便器の底に顔を沈められている。
腕で押さえつけられていて頭を上げることが許されず、されど汚水の中で呼吸は出来ず、酸素の欠乏によって血液が暴れて身体が捻られるような息苦しさに襲われる。その苦しみは死を間近に連想させ、恐怖で気が動転した翔は死に物狂いで顔を上げる。
何とか水面から顔を出して息を吸えたのも束の間、直ぐにまた上から押さえ込まれて、淀んだ水中に落とされる。
溺れる。
汚水を沢山飲みながら何度も頭を上げて沈められて頭を上げて沈められて――まるで荒波に呑まれる浮きのようであるが、翔は実際に生きていて苦しさは本物で死の気配から逃れるのに必死である。
その憐れな姿を便器を取り囲む男子中学生達がゲラゲラと笑う。
「見ろよこいつ! 便所の水飲んでるぜ!」
「キモすぎだろやばっ」
「必死すぎて引くわマジで」
罪の意識無き鬼畜な加害者共。
彼らは集団で個人を追い詰めて苦しむ姿を面白がる事が出来る残虐性を心に持った未熟なる悪魔達であった。
彼らの捻れた道徳心は翔が惨めな姿を晒す程に愉悦の感情を募らせる。故に翔を貶める為に外道な行いをする事にも躊躇が無い。
一人が、便器の横に立ってズボンのチャックを降ろし、逸物を外気に晒して、放尿した。
――じょぼぼぼぼぼっっっ
宙に弧を描いた黄土色の小水は翔の黒髪に流れ落ちて跳ね返って、翔が顔を付けている水溜まりの水面に波紋を広げながら水中を薄汚い黄色に染めていく。
「「「ぎゃははははははははっっっ」」」
悪魔達の笑いが一層大きくなる。
翔は溺れながらその声を耳にして、恥ずかしさや悔しさと言った感情に襲われると共に、明瞭な憎しみを胸に抱く。
――殺してやる。
殺意を研ぎ澄ませるように胸中で呟く。
この言葉をお守りにして今日も耐える。
翔は、いじめを受けている。
翔が暮らしていたのは海沿いの小さな港町だった。
そこは画に描いたような田舎で、カラオケやゲームセンターなどの娯楽施設は皆無で、漁を生業とする町の多くの男達は声が大きく粗暴でおっかなくて、夜眠るときには湿り気を帯びたぬるい潮風が身体に纏わり付いてきて不快な思いをした。それでも、町のあちらこちらで猫が呑気に伸びているように、老人がいつまでも立ち話に花を咲かせているように、潮のさざめきと共に時間が緩やかに流れるこの町を翔は案外気に入っていた。
小学生の子供は一学年につき二十人弱と少なく、学年毎に一クラスで事足りた。低学年の頃は放課後になると大勢で缶蹴りをしたりケイドロをしたり釣りをしたりして遊んだ。
その中に幼馴染みの女の子の姿があった。
“藤野咲紀”と言う名のその少女は、長い黒髪を背中に流し前髪は眉の辺りに切り揃え、瞳は大きく、鼻は小さく、手足はすらりと長かった。一見するとおままごとや絵本が好きそうな物静かな印象を受けるが、実際はそれとは全く真逆の悪戯好きの溌剌とした性格で、男の子達に混ざって服を泥だらけにして手足を傷だらけにするのを厭わない活発な女の子だった。
他の女の子が持ち得ないそんな奔放さを持つ咲紀を翔は魅力的に想っていた。それに、道路を隔てて翔の家と反対側に建つ戸建てに住む咲紀の家に何度か遊びに行ったとき、いつも出迎えてくれたのは、宿題をやるように口煩く責っ付く翔の母親とは正反対の静かで上品な女性で、偶に出迎えてくれたのは漁師でがさつな翔の父親とは正反対の優しそうな眼鏡を掛けた男性だった。そういう羨ましい両親の居る幸福な彼女を眩しくも想ったし、その癖、幼馴染みとして他の男の子よりも親しげに接してくるものだから、咲紀に対して羨望にも似た淡い恋心を幼少ながらに抱いたりもした。
そのような長閑な日常は時の流れと共に変化を迎えていく。
翔達は高学年になるにつれて肉体の性差が顕著になり始め、それに伴って男女を区別する意識が高まり、男子は男子と女子は女子と遊ぶようになっていった。この頃には、親しげに話す男女を見かけたら“カップルだ”と面白半分で囃し立てる遊びが流行り、翔と咲紀も目が合ったら挨拶を交わす程度の素っ気ない間柄に収まった。
やがて翔達は中学へと進学する。
これは“民族大移動”とも呼ぶべき大きな出来事だった。
何故ならば進学先の中学校は、主に翔の町の生徒数の不足を理由に隣町との統合が進められた事情によって隣町との丁度中間地点に位置する道路脇の森の一部区画を切り拓いて建てられたもので、隣町に暮らす学生と翔の暮らす町の学生を同時に受け入れる仕組みであり、翔達は今まで殆ど面識の無かった隣町の同世代の者達と関わる必要に迫られた為である。
実際、入学した翔が新たな教室に身を置いたとき、クラスメイトの殆どは隣町の生徒であった。
そして自覚する。
翔は、見知らぬ人間と関わることが酷く苦手であると言う事に。
新たな交友関係を築く為に必要な第一歩たる第一声が上手く発せられない。話しかけられない。
これは小学生時代の六年間を特定のコミュニティだけで過ごした弊害であり、一般的には多くの小学生が毎年教室という檻の中に放り込まれ見知らぬ何十人との共同生活を強制される異常空間の中で生き延びるために培っていく社交性や勇気を、翔は遂に獲得せずに育ってしまった事を意味した。しかし同様の環境に身を置いていた筈の同郷の子供達は何故だか皆器用に新たな交友関係を構築していき、気付けば翔だけが孤立した。
この頃に翔が読書に嵌まったのは、だから必然だったのかも知れない。本の中に登場する人物は文章を通じて自らの情報を、心情さえも詳らかに開示してくれる。故に文章を読み進める内に容易に勝手知ったる仲になれて、人を知りたいという欲求を満たし、翔の孤独を打ち消した。よって翔は休み時間になると窓際の席でいつも一人で本を読んでいた。
しかし、群れに属さない人間が弱者として狙われるのもまた、必然だった。
同じクラスの男子の一人、“九重怜央”に目を付けられる。
九重は目鼻立ちの整った所謂爽やかなイケメンで、冗談が得意なクラスの人気者で、そして人をいじめるのが好きな悪魔だった。
九重は、翔の名前をわざと間違えるなどの軽いイジリから始め、翔が抵抗する勇気を持たないと見るや否や、彼を人間から都合の良い玩具と認識を改め、巻き込まれるのは御免とばかりに周りが見て見ぬふりをするのを良いことに程度を段々とエスカレートさせていき、最終的には机の中に雀の死骸を仕込んだり、給食の上に美味しくなる仕上げと称して黒板消しを叩いてチョークの粉を振りかけたり、人間サンドバッグとして取り巻きに捕まえさせてボコボコに殴ったりして楽しむようになった。
以降三年間、クラスが同じであろうが別であろうが関係無しに九重は翔の元を訪れ、いじめ続け、翔は地獄の学園生活を強いられることになる。
それは三年生に進級して迎えた五月の半ばのこと。
給食を食べた後に訪れる長い昼休憩の時間に、翔は、普段生徒が出入りするために広く空間を取られている教室の後方の床の上に上半身裸で四つん這いになっていた。
勿論、九重の命令である。たまたま古代ローマを舞台にした映画を見たという理由で九重は翔に服を脱がせ、跪かせ、恰も奴隷の様な格好をする事を命じたのだ。
「よいしょ」
とわざとらしく声を漏らして九重が翔の背中の上に座り、左右には彼の取り巻きである肥満体質で小狡い顔つきの石井と眼鏡を掛けた陰険な顔つきの村下が立って、三人は下卑た笑顔を浮かべて翔を見下した。
「進め」
九重が奴隷の首輪に繋がる鎖に見立てて翔の首に結んで垂らした学校指定の赤いネクタイを引っ張って命じる。クラスメイトの視線に晒されながら翔は歯を食い縛って命じられるままに廊下に繋がる扉に向かって進み始める。
これが何と屈辱的なことか。
本来であれば立場は同じな筈なのにまるで自分がこんな外道よりも身分が下であるかのような振る舞いを強いられる恥辱、それを助長する背中の重みと不衛生な床に手を付けなければならない嫌悪感。
翔は九重の体重を支えきれなくなって床に潰れた。
すると
「奴隷が休んでんじゃねーよ」
と九重が翔の首が反り返るほどに思いっきりネクタイを引っ張り、石井が黒板にプリントを貼り付けるための棒状のマグネットを野球バットの要領でフルスイングし尻を引っぱたいた。小気味良い音が鳴って三人がゲラゲラと笑う。
――くそっ
翔は心の中で毒づいて崩れた姿勢を起こし、また進んだ。彼らに心から屈してないことを示すかのように。
廊下の深緑色の冷たい床に手をついて教室から上半身を乗り出した。廊下は、沢山の生徒が行き交っていた。今日は朝から雨が降っているから普段は校庭に出て軽い運動に興じる生徒も今は校舎の中に留まっていた。
翔は注意深く左右に続く廊下に視線を遣った。教師の目を気にしての事だった。もしも、教師が風紀を乱す行いをしている翔達を咎めたならば、その正論は、いじめられる立場を甘んじて受け入れている翔の臆病さを際立たせ、翔に耐え難い屈辱を与えたことだろう。やりたくもない事をやらされている身なのにまるで主人の為に働く忠犬のように進んで周囲の監視を行っている己の滑稽さが、翔には虚しかった。
――ふと。
右の廊下奥から近づいてくる一人の女子生徒に翔の視線が定まった。向こうも見上げてくる翔の視線に気付いたようで直ぐ手前で立ち止まった。
その女子生徒は――藤野咲紀だった。
相も変わらず長い後ろ髪は絹のように滑らかで美しく、眉の上で切り揃えられた前髪の下にはぱっちり二重の瞳があり、真っ直ぐ通った鼻梁に薄い唇。紺色のブレザーとスカートから伸びる、すらりと長い手足。時の流れを経て彼女はすっかり美人になった。これから更に磨きが掛かって美しい大人の女性に成長することが誰の目にも明らかな程に。それでも、高嶺の花として周囲から敬遠されないのはきっと、猫のように大きく開いた双眸から内面にある無邪気さが溢れ出しているからだろう。今その二つの瞳は、翔をじっと見下ろしている。
「こいつら幼馴染みなんだよ」
見つめ合う二人を訝しんだ目で見ていた九重に翔と同郷の村下が告げ口をする。それを聞いた九重は直ぐニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべて翔に命令を下す。
「よし。青井。告白しろ」
その言葉からは、人目を引くほどの美人である彼女に自分の玩具が告白したところで成功するわけが無いという見下した予想と、その無様にフラれる様を笑ってやろうという邪悪な魂胆が透けていたが、翔に拒否する意思は無かった。ここで断る勇気があるならば、今までいじめられ続けてはいない。
首に結ばれたネクタイを引っ張られて、急かされるようにして立ち上がった。
「はいはーい。今からコイツが藤野に告白しますよー」
九重が見世物の呼び込みをするかのように声を上げて、偶々廊下に居合わせた生徒達の注目を集める。物好きな生徒がちらほら立ち止まったところで九重は興行を滞りなく進めるために、翔の耳元に口を寄せて、言う。
「“ずっと前から好きでした。付き合ってください”――ほら言え」
悪魔の囁き。
翔は咲紀と一瞬正面で見つめ合って、直ぐに顔を逸らした。
「ずっと前から好きでした。付き合ってください」
命令されるがままに、本来ならもっと大切にすべき言葉を、感情を乗せずにぞんざいに吐き出した。
「え」
咲紀は間の抜けた表情をしてから、
「ごめん」
短く端的に断る。
その様子を見て九重達は大爆笑する。
「そりゃそうだよなぁ! こんな上半身裸の変態男なんて嫌だよなぁ!」
九重が見物人たちの耳にも届くように廊下中に響く声で嬉しそうに言った。
翔は拳を握りしめて、リノリウムの床を睨み付けていた。
放課後、翔は運動部員が校庭で精を出す姿を尻目に自転車を押して正門に向かってゆっくりと歩いて行く。翔の脳裏に浮かんでいるのは数時間前の咲紀に告白を断られた場面である。
別に本当に恋をしていたという訳では無かった。確かに幼い頃にはそれにに似た感情を抱いた気もするが小学校高学年に上がる頃には一緒に遊ぶことは無くなっていたし、中学校に上がるとクラスが同じになる事は一度も無くて言葉をまともに交わした記憶すらも無い。それでも幼馴染みとして、彼女に対する好意は変わらずにずっと持ち続けていた。だから感情から努めて切り離して発した筈の無色透明な告白の言葉には不純物みたいに少なからず彼女への好意が混じってしまっていて、告白を断られた時についでに彼女への想いを拒絶されたような気になって勝手にどこか悲しみを感じたし、不必要に傷つく要因を作った九重には恨みを抱いた。
翔はやがて正門を通過して外へと出る。
ここからは学校の敷地外なので自転車に乗ることが許される。だから翔はサドルに跨がろうとした。
「やっと来た」
横から声がした。
振り向けば、門扉の横の『阿式中学校』というネームプレートが打ち付けられた煉瓦の塀に背中をもたれていた咲紀の姿があった。容姿が優れているからその姿は絵画のモデルのようでなかなか様になっている。
咲紀は、翔の行く手を阻むように自転車の前に立った。微笑を浮かべたその立ち姿は清楚なお嬢さんに見えた。
「謝りに来たのか?」
翔は反射的に訊いた。
彼女は優しい性格だったから、大衆の前で告白を断って皆の笑い者にしてしまって御免なさい、と馬鹿正直に謝罪しに来たのかと、そう思った。もしそうならば、悪いのは笑った奴らであり、貴方の謝罪は相手の気持ちを慮った善良な行為に擬態した悪行であり、相手を傷つけた事で生じた自らの罪悪感を少しでも薄める為に選択している酷く狡い行いですよ、という意味合いの言葉を極力嫌みったらしくぶちまけてやろうと思った。だけど咲紀は小さく首を振りながら、
「いーや。謝らないよ」
否定した。
そうして先ほどまでの笑みが形を潜めて、代わりに口の端をぎゅっと引き結んで形の良い眉を中央に寄せて翔を睨み付け、
「私はそんな卑怯な真似はしない」
と荒っぽい口調で宣言した。
翔は内心たじろいだ。翔の知ってる少女の頃の彼女は呑気で無垢な心の持ち主で、ここまではっきりと怒りを露わにした姿は初めて見たからだった。また
、どこか自分自身に決意表明するかのように言い放って見えたのだが、これはもしかしたら気のせいかも知れない。
彼女は胸の前に両腕を組んで苛立ったように言った。
「私、翔にムカついているんだよね」
そう言われても、翔にはそれがどのような理由なのか皆目見当が付かなかった。そもそも今までほとんど関わりを絶っていたのに、一体どうして彼女の機嫌を損ねる事が出来るというのだろうか。その疑問を見抜くかのように彼女が言葉を続ける。
「翔はいつも不幸な顔をしてるよね。さっきだってそうだし。今までもクラスの前を通りかかってアイツらにいじめられている姿を見かけることがあったけど、決まって不幸そうな顔をしてた。僕がこの星で最も不幸な人間ですって」
翔は腹が立った。この女は自分の味わってる苦しみも知らずによくもまあそんな言葉を軽々口に出来るものだ、と。
「別に間違ってないだろ。僕は不幸だ」
「いや。間違ってる」
「なんで」
「私の方が不幸だから」
「……は?」
翔には彼女の言葉が理解できなかった。
容姿に恵まれ環境に恵まれ幸福の象徴のような彼女が、自らを不幸だと主張している。
「……クソみたいな冗談だ」
「冗談なんかじゃ無いよ。私はちゃんと不幸だよ」
「分かった」
うんざりした気持ちで話を強引に打ち切って、サドルに跨がる。
「夜。家に来て」
彼女の横を通り過ぎる。
「裏手の窓開けとくから。覗いて」
通り抜け際にそんな声を聞いた。
少しの距離を進んで、青い海を視界の右側で一望できるアスファルトで舗装された道路の脇を漕いでいる時も、別れ際に発した彼女の言葉が脳裏で繰り返し再生された。
――なんなんだよ。
翔はそう呟いて、帰路を漕いだ。
その日の晩の二十時頃、翔は言われた通り咲紀の家へと向かった。
見上げれば濃紺色の空は分厚い雲に覆われていて星の輝きは一切見えず、どこかで吠える犬の鳴き声が夜の港町に喧しく響いていた。
翔は幼い頃によく通った咲紀の家の玄関を初めて無視して、そのクリーム色の外壁に沿って脇を通り、家の裏手へと回り込んでいく。
音が鳴らないように、静かに砂利を踏みしめる。まるで家の下見をする泥棒の気分である。
やがて壁に嵌め込まれていた幾つかの窓の内、肩の高さに取り付けられた遠くの長方形の窓が一つだけ開いていることに気が付いた。翔は件の窓であろうと見当を付けて近づいた。網戸になっている。住人にバレないように少し屈んで目だけを覗かせるようにして家の中の様子をこっそり伺う。
窓はリビングの後方に位置しているようで部屋全体を見渡せた。
――最初に感じたのは懐かしさだった。
キッチン前の広いダイニングテーブル、壁際の食器の収められた棚、テレビの前の四角い卓袱台と黒いソファ。
家具の織り成す景色は記憶の中の光景と殆ど変わっていなかった。
しかし違和感もあった。
――住人である。
現在この家の住人は、テレビの前の横長のソファに三人並んで座り、バラエティ番組を見ている。翔はその背中を左斜め後方から見ている。
左端に座る、なで肩の女性の後ろ姿には見覚えがある、咲紀の母だ。
次に真ん中――知らない後ろ姿だった。
サイドを刈り上げた短い金髪をしていて、黒いTシャツから浅黒く日焼けして筋肉の良く発達した腕が伸びていて、家の中だというのに煙草を燻らせている。記憶の中にある眼鏡を掛けた優しそうな咲紀の父の後ろ姿とはまるで違う、荒々しい海の気配がする広い背中。
そして何よりも妙なことは――右端に座る咲紀が上の服を着ておらず、白い下着姿であることだった。
どういう状況なのだろうか。
翔は首を捻る。咲紀は思春期の女の子で、自分と同じく肌を晒すのに強い抵抗を覚える年頃の筈で、たとえ家族の前だからと言って裸同然の格好をしているのは明らかにおかしい。ましてや自分に家を覗きに来いなどと言っておいて。
その時、中央に座る男が豪快に肩を揺らして笑った。どうやらバラエティ番組の1シーンがツボだったらしい。男はすぐに、無反応な咲紀に顔を向けて何かを喋った後に、突然に――右手に挟んでいた煙草の先を咲紀の腹の辺りに押しつけた。
咲紀の身体がびくりと跳ねる。
翔の頭は混乱する。
今、火の点いた煙草の先っぽを、直接肌に――などと思う間に、男は、右肘で咲紀の鳩尾を勢いよく突いた。咲紀が腹を抱えるようにソファの上で蹲る。
翔は呆然としてしまう。
何が――何が起きているのか、分からない。
何故、咲紀はあの男に暴行されたのか。何故、実の娘が隣で酷い目に遭っているというのに左端に座る母親は全く無関心で顔すら向けないのか。というか、そもそもあの男は誰なのか。
溢れだした疑問の渦に思考が呑まれていると、
バチンッッ!!
甲高い音が響いた。蹲っている咲紀の陶器のように白くて滑らかな背中に、男が思い切り平手打ちしたのだ。男の手が離れると痛々しい赤い手形が背中にくっきりと残っていた。母親はやはり無反応だった。翔はこの異常空間にすっかり打ちのめされてしまって、逃げるようにその場を立ち去った。
「お父さんはね、四年前に癌で死んだんだ。その後になってお父さんが実は株で大失敗してて数百万円の借金をしてたことが分かって、その時に借金を肩代わりしてやるっていう口実で家に上がってきたのがアイツ。アイツは昔お母さんが好きだったけどお父さんに横取りされたらしくて、お父さんのことをずっと恨んでいて、だからお父さんの血が流れてる私のことも凄く嫌ってる。そうして私は四年前からずっと暴力を振るわれてきた。殴られたり叩かれたり蹴られたり。理由は何だって良くて、昨日は“テレビを見て笑わなかったから”だった。そうやって私が暴力を振るわれているとき、お母さんはアイツの敵になりなくないから見て見ぬフリをする。で、後になって“ごめんね”って泣きながら謝ってくる。罪悪感に耐えられないから。本当に狡い人。大嫌い」
放課後。誰も使っていない教室に咲紀を呼び出して昨晩の出来事の説明を求めれば、彼女は待ち構えていたかのように淀みなく言葉を連ね始めた。
「お母さんが言ってたけど、アイツ子供が欲しいんだってさ。“自分の”家族が作りたいんだよ、きっと。だから馬鹿みたいにしょっちゅう発情して毎晩お母さんとセックスしてんの。でも赤ちゃん全然出来ないの。無精子病なんだってさ。ざまーみろ」
彼女は口の端を釣り上げて邪悪に笑う。
言葉の尖った響きは教室に充満する虚無に溶けて消える。
重たい静寂。
“擦れたな”と翔は思った。幼い頃はそんな意地の悪い笑い方は出来なかった。アイツとやらに対する嫌悪が彼女の心に差し色のように穢れを加えたのだろう。嫌なことをされると人は嫌な奴になる。
翔は、相槌を挟むように思いついた言葉を言う。
「警察には言わないの?」
「警察なんかに言って家族がこれ以上バラバラになったら、あの人多分耐えられないから」
彼女は心底蔑んだ微笑を浮かべて言う。
「んで……あ、そうだ、分かったでしょ。昨日の見てさ。今の聞いてさ。私の方が翔より不幸だって」
彼女は共感を求めるように僅かに首を傾けて言った。確かに、四年に及ぶ暴力は彼女の心身に相当の苦痛を与えていることだろう。言葉から漏れ出る攻撃性からもそれは読み取れる。
だが。納得は出来ない。結局苦しみなんてのは比べようも無い個人の主観の話なのだから当然だろう。そしてその上で尊厳もプライドも全て破壊されて残った他人の想像を絶する苦痛だけが、もはや翔の唯一の誇りであったので、それを簡単に譲るわけにはいかなかった。
だから翔が返す言葉は、こうだ。
「申し訳ないけどそうは思わない。僕の方が絶対不幸だ」
彼女が眦をきつく細める。
「なんで言い切れるのさ」
「だって咲紀は、ホッチキスで指を挟まれたりエアガンの的にされた経験は無いでしょ?」
「そっちだって、風呂に入ってたら難癖付けられて裸のまま無理矢理引き釣り出されたり、寝込みをいきなり殴りつけられたことなんて無いくせに」
「じゃあ理科室の金魚の泳いでる水槽の水を飲まされたり、ケツに突っ込まれたリコーダーを咥えさせられた事があるのかよ」
「無いよ。でも火の点いた煙草で根性焼きされたりお母さんに泣きつかれて吐き気を覚える程の嫌悪を感じたことも無いでしょ」
互いが互いに自分の味わった苦しみを言い合った。でも恐らくは当初の目的であった“相手を言い負かす”なんて言うお題目はお互いに途中からすっぽり抜け落ちていて、代わりに口を動かしていたのは、もっと醜い感情だった。
――不幸を自慢する快楽。
それは蜜のように甘くて病みつきになる麻薬。
不幸話という建前を隠れ蓑にして苦痛に耐えている自分の偉大さを誇示したい欲求は止めど無しに湧き上がり、痛めつけられた記憶の分だけ無数に言葉が吐き出される。
こんな下劣な行為は、家族や親友の前でだって出来やしない。たとえ特別な絆で結ばれた幼馴染みの前であっても、そうだ。
だが咲紀は――翔と同じく下品な感性を持った低俗な同類だ。その証拠に目が見開いていて顔が薄ら赤くなっていて口角が僅かに上がっている。昂揚している。
この女は、この最低な状況を楽しんでいるのだ。
だから言い合える。
醜い姿を晒し合える。
翔はこの瞬間、酷く爛れた心の慰め方を知った。
それから翔は放課後になると、校舎の三階の奥に位置する存在をすっかり忘れ去られた空き教室を訪れた。咲紀の担任は帰りのミーティングを手短に終わらせることで定評のある教師だったので、翔が行けば大抵は咲紀の方が先に来ており、教室の真ん中には向かい合うようにして置かれた二つの机の片方の席に座って翔を待ち構えていた。翔も流れるような動作でもう片方の席に着き、咲紀と顔を突き合わせる。
まずは、他愛も無い雑談から。昨日の面白かったテレビ番組とか、朝見た可愛い犬だとか。どうでも良いそれらは、本題に繋ぐための謂わば導線で、余興に過ぎない。
そうして満を持して始まる――不幸の自慢合戦。
今日はこんな事をされた。昨日はこんな目に遭った。僕の方が辛い。私の方が痛い。僕の方が苦しい。私の方が憎い……。
互いに主力を尽くして自分が如何に可哀想な奴かをただ悦に浸るためにみっともなく主張し合った。
それは、お互いの自慰行為を見せ合うような不健全さを孕んでいて、浅ましい両者は、あくまで受験勉強のついでに雑談をしている、という体面を保つために手元の机の上に常にノートや参考書を広げていたが、主目的は当然醜い言い合いに他ならず、その卑しさを咎める者はこの二人だけの空間には誰も居なかった。
翔は毎日のようにいじめを受けていて、咲紀に加えられる暴力も同様らしかったから、
何度も。
何時間も。
飽きること無く。
そうして翔は、幾度の放課後を咲紀と共有した。
春から夏。
季節が巡る。
それは、九月の中旬のある日の昼休み。
翔が席を立って安全な図書室に逃げ込むために教室を後にしようとしたところだった。残念ながら昼休みの教室からの脱出成功率は三割に過ぎないので、やはり九重に見咎められて腕を掴まれ、今日はどんな愉快な遊びをしてやろうかと、邪悪な笑みと共に思案されているときだった。
「九重、ちょっと来い!」
廊下から野太く鋭い声が飛んできた。
九重が振り返り翔も視線を向ければ、開け放たれた扉の向こうに、スキンヘッドで屈強な体格をした黒いジャージ姿の大人がこちらを睨むようにして立っていた。気に入らない生徒を殴って大怪我をさせた事があるという噂が立つほどに生徒達から恐れられている体育教師の熊崎だった。彼の両脇には九重の取り巻きであるデブの石井と眼鏡の村下が既に立っており、平時ならチャイムの直ぐ後に教室に乱入してくる両名が今日に限って現れなかった訳を知ると共に、岩崎が九重を呼び出した理由にも察しが付いた。
つまり、誰かが教室で行われている蛮行を報告したのだ。それで、生活指導の役目も担っている岩崎が話を聞きに来た。
「九重、早く来い!」
再び声が轟く。
催促を受けた九重は「ちっ」と不機嫌そうに舌打ちをした後に翔から手を離し、岩崎のもとへ向かった。静まりかえった教室。
向けられる好奇の視線。
居心地の悪さを感じた翔は、小声で何か囁き合う生徒達の間をすり抜け扉を抜け出て図書室へと向かった。
適当な本を手に取って、席に座る。頁を開いたまでは良いものの、視線が文字の上を滑って一向に頭に入ってこない。思考を埋めていたのは全く別の事でつまり、誰が
咲紀は、あり得ない。
自分と似た境遇で蔑まれても屁でも無いような憐れで都合の良い存在を間違っても“救おう”などとは死んでも思わない筈である。
ということは
翔は自らに好奇の目を向けるクラスの人間の顔を一人一人思い浮かべ、苛立った。
そいつは傍観者という罪から逃れるために自己保身に走った薄情者だと思った。なぜならば、教師に報告したところで事態は何一つとして好転しないし、それどころか、悪化すること事が予期されたからである。
教師陣は翔がいじめられている事など当に認知している。実際に現場を目撃して面倒そうな表情で見て見ぬフリをした教師を翔は何人も知っていた。つまり今回は生徒からの報告があった以上教師としての立場を守るために仕方なく動いたに過ぎず、端から本気でいじめの撲滅に取り組む気など微塵も有りはしないのである。
また、今頃九重達は熊崎から説教をされているのかも分からないが、注意を受けたところで奴らの捻くれた心は到底直るものでは無い。寧ろ咎められた苛立ちを翔にぶつけて発散しようとする恐れがあり、その意味では誰かの軽率な親切心は余計なお世話と言わざるを得なかった。
やがて放課後になる。
翔の悪い予感は的中してしまう。
咲紀の待つ空き教室へ行く為に急いで教室を出ようとした翔の前に、薄笑いを浮かべた九重が立ち塞がった。
――ほら来た。
翔は心の中で毒づいた。
九重が間延びした声で言う。
「青井くーん。神社行こうぜぇ?」
その意図には直ぐに察しが付いた。神社とは、中学校から東に徒歩五分の場所に位置する森の中の寂れた神社の事だ。人目に付かない場所で学生から幾つかの用途で利用される。
告白、青姦、煙草、そして喧嘩。
つまり九重は憂さを晴らす場所として神社を指定したのである。
廊下に目を向ければ下卑た笑みを浮かべる石井と村下が丁度教室に入ってくるところで、どうやら拒否権は無さそうだった。翔は三人の後に従って廊下へと出た。
廊下では九重が首に左腕を回してきた。偶々すれ違った教師に見咎められないように友好関係が存在するという嘘の主張をする狙いがあるのだろうが、夏なのでブレザーを着て居らず白いワイシャツから伸びた剥き出しの腕が、首と直に触れ合ってとても不快だった。触れられた部位から腐る錯覚を覚える程だった。
昇降口から外へと出ると青空に真夏の太陽が煌々と輝いていて蒸し殺されるような暑さだった。「気持ちわりっ」と吐き捨てて九重が首から腕を放した。それはこっちの台詞だ、と翔は内心毒づいた。
正門を出る。
右側を沿岸に沿って真っ直ぐ伸びていく二車線の道路、左側を豊かな広葉樹林が乱立する森に囲まれている道路脇の狭い歩道を、翔は三人の後に従って歩いて行く。
翔は自虐的な想像を楽しんでいる。
すれ違った屋根付きのバス停でスクールバスの到着を待っている学生達を見て、まさか彼らは、横を歩き去った学生が数分後にタコ殴りにされているなどとは誰一人として想像していないだろうなと、思っている。
また、右隣を、法定速度超えの時速80kmぐらいの速度で次々走って行く車を見て、一台くらいこちらに突っ込んできてくれれば良いのにとも、思っている。
やがて視界の左側に広がっていた森が一瞬途切れて、代わりに森の奥へと続く50段程の石の階段が現れた。自然の中に突如として現れた人工物は特異な異様さを放ち、それが処刑場へと繋がる階段なのだと思えば異様さは恐怖へと変わる。翔は断頭台に向かう囚人の心持ちで階段を上っていく。
上りきれば、視界が開ける。
辺りを覆う鬱蒼とした木々、足下から続いていく石畳、それを両隣で挟んで睨みを効かせる狛犬、石畳の先で鎮座する赤い塗装の禿げた社殿。人の気配はまるで無く、聞こえるのは蝉の鳴き声ばかりで、神様からも見捨てられたような寂しげな空気に満ちていた。
九重が歩いて行きその後を従者のように従った。
やがて社殿の前の開けた空間で立ち止まると振り返り、挨拶とばかりに一発、翔の頬を殴った。予期せぬ衝撃を受けて石畳の上に尻餅を着いた翔の胸ぐらを掴み上げて、九重が言う。
「お前がチクッたんだろ?」
正直に言わなければ殴ると脅しているかのように九重の右手の握り拳が右肩の後ろに引き絞られていたので、翔は正直に言った。
「僕じゃ無い」
殴られた。
これが、開始の合図だった。
九重と村下と石井は溜まった鬱憤を晴らすように翔に一斉に暴力を振るった。顔を殴り、腹を蹴り上げ、背中を踏みつけた。翔は石畳の上に転がって耐える。太陽光を浴び続けていた石畳は火傷するほどに熱くて、自然さえも翔の敵らしかった。そうなれば轟く蝉の鳴き声も暴行を加える三人の鬼畜を賞賛する歓声のように聞こえるから憎々しい。
翔は頭だけは守らなければ為らないと両腕で頭を覆い石畳の上で丸くなった。まるで許しを請う土下座のような姿勢。それは無力を体現しているかのようでこれ以上無く屈辱的だが痛みへの恐怖はこれを軽く凌駕する。そして鬼畜共はその惨めな姿勢さえも許さない。スニーカーの先で脇腹を力強く蹴り上げられ、激痛に体勢を崩したところで村下と石井に頭から両腕を引き剥がされ、それぞれに拘束され、翔は無防備に立たされた。そうして卑しい笑みを浮かべた翔がサンドバッグを殴るように繰り返し翔の腹の柔らかいところを力任せに殴りつけ、思い出したように、地面の上に放って置いていたスクールバッグを手に取って、取っ手を支点にハンマーの要領で振り下ろし、慣性の重みを乗せて翔の頭部をぶん殴った。
鈍器で殴られたような強烈な衝撃を頭に受ける。恐らくはバッグの中に水筒でも入っていたのだろう。翔は何が原因なのか痛みか興奮か暑さか知らないが、意識が朦朧とするのを感じた。そしてぼやけた視界で、確かに、それを見た。
黒い長髪の大きな瞳の美しい女子生徒――咲紀の姿を、見た。
遠くの茂みから顔を覗かせている彼女。救いを求めた頭が情けなくも彼女の幻想を見せたのかとも思ったが九重がまた腹を殴るのに夢中になって腹に生じる痛みと引き換えに意識が多少明瞭になっても尚その場に居続けたので、彼女が実在のものだと知った。
きっと空き教室の窓から三人と連れ立って外へと出て行く自分の姿を見たのだろう。
彼女はまるで水槽を泳ぐ魚を見るように無感情に冷えた目で暴力に晒される翔をじっと観察している。
翔は、安心した。
彼女がもしもこのような場で正義心を発揮して翔の救出を試みるような善性の持ち主だったならば、もはや彼女を低俗な同類とは見なせなくなり、貴重な同士を失ったことを内心悲しまなければならないところだった。
そのまま彼女に見られながら、九重達に殴られて蹴られてやられたい放題痛めつけられ続け、やがてトドメと称し、二人が翔を拘束し余った一人が助走を付けて思い切り膝蹴りを入れるという行為を一巡すると、三人は石畳の上に伸びて動かなくなった翔に唾を吐きかけ、満足したように背を向け、神社から立ち去ろうとした。
翔の視線の先で三人の後ろ姿が遠ざかっていく。
この瞬間、翔が思ったのは“足りない”ということだった。
何故か。
彼女が目を背けるほどに惨たらしく痛めつけられれば、この先ずっと彼女にこの不幸を自慢できるから。
――なんて捻くれた考えは無論嘘だ。
実際はもっと単純で愚直な理由。
“簡単にくたばらない姿を見せて彼女に格好付けたい”
ただそれだけの話である。
翔は笑ってしまう。
そんな浅い見栄の為に更なる痛みを所望するなんて酷いマゾヒストだ。
でも思ったのだから、仕方ない。
翔は僅かな力を振り絞って幽鬼の如く立ち上がり、掠れた声で言った。
「もう終わりか」
その声は、蝉の鳴き声はおろか木の葉の擦れる音にも掻き消される程にか細い音であった筈だが、舐められる事に人一倍敏感な九重の耳には無事に届いたらしい。彼は眉間に眉を寄せた表情で振り返り、つかつかと距離を詰めてきて、翔の髪を掴み上げながら訊いた。
「お前、今なんつった?」
「もう終わりかって、言っただけだよ」
「ほお~っ。それじゃお望み通り、もっと痛めつけてやるよ!」
そうして翔の身に再び襲い掛かる暴力。暴力。暴力。しかも今回は翔に煽られた憎しみからか、残虐性が増していて、最後は翔のズボンをパンツごと脱がし、逸物の根元に茂った陰毛に九重が煙草を吸うためにシャツのポケットに忍ばせているライターで火を付け、陰毛が燃える様をゲラゲラと笑いながらスマホで撮ってグループラインに貼り付けた。そこまでしてようやく気が済んだらしく、別れの挨拶とばかりに、日焼けの少ない生足を横たえた翔の剥き出しの逸物を蹴り上げてから三人は歩き去って行った。
気付けば太陽は西へと傾いていて空は橙色に染め上げられていた。
翔は身体が鉛のように重たく感じ、石畳の上で赤子の如くただ身体を丸めてじっとしていた。
茂みの陰から咲紀が出てきた。咲紀は狛犬に掛けられていた制服のズボンを手に取ると翔の元に歩いてきて、下半身を隠すように掛けた。
しゃがんで見つめてくるその美しい黒の瞳には憐憫や同情は一切宿って居らず、その不躾な視線が今の翔には心地良く感じられた。
「なんで煽ったの?」
翔は答えに窮した。
こんな惨めな姿を晒しておきながらまさか“格好付けたかったから”などと馬鹿正直に答える訳にもいかない。既に格好など付いていない。
悩んでいた翔の頭にふと、天恵のように言葉が浮かぶ。
「アイツらを殺すため」
「え?」
咲紀は間の抜けた返事を返す。
「どういうこと?」
翔は神託を告げるかのように自然に生まれる言葉を吐き出していく。
「僕は中学に上がってアイツらに、特に九重に、ずっと虐められてきた。その苦しみは心に残ったまま消えないで、どんどん積み重なっていった。言い換えればアイツの罪もどんどん重くなっていったって事だ。だからアイツが僕を虐めれば虐めた分だけ実は自分の首を絞めていく事になるんだ。馬鹿だから九重はその事実に気付いていない。きっと罪の重さで言えばもうそろそろ死刑でも良いはずだ。殺されて然るべきなんだ。僕はそれを確実なものにするために自分から虐められているんだ。それで卒業式の日になったら、九重を、殺すんだ」
言葉に出してみて妙な納得感があった。
きっと言語化してこなかっただけで、無意識下ではずっとこの考え方が王政を担っていたんだ。思えば理屈は通る。僕は今まで何度も自殺したくなった。屋上から飛び降りてやろうと思った。それは死んだ方がマシだって思えるほど辛い思いをしてきたからで、そんな苦しみを与えてきた奴は、今まで僕に与えてきた苦しみの分の罪をまとめて精算されたって、つまり殺されたって、文句は言えないはずだ。――ああ、殺されたらどっちにしろ文句は言えないのか。
「馬鹿みたい」
彼女は吐き捨てるように言った。
「まるで大層なこと言ってる風だけど、そんなの皆思ってるよ。ぶっ殺したいって思ってるよ。でも、法律があるから、捕まったら面倒だから、だから皆やらないんだよ」
彼女の冷えた言葉と冷たい視線が向けられる。
それは悉く正論に思えた。だが今の翔は社会の倫理を破ることに恐怖を抱かなかった。それは翔が自らの言葉の熱に浮かされていたからである。散々罵倒されて殴られて果てには陰部を幼馴染みの女子に見られたりしてるこの現状の方が、人殺しで捕まるより、よっぽど悲惨だろと、翔はそう思う。
だからこう言う。
「法律なんて知ったこっちゃ無い。僕は苦しいんだ。権利があるんだ。悔しいんだ。だから殺すんだ。それ以外はどうでも良いんだ」
咲紀は目を見開いた。どうやら翔の言葉は予想外だったと見えて、咲紀は物を考えるように暫し黙った。
そして再び、
「馬鹿みたい」
呟かれた二度目のそれはさっきとは違う。彼女の口角はつり上がっていて、どこか嬉しそうに見える。
「よおし、きーめた。それなら私もアイツ殺してやーろお」
弾んだ彼女の声色は新しい悪戯を思いついた子供の無邪気さを思わせた。でもその内容は子供に似つかわしくない物騒さで、翔は思わず尋ねる。
「どうして」
「だって私がここで躊躇したら、私が今までアイツから与えられてきた苦しみが、それに対する恨みが、大したことないみたいじゃん。私だってアイツ殺したい程憎んでるもん。だから私も殺す」
朗らかな笑みを浮かべてそう言った彼女の横顔は燃えるような夕陽に照らされて煌々と輝いていた。夕陽を受けるその美しい相貌にはどこか人為らざる者が纏う神秘性さえ垣間見えて、翔は目を離すことが出来なかった。彼女と目が合って、誤魔化すように笑った。
「私なんか可笑しいこと言った?」
「いや。賛同者がいてくれて良かったなって」
見惚れていたとは当然言わない。
それからも翔は放課後になると空き教室に通い続けた。
しかし咲紀と不幸を自慢し合うことは無くなった。
今までは、互いの話す内容は信用しつつも主張する苦しみの度合いはどうしても主観に依る曖昧さが拭え切れず、だからこそ、そこに勝機を見出して自分の方が苦しみが上だと遠慮無く言い合うことが出来た。しかし先日の神社での一件では、咲紀はその場に居て、翔が痛めつけられる様をしっかりと見届けたばかりに、翔の受けた苦しみが彼女にとっても疑いようのない事実となり、事実の持つ説得力の前では咲紀の“アイツ”から与えられた苦しみの主張は言葉の域を脱しない点で霞んでしまい、優位が取れなくなり、彼女は己の不幸を口にしなくなった。そして翔も一方的な言い合いになど興味は無いので口を噤むようになったのだった。
では二人の関係が健全になったのかと言えば、これは全くそうでは無くて、二人は新たに“殺人の計画”を立て始めた。
翔は九重を、そして彼女は――これは彼女がはっきりと口にしたことだが――父の位置に収まろうとする部外者の乱暴者の屑の“アイツ”を殺すための計画。
決行日は卒業式の日と定めた。
凶器は何が良いのか。手順はどうするのか。逃走経路はどこを選ぶか。
それらの事柄を熱心に話し合った。
情報を得るに当たっては新聞やテレビを頼ってもみたが、それらからは殺人について最低限の情報しか得られず、意外にも有用だと思われたのは推理小説だった。その類の小説では高い頻度で人が殺され、しかも殺人方法は実に様々で、中には真似出来そうな物さえあった。
そこで二人は図書室で借りるなり本屋で買うなりして手分けして推理小説を読み漁り、そこで得られた殺人の情報を共有し合った。全ては来たるべき日のための準備だった。
そして――あくまでついでとして、小説の感想も語り合ったりした。おまけとして、お薦めし合ったりもした。思いつきで、本を渡し合ったりした。
要は、共通の目的を持ったことで芽生えた仲間意識がそうさせていたのである。翔は気恥ずかしいのでそれを敢えて自覚しようとはしなかった。
あるとき翔は彼女に一冊の本を紹介した。
その本の内容は、奴隷の主人公が労働に耐えかねて主人を殺して逃走し、追っ手から身を隠しながら生活し、最終的には追い詰められて追っ手に刃を向けて突進し、敢えなく殺されてしまうという救いのないものである。
翔はこの物語が好きだった。
鞭打たれ皮膚が破け肉を剥き出しにしながら一日中重い荷物を持たせられる苦役を強いられたり、逃げた先の馬小屋の隅で馬糞にまみれながら丸まって凍える夜を耐え忍んだりと、明らかに主人公が自分より辛い経験をしていたからである。これがもしも実在する人物ならば嫉妬を覚えたかも知れないが、架空の人間に対しては流石にそんな感情も芽生えない。代わりに生まれるのは主人公を見下すもっと卑劣な感情で、物語を読む度に“主人公よりはマシだ”と自らを慰めることが出来た。だから好きだった。
翔は表向きでは“人を殺す描写が沢山出て来るから”という薄っぺらな理由を延べ、内心では彼女とならばこの感情を共有できるかも知れないという期待を込めて、彼女にその本を渡した。果たしていつもの空き教室でその本を読んだ感想を尋ねれば、「主人公は不幸だけど立派だった」というものだった。
「なんでそう思ったの?」
「だって主人公は辛い目に遭って自分から行動してたじゃん。殺して逃げて隠れて生きて。最期だって追っ手を殺して何とか生き延びようとした訳だし。自分の本能に誠実で有り続けたこの主人公は偉いじゃん?」
「……そうだね」
翔はそのとき作り物の笑みを浮かべた。
責められている気分だった。
卑屈な物の見方しか出来ない翔と違って彼女はもっと素直な目でこの物語を捉えて見せたのだ。
彼女と自分は、違うのだ。
――勿論、この事実によって彼女を敵対視する、などということはしない。むしろ翔は自分の好きな本に対して自分と異なる価値観を持つ彼女がどんな感想を持つかに興味を持った。意見を交換し合って彼女を知ることは何だか楽しかった。だから色んな本を渡した。
つまり、腑抜けていたのだ。
時は経過する。
春。
卒業式の日を迎える。
その日、翔は目が覚めたとき、いつも通りの朝を迎えたのだと思った。
見慣れた白い天井、聞き慣れた目覚ましの音。
自室を出て洗面所に行って顔に水を掛けて微睡んだ意識を覚醒させる。
それからいつも通りにリビングに行けばダイニングテーブルに座ってコーヒーを飲みながら朝のニュース番組を見ている母がいた。
『昨日、臓物原市内の高校に通う女子生徒が同級生の男子生徒を刃物で切りつけた事件で――』
「あら、おはよう」
「おはよう」
母は朝から珍しく顔に化粧を施して黒いカーディガンを着て外行きの装いをしていた。
「あんた今日、卒業式でしょ。後でお母さんも行くからね」
「来なくて良いよ。絶対」
「何でよ」
「何でも」
『――男子生徒は市内の病院に搬送されましたが今日未明、死亡が確認されました』
翔はいつも通りテーブルの上に置いてある袋から食パンを一枚取り出して、テーブル横の棚に設置してあるオーブンに突っ込んで、その間にいつも通り、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いでヨーグルトと一緒にテーブルに運んでくる。いつも通り焦げ茶色の焼き目が付いた所でトーストを取り出していつも通り苺ジャムを塗りつけて、囓る。
――味がしなかった。
まるで四角い木片みたいだと思いながらトーストを食べ、味の無い豆腐みたいだと思いながらヨーグルトをスプーンで口に運び、白い冷たい水だと思いながら牛乳を飲んだ。
朝食を終えたら再び洗面台に移動して歯ブラシを手に取ってチューブ容器の歯磨き粉を握ってブラシの上にペースト状の歯磨き粉を上手く乗せようとした。
――手が震えて手間取った。
身支度を終えていつもなら何も思わないのに、ふと手元が寂しくなって、窓際の陽の当たるフローリングの上で日向ぼっこをしている茶色い愛猫にそっと近づいて、その柔らかな背中に手を伸ばした。
――無心で撫で続けた。
なるほど。
翔は、ここらで流石に自分が緊張していることを自覚しなければならなかった。
今日は人を殺す日だから――人道に反する行為を前に肝の小さいこの身体は人知らず臆しているのだと、認めなければならなかった。
翔は自室に行って勉強机の上から二番目の引き出しに隠していたナイフを手に取った。
町に一店舗しかないホームセンターで買った刃渡り10cmの折り畳みナイフ。
人を殺すための凶器。
それをブレザーの左胸の内ポケットに忍ばせた。
外に出ると空は酷い曇り空で今にも雨が降りそうだった。
自転車に跨がる。
中学校までは一本道で、沿岸に沿った車道が真っ直ぐに続いており、その脇に引かれた白線と歩道との間に生まれた狭い空間に収まって翔は自転車を漕いだ。涼しい風を身体に受けても心はどこか落ち着かず、途中、車道の向こうに見える海に目を遣ったが、生憎、青灰色の海は大しけで、騒がしい波音と共に岸へ忙しなく押し寄せる白波に余計心がざわついた。
駐輪場に自転車を止め、階段を上って教室に着くと自分の席である窓際の一番後ろの席に座った。
既に教室には多くの者が来ていた。
皆卒業を前に浮き足立っているようで、忙しなく出歩いて友達との会話に興じていた。その中に九重の姿を見る。ポケットに片手を突っ込んで廊下側の壁際に背を持たれ、隣に立つ男子生徒と楽しげに話し込んでいる。
翔はその姿をじっと見つめる。
狙いを定めるように標的をじっと見据える。
やがて式を行うために三年生は全員体育館へと移動することになる。
生徒一同パイプ椅子に座らされる。
ステージ中央の教壇の前に立つ校長が学生の名前を一人ずつ読んで卒業証書を授与していくのを尻目に、翔は全く別のことを考えていた。
殺人のことを考えていた。
咲紀と事前に散々殺人について話し合ったけれども九重を殺す場所は結局、いつも咲紀と放課後に訪れていた三階の奥の空き教室に決めた。去年の春から学校のある日はほぼ毎日利用してきたが、遂に二人以外の誰も訪れることが無かった為である。使える工具の一つも置いていないから倉庫の役割も無さそうで、つまり本当に忘れ去られた教室らしかった。
まず翔はその空き教室に九重を連れてくる。「今までの恨みを晴らしたいから一対一でやり合おう」なんて巫山戯た事を言えば面白がって九重は乗ってくる。空き教室に入ったら扉を閉めて、内ポケットに隠していたナイフを取り出して、全力で突っ込んでいって、腹に刺す。驚愕で目を見開いた九重が痛みで蹲ったらその背中にナイフを振り下ろして横っ腹を刺す。九重は泣いて懇願する。「痛い。やめてくれ。殺さないでくれ」その耳障りな声を発する喉にナイフを振り下ろす。血を吐いて痙攣する九重の身体を暫し眺めた後その顔をめった刺しにする。死んだところで身体を引き摺って掃除用具ロッカーにしまう。床の血を雑巾で拭き取る。それで終わり。
頭の中で何度も何度もシミュレーションを繰り返した。
彼を殺す練習をした。
そうして式が終わり教室に戻れば、担任がやたら湿っぽいホームルームを行って、それで解散となった。と言っても直ぐに帰る生徒は居らず、別れの悲しさを慰める思い出の品を欲しがった生徒はクラスメイトに一人一言の寄せ書きを求め、教室に留まって少しでも長く別れの余韻を味わいたい生徒達は丁度良い口実を見つけたとばかりにその提案に乗り、色紙の置かれたあちこちの机に人集りが出来上がっていった。九重も廊下側の席に発生していた群れの中に混じっていた。
――いよいよだ。
翔は心の中で意気込んで席を立つ。
これから実行しようとしているのは殺人計画の第一段階“空き教室への誘導”である。その為には当然声を掛ける必要があるわけだが、翔は今までに一度も自分から九重に話しかけたことが無かった。彼に関わると苦しみを与えられると身体に叩き込まれている人間が自ら彼に声を掛ける道理は一切無いのである。しかしながらこの一瞬においてはその恐怖を乗り越えて、声を掛けなければならなかった。
全ては奴を殺すために。
九重は、他の生徒と共に机に向かって何かを書いている。翔はその背中に向かって一歩、また一歩と足を踏み出す。
呼吸は荒くなり心臓の鼓動は早まる。心拍の音が身体中に鳴り響き周囲の騒音が聞こえない。足が鉛のように重い。
それでもやがて、九重の背中へと辿り着く。
翔は一度大きく深呼吸をしてから、震える左手を伸ばし九重の左肩に置いた。
「んぁ?」
怪訝そうな顔をして九重が振り返る。
ここで翔が口にするべき言葉は“今までの恨みを晴らしたいから一対一でやり合おう”だった。
だが実際に口から出た言葉は――
「あっ」
だけであった。
しかもそれは単語とも言い難い、発音され損なった吐息に過ぎなかった。
頭の中には言うべき言葉が確かに浮かんでいる。なのに喉が堰き止められたかのようにこれ以上の言葉が一切出てこない。ただ口を半開きにした間抜け面を晒し続ける。
「おーい怜央ー。こっちの寄せ書きも頼むー」
窓際に立つ男子生徒に名前を呼ばれた九重は顔を向けて「おうっ」と返事を返した後、未だ奇怪な表情のまま固まる翔の右足の臑を上履きのつま先で思い切り蹴りつけてから呼ばれた方向へと歩き去って行った。
翔は蹲った。痛みからなのか羞恥からなのかは本人にも分からなかった。
直ぐ傍で誰かが立ち止まった。視界の端に映る上履きから伸びる黒いソックスで女子だと分かった。見上げれば微笑を浮かべた咲紀が見下ろしていた。
あの時と似ていた。翔が奴隷の真似事をして廊下で咲紀を見上げて――交流が始まるきっかけになったあの時と。
「大丈夫そう?」
その黒い瞳に同情の色などは微塵も無くて純粋な疑問として訊いていた。
痛みについて、ではない。
計画の進捗について、である。
だがそれを理解していながらも翔は、痛みについて心配されたのだと、あえて誤認したフリをして、
「ああ、うん。このくらい全然大丈夫」
と言いながら余裕そうに軽い笑みさえ浮かべて立ち上がって見せた。
しかし彼女はそんな彼の誤魔化しも恐らくはお見通しで、そして一切、容赦しない。
翔の耳元に口を寄せて、囁く。
「ちゃんと殺せそう?」
言葉にされたらもう駄目だった。
返せる言葉は何一つ思い浮かばなくて、出来ることと言えば、今にも泣き出しそうな情けない表情を見られないように黙って顔を伏せて、逃げるように廊下のトイレに駆け込む事くらいだった。
「くそっ! くそっ! くそっ! くそっ!」
トイレの個室に立て籠もり便器に座って太ももに両の拳を振り下ろしながら翔は悔しげに声を吐き出す。
「くそっ!!!」
今度は右の壁に力一杯拳を叩きつける。
俯くその瞳は赤く充血していて目の端からは涙がこぼれ落ち、ギリギリと歯が噛み締め合っている。
要するに、負けたのだ。
九重を前にして恐怖に呑まれ、まともに話しかけることも出来ずに、ただ惨めに敗走したのだ。
長年痛めつけられた事に対しての恨みの感情を晴らすよりも一時の恐怖の感情から身を守ることを優先して逃走してしまう程の臆病者だったのだ。
その姿はさながら敵前逃亡を図った負け犬のそれで自分でも酷く嘆かわしく、思った。
翔の敗走には進学先も助力していた。
翔は四月より翔の住む町から西へ30km離れた場所に位置する翔の住む町よりずっと発展した街にある高校に進学する事になっている。そこは偏差値の高い進学校で、間違っても勉学を疎かにしている九重怜央が進学する事はあり得ない。つまり翔は中学校を卒業すれば九重と会うことは無くなるのである。だから、
――恐怖と戦う必要は無い。
――このまま逃げ切れば良い。
などと臆病な気持ちが心の奥底で首をもたげたことは否定できなかった。
「屑っ! 弱虫っ! 卑怯者っ!」
翔は両手で髪を掻き毟りながら己への罵倒を口にする。
翔の頭に浮かんでいるのは咲紀の姿。
目的を共にし友好関係にあった彼女。その関係を成り立たせていたのは共に人道に反する行いをする連帯感では無かったか。己が尻込みをし九重を殺せないと分かった今、咲紀は自分だけが殺人者になることに憤りを感じるのでは無いだろうか。
その場合の自分の立ち位置は――裏切り者に決まって居る。
「くそっ……くそっ……」
事ここに及んで咲紀に罵られることさえ恐れている自分はもはや病的なまでの臆病者で、卑怯者で、軟弱者で、敗北者。
翔はただただ情けなくて涙を流した。
このまま一生この場に籠もって死んでしまいたいとさえ思いながら泣き続けた。
――少し時間が経った後だった。
翔は不意に自身の呻き声に混じって聞き慣れない甲高い音を聞いた。
顔を上げて、耳を澄ます。
遠くから聞こえる声。
悲鳴、だった。
翔は最初ゆらりと立ち上がって、ゆっくりとトイレを歩いて、終いには廊下を駆けだした。
酷い胸騒ぎがしていた。
居ても立っても居られなくなるような不安な緊張。
急き立てるような焦燥感。
つまり、本能が予想していたのだ。その最低な展開を、きっと。
自分の教室の開け放たれたドアの前に立った翔はそこから正面に広がる光景を見て、目を見開いた。
転がったまま動かない九重。
それを冷たい瞳で見下ろす咲紀。
彼女の手に握られた血塗れのナイフ。
「あ、翔。代わりに殺っといたよ」
咲紀が穏やかな笑みを浮かべて言った。
頼まれていた用事をこなしたかのような何気ない口調で。
翔は早足で咲紀に近づくと、そのしなやかな腕を掴んで、教室を飛び出した。
廊下を走って階段を駆け下りて上履きのまま昇降口から外に出た。
その間、翔は喋らなかったし咲紀も一言も言葉を発さなかった。ただ咲紀は愉快そうに口の端を釣り上げていた。
やがて駐輪場に辿り着く。咲紀はスクールバスで通っていたから自分の自転車は置いてない。翔が、自分の自転車に跨がると、彼女はその荷台が定位置だったかのようにスカートを下敷きにしながら自然な動作で座った。
「捕まってて」
「うん」
身体に腕が回される感触を確かめてから翔は自転車を漕ぎ出す。
行く当ては無かった。
だが、逃げなくてはならなかった。
「どうして九重を殺したの?」
車道の端を走って意味なく西の町を目指しながら翔はまずはその質問から会話を始めた。
「そうだなぁ……今更一人殺しても二人殺しても変わらないと思ったからかな?」
歩道を歩く腰の曲がった老人を追い越していく。
自転車の横を黒い軽自動車が走り抜けていく。
道路を越えた向こうでは海が荒れ狂っている。
翔が荷台に殺人者を乗せて自転車を走らせている事には誰も気付いていない。
「あの人、殺したの?」
「うん。昨日の夜、酒飲んでぐっすり眠ってた時に喉元をナイフでグサってね」
「死体と一夜を明かしたって事?」
「そう。ぞっとするでしょ?」
「するね」
彼女は数ある思い出話の一つみたいに平然と語る。
「お母さんは?」
「ちょっと前に足の骨折っちゃって、病院に入院している。だからきっと、家に死体があるなんてまだ知らないと思う」
「気付いたら驚くだろうね」
「だろうねー」
退屈を潰すために友達と繰り広げる雑談。
でもその呑気さの異常性を彼女はすっかり認めていて、だからこう訊いたのだ。
「どう思う?」
翔はその言葉に真摯に答えた。
「イカしてると思う」
「イカれてるじゃなくて?」
「僕は……怖くなって尻尾を巻いて逃げたんだ。でも咲紀はちゃんと憎んでた人を殺して、ついでに九重も殺した。最高にイカしてるよ」
翔が言い切ると、
「ふっ、ふはっ、ふはははははははははっっ」
咲紀は翔の背中で大笑いした。腹に回されていた腕が震えていたことからもそれがよく分かった
「あー可笑しい。変だよ変。絶対変だよそれ。私二人も殺してるんだよ? 立派な殺人鬼だよ? それをイカしてるって――くっ、ふはははははははは」
「本当にそう思ったんだから仕方ないだろ」
「ふははははもう辞めてっ。お腹痛い。死んじゃうっ。ふははははははっっっ」
彼女は翔の発言が壺に入ったようで暫く狂ったように笑い続けていた。
それからようやく笑いが収まると、彼女は笑い疲れたのか彼の背中にもたれ掛かり、落ち着いた声色で言った。
「ありがとう。ちょっと嬉しいよ」
それから少しの間静寂が広がって、翔は彼女の重みを背中に感じながら無言で自転車を漕ぎ続けた。
車輪が路面の上を滑る音。
追い越していく車の風を切る音。
そして、遠くから聞こえるパトカーのサイレン。
そのやたら鼓膜に入り込んでくる警報を聞いて思い出したみたいに、彼女が口を開く。
「感謝ついでに言うんだけどさ」
「ん?」
「神社で翔からあの話を聞いたときめっちゃ嬉しかったんだよね」
「罪がどうのってやつ?」
「それ。あの時の私って、家出るまでこの先ずっと苦しみ続けることになるのかなって思ってて、うんざりしてて、あー死にたいっていつも思ってたから。だから翔が、法律なんて知ったこっちゃ無いって言ったとき、勝手に背中を押されて救われた気分になったんだ」
背中で弾む声を聞きながら、だからあの時の彼女は何だか嬉しそうな表情をしていたのかと思い起こしていた。
「そういう事だからさ、ありがとう」
「どういたしまして」
もはや話題も尽きたとばかりに再び会話が無くなる。
代わりに空白を埋めるように空気を振るわせながらサイレンの音が迫る。
翔は自転車を漕ぐスピードを上げる。
「無理だよ」
「大丈夫」
それはきっと自分に言い聞かせる為の言葉だった。
気付けば隣を一台のパトカーが併走し、その後ろにも二台のパトカーが続いていた。
『そこの自転車止まりなさい』
車体の上部の赤色灯の中央に取り付けられたスピーカーから指示が飛ぶ。
二人乗りを注意しようなんて厳格さがこんな田舎にあるわけも無い。間違いなく男子生徒を刺した女子生徒を、咲紀を、追ってきたのだ。
「もういいよ。止まろう」
「大丈夫。まだ逃げれる。大丈夫」
無謀だと分かっていてもペダルを漕ぐのを辞めるわけには行かない。
咲紀を警察に渡すわけには行かない。
彼女は、翔が殺さなければ行けなかった男を殺して、翔の分まで業を背負ったのだ。彼女にそうさせてしまったのは酷く情けの無いことで、罪なことで、彼女の逃走を助けることは翔にとっての唯一の償いなのである。だから諦めるわけには行かないのだ。
しかし彼女は――当に腹を決めていたらしかった。
「ありがとう」
その囁きが耳元で聞こえたのは彼女が後ろで後輪の軸の出っ張りに足を置いて立ち上がったからなのだろう。視界の両端から伸びてきたしなやかな手がハンドルを握る翔の両手ごと包んでブレーキをゆっくりと引いていく。
無慈悲に重くなるペダルと徐々に減速する自転車。追い付いてきた絶望が重力を強めたかのようだった。翔の抵抗も虚しくやがて「きいっ」と短い音を立てて自転車は完全に動きを止めた。
翔は無力感に打ちひしがれて俯いた。
そして自転車から乱暴に降ろされた。
警官にではなく、咲紀に。
――っっ!?
翔が驚く間に咲紀は翔のブレザーをまさぐり、胸の内ポケットから折り畳みナイフを奪った。散々話し合ったのだから凶器の隠し場所など彼女にはお見通しだった。彼女はそのまま左腕で翔の首を締め上げ、右手に握ったナイフの刃先を翔の首元へと突きつけた。
「近づくなああああ!!」
空気を切り裂くような鬼気迫る声で彼女が叫ぶ。
その声を聞いて今まさに確保しようと集まってきていた6名の警官が動きを止めた。誰もが目を見開き顔を強張らせた。
「離れろおおお!」
彼女は猛獣の雄叫びのように荒々しい口調で叫び、圧に押されるように警官が後ずさる。
生まれる張り詰めた静寂。
その静けさの中で翔はようやく状況を把握し自分に相応しい単語を見つけ出す。
人質。
翔は、彼女の人質にされていた。
「その生徒を解放しなさい」
正面に対峙している年配の警官が落ち着いた声色で諭すが彼女はそれを無視し、
「私を追ってきたんですか?」
鋭い声で問いを返す。
「そうだ。君には男子生徒の殺人の容疑が掛かっている。だが危害を加える気は無い。どうか大人しく投降して欲しい」
「嫌です」
彼女の間髪入れぬ否定の言葉に空気は再び静まる。彼女の家での犯行がまだバレていないことに翔は偽りの安らぎを僅かに感じたが、大して意味も無い事だと泥のような下向きな感情が直ぐに塗りつぶした。
年配の警官は新たな対話の糸口として翔に目を向ける。
「その男子生徒は友達かい?」
翔はその瞬間千載一遇の機会が訪れたのだと思った。咲紀一人が罪に問われているこの状況は全く本意では無い。咲紀は確かに九重を殺したがそれは自分の意思を代行したに過ぎず、本来であれば自分こそが罪に問われるべき人間なのである。そのような心持ちで彼は共犯を名乗ろうと思ったのだが
――んぐっ!?
咲紀が首に回した左腕に力を込めて喉を圧迫し、翔が喋ることを許さなかった。その細い腕には似つかわしくない強靱な力で彼女の意志の強さを思わせた。
「この人は他人で只の人質です。脅して逃走用の足として使いました」
彼女は優しく残酷な人間だ。
自分に罪を分け与えることすら許してはくれないのだ。
咲紀が続ける。
「そういえば、九重怜央は即死だったんですか?」
「どうしてそんなことが気になる」
「死んだんですよねぇ?」
彼女の煽るような口調に年配の警官も腹を立てた。
「そうだ! 君が首や胸を刺したせいでな!」
「それは良かった」
「なに?」
「彼は死ぬべき人間でした」
「……何を言ってる」
「彼はずっと私をいじめていました。私を苦しめ続けました。そうして耐え続けてきた私には彼を殺す権利があるはずです」
「この世に人を殺す権利のある人間などいない!」
翔は勿論気付いている。彼女が自分の代弁者になろうとしていることに。彼女の口にした「私」は翔の「僕」と同義で彼女の言葉は翔の言葉でもある。彼女は翔の苦しみをよく知る唯一の理解者である。
「じゃあ他にどんな方法で私は、心に受けた苦しみを晴らせば良かったんですか?」
「君は警察や周りの大人に頼るべきだったんだ。そうすれば君は――いじめから逃れられたはずだ」
「逃げる方法を聞いてんじゃねえんだよ! この苦しみをどうすれば良かったかって訊いてんだよ!」
彼女は乱暴に声を荒げる。きっとそれは心からの叫びだった。
「私は大人だとか法律だとかに任せないで、直接この手でやり返したかった! 今まで感じた怒りや恨みや憎しみや悔しさや恥ずかしさを全部殺意に込めてぶつけて、それでようやく私は救われるんだ! アイツを殺して、やっと私の心は満たされたんだぁ!」
彼女の叫びによって空気は静まりかえる。
やがて彼女の叫びの余韻さえ失われた頃合いで、正面に立つ年配の警官が、
「少年を離しなさい」
と言った。
振り出しに戻ったようだった。
彼女もこれ以上の対話に意味は無いと悟ったらしい。翔の耳元で囁く。
「行って来るね」
その言葉を残して、彼女は駆けだす。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
吠えながら、ナイフを構えて目の前の警官に向かって駆け出す。
翔の視界がゆっくりになる。
彼女の背中がゆっくりと遠ざかる。
年配の警官の横に立っていた若い警官が顔を引き攣らせ銃を構える。
そして――発砲音を二つ聞く。
一つ目の弾丸は彼女の脚を貫いて、二つ目の弾丸は体勢を崩した彼女の胸を貫いた。
彼女が前のめりでゆっくりと地面に倒れた。
あの時の咲紀の心情を正確に理解する事など僕には出来ないけれど、推測することは出来る。彼女は多分、清々しい気持ちだったのだと思う。人間を二人殺すという禁忌を犯して、もはや自分の人生が修復不能であるという気持ち良い程の終末感を得ていたのだと思う。だから彼女は最期にちょっとしたお巫山戯をするつもりで、いつだったか、彼女に渡した小説のラストのように、追っ手である警官に向かってナイフを向けて駆け出したのだと思う。本気で刺す気など無かったのだと思う。ただの悪戯心だったのだと思う。さもなければ走り際に見た彼女の横顔に笑みが浮かんでいた事に説明が付かない。そして発砲した若い警官も始めから彼女の足を狙っていたから目的は単なる足止めだったのだと思う。彼女がバランスを崩すのは予期していなかったのだと思う。
――などと考えることに意味は無い。
彼女は死んだ。
僕が殺した。
僕の分まで業を背負って。
一人で死んだ。
僕は崖に立って黒い海を眺めながら今までを振り返る。
全ては自分の臆病さが招いたことでは無かったのかと。
自分が九重を殺していれば逃げることも無く彼女が死ぬことは無かったのではないかと。
自分が神社で彼女に妙なことを言わなければ彼女は人殺しにならずに済んだのではないかと。
自分がそもそも九重に臆すること無く立ち向かっていれば彼女と関わることも無かったと。
僕が、咲紀を殺した。
僕の臆病さが彼女を殺した。
戦うことをしなかった卑怯者。
負けを受け入れ続けた小心者。
弱虫。負け犬。蛆虫。屑。
僕は思う。
僕に思う。
お前なんか死んだ方が良い。