(書籍発売中!)逃げる魔法使い 〜寿命を削って魔法を使っていただけなのに、なんだか周囲の様子が変です〜   作:うちっち

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昨日に続いての投稿です
もし読まれていない方は、そちらから読んでいただけたら!


番外編⑤ 長命種と恋と

 ぱち、と暖炉の奥で火の粉が弾けた。

 誰もがしんと静まったまま、余韻に耳を傾けていた。

 老婆が一息つき、湯呑を置くと、火の前の空気がやや緩む。

 

「……ふう。ここまでが、ミアと名付けられた少女が、冒険団に馴染むまでの話ですね」

「ってことはっ……ここから先は――!」

 

 王女が身を乗り出す。毛布が肩からずり落ちても気づかない。目はきらきら、口元はにんまり。まさに期待に満ちた顔だった。

 

「恋よね!? 恋でしょう!? ここから騎士の息子との!!」

 

 少女――今は火のそばで膝を抱えている魔法使いの少女は、ぐったりとした目で王女を見た。頬には暗い影が差している。火の明かりがなければ死んでるようにも見えた。

 

 その隣では、勇者が腕を組んでやや難しい顔をしていた。火の光が、少し険しい横顔を照らしている。剣士から「どうした?」と尋ねられると、勇者は、頭をぽりぽりと掻いた。

 

「さっきの話……俺、なんかよく知ってる奴が出てきた気がする……いや、60年前なのは分かってるんだけどさ」

「考えすぎよ」

 

 王女が勝ち誇ったように言うと、さらに老婆の方へと目を向ける。老婆は湯呑に口をつけながら、くす、と小さく笑った。

 

「そうですね。次の話は、町で出会ったひとりの少年――騎士の家の息子とのお話です」

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 ミアと騎士の息子が出会ったのは、街角の夕暮れだった。まだ、追手もいない頃。

 

 店で買い物をしているフィリナを待っていたミアは、日が斜めに差し込む道の端で、一人、地面に向かって両手をかざしていた。指をくねらせたり、ぐにゃっと曲げたり、 一見すると不思議な、いや、むしろ不格好な手の形。

 けれど、地面に落ちたその影は、驚くほどに猫だった。

 

 背中を丸めて座りこみ、ぴくりと耳を立てているような、柔らかくて、優しげな猫の影。

 

 それを作っている少女は、顔をうっすら赤くしながら、指を微調整していた。その様子を、道の反対側から見ていた少年がいた。

 

 まだ青年と呼ぶには幼く、けれど騎士の制服に身を包んだ、まっすぐな目をした少年。彼は、思わず立ち止まっていた。どうしても、不思議だったからだ。

 

『……あの手の形で、あんな影になるのか……?』

 

 少女が影に満足したように、ふっと微笑む。そして、影にそっと指で触れるような仕草をすると、猫の形はふわりと崩れて消えた。

 

 それを見た騎士の息子は、声をかける気も忘れたまま、しばらく、そこから動けなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 市場の通りで偶然再び見かけた少女に、彼は思わず声をかけた。

 

「……あの、昨日。猫の……」

 

 少女はぱっと振り返り、目を丸くしたあと――笑った。

 

「あっ。見てたの? 変な指してたでしょ~」

「……うん、でも。すごかった。……どうやったの?」

「ひみつ~!」

 

 そう言って、指で小さく猫の耳を作ってみせる。

 彼は、その瞬間に思った。

 

 ――この子のことを、もっと知りたい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、まだ日が高い、午後のことだった。

 

 野営地の外れ、岩場のすみにしゃがみこんで、少女――ミアは、必死に杖を振り回していた。杖は、魔法使いのカヤに頼み込んで借りたものだった。

 

 構えている手もガタガタで、動きが不安定すぎる。けれど、それでも彼女は一生懸命だった。小さな石の上に乗せた木の枝を前に、何かを変えようと、口をとがらせて集中していた。

 

 ……しかし、何も起こらなかった。

 

「……ぅー」

 

 ミアは枝を見つめ、ちょこんと唇を尖らせた。その顔はどこか、今にも泣きそうだった。

 

 そんな様子を、少し離れた岩陰から、ひとりの少年が黙って見ていた。騎士の息子の少年だった。

 

 騎士の制服を着た彼は、静かに腰を下ろすと、そのまま何も言わずに見守っていた。声をかけようかと何度も口を開きかけて、けれどやめた。ミアの表情が、真剣そのものだったからだ。

 

 

 

 

 ……何度目かの失敗の後、少女がようやく気がついた。

 

「……え?」

 

 振り返った先に、まっすぐな目をした少年がいた。

 

 ミアはぴょこんと跳ねて立ち上がった。顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに口を動かす。

 

「な、な、なに見てたの!? 見てたでしょ!? ちがうからね!? あれはその……練習だから! 本気じゃないから!」

 

 慌てるミアに、少年は素直に答えた。

 

「うん、見てた」

「うう、やっぱり……」

「でも、すごかったよ」

「どこが! なにも起きなかったのに!」

「……それでも、諦めなかったでしょ? だから」

 

 ミアが黙った。

 少年は、立ち上がると、ミアと同じ高さまでしゃがみこみ、目を合わせるようにして言った。

 

「魔法が成功したとき、拍手する人がいたほうがいいって思って」

 

 言葉はそれだけだった。

 

 でも、ミアは何かを言い返すことができなかった。胸の中で、何かがじんわりと溶けるような気がした。

 

「……しょーがないなあ」

 

 小さくそう呟いて、そっぽを向きながらも、彼女は再び手を構えた。今度は、ちょっとだけ、背中がまっすぐに見えた。

 少年は、その様子をただ黙って見ていた。

 

「あ、ほら! 今ちょっと枝が動いた!」

「ほ、ほんと? 言われてみたら、そうかも……」

 

 

 

 

 

 

 

 それからまた、しばらく経った日のことだった。

 

「あのっ! 俺と決闘してくれませんか⁉」

「……?」

 

 フィリナは振り返った。そこにいたのは、最近ミアと仲がいい、騎士の息子だった。そこまではいい。それが、決闘? なぜ? 意味が分からない。というかこの子と喋ったのもほぼ初めてなのになんで決闘? バーサーカー? バーサーカーなの?

 

 フィリナの脳裏に色々な気持ちがよぎった。しかし、表情には出さずに尋ねる。

 

「なぜ決闘したいの」

「ミアと仲良くなるためには、副官を倒せと言われました」

 

 振り向いたフィリナの目に入ってきたのは、楽しそうに笑う団員だった。

 フィリナは迷った。どうする? 決闘に応じることはできる、できるが、その結果は手に取るより明らかである。ミアもきっとしょんぼりしてしまう。しかし……。

 

 

 困ったフィリナの目に入ってきたのは、時間の空いた団員たちが訓練をしている空き地だった。

 

 

 

 広場の隅、剣の鍛錬用に設けられた小さな空間。冒険団の団員たちが順に打ち合いを続ける中、やや場違いな制服姿の少年が、一心不乱に木剣を振っていた。

 

 相手をしていたのは、片手で大剣を振るう長身の団員。何度挑んでも、彼の一撃に剣が弾かれ、体勢を崩す。

 

「おい、大丈夫か、騎士の坊ちゃん。訓練に混ぜてくれって言っても……」

「……もう一度、お願いします!」

 

 息を切らしながらも、少年は剣を構え直す。額には汗がにじみ、腕はすでに震えていた。

 ――だが、彼の目は、一度も逸れていなかった。

 

 遠巻きにそれを見ていた団員のひとりが、鍋の蓋で日除けをしながら呟いた。

 

「うーん、正直、才能は……ないな」

「でも、逃げないよね。あの子。あれで五本目だよ?」

「え、マジで? 俺だったら三本目で膝つくわ……」

 

 そしてその後ろ、やや離れた木陰から、その様子をじっと見ている2人の姿があった。フィリナと、ミアだ。

 ミアはひざを抱えながら、じっと少年の背中を見つめている。その視線は不思議なほど真剣だった。普段はのんきな彼女が、こんなふうに誰かを見ていることは、珍しかった。

 

「……がんばってるね」

 

 ぽつりと呟いたその声に、フィリナが横目でちらりと少女を見る。

 

「うん。あの子、がんばってる」

 

 ミアはくるりと指先を回し、指の影で小さく猫の耳を作ってみせた。

 その影は、きれいに風に揺れた。

 

 

 

 

 

 

 鍋の香りが漂う夕暮れどき。

 

 冒険団の野営地に設けられた丸太の食卓には、すでに何人かが腰を下ろし、湯気の立つ皿を囲んでいた。少年は、鍋をよそった皿を手に持ったまま、少し離れた場所で所在なげに立っていた。どこに座ればいいのか分からないようだった。

 

 その様子を見たフィリナが、何も言わずに立ち上がる。持っていた皿を別の席に移し、自分の席を空ける。そこは、ミアの隣だった。

 

「……」

 

 何かを言いかけた少年に、フィリナは無言のまま、ほんの少しだけ顎をしゃくった。

 少年は目を見開き、やがて小さく頭を下げて、空いた席に腰を下ろした。

 

「……ありがとう」

 

 その声に、ミアが隣でふにっと笑った。

 

「うん、どいたの私じゃないけどね~」

「でも、ここが空いてて、うれしい」

「ふふ、いいよ~」

 

 彼らの会話を、他の団員たちは聞き耳を立てるでもなく、あくまで自然体のまま、そっと視線を向けていた。あたたかな眼差しが、いくつも、そこに注がれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 また違う日。

 フィリナとミアが、野営地で、並んで焚火を見つめている。

 

 薄い靄が、森の奥からゆっくりと流れ、野営地の端を白く包んでいた。焚き火の煙は空に逃げ場を見つけられず、足元を這うように流れていく。

 

 その中で、少年がパンを焼いていた。いつも町で買ってくる大きな円形の黒パン。皆が真ん中の柔らかい部分を先に取ってしまうので、残るのはたいてい耳の部分ばかりだった。

 

「……ちょっと硬いんですけどね。火で炙ればいける気がして」

 

 炭火の端に串を渡し、その上にパンの耳を並べていく。ぱち、という音とともに、香ばしい香りが立ち上る。ふと、ミアが口を開いた。

 

「……パンの耳、すき」

 

「え?」

 

 少年が驚いて顔を向ける。少女は火の奥を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。

 

「フィリナもそうだし、みんなも真ん中の柔らかいところが好きだけど……かりかり派には、かりかり派の……生存戦略が、あるの」

 

 一瞬、ぱちぱちという焚き火の音だけが聞こえた。

 少年は、きょとんとした顔をしたまま、数秒だけ黙り込んでいた。

 やがて、ふっと笑う。

 

「あはは、それ面白いね。僕、覚えるよ、それ」

 

 少女は何も言わなかったが、少しだけまぶたを細めて火を見つめていた。その傍らで、フィリナも、また。

 

 こんな穏やかな日々が続いていくのだと、誰もが思っていた。……しかし。

 

 

 

 

 ――理術省の追手がミアの前に姿を現したのは、この翌日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 町の裏通り。陽が傾き始めた頃、ミアと騎士の息子は、人通りの少ない石畳を並んで歩いていた。けれど、その背後の影には、妙な気配があった。

 

 冒険団の団員たちが、物陰にずらりと潜んでいたのである。

 

「君を、これからずっと、守りたいんだ」

 

 少年が、少しだけ震えた声でそう言ったとき、ミアはふわりと笑って頷いた。

 

「うん。嬉しいな」

 

 そのまま少年は深く呼吸を整えると、顔を赤らめながらも真正面からミアを見据えた。

 

「……結婚、してほしい」

 

「え」

 

 

 

 

 

 その瞬間、茂みの奥からごそごそと揺れる音。物陰に隠れた団員たちの目がギラリと光った。背が高いせいで茂みから完全には隠れきれていないフィリナが、ばつの悪そうな顔でしゃがみ直す。だが、その一部始終は、ミアにも少年にも気づかれていなかった。

 

「えっ?」

「なんて?」

「あいつ、ミアと結婚したいらしい」

「ど、どうなるんだ」

 

 

 冒険団が見守る中……ずっと考え込んでいたミアは――小さく息を吸い込むと、頬を赤らめ、そっと頷いた。

 

「よろしくお願いしますっ」

 

 

 

 

 

「「「えっ」」」

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「えー、結婚しちゃうんだ……寿命の差とか、あるんでしょうに」

 

 話を聞いていた王女が、やや呆然とした顔でつぶやいた。目の奥に、少女らしい純粋な興味が灯っていた。

 

「それも踏まえて、考えていたみたいですよ。それでも、いいって」

 

 老婆が微笑みながら、暖炉の火越しに宙を見上げる。

 

「じゃあ、2人は幸せに……いえ、でも、理術省の奴らがいるものね」

「そう。彼らは、王国から、増援を呼んできたの。とても、多い数だった。彼らもきっと必死だったのね」

 

 王国、という言葉が出た瞬間、勇者と剣士の視線がちらりと王女に向いた。

 

「ち、違うから! だからうちの王国とは違うから!」

 

 王女はぶんぶんと手を振って否定する。すっかりお馴染みのやりとりだった。

 

「……多い?」

 

 剣士がやや硬い声で尋ねる。

 

「ええ。彼らは、町を見下ろす森の奥にある、岩場に陣取ったの。見る限り、3000人くらいはいたんじゃないかしら。小さな町1つ、簡単に滅ぼせる数だった」

「それで、どうしたの?」

 

 こわごわと王女が尋ねる。老婆は静かに答えた。

 

「色々な意見が出たわ。降伏して長命種を差し出そうという者もいた」

「町人からすると難しいよな……そりゃ冒険団は反対するだろうけど」

「差し出そうと主張する急先鋒はフィリナだったわ」

「何があったんだ⁉」

 

 

 

 

 

 

 

 野営地の広場に、どたばたとした声が響いていた。ミアの服を無理やりに被ったフィリナが声高に主張している。

 

「ほら見て。私こそが真の長命種。だから私が行ってくる」

「いや副官、それは無理があるって」

 

 冒険団にミアの服を剝ぎ取られても、フィリナはしばらくじたばたと暴れていた。ぐるぐる巻きに縛られたフィリナを呆れたように眺め、団長は大きなため息をついた。

 

 確かに、どうしようもないのだ。あれだけの人数を揃えてくるとは思わなかった。あちらも必死なのだろう。

 

 広場に集まった町民の顔も暗い。しかし、意外にも、長命種を差し出してくれと言う者は少数派だった。騎士の息子とミアの恋愛話は、町民も応援していたらしく、もはやミアも町民の1人と思われていたらしい。

 

 だが、それでも、3000の兵に勝てるだけの戦力は、この町にはない。「山の神様にお願いするしかない」と主張する者もいた。山の神に生贄を捧げれば願いを叶えてくれるという伝承があるのだと、その者は大きな声で主張したが、フィリナと同じく、縄でぐるぐる巻きに縛られ、運ばれていった。

 

 

 

 

 通告が届いたのは、翌朝だった。差出人は王国理術省。

 

「“長命種の末裔体”の所在を確認した。三日後の朝までに引き渡されたい。拒む場合、王国の名において相応の措置を取る」

 

 町に繋がる南の街道には見知らぬ検問ができ、東の谷道には無人の監視陣が組まれていた。山に抜ける唯一の裏道すら、いつの間にか崩落していた。

 

「完全に……出られない、か」

 

 町の古老が、誰にともなく呟く。空気が重くなった。誰もが「では、どうするか」を口にできなかった。

 

 そんな中。ある仕立て屋の老婆が、ぽつりと言った。

 

「――せめて、式くらい、挙げさせてやらんとね」

 

 誰かが聞き返した。「式……って?」

 

「結婚式だよ。あの2人の」

 

 町のあちこちで、視線が交わされた。誰かが笑った。

 

「だったら、うちの店の花を出す。白いやつ、もうすぐ咲くから」

「衣装、仕立てるよ。古い型紙、まだあるし。娘のを思い出して作るさ」

「酒蔵に、まだ瓶が何本かある。祭りの日用にとってあったやつ」

 

 誰もが、少しずつ、何かを出し合うように言葉を重ねていった。

 

 ――希望ではない。

 ――あきらめでもない。

 それでも、「人としての日々を通す」ための、ひとつの決意だった。

 

 

 

 翌日、町は静かに、しかし確かに、きらびやかになっていった。

 

 白布が軒から軒へと渡され、花屋は走り、店先には手作りの飾りが吊るされた。

 誰かが道ばたに絵を描いていた。子どもたちは、渡された飴細工を手に、きょとんと空を見上げていた。

 この町は、今、祝福の準備に包まれている――まるで、ただの盛大な結婚式のように。

 

 

 

 

 

 その日の夕暮れ。明日の式を控えた町は、ほのかな熱気に包まれている。

 町の一角にある静かな部屋で、2人の少女が向かい合っていた。

 

 ミアは、窓辺に腰掛けて、脚をぷらぷらと揺らしていた。

 フィリナは立ったまま、部屋をぐるりと見渡して、満足げに頷く。

 

「きっと、盛大な式になる。みんな、すごく張り切ってる」

「うん。……ありがとう、フィリナ」

 

 ふと、ミアの声が静かになる。

 

「なんかね、あんまり実感なくて。……嬉しいけど、夢みたいで」

 

 フィリナはその言葉に答えず、代わりにカーテンを整えながらぽつりと返す。

 

「夢でもいいじゃない。今この瞬間、そう思えるなら」

「うん。……でも、しばらくしたら、全部終わっちゃうのかなって、ちょっと思っちゃって」

 

 ミアの手が、少しだけ膝の上で揺れる。

 それを見て、フィリナは小さく笑った。そして――静かに腰のポーチを開くと、小さな布包みを取り出して、ミアに差し出した。

 

「……はい。これ、祝いの品。私から」

「えっ……?」

 

 受け取った包みを開くと、中には小さな金属細工が入っていた。精巧に作られた、猫の耳の形をしたかんざしだった。

 

「町の細工師に頼んでたの。ミアには、これが似合うと思って」

「……わぁ……すごい……」

 

 ミアは、胸元でそのかんざしをそっと抱きしめるようにして笑った。

 

「ありがとう……すっごく嬉しい。ねえ……」

 

 ミアは、まっすぐにフィリナを見上げて言った。

 

「いつか、ちゃんと返すね。今日のこと、絶対、忘れないから」

 

 フィリナは、少しだけまぶたを伏せて微笑んだ。

 そのやりとりは、どこまでも穏やかで、静かな時間だった。

 

 

 

 

 

 ……それが、2人の、最後の会話だった。

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 暖炉の火が、ぱち、と音を立てた。

 老婆は話を終え、湯呑を手に、そっと口をつぐんだ。

 

 静寂の中、ぽつりと王女が呟く。

 

「……それで? ミアが……いなくなったの?」

 

 老婆は、かぶりを振った。

 

「いえ」

 

 そして、少し唇を噛む。

 

 

 

「いなくなったのは――フィリナの方です」

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、町の人々が目を覚ましたとき、フィリナの姿はどこにもなかった。

 

 部屋はきれいに整えられ、無理やり出ていった形跡も、争った痕跡もない。ただ、そこにいた人間が、自然に姿を消したかのようだった。

 

 混乱のさなか、「森の奥に布陣していた理術省の兵たちが、全て姿を消した」との報せが届いた。

 

 

 

 冒険団と町の人々は、半信半疑のまま森の中を登っていった。木々の合間を抜け、かつて敵軍の駐留していたはずの高台を目指す。

 

 森の奥へと進むほどに、空気がひどく澄んでいた。鳥の声も、風の音も、なぜか一切聞こえない。前を歩く冒険団の足音さえ、土に吸い込まれていくようだった。

 

 そして――木々のあいだから光が差し込み、ふいに視界が開けたその瞬間、全員が息を呑んだ。

 

 

 

 

 そこには、あるはずの岩場がなかった。

 兵士たちが陣取っていたはずの場所が、まるごと、跡形もなく消えていたのだ。

 

 代わりに、そこに広がっていたのは――湖だった。

 

 この世のものとは思えないほど広く、深く、そして美しい湖。澄み切った水面は一片の揺らぎもなく、まるで空を模した鏡のように静まり返っていた。

 

 空の青、雲の白、そのすべてがくっきりと映り込み、まるで天地が反転したかのように見える。

 

 波はない。さざめく風もない。鳥の影も、虫の音すらない。ただ、沈黙だけが広がっていた。その静けさは、あまりにも完全で――誰一人、言葉を発することができなかった。

 

 そこには、理術省の兵士たちの姿もない。陣地も、旗も、武具の残骸すら、何一つ存在しない。まるで最初から、何もなかったかのように。

 

 だが確かに、いたはずなのだ。兵たちはいたのだ。あの夜まで、確かに、ここに――。

 

 それを知る者たちは皆、目を疑い、立ち尽くした。

 

 誰かが、ようやくかすれた声で言った。

 

「……ここ、ほんとに、あの場所なの……?」

 

 誰も、答えることはできなかった。ただ、湖面だけが、微動だにせず、そこにあった。

 すべてを、永遠に沈めたかのように。

 

 

 

 

 

 

 湖から戻った後、町の広場ではまだざわめきが続いていた。だがミアは、1人で歩いていた。浮かぶような足取りで、あの部屋へと向かっていた。

 

 フィリナの部屋――かつて2人で並んで笑い合った、あの静かな一室へ。

 

 扉をそっと押し開ける。……静寂が、そこにあった。

 

 室内には、何もなかった。

 

 机の上に置かれていた小物も、窓辺のカーテンの飾りも、フィリナがいつも座っていた椅子も――まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、跡形もなく消えていた。

 

 違う。消えたんじゃない。

 最初から「ここに誰かがいた」という証が、きれいに片付けられてしまっている。誰が? 決まっている、フィリナだ。彼女が、片づけたのだ。たった1人で。

 

 ……彼女はいったい、どんな顔で部屋を整理したんだろう。

 

 

 

 ミアは、部屋の中で足を止めた。

 胸が、ぐっと苦しくなる。冷たい手が、心の中にずんと入ってきて、ぎゅうっと掴まれたような気がした。

 

 わかってたはずだった。何かが終わったんだって、薄々わかっていた。

 

 でも――。

 

「……返すって……言ったのに……っ」

 

 小さな声がこぼれた瞬間、ミアの目に涙がにじむ。

 

 あのかんざしをくれたときの、やわらかな笑顔。

 「返すね」と言った自分の声。「大丈夫」と微笑んでいた、あの背中。

 

 全部が、胸の奥でぐしゃぐしゃになって、こらえきれなくなった。

 

 ミアは、音もなくその場にしゃがみ込んだ。

 腕で顔を覆ったまま、こらえていた涙が、床にぽつ、ぽつ、と落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それ以来、あの人……フィリナの姿を見た者はいません」

 

 老婆は、ぽつりと呟くように言った。

 

「けれど――私は信じてるの。あの人が、町を、私たちを守ってくれたんだって」

 

 

 

 

 

 静かに、部屋に沈黙が落ちた。

 やがて、王女がそっと視線を上げ、戸惑いがちに言う。

 

「……そういえば、私、ずっと思ってたの。あなたが、フィリナなんじゃないかって」

 

 老婆は、少しだけ目を細めると、ゆっくりと首を振った。

 そして――拍の間を置き、そっと微笑んで言った。

 

「長命種もね、寿命を使い果たすと、老けるみたいなの。急に、がくんと」

 

 ほんの一拍、誰も声を出せなかった。

 

 

 

 

 

 老婆は、静かに笑った。

 

 

 

 

「私が、ミアです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 理術省のリーダーは、岩場に整然と並んだ兵たちの姿を見回し、満足げに頷いた。手持ちの兵をかき集めての遠征ではあったが――そのかいはあった。

 

 あれは、間違いなく長命種の末裔。捕らえれば、滞っていた研究も飛躍的に進むだろう。

 それが人道に反していようと関係はない。人類の未来のためだ。

 

「……リーダー、その……『我こそが長命種である』と名乗る者が、来ておりますが……」

「なんだと? まさか、向こうから出向いてきたのか……通せ!」

 

 

 

 しかし、現れたのは、あの少女とは似ても似つかない人物だった。

 

 背が高く、ひょろりと細長いシルエット。目に光はなく、顔には一切の表情が浮かんでいない。まっすぐに伸びた手足はどこかしなやかで、だが異様なほどに無駄がない。皮膚の色すら、どこか蝋細工のように見える。

 

 リーダーは、その姿に眉をしかめた。

 

「……君が、長命種……? いや、いやいや、君はこの前、町で見た個体とまったく違う。背丈など1.5倍はあるだろう」

 

 女性は、無表情のまま頷いた。

 

「大丈夫。純粋な長命種は『多少なら伸び縮みできる』から。そこは問題ない」

 

「……そんな話、聞いたことがない!」

 

 リーダーの声がわずかにうわずる。数十年、長命種の研究に心血を注いできた自負が、いとも簡単に否定された気がした。

 

「囮になってあれを逃がす気か? 長命種がどこにいるかは、すぐに捕捉できる。無駄なことだ」

「それは、嘘。……だと思うけど、いちおう、保留。あと、伸び縮みできるのは嘘じゃない」

 

「ならば、今ここで戻ってみせろ」

「わかった」

 

 

 

 女性の身体が――揺れた。

 

 ゴキ、ゴキキ、ゴギギ……と不快な音を立てて、身体がゆっくりと縮んでいく。骨格が折り畳まれるように、筋肉が捻じれるように、姿が変わっていく。

 

 見る間にその体は、少女のサイズへと小さくなった。髪の色、肌の質感、目の奥に宿る光までもが、先日の“あの少女”と――よく似ていた。

 

「……!」

 

「あー疲れた……。それにしても、やっぱりバレたらこういうことになるんだぁ……」

 

 少女は呟きながら、宙を見上げた。

 

「そうそう、これも戻さなきゃ」

 

 少女は空中に手を伸ばした。何もない空間から、長い槍がすっと現れる。

 

 次の瞬間、槍はギギギと歪み、根本から音を立ててねじれていく。柄が短くなり、刃が溶けたように変形していく。

 

 

 

 

 

 そして現れたのは、どこか禍々しい印象を与える杖だった。杖は、まるで最初からそうあるべきだったかのように、少女の小さな手にぴたりと馴染んだ。

 

「な、な、なんだその杖は⁉ 何者だ、お前は!」

 

 リーダーの声は震えていた。

 少女は、にこりと――あまりにも優しく、微笑んだ。

 

「……だって、冒険団にはカヤがいるから。魔法使いだとキャラが被るって、クールで無口な副官が欲しいんだって、団長が」

 

 そう言いながら、杖を軽く持ち直す。それだけで、赤い光が杖からぱあっと膨れ、地面を赤黒く照らし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

「ミアがね、結婚式するの。だから――邪魔しないでほしいなって」

 




あとスレの反応とエピローグでおしまいです

(分かりにくかったので注記)
「長命種もね、寿命を使い果たすと、老けるみたいなの。急に、がくんと」というセリフから、ミアさんは記憶喪失前に何百年か生きており(そうでないと長命種と言えませんからね)、その後60年経って寿命を使い果たしたものと思われます
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