青獅子の学級での「対暗殺者」という名の騒動から数日後。カシアンはとある黒鷲のマークのついた手紙への返書を書き終え、自室兼研究室で何やら複雑な図面と数式が書き込まれた羊皮紙に向かい、思考を巡らせていた。彼が没頭しているのは、新たな兵器の設計か、それとも次なる奇策の立案か、あるいは単なる自家製酒の改良計画か、それは定かではない。
その静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。カシアンが訝しげに「どうぞ」と応じると、扉が静かに開き、メルセデスとイングリットの二人が姿を現した。二人とも、どこか緊張した面持ちで、まっすぐにカシアンを見つめている。
「カシアン先生、今、少しお時間よろしいでしょうか?」
メルセデスが、穏やかながらも改まった口調で切り出した。
「構いませんよ。何か用ですか?」
カシアンはペンを置き、椅子に座ったまま二人を迎えた。
メルセデスは一歩前に進み出ると、懐から一通の、厳重に封蝋が施された書簡を取り出した。
「こちらを、レア様よりカシアン先生へ、直接お渡しするようにと…」
彼女は恭しくその書簡をカシアンに差し出した。隣に立つイングリットも、固い表情でその様子を見守っている。
(レア様から? この二人を使いにしてまで、一体何の用だ…?)
カシアンは内心で訝しみながらも、無表情を装って書簡を受け取った。丁寧に封蝋を剥がし、中の羊皮紙に目を通す。そこには、レア自身の美しい筆跡で、簡潔ながらも重大な依頼が記されていた。内容は、先日カシアン自身がその可能性を指摘した、「ガルグ=マク大修道院内部に潜むスパイ」の存在について。レアは、この脅威を排除するため、カシアンの洞察力と分析力を頼りたいと考えており、調査にあたっては、信頼のおける生徒としてメルセデスとイングリットを協力させるので、共に任務にあたってほしい、というものだった。
(…やれやれ。やはり面倒なことになったな)
カシアンは内心でため息をついた。
(スパイ調査、ね。しかも、よりにもよってこの二人を私の監視役につけるとは。レア様も人が悪い。教会への信仰心が篤く、真面目で、私とは正反対のタイプ。私の行動を逐一報告させるには、うってつけの人選というわけか。だが、大司教直々の命令とあらば、断るという選択肢は実質的に存在しないだろうな)
カシアンは書簡を静かにテーブルに置くと、顔を上げ、二人に向き直った。その表情からは、内心の面倒くささや警戒心は微塵も読み取れない。
「…書簡の内容は理解しました。レア様直々のご依頼とあらば、断るわけにはいきませんね。微力ながら、この任務に協力させていただきましょう」
彼は、あくまで協力的な姿勢を装って言った。
メルセデスとイングリットは、その言葉に安堵したような表情を見せた。
「ありがとうございます、先生」「我々も、全力で協力させていただきます」
「結構です」カシアンは頷くと、早速本題に入った。
「では、これより、この『内部に潜むスパイ』とやらを探し出すための調査を開始したいと思います」
彼は椅子に深く座り直し、探るような視線を二人に向けた。
「さて、メルセデス殿、イングリット殿。君たち二人にまず聞きたい。仮に、君たちが敵国のスパイであり、この大修道院に潜入したと仮定する。その目的…つまり、価値ある情報を盗み出し、外部に報告するために、どのような環境や手段が必要だと考えますか? まずは、敵の思考をトレースしてみることが、調査の第一歩となるでしょう」
カシアンは、いきなり核心に迫るような質問を投げかけた。それは、二人の能力と思考を探るための、彼なりのやり方だった。
メルセデスは、少しの間、思案するように指をあごに当てていたが、やがて落ち着いた声で答えた。
「そうですね…。私でしたら、まずは多くの方と自然に接することができる場所を利用すると思います。例えば、食堂や中庭、あるいは礼拝堂などでしょうか。そういった場所では、何気ない会話の中から、噂話や、時には重要な情報のかけらを拾えるかもしれません。それに、皆さんの信頼を得て、個人的な悩みや相談を受けるような立場になれれば、より深い情報を引き出すことも…可能かもしれませんわ~」
彼女の視点は、人間関係やコミュニケーションの中に潜む情報の流れに向けられていた。
続いて、イングリットが凛とした声で答えた。
「私は、より物理的なアクセスを重視すると思います。機密性の高い文書が保管されている書庫や、騎士団の作戦会議が行われる詰所、あるいはレア様やセテス様の執務室近くなど…。そういった場所への立ち入りが許可される立場や、警備の交代時間、巡回ルートの隙を突くなどして、直接的な情報を盗み出すことを考えるでしょう。鍵の複製や、隠し通路の利用なども視野に入れるべきかと」
彼女の視点は、より実務的で、物理的なセキュリティの突破に向けられていた。
カシアンは、二人の対照的な、しかしどちらも的を射た回答に、静かに頷いた。
「なるほど。人間関係を足掛かりにする情報収集と、物理的なアクセスによる直接的な情報収集。どちらもスパイ活動の常套手段であり、重要な視点です」
彼は指を組み、二人の意見を整理しながら、核心を突いた。
「ですが、それらの情報を断片的に集めるだけでは、スパイ活動としては不十分です。それが意味を持つためには、二つの不可欠な要素が揃わなければなりません」
カシアンは、教えるような口調で続けた。
「一つは、『定期的かつ継続的に、外部の組織にとって価値のある情報を入手し続けることができる立場や能力』。そしてもう一つは、これがより重要ですが、『入手した情報を、発見されるリスクを最小限に抑えながら、外部の協力者や本国に、確実かつ安全に伝達するための連絡手段を持っていること』です」
彼は二人の顔を交互に見た。
「つまり、我々がこれから探すべき対象は、この二つの条件を満たすことができる可能性のある人物、ということになります。例えば、重要な情報が集まりやすい部署に所属している者、外部の人間との接触が比較的容易、あるいは不自然に見えない立場の者、定期的に不可解な行動や、説明のつかない金の動きがある者…。調査の糸口は、おそらく、そういった部分にあるはずです」
カシアンの的確な分析と、示された調査の方向性に、メルセデスとイングリットは真剣な表情で頷いた。彼女たちは、目の前の教師に対する警戒心を抱きつつも、その明晰な頭脳と洞察力には感心せざるを得なかった。そして同時に、これから始まるであろう、見えざる敵を探し出すという困難な任務に、改めて身を引き締めるのだった。
カシアンにとっては、レアから押し付けられた面倒な任務であり、監視役付きというやりにくさもある。しかし、彼の胸の内には、この状況すら利用してやろうという、冷徹な計算も働いている。教会内部の情報を合法的に探る絶好の機会であり、もし本当にスパイが見つかれば、それをどう「活用」するか…。彼の思考は、既に幾手も先を読んでいた。
カシアンの研究室は、さながらスパイ調査の司令室のような様相を呈していた。中央の大きな机の上には、ガルグ=マク大修道院の地図や組織図、そしてカシアンが作成した分厚いリストが広げられている。彼は黙々と、リストに記された人物の名前、役職、教会内での権限レベル、簡単な経歴、そして彼自身の持つ情報などを整理し、書き加えていた。対象は、教会の高位の神官から、騎士団の将校、書庫の管理人、果ては出入りの商人や職人に至るまで、大修道院の内部情報にアクセスしうる可能性のある、あらゆる人物に及んでいた。
そこに、数日間の地道な調査を終えたメルセデスとイングリットが戻ってきた。二人とも少し疲れた様子だが、その目には任務を遂行したという達成感と、これから始まるであろう本格的な調査への緊張感が浮かんでいる。
「カシアン先生、お待たせいたしました。頼まれていた件について、まとめました~」
メルセデスが、数枚の羊皮紙にまとめられた報告書をカシアンに差し出した。
「こちらが、ここ数ヶ月間における、各部署・個人の外部との郵便物の送受信記録です。公的なものを除き、特に私的なやり取りが頻繁な方をリストアップし、判明した範囲で相手先の名前や地域も記載しておきました」
続いて、イングリットが別の報告書を差し出した。
「そしてこちらが、同時期の門の通行記録から、職務上の理由以外での外出回数が多い人物、特に夜間や早朝といった不自然な時間帯での外出が確認された方のリストです。可能な限り、行き先や目的も付記してあります」
二人は、カシアンが以前示した調査方針――「外部との連絡手段」を持つ可能性のある人物を探る――に基づき、それぞれが得意とする分野(メルセデスは記録の照合や整理、イングリットは騎士団への聞き込みや記録へのアクセス)を活かして、地道な情報収集を行ってきたのだった。
カシアンは二つの報告書を受け取ると、労うように短く言った。
「ご苦労だった。二人とも、よくやってくれた。期待以上の成果だ」
彼にしては珍しい、素直な労いの言葉だったかもしれない。
彼はすぐに報告書の内容に目を通し、その情報を自身が作成していた大きなリストに丹念に書き加えていく。人物名、役職、経歴、そして新たに加わった「外部との郵便頻度」「不自然な外出記録」。それらの情報が組み合わされ、関連付けられていくことで、単なる名前の羅列だったリストは、徐々に人間関係や行動パターンを示す複雑な相関図、あるいは巨大な容疑者リストへと姿を変えていった。
やがて、情報の統合と整理を終えたカシアンは、完成したリストを机の中央に広げた。メルセデスとイングリットも、息を飲んでその表を覗き込む。そこには、驚くほど多くの名前が、様々な情報と共に記載されていた。
「先生…」イングリットが、表の一角を指差しながら尋ねた。
「やはり、この…外部との連絡が多い方や、理由の不明な外出を繰り返している方が、スパイとして最も疑わしい、ということになるのでしょうか?」
カシアンは頷いた。
「その通りだ、イングリット殿。スパイ活動には外部との接触が不可欠だ。郵便であれ、直接の密会であれ、何らかの形で情報を外部に流す必要がある。したがって、その頻度が高い者は、当然、疑いの目を向けるべき対象となる」
彼はペンを取り、リスト上のいくつかの名前に印をつけながら続けた。
「さらに、ここから容疑者を絞り込むためのフィルターをかけることができる。例えば、連絡を取っている相手の居住地域だ。フォドラには、ご存知の通り、歴史的に教会への反発感情が根強い地域や、近年不穏な動きを見せる貴族が治める領地がいくつか存在する。そういった地域との間に、不自然なほど頻繁な連絡が確認される人物は、要注意リストの最上位に置くべきだろう」
彼はさらに説明を加える。
「逆に、連絡相手が敬虔なセイロス教徒が多い地域に住んでいたり、やり取りの内容が純粋に家族や親戚との私的なものであると裏付けが取れたりする者は、現時点では容疑の優先度を下げて良いと考えられる。もちろん、それすらも巧妙な偽装である可能性は捨てきれないが、我々のリソースは有限だ。まずは最も可能性の高い容疑者から順に潰していくのが、最も効率的なアプローチだ」
カシアンの示した基準に従って、表の中の名前がふるいにかけられていく。確かに、いくつかの名前は一時的に容疑リストの下位に移された。しかし、それでもなお、最終的に「要注意」として残った人物の名前は、数十にも上っていた。騎士、神官、文官、学者、さらには大修道院に出入りする商人まで、様々な立場の人間が含まれている。
リストを見つめ、メルセデスが不安そうな声を漏らした。
「ですが、先生…これだけの人数が…。この方々全員の行動を、これから一つ一つ詳細に調べていくとなると…正直、私たち三人だけでは、時間も人手も、とても足りませんわ…」
イングリットも深刻な表情で頷く。
「ええ。一人一人のアリバイを確認し、交友関係を洗い出し、不審な金の流れがないかを探る…それは、途方もない作業になります。下手をすれば、調査が終わる前に、スパイに気づかれてしまう可能性も…」
三人は完成したリストを前に、しばし沈黙した。スパイの候補者は絞り込まれつつある。しかし、その全体像は依然として巨大で、核心に迫るためには、さらなる困難が待ち受けていることを示唆していた。メルセデスとイングリットは調査の壁に直面し、途方に暮れかけている。
その様子を見て、カシアンは意外にも穏やかな声で言った。
「いや、気にする必要はありません。君たちがここまで集めてくれた情報と、このリストだけでも十分すぎるほどの成果です。レア様も、君たちのここまでの働きを高く評価されるでしょう」
彼は椅子に深く座り直した。
「そもそも、内部に潜むスパイが一人だけとは限らない。複数名が連携している可能性も、あるいはもっと大きな組織が背後にいる可能性も考慮すべきです。どちらにせよ、全ての影を短期間で完全に炙り出すのは、元々極めて難易度の高い任務なのですから」
彼の言葉は、二人の焦りをわずかに和らげた。しかし、根本的な問題が解決したわけではない。二人がなおも「ですが…」と考え込んでいるのを見て、カシアンは少し楽しむかのように、あるいは新たな実験を思いついたかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。
「だからこそ、少しアプローチを変えてみようと思うのです。虱潰しに一人一人探していくのではなく、こちらから餌を撒いて、魚が食いつくのを待つのだ。つまり…罠を仕掛ける、ということです」
その言葉には、彼の得意とする、常道から外れたやり方を好む気質が滲み出ていた。
数日後。ガルグ=マク大修道院の中庭を、普段とは違う物々しい一団が横切っていた。数名の屈強なセイロス騎士が、厳重な警戒態勢の中、大小様々な木箱や、頑丈そうな金属製の箱が載せられた台車をゆっくりと押している。そして、その移送作業の指揮を執っているのは、他ならぬイングリットとメルセデスだった。二人は揃って真剣な表情を浮かべ、時折騎士たちに指示を出しながら、明らかに「何か非常に重要なもの」を「より安全な場所」へと運んでいるように見えた。
この異様な光景は、当然ながら、周囲にいた生徒や修道士たちの注目を集めた。
「おい、あれは何だ?」「何かあったのか?」「宝物庫から運び出してるみたいだけど…」
好奇心や不安から、何人かが警備の騎士に近づき、恐る恐る尋ねた。
「これは一体、何を運んでおられるのですか?」
「何か緊急事態でも?」
尋ねられた騎士は、事前にカシアンから、そしてセテスからも口裏合わせの指示があり、言い含められていた通り、重々しい口調で答えた。
「先日からの調査で、レア様暗殺計画は陽動であり、真の狙いは宝物庫に保管されている聖遺物や貴重な品々である可能性が高い、との分析結果が出たそうだ。そのため、特に価値の高いと思われる物品を、一時的にではあるが、レア様のお近くにある、より警備が厳重な保管庫へと移送している最中なのだ。我々はその護衛任務に就いている」
その言葉は、聞く者の間にさらなる憶測と不安を呼び起こし、情報は瞬く間に大修道院内に広まっていった。「宝物が狙われているらしい」「騎士団が警戒を強めている」…真偽不明の情報が、人々の口から口へと伝播していく。
カシアンは、その全ての様子を、大書庫の窓から、あるいは回廊の柱の陰から、冷静に観察していた。彼は移送作業そのものよりも、それを取り巻く人々の反応に注目していた。誰が特に強い関心を示しているか、誰が騎士に執拗に質問を繰り返しているか、誰が不自然なほど落ち着きなく周囲を見回しているか…。彼は手にした小さなメモ帳に、いくつかの名前や特徴を、素早く、しかし正確に書き留めていく。彼の仕掛けた罠は、既に獲物を誘い出すための匂いを放ち始めていた。
その日の深夜。大修道院が深い静寂に包まれる頃、例の「より安全な保管庫」――と噂された、実際には今は使われていない古い書庫室の一つ――に、音もなく一つの影が滑り込んだ。月明かりが窓から差し込み、部屋の中央に運び込まれたいくつかの箱の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
人影は、息を殺し、周囲に誰もいないことを慎重に確認した後、最も大きく、頑丈そうに見える金属製の箱へと近づいた。その手には、鍵を開けるための細い金属製の道具が握られている。狙いは明白だ。昼間、厳重に移送されていた「貴重な物品」。それをこの混乱に乗じて盗み出そうというのだ。
熟練した手つきで、人影は箱の錠前に道具を差し込み、集中する。カチリ、と小さな音がして、錠が開いた。しめた、とばかりに人影は息を呑み、ゆっくりと重い蓋を持ち上げる。中に眠るであろう、きらびやかな宝物や、強力な聖遺物を想像しながら…。
しかし、次の瞬間、人影は言葉を失った。箱の中にあったのは、財宝などではなかった。無造作に詰められた石ころと、藁くずだけ。
空っぽ―――罠だ!
人影が状況を瞬時に理解し、危険を察知して身を翻そうとした、まさにその時だった。
「そこまでです!」
イングリットの鋭い声が、罠にかかった侵入者の動きを凍りつかせた。空の箱を前に呆然としていた人影は、背後から迫る槍の穂先に気づき、咄嗟に身を翻す。月明かりがその顔を微かに照らす――それは、大修道院の下級文官の一人として普段は目立たない存在の男だった。だが、今のその目には、追い詰められた獣のような凶暴な光が宿っている。
「あなたが誰であれ、もう逃げられませんよ!」
入り口を塞ぐメルセデスの声が、静かな部屋に響く。
イングリットは油断なく槍を構え、男との間合いを慎重に詰めていく。そして、一瞬の隙を突き、槍の柄で男の体勢を崩し、組み伏せようと体当たりを仕掛けた!
「くっ…!」
男はイングリットの素早い動きに反応しきれず、よろめいた。イングリットは好機と見て、男の腕を掴み、床に押さえつけようとする。捕獲は目前かと思われた、その瞬間だった!
「甘いな、小娘!」
男は抑え込まれながらも、隠し持っていた左の袖の中から、鈍く光る何か――短剣を抜き放った! そして、イングリットが腕を掴んでいた右腕とは逆の左手で、その短剣をイングリットの腕目掛けて突き出したのだ!
「きゃっ!」
イングリットは咄嗟に身を引いたが、短剣の切っ先が彼女の腕を浅く切り裂いた。鋭い痛みに彼女が一瞬怯んだ隙に、男は力任せにイングリットの拘束を振りほどき、素早く立ち上がった。
「ちぃっ!」イングリットは悪態をつきながら、すぐさま体勢を立て直そうとする。
だが、男はイングリットには目もくれず、唯一の脱出口である扉へと疾走した。そこには、杖を構え、退路を塞ごうとするメルセデスの姿がある。
「どけぇぇぇっ!!」
男は獣のような雄叫びを上げ、手にした短剣を逆手に持ち替え、メルセデスに襲いかかった。彼女を排除し、この場から逃れることしか頭にないのだろう。メルセデスは迫りくる凶刃に息を呑み、咄嗟に魔法を展開しようと杖を構え直すが、相手の速度が速い! 間に合うか――!?
「危ないッ!!」
その声と共に、メルセデスのすぐ隣、部屋の暗がりとなっていた物陰から、黒い影が文字通り飛び出してきた。カシアンだ! 彼は、メルセデスの体を強く突き飛ばすようにして庇い、短剣を振りかざす男の真正面に立ちはだかった。
「なっ!?」
予期せぬ邪魔者の出現に、男は一瞬驚愕の表情を見せたが、勢いを殺すことはできない。振り下ろされる短剣の切っ先が、カシアンへと迫る! カシアンは咄嗟に身を捻り、致命傷を避けようとするが、攻撃を完全に躱しきることはできなかった。
ザシュッ!鈍い音と共に、短剣がカシアンの左腕を深く切り裂いた。鮮血が飛び散り、カシアンの顔が苦痛に歪む…かと思われた。
だが、彼は怯まなかった。むしろ、攻撃を受け、相手の懐に入り込んだこの一瞬の状況を、彼は逃さなかった。武器戦闘能力は壊滅的。ならば、彼に残された武器は、その体と、生き汚く生き延びてきた経験からくる泥臭い本能だけだ!
「ぐぅっ…!」
痛みを感じさせないかのように、カシアンは低い姿勢から、相手の重心――その足元目掛けて、渾身の力でタックルを敢行した! それは騎士の使う洗練された技ではなく、ただ相手を転ばせることだけを目的とした、獣のような、原始的な体当たりだった。
「がはっ!?」
完全に不意を突かれた男は、カシアンの予想外すぎる反撃に対応できず、バランスを大きく崩した。受け身も取れず、床に派手に叩きつけられ、衝撃で手から短剣が滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てた。
「今です!」
男が床でもがき、体勢を立て直そうとするよりも早く、腕の痛みに顔をしかめながらも追いついてきたイングリットが、その背中に飛び乗った! 彼女は男の腕を背中に捻り上げ、全体重をかけて押さえつける。そして、拾い上げた槍の穂先を、抵抗する男の首筋に寸分の狂いなく突きつけた。
「もう、逃がしません!」
イングリットの決意のこもった声が、部屋に響き渡った。男は何度か身じろぎしたが、首筋の冷たい感触と、イングリットの確かな拘束力に、ついに抵抗を諦めたようにぐったりとした。
部屋には、荒い息遣いだけが聞こえる。床には、左腕を押さえ、浅い息をつくカシアン。その傍らには、安堵と、カシアンの傷への深い心配を浮かべた表情で駆け寄るメルセデス。そして、捕らえた侵入者の上に乗り、油断なく警戒を続けるイングリット。
カシアンの仕掛けた罠は、予期せぬ乱戦と彼の負傷という代償を払いながらも、ついにその「獲物」を捕らえた。