「ねえ、ここの問題ってどうなるの?」
「あー、ここはこの公式が必要で………」
時刻は夕方に迫る放課後。赤い夕日の光が刺す教室の中には二人の高校生が勉強に勤しんでいた。
「……よし、解けた解けた。やっぱり桜田さん教えるの上手だね」
「ううん、佐渡さんが優秀なんだよ。この前の期末も十番台には入ってたよね?」
そう女子生徒、
「そうなんだよ!いやー、まさか自分が十番台に入るとは思ってなかったけどね。でも、これは桜田さんとの勉強会のおかげだよ。桜田さんが教えてくれるから僕の成績もどんどん上がってる訳だし!」
「い、いやいや、私はそんなに役に立っていないと思うけど……」
薫の褒め言葉に対し、美咲は少し照れくさそうにしながら謙遜する。そんな美咲に薫は思わず笑みをこぼした。
「………何で笑ったの?」
「んーん、ただ桜田さんは可愛いなって思っただけ」
「な、何それ。い、いきなり言われても困るんだけど……」
薫から急に放たれた言葉に美咲は思わず目線を逸らす。その頬は少し赤くなっており、恥ずかしさを覚えているのは一目瞭然だった。
対して、薫はそんな美咲を見てまた面白そうに笑う。
「ふふっ、やっぱ可愛いね。顔、赤くなってるし」
「っ……うるさいなぁ。ホント佐渡さんって揶揄うの好きだよね」
「いやー、だって桜田さんって揶揄い甲斐があるんだもん。いっつも良い反応してくれるし」
薫は机に肘を着き、手に顎を乗せる。そんな薫を美咲は恨めしそうに見た。
薫の性格を美咲は十分理解している。それはこの勉強会をする様になった故であり、薫と美咲の付き合いは半年近く続いていた。
正直に言えば、美咲にとってこの勉強会という場は至福の時と言っても過言ではなかった。目の前にいる佐渡薫、好きな人と過ごせるのであるから。
美咲が薫に好意を持ち始めたのは些細なことがきっかけであった。たまたま入っていた美化委員会。そこで決まった掃除用具の点検当番で一緒になり、週一回ながら交流が始まった。
そこから何度も会う内に仲が深まり、佐渡さんが勉強に困っているということからこの勉強会を開催する事が決まる。勉強会とは言うが、参加者は美咲と薫の二人。言わば男子と二人きりという訳で、その状況には美咲も意識せざるを得なかった。思春期の女子高生となればそういうものだろう。
性格も揶揄い好きであり、美咲の心を乱す小悪魔的な存在である。これに顔も良いというのだから、美咲は翻弄されまくっていた。
「んー……日暮れてきたね」
「今日は何時までやるつもり?もう6時近いけど」
「そうだね〜……まあ、あと30分ぐらいにしようかな。今日は結構勉強したし」
「了解。あ、この数学の問題結構難しいやつだ」
「えー、やる気なくすなぁ」
そう気だるげに言葉を落とし、薫はぐでーっと机に伸びる。伸ばした手は美咲の机まで侵食しており、美咲はトントンと机を叩いた。
「ほらほら、手邪魔だよ。後30分はやるんでしょ」
「そうだけどさぁ、難しい問題って言われるとそれだけでやる気がなくなるというか」
嫌がるように唸り声を上げる薫を宥めながら、美咲はふと薫の手をじっと見つめる。白く細長い指。少し骨張った男子特有の手に思わず視線を奪われる。
そんな美咲の視線に薫は気づき、ニヤッと意地の悪い顔を浮かべた。
「手、好きなの?」
「あ、いやっ………別にそういう訳じゃ………」
「その割には僕の手じっと見てたみたいだけど?」
「うっ…………」
痛いところを突かれ、美咲はバツが悪そうに表情を歪める。実際薫の手を見ていたのは事実であり、言い逃れは出来ない。これではまた揶揄われると美咲は臆する。
美咲の想像通り、薫はニヤニヤと口角を下げることなく面白そうに美咲を見ていた。
「ふーん、桜田さんは手フェチなんだー。知らなかったなー」
「ちょ、そういう訳じゃなくて、ただ目の前にあったから目に留まっただけというか………綺麗だなーと思っただけというか………」
「え、き、綺麗?」
美咲の言葉に薫は驚いたように目を丸くする。その反応に美咲は少し意外だと感じながら、言葉を繋いだ。
「う、うん、佐渡さんの手細くて真っ白だし綺麗だなって。きっと他の人にも褒められてるんだろうなと」
その言葉は美咲にとって正直なものであり、自分何かが褒めたところで佐渡さんには自分の言葉など世辞にしか聞こえてないのだろうと考えていた。
そのため、少し驚いたようにする薫の表情は美咲にとって意外だった。こうして薫のことを直接褒めるというのもあまりしたことが無いから驚かれたのかなと、美咲は自ら予測する。
「ふ、ふーん…………まあ、ありがとう。褒められて悪い気はしないし」
「誤解は解けましたでしょうか」
「まっ、及第点かなー。完全に桜田さんの手フェチ疑惑が晴れた訳では無いね」
薫の言葉に、美咲は改めてまじまじ薫の手を見るべきではなかったと後悔する。揶揄いのネタが増えてしまい、この先も弄られるのだろうと思うと億劫でしかなかった。
そんな美咲が後悔の念を募らせていることなど露知らず、薫は少し姿勢を正し、美咲の目をじっと見つめながら言葉を切り出す。
「………もし、桜田さんが手フェチってことを認めるなら、繋いであげても……良いけど」
「へっ……………?」
思わず美咲は素っ頓狂な声を上げるが、徐々に言葉の意味を理解していき、顔に熱が集まる。
「あ、えっと……………あ、あれでしょ!またどうせ私を揶揄ってるんでしょ?もうその手には乗らな――」
そう美咲が言葉にしようとしたとき、美咲は薫の表情を視界に入れ、驚きを隠せず目を丸くした。
「さ、佐渡さん、顔真っ赤じゃ……………」
美咲の言葉通り薫の顔は紅く染まっており、それが恥ずかしさによるものだということは一目瞭然だった。
薫のそういった表情は一度も見たことがない故、美咲にとってそれはとても珍しく感じるとともに、あの佐渡さんがという意外な一面に見惚れていた。
「(いつもぐいぐい仕掛けてくる佐渡さんもこんな表情するんだ……………でも、これはこれで―――)」
「可愛い、かも……………」
「っ……………」
突如、薫は勢いよく席を立つ。その表情は相変わらず紅く、耳まで浸食されていた。
「きょ、今日はもう帰るっ。またね」
「え、ちょ、佐渡さん!?」
美咲の言葉を無視するように薫はそそくさと教室から出ていく。
一人取り残され、静寂が広がる教室の中。美咲はただ口を開けたまま言葉をこぼす。
「……………私、何言ってんだろ」
〇
「はあっ、はあっ……………」
走り疲れた身体を壁に任せ、ずるずると僕は座り込む。夕日によって作られた影はくっきりと僕の形を表していた。
「ははっ、何やってんだろ」
いきなり逃げ出すように教室から出ていき、それが如何に桜田さんに不可解な疑念を持たせたのかは明白だった。
でも、それは仕方がなかった。突然の彼女の言葉に動揺を隠せなかったのだから。
『可愛い、かも……………』
「……………ほんと、ずるいなあ。そういうのは僕がやりたいのに」
いつも隠していた。桜田さんに抱くこの感情を。なるべくバレないように。
だけど、隠し続けるのも難しいわけで、たまには冗談めいたように本心を告げる。そういう風に自分を誤魔化し続けて桜田さんを揶揄ってきた。
「好き」
そう正直に正面から言う事が出来ればどれほど良いか。
初めて会ったときはこんなんじゃなかった。大人しくて、あまり人との会話が苦手そうだった彼女と美化委員の仕事が一緒になったとき、最初は大丈夫かと不安になった。
クラスも違うし、初対面。何を話そうかと悩んでいたが、思いの外会話は弾んだ。
趣味、部活、クラスの事、住んでいる場所、そして勉強の事。切り出すのは僕がほとんどだったが、桜田さんはとても聞き上手でしっかり僕の話すことに反応してくれた。
勉強が得意というのを聞いて教えてもらったり、意外と表情豊かで笑ってくれたり、週一回しかなかった出会いも回数がどんどん増えていく。気づけば、僕は桜田さんとの会話の時間を楽しみにしていて、彼女の事を目で追っていた。
だからこそ、僕が桜田さんに抱き始めた気持ちになんて直ぐに気付いた。
「あー、僕に勇気があればなあ」
僕は臆病だ。この気持ちを伝えたとして、断られたら今の関係が崩れる。会う回数も減り、疎遠になるかも知れない。
そんなことを考えたら、とてもじゃないが怖くて言い出すことはできない。
「あっちが僕のことを好きなら……………」
なんて、身勝手な妄想をしながら僕は立ち上がる。
「あーもう考えるの終わり!帰って勉強しよっと」
もう少し、もう少し時間が経ってからでも伝えるのは遅くはないだろうと、楽観的に考えながら僕は自宅への帰路へと向かう。