目覚めてからの体調の変化や話してわかった事などが記載されている。目覚めたのは一週間前。話して分かったのは球団に抜けた事は記憶に無いこと。
「あぁ、悟史くん、私の事知りませんね。」
「え?」
「私が『詩音』として出会ったのって、三年前の綿流しの次の日なんです。だからお姉と間違えて当たり前なんですよ。」
あはは、と詩音は笑った。心から笑ったわけでは無いのは誰が見ても分かる。入江はそんな顔をさせてしまった自分に苛立ちを覚えた。
「事件のことは、思い出させない方がいいですよね。せっかくあったはずの傷がなくなっているんですから。」
「確かにその方が再発症のリスクは大幅に下がりますが…」
「『詩音』がその鍵になることって、あると思いますか?」
詩音はそう尋ねた。顔は変えずいつも通りを装っているが、手が震えていた。入江は口を何度か開いては閉じ、言うのを躊躇っていた。『詩音』が出会ったのは綿流しの次の日。犯行後。
「監督、魅音になりすまして会っちゃダメですか?」
「そ、それは全然構いませんよ。でも…詩音さんはそれでいいんですか?」
その言葉に詩音は目を細めた。一度目を瞑り、そして開いた。
「私がいることが想い人の不幸に繋がるなんて嫌です。私は…『詩音』は、居ないことにした方がいい。」
「やっほー悟史。」
「魅音、今日も来たの?」
「うん、どうせ暇だったし。」
魅音の格好をした詩音は今までお見舞いに来ていた周期で悟史の元へ来ていた。話すことは脳の活性化にも繋がる、と聞いたからだ。
「リハビリの調子はどう?」
「声帯は結構良くなってきたよ。まだ肺活量が弱ってたりするけど。あと、掴まり立ちならできるようになったよ。」
「お、いいじゃん!頑張ってるね、偉いよ悟史くん!」
名前を呼んだ時にハッとして思わず口を塞いだが、悟史は何も気にならなかったようで、どうしたの?と尋ねてきた。なんでもない、とはぐらかし他の話題に移った。初めて会った時も、上手くお姉になりきれなくてハラハラしたな、と少し懐かしい気持ちになる。会話ができる喜びをしっかりと噛み締めていると、胸がちくりと痛む。詩音はその痛みに気づかないふりをした。
受話器越しに入江から告げられたその事実は、詩音の中に混乱を招いた。
「ど、どうするんですか?」
『とりあえず口止めをしました。彼がリハビリを全て終えたらこっそりと村へ戻そうと考えていたのですが…散歩に出すのはやはり良くなかったですね。』
ずっと病室にいたら気が滅入るだろうと、車椅子で人通りの少ない小道を夕方に通ることを一週間前からしていたのだが、ここは小さな村。すぐに見つかるのは目に見えてはいた。
『問題は貴方が何者かってことなんですよ。』
「…お姉め、言ったな。」
『悟史くんから質問攻めにされましたよ。あの子は誰だーって。』
「悟史くんにそんな興味を持ってもらえるなんてこんなに嬉しいことはないですね。」
そんな事を言うが、詩音は気が気でならなかった。何せ『詩音』をあえて隠していたのにバレてしまったからだ。それによって彼があの日を思い出すような事が起これば。
『とりあえず、貴方が悟史くんにちゃんと説明する必要があります。悟史くんも納得しないでしょうから。』
「…そう、ですよね。」
『あと、僕はこの二ヶ月の様子を見て、詩音さんが過去を思い出す鍵にすぐになることはないと思っています。』
「でも可能性はあるんですよね。」
『…っ』
詩音の意思は変わらなかった。可能性がゼロだと言えることは今後一切ないだろう。嘘でもつけばよかっただろうか、と入江は後悔した。
「わかりました。明日伺います。そして_。」
その言葉を言った詩音の声は震えていて、まだ覚悟ができていない事を物語っていた。
葛西の車で揺られ、すぐに診療所に着いた。
「ありがとう、葛西。行ってきますね。」
「はい、ここで待ってますので。」
何気ないいつもの会話を終え、詩音は車を出ようとした。その時。
「伝えない片想いほど辛いものはありませんからね。」
葛西はそう言った。珍しい。経験者の言葉は重みがある。
「はいはい、ありがとうございます。」
適当にあしらい車を出た。そんなに顔に出ていただろうか。詩音はむに、と自分の頬をつねる。葛西には何も言っていないはずなのに。このまま彼と会っても不安がらせてしまうだけだ、と詩音は両頬を勢いよく叩いた。いたっ、と自分でやったにも関わらず言ってしまうほどに。
こんなに緊張して診療所に入ったことがあっただろうか、入る人が居るだろうか。開いてしまった診療所のドアを通り、受付へ行く。何度か声をかけてくれた地域住民の声は詩音の耳には入らなかった。受付を終え決められた部屋に行き鍵を受け取る。そして地下へと向かう。コツン、コツンと自分の靴と床が接し合う冷たい音だけが地下に響き渡る。目的の病室前、詩音はゆっくりと息を吸い、吐く。覚悟を決めろ、園崎詩音。そう小さく呟いて。こんこんこんとノックし、扉を開ける。
「失礼します。」
事前に知らされていたがいつかが分からなかった悟史は突然の訪問に目を見開いた。その容姿にもまた動揺していた。最初に見たあの姿が「園崎詩音」だったのだと。
「君が、しおんなんだね。」
「はい。初めまして。園崎詩音と申します。」
詩音は他人行儀な挨拶をして、お辞儀をした。ちょっと前まで魅音としてではあるが友達のように接していたというのに。
「騙していてごめんなさい。えっと…怒ってますか?」
「怒ってないよ。でもなんで魅音のフリを?」
悟史の優しい口調が詩音の決断を揺るがしていく。じっと見つめる悟史とは反対に詩音は目を逸らしていく。
「私が、貴方を傷つける可能性があるからです。」
「どういうこと?僕は毎週通ってくれて、話すのが楽しくて...傷つけられる事なんてないと思うよ?」
そのまっすぐな瞳が。詩音がどれほど欲した瞬間だろう。でも、それでもと、詩音は目を瞑った。
「思い当たる節がないようで良かったです。そのまま知らないままでいて下さい。そして。」
私の事を忘れてください。
窓なんか無いはずなのに、二人の間に冷たい風が吹き抜けた気がした。悟史は目を見開き、瞳を揺らした。
「なん...で...?」
震えた声で詩音に問いかける。詩音はやっと目を開けて、悟史を見た。
「さっき言ったじゃないですか。そういう事ですよ。」
「でも...っ、僕は君と話すの好きだよ?そんな、忘れろなんて...」
詩音は目をぱちくりとさせた。驚いた。まさか引き止められるとは。
「そう想って貰えるなんて...こんなに幸せなことはありませんね。」
詩音はぽつりと呟いて、悟史に背を向けた。後ろから必死に名前を呼ぶ悟史の声が聞こえて、何度も足を止めようと思った。でも止めなかった。詩音はこれが一番いい決断だと思ったから。
「君は...僕のことが、嫌いなの?」
ドアノブに手をかけたその時、悟史からそんな言葉が発せられた。詩音は少しの沈黙の後、悟史の方を向いて言った。
「いいえ、大好きです。」
病室から出ていく詩音に悟史は手を伸ばすことしか出来なかった。足が動いたならば、何かに掴まらなくても立てたなら...起きたばかりの悟史には全てたらればの話で、過去にどうこうすれば今が変わったわけではない。だからこそ悔しくてたまらなかった。
「くそ…なんで…この足は…っ!」
悟史は自分の足を叩いた。殴った。筋力は戻っていないから衝撃は無いに等しいはずなのに、痛い。でも今にも泣きそうな顔をしていた詩音の痛みと比べたらこのくらいの衝撃は、とんでもなく軽いものだろう。