道徳以外を教えます   作:マウスブン

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白雲の章
4月 キルゾーン


ガルグ=マク大修道院、その一室。普段は実技訓練や座学に使われる教室に、今日は少し異質な空気が漂っていた。教壇に立つのは、着任して1年の特別教師、カシアン。学級担任を持たない彼は、特定のテーマについて各学級を巡回し、独自の講義を行っていた。今日の対象は、ディミトリ率いる青獅子の学級だ。

 

「諸君、今日のテーマは『戦場におけるキルゾーンの構築』についてだ」

 

カシアンは抑揚のない声で告げた。黒板には、彼が描いたのであろう、精密だが無機質な図形がいくつか並んでいる。生徒たちの間に、わずかな動揺が走った。キルゾーン――その直接的な響きに、ある者は眉をひそめ、ある者は興味深そうに身を乗り出した。

 

「キルゾーンとは何か。簡単に言えば、敵戦力を最も効率的に殲滅するための空間だ。地形、天候、時間、そして敵の心理を利用し、我々の損害を最小限に抑えつつ、敵の損害を最大化する。戦場において、これほど重要な概念はない」

 

カシアンは淡々と続ける。その瞳にはこれから語る内容への躊躇も、倫理的な配慮も、一切感じられなかった。

 

 

 

【谷を活用したキルゾーン】

 

「まず、最も古典的かつ効果的なのが、谷地形を利用したキルゾーンだ」

カシアンは黒板の図の一つを指し示した。それは狭い谷底の道と、それを見下ろす両側の崖が描かれた図だった。

「敵をこの隘路(あいろ)、つまり狭く通りにくい道に誘い込む。これが第一段階だ」

 

「誘い込む、とは具体的にどうするのですか?」

質問したのはアッシュだった。真面目な彼は、純粋な疑問として口にした。

 

「方法はいくらでもある。例えば偽の退却を見せて追撃を誘う。あるいは少数の囮部隊で敵主力を引きつけ、意図的に谷へ誘導する。重要なのは、敵に『ここを進むのが最も合理的だ』あるいは『ここしか進む道がない』と思い込ませることだ。欺瞞は戦術の基本だ」

 

カシアンの淀みない説明に、イングリットがわずかに顔をしかめる。騎士道を重んじる彼女にとって、「欺瞞」という言葉は受け入れがたい響きを持っていた。

 

「敵主力が谷底に十分に進入したのを確認したら、第二段階へ移行する」

カシアンは図の崖の上に、×印を描き加えた。

「予め配置しておいた弓兵や魔道士が、高所から一方的に攻撃を開始する。谷底の敵は身を隠す場所も少なく、隊列も乱れ、有効な反撃は困難だ」

 

「待ってください、先生」

ディミトリが静かに強い意志を込めて口を開いた。

「その谷に、もし戦いと無関係の民間人が迷い込んでいたら? 彼らも巻き添えになる危険はありませんか?」

 

教室の空気が少し張り詰める。ディミトリの問いは、多くの生徒が内心で抱いていたであろう懸念だった。カシアンはディミトリを一瞥すると、表情を変えずに答えた。

 

「可能性はゼロではない。だが作戦効率を最大化するためには、ある程度の犠牲は許容せざるを得ない場合がある。もちろん可能な限り民間人の立ち入りを制限する事前工作は行うべきだが、戦闘中にそれを完璧に保証するのは非現実的だ。我々の目的は、あくまで敵戦力の殲滅にある」

 

そのあまりに冷徹な回答に、ディミトリは唇を噛みしめた。メルセデスは不安そうに隣のアネットを見た。フェリクスだけは、つまらなそうに窓の外を見ていたが、その耳はカシアンの言葉を一言も聞き漏らしてはいなかった。

 

「そして第三段階。敵が混乱し、後退しようとした場合を想定し、谷の入り口、つまり敵が進入してきた方向を、重装兵などで封鎖する。これで敵は完全に袋の鼠となる。あとは、抵抗が無力化するまで攻撃を続けるだけだ。これが、谷を利用したキルゾーンの基本構造だ」

 

 

 

【森を活用したキルゾーン】

 

「次に、森だ」

カシアンは別の図を指す。鬱蒼とした森が描かれていた。

「森は視界を遮り、方向感覚を失わせる。これを利用しない手はない」

 

「森の中では、敵は分散しやすくなる。大部隊が連携を保つのは困難だからな。我々はこの状況を利用し、少数の精鋭部隊による待ち伏せや奇襲を繰り返す。敵を徐々に消耗させ、心理的なプレッシャーを与え続ける」

 

シルヴァンが口元に皮肉な笑みを浮かべて言った。

「なるほど、嫌らしい戦い方だ。でも、効果はありそうですね」

 

「その通りだ、シルヴァン」

カシアンはわずかに頷いた。

「さらに効果を高めるために、罠を設置する。落とし穴、獣避けの罠を改良したもの、あるいはもっと単純なトリップワイヤーでもいい。敵の進軍速度を鈍らせ、警戒心を煽り、兵士たちの士気を削ぐのが目的だ」

 

「罠、ですか……」

イングリットが低い声で呟いた。

「それは、騎士の戦い方とは言えません」

 

「戦場に騎士道を持ち込むのは感傷的な愚行だ、イングリット」

カシアンは即座に反論した。

「勝利と生存こそが最優先されるべきだ。敵が騎士道を守ってくれる保証などどこにもない。むしろ敵がそう考えてくれるなら、我々にとっては好都合だ。」

 

「……」

イングリットは反論できず、悔しそうに俯いた。ドゥドゥーは、そんな彼女とディミトリの様子を静かに見ていた。

 

「森の中では音も重要になる。わざと物音を立てて敵を特定の方向へ誘導したり、逆に完全に音を消して奇襲の成功率を高めたりする。偽の退路を示して誘い込み、待ち伏せで殲滅するのも有効だ。森全体を、敵にとって不確実性と恐怖に満ちた迷宮に変えるのだ」

 

 

 

【夜の暗闇を活用したキルゾーン】

 

「最後に夜の暗闇を利用したキルゾーンについて話そう」

カシアンの声が、わずかに熱を帯びたように聞こえたのは気のせいだろうか。

「夜は人間の本能的な恐怖心を最も刺激する時間帯だ。視界が奪われ、情報は制限され、疑心暗鬼が生じやすい」

 

「基本的な考え方は森と同じだが、夜はさらに心理的な揺さぶりをかけることが重要になる」

カシアンは指を一本立てた。

「例えば敵陣の周囲で断続的に鬨(とき)の声や物音を立て続け、敵兵を眠らせない。疲労と睡眠不足は、判断力を鈍らせ、士気を著しく低下させる」

 

「それって、なんだか…意地悪ですね」

アネットが少し困ったように言った。

 

「意地悪? そうかもしれないな、アネット。だが敵兵一人を消耗させることで、味方の兵士一人の命が救える可能性があるなら、私は躊躇なく実行する」

カシアンは断言した。

「さらに偽の篝火(かがりび)を複数箇所で焚き、敵の注意を分散させたり、偽情報を流して敵部隊を分断したりすることも有効だ。暗闇の中では、小さな混乱が大きなパニックに繋がりやすい」

 

「闇に紛れての奇襲は、最も効果的な戦術の一つだ。特に敵が宿営している無防備な状態を狙う。ただし夜間戦闘は味方同士の誤射や混乱も招きやすい。したがって、極めて周到な計画と、練度の高い兵士が必要不可欠となる」

 

ドゥドゥーが静かに質問した。

「夜間での戦闘に特化した訓練が必要になる、ということですね?」

 

「その通りだ、ドゥドゥー。視界が効かない状況での連携、合図の方法、音を立てずに移動する技術。これらは一朝一夕で身につくものではない。しかし習得できれば、夜の闇は我々にとって最強の武器となるだろう」

 

カシアンは一通り話し終えると、教室全体を見渡した。生徒たちの表情は様々だった。ディミトリは依然として苦悩の色を浮かべ、イングリットは不快感を隠そうともしない。アッシュやメルセデス、アネットは不安と戸惑いが入り混じった表情だ。シルヴァンは興味深そうにカシアンを見つめ、フェリクスは相変わらず冷めた表情だが、その瞳の奥には知的な光が宿っていた。ドゥドゥーは静かに佇んでいる。

 

「今日の授業はここまでだ」

カシアンは言った。

「私が教えたのは、効率的に敵を排除するための技術だ。そこに道徳や騎士道が入り込む余地はない。戦場とは、そういう場所だ。その現実から目を背けていては、守りたいものも守れなくなるぞ」

 

最後の言葉は、特にディミトリに向けられたように聞こえた。カシアンは教壇を降り、無言で教室を後にした。残された生徒たちの間には、重い沈黙と、それぞれが抱えた複雑な感情が渦巻いていた。特にディミトリは、カシアンの言葉の意味を噛みしめるように、固く拳を握りしめていた。

 

 

 

 

 

大司教レアとの会見は、ジェラルトにとってどこか掴みどころのない、それでいて妙な緊張感を伴うものだった。彼女の穏やかな物腰の裏にある深淵を覗き見たような感覚を覚えながら、ジェラルトは大聖堂の重厚な扉を後にした。かつて騎士団長として過ごしたとはいえ、この大修道院の構造は複雑だ。目的の人物の部屋を探すべく、近くを通りかかった修道士に声をかけた。

 

「すまない、カシアンという教師の部屋を知らないか? 最近ここに来たはずなんだが」

 

修道士は一瞬きょとんとした後、ああ、と合点がいったように頷いた。

 

「カシアン先生でございますね。ええと、確かこの先の廊下を右に折れて、三番目の…いや、四番目だったかな? 少し変わった方ですが、ええ、確かそちらの棟にお部屋があると伺っております」

 

「そうか、助かる」

 

礼を言い、ジェラルトは教えられた方向へ歩き出した。「少し変わった方」、か。修道士の言葉に、ジェラルトは苦笑いを浮かべた。数年前、ほんの半年間だけ協力しただけだが、その「変わり者」ぶりは嫌というほど知っている。同時に、その底知れない能力も。

 

目的の部屋の前に着き、ジェラルトは軽くドアをノックした。間もなく静かにドアが開かれる。そこに立っていたのは、数年前とほとんど変わらない、無表情に近い顔をした青年――カシアンだった。

 

「……ジェラルト殿」

カシアンはわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻した。

「ご無沙汰しております。このような場所でお会いするとは」

 

「よう、カシアン。元気そうじゃないか」

ジェラルトは片手を軽く上げる。

「お前さんがここにいるって聞いてな。ちょっと顔を見に来た」

 

「どうぞ、中へ。散らかっていますが」

 

カシアンに促され、ジェラルトは部屋に足を踏み入れた。壁際には天井まで届きそうな書棚が並び、机の上には難解そうな数式が書き殴られた羊皮紙や、奇妙な金属部品、用途不明の薬瓶などが雑然と置かれている。部屋の隅には、戦場の地形を模したと思われる精巧な模型もあった。いかにもカシアンらしい、生活感のない、研究室のような部屋だった。

 

「相変わらずだな、お前は」

ジェラルトは部屋を見回しながら言った。

「ここで教師をやっているそうじゃないか。傭兵団にいた頃のお前からは、想像もつかなかったが」

 

「状況の変化、というやつです。それに人に知識を伝えるという行為は、ある意味で効率的な投資とも言えますので」

カシアンは椅子を勧めながら、こともなげに答えた。

 

ジェラルトは勧められた椅子にどっかりと腰を下ろした。

「投資、ね。お前さんらしい言い方だ」

彼は少し間を置いて、本題を切り出した。

「それで、だ。お前さん、ここで生徒たちに何を教えてるんだ?」

 

「専門は戦術論ですが、それに関連する諸分野…兵站、情報分析、交渉術なども。必要に応じて、数学や工学の基礎も」

 

「そうか…」

ジェラルトは腕を組んだ。

「まあ、お前のその手の知識が役立つのは確かだろう。俺も、お前のおかげで助かったことがあるしな」

傭兵団時代、カシアンの立てた奇策によって、戦いが容易に済んだことをジェラルトは思い出していた。

「だがな、カシアン」

 

ジェラルトの声のトーンが少し変わる。

 

「お前のやり方は、ちと極端すぎる。効率や結果ばかりを追い求めて、大事なもんを見失ってるんじゃないのか、ってな。俺は心配してるんだよ。若い生徒たちがお前の考え方に染まってしまわないか、ってな」

 

カシアンは黙ってジェラルトの言葉を聞いていた。表情は変わらないが、その瞳はジェラルトの真意を探るように、じっと向けられている。

 

ジェラルトは言葉を選びながら続けた。

「特に、うちの娘のことだ。ベレス…あいつも、今年からここで教師をやることになったんだ」

 

「ベレス殿が?」

カシアンの眉が、ほんのわずかに動いた。

「それは…存じ上げませんでした」

 

「ああ。あいつは、昔からお前の話に妙に聞き入ってたからな。お前が傭兵団にいた頃、難しい戦の話とか、古い歴史の話とかすると、黙って聞いていたのを覚えてる」

ジェラルトは少し困ったような、それでいてどこか父親らしい顔で言った。

「あいつはまだ世間を知らん。お前の、その…何というか、割り切りすぎた考え方? そういうのに、変な影響を受けなきゃいいんだがな」

 

カシアンはしばし沈黙した後、静かに口を開いた。

「ご懸念は理解できます。ですが私はただ、現実を教えているに過ぎません。戦場であれ、他のことであれ、理想だけでは生き残れない。時には非情な決断も必要になる。それを知らずにいることの方が、よほど危険だと考えます」

 

彼は続ける。

「ベレス殿は…確かに、以前お会いした時から、どこか常人とは違うものを持っていると感じていました。ですが、それは決して悪い意味ではありません。彼女の中には、あなたが心配するような脆さだけでなく、物事の本質を見抜くような強かさもある。私が何かを教えるまでもなく、彼女は彼女自身の道を見つけるでしょう」

 

その言葉には、カシアンなりのベレスへの評価と、ある種の敬意のようなものが含まれているようにジェラルトには感じられた。

 

「…だと、いいんだがな」

ジェラルトはため息をついた。

「まあ、とにかく、だ。あんまり生徒やベレスに変なことを吹き込むなよ。特に、命を軽く見るような考え方はな。お前の頭脳は確かに大したものだが、ちと危うすぎる。」

 

ジェラルトは立ち上がりながら付け加えた。

「偶に出てくる突拍子の無い行動もだが、お前のやり方は良くも悪くも目立つからな。レア様…いや、教会の上の方でも、お前の能力と、その使い方を気にしている連中がいるようだぞ。あまり、睨まれないように立ち回ることだな」

 

それは、レアとの会見で感じた空気と、カシアンという存在を結びつけての、ジェラルトなりの忠告だった。

 

「ご忠告、感謝します」

カシアンは静かに頭を下げた。

 

「ま、たまには顔を見せろよ。お前の変な酒なら、付き合ってやらんこともない」

ジェラルトは部屋の隅にある怪しげな蒸留器のようなものを見て、ニヤリと笑った。

「じゃあな」

 

ジェラルトは部屋を出て行った。ドアが閉まると、カシアンはしばらくその場に立ち尽くしていた。ジェラルトの言葉…生徒への影響、ベレスのこと、そして教会の警戒。それらが彼の思考の中で渦巻いていた。

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