道徳以外を教えます   作:マウスブン

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8月 料理教室

約束の日、カシアンとベレスはカシアンの研究室の一角に来ていた。その場所は様々な調理器具やスパイスが整然と並び、生活感と実用性が同居する空間だった。

 

今日の主役はベレスだ。カシアンは指導役に徹し、ベレスが彼の指示に従って、「牛肉の包み焼き」を作ることになっていた。

 

「生地はもう少し薄く伸ばしてください。火の通りが均一になります」

「香辛料の配合は…ええ、それで。ただし、香辛料はほんの少しだけ香りが立つ程度に抑えるのが多いです」

「肉汁を閉じ込めるように、生地の縁はしっかりと。空気が入らないように注意して」

 

カシアンの指示は、相変わらず効率重視で、手順もどこか実験的だったが、ベレスは黙々と、しかし驚くほど的確にそれをこなしていく。彼女の無駄のない動きと集中力は、戦場だけでなく、調理場においても発揮されるようだった。言葉は少なくとも、二人の間には奇妙な呼吸のようなものが生まれ、作業は順調に進んでいった。

 

やがて、丁寧に牛肉を包み込んだ生地が、窯の中へと滑り込まされる。あとは、じっくりと焼き上がりを待つだけだ。

 

「…これで、しばらく待つだけですね」

カシアンは窯の扉を閉めながら言った。

ベレスも手を洗い、窯の前の椅子に静かに腰掛けた。ガラス越しに見える生地が、ゆっくりと熱せられていく。香ばしい匂いが、部屋に満ち始めるにはまだ少し時間が必要だった。

 

沈黙が流れる。窯の微かな作動音だけが聞こえる中、ベレスは、じっと窯の中を見つめていたかと思うと、ふと視線を隣に立つカシアンの左腕に向けた。そこにはもう、数日前の事件で負ったはずの深い傷跡は影も形もない。

 

ベレスが静かに口を開いた。

「…先生、腕の怪我は大丈夫?」

 

カシアンは自分の左腕を軽くさすった。服の上からでは何も分からないが、彼自身、もう痛みも違和感も感じていない。「ああ、ご覧の通りですよ」彼は事もなげに答えた。

「メルセデス殿の回復魔法のおかげで、もうすっかり。傷跡一つ残さずに治していただいた。全く問題ありません」

 

「…そうか」

ベレスは短く応じ、再び窯に視線を戻した。しかし、彼女の問いはそれで終わりではなかった。彼女は、ガラスに映るカシアンの姿を見つめたまま、核心に迫る質問を、静かに、しかし真っ直ぐに投げかけた。

 

「なら、教えてほしい。あの時…どうして、メルセデスを庇ったの?」

 

カシアンがわずかに眉を動かす。

ベレスの問いは直接的だった。彼女の声には個人的な響きが含まれているようにカシアンには感じられた。

 

カシアンは、ベレスからの予期せぬ、そして本質的な問いかけに、一瞬だけ言葉を失った。彼の思考回路が、最も合理的な回答を探して高速で回転する。彼はすぐにいつものポーカーフェイスを取り戻すと、少し考えるふりをしてから、用意していたかのように、いくつかの理由を並べ立て始めた。

 

「庇った理由、ですか? なぜ、そのようなことを? …まあ、いいでしょう。別に、大した理由があったわけではありませんよ」

彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。

 

「まず第一に、私もこの大修道院に籍を置く教師ですからね。目の前で同僚が、それも生徒たちの敬愛を集めるメルセデス殿のような人物が危険に晒されていれば、可能な範囲で身を挺して守るのは、立場上、当然の責務と言えるでしょう」

彼はまず、当たり障りのない建前を口にした。

 

カシアンは続ける。彼の声には、いつもの合理的な響きが戻っていた。

「それにあの状況は、私にとって計算の上での行動でした。背後には回復魔法の使い手であるメルセデス殿自身がいた。たとえ私が多少の傷を負ったとしても、即座に、かつ完璧な治療を受けられることは明白だった。つまり、私が負うリスクは極めて低かったのです。最小限のリスクで状況を打開し、侵入者を確保できる可能性を高められるのなら、それは十分に合理的な判断と言えるでしょう」

彼は、あくまで損得勘定に基づいた行動であったと強調した。

 

カシアンは、少しだけ声を落とし、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「あとは…まあ、ご存知の通り、私は何かとレア様やセテス様から、その…思想や行動について、あらぬ疑いをかけられやすい立場にありますからね」

本当にあらぬ疑いかはさておき、彼はベレスの目をちらりと見た。

「ああいう『分かりやすい』自己犠牲的な行動を、証人がいる前で見せておくのは、彼らに対する私の心証を多少なりとも改善し、今後の私の活動を円滑に進めるための、ちょっとした処世術…いわば、計算されたパフォーマンスという側面も、正直に言って、皆無ではありませんでしたね」

 

カシアンは、建前、合理性、そして保身という、三つの理由を淀みなく並べ立てた。それらはどれも、彼らしい理屈であり、一見すると納得のいく説明のようにも思えた。

 

しかし、ベレスは、彼の言葉を一言一句聞きながらも、その表情を一切変えなかった。彼女はただじっと、カシアンの顔を、特にその瞳の奥を、探るように見つめ続けていた。

 

 

 

 

窯から漂う香ばしい匂いが最高潮に達した頃、カシアンが「そろそろ良い頃合いでしょう」と告げた。ベレスはミトンをはめ、慎重にオーブンの扉を開ける。中からは、完璧な焼き色がついた、ふっくらとした牛肉の包み焼きが現れた。肉汁が生地の表面で小さく泡立ち、食欲をそそる音と香りが調理室を満たす。

 

「見事な焼き加減ですね。貴女は、思った以上に筋が良い」

カシアンが、珍しく素直な称賛の言葉を口にした。

 

ベレスはカシアンの言葉にわずかに頬を緩ませたように見えたが、すぐに真剣な表情に戻り、熱い包み焼きを火傷しないように注意深く取り出し、大きな皿の上で少し冷ました。粗熱が取れたのを確認すると、彼女はそれを持ち帰り用に用意されていた簡素な木箱へと、形を崩さないようにそっと収めた。その出来栄えに、彼女自身もかすかな達成感を感じているようだった。

 

箱の蓋を閉め、ベレスがふぅ、と小さく息をついたのを見計らって、カシアンが片付けをしながら、何気ない口調で尋ねた。

 

「ところでベレス。貴女は甘いものは食べられますか?」

 

「甘いもの?」ベレスは少し意外そうな顔でカシアンを見た。これまでの彼の言動から、甘味のような「非効率的」な食べ物に彼が関心を持っているとは思えなかったからだ。彼女はこくりと頷いた。

「うん。食べられる」

 

「そうですか。ならば、ちょうど良い。試してみてほしい試作品があるのです」

カシアンはそう言うと、調理台の隅に置いてあった、表面にびっしょりと白い霜が降りている金属製の箱へと向かった。それは彼が個人的に持ち込んだものらしく、蓋を開けると、ひやりとした冷気が溢れ出した。彼はその中から、小さなガラスの器に盛られた、真っ白で滑らかなクリーム状の塊を取り出した。見た目は、貴族が食後のデザートに嗜むという、高級なアイスクリームによく似ている。

 

「これは…?」ベレスが不思議そうに見つめる。

 

カシアンはその器をテーブルに置くと、おもむろに近くにあった小さなガラス瓶を手に取った。中には、彼が以前ジェラルトたちと飲んでいた自家製酒とは違う、琥珀色の、とろりとした液体が入っている。甘い果実のような、芳醇な香りが微かに漂った。彼はその液体を、白いクリームの上に少量、ゆっくりと回しかけた。冷たいクリームの上で、琥珀色の液体が美しい模様を描く。

 

「どうぞ。口直しにでも。これも、私の研究の副産物…試作品ですがね。名付けるならば、『瞬間冷却式氷菓』とでもいったところでしょうか」

カシアンは、スプーンを添えてその器をベレスの前に差し出した。

 

ベレスは差し出された『氷菓』を、興味深そうに見つめた。白いクリームにかけられた琥珀色のソース。見た目は確かにデザートのようだ。彼女は添えられたスプーンを手に取り、クリームとソースを一緒に少量すくい上げると、おそるおそる口に運んだ。

 

ひんやりとした冷たさが、まず舌に広がる。次いで、濃厚な牛乳と卵の優しい甘さ、そして隠し味に使われているのであろう、ほのかなベリー系の果実の酸味。最後に、かけられた琥珀色の液体――おそらくは甘口の果実酒かリキュール――の芳醇な香りと、舌の上でとろけるような甘美な味わいが追いかけてきた。

 

ベレスの大きな瞳が、驚きでわずかに見開かれた。彼女はもう一口、今度は少し大胆にすくって味わう。冷たくて、甘くて、複雑で、そして、間違いなく――

 

「…………おいしい」

 

ぽつり、と呟かれたその言葉は、先ほどの牛肉の包み焼きに対するものとは明らかに違う響きを持っていた。それは、予期せぬ美味しさに出会った、純粋な驚きと、かすかな喜びの色を帯びていた。彼女は、夢中になるように、スプーンで次々と氷菓を口に運んでいく。

 

あっという間に器が空になりかける頃、ベレスはふとスプーンを置き、カシアンの方を真剣な眼差しで見つめた。

 

「先生。これは…どうやって作ったの?」

その声には、隠しきれない好奇心が満ちていた。

 

カシアンは、ベレスのその素直な反応に、内心では少しばかり満足感を覚えていたのかもしれない。彼は、表情こそ変えなかったが、教師としての顔で、その秘密の一端を解説し始めた。

 

「作り方、ですか? 基本的な原理は、実はそれほど複雑ではありませんよ。新鮮な牛乳と卵黄、それから砂糖を適量。今回は隠し味に数種類のベリーの果汁を加えましたが、ここは好みで変えられます。それらをよく混ぜ合わせる。ここまでは、普通のお菓子作りと大差ないでしょう」

 

彼は指を一本立てて、続けた。

「肝心なのは、ここからです。混ぜ合わせた液体を、特殊な金属容器…先ほどの箱の中に入れてあったものですが…それに移し、氷魔法を精密に作用させるのです」

 

「氷魔法で…?」ベレスが驚いたように聞き返す。

 

「ええ。容器内の温度を急速に、マイナス数十度まで下げる。それと同時に、内部の液体を魔力によって高速で、均一に攪拌し続けるのです。これにより、水分が大きな氷の結晶になるのを防ぎ、空気を含ませながら微細な氷の粒にすることで、このような滑らかな食感を生み出す。まあ、温度と攪拌速度のバランス、魔力の精密な制御には、多少の経験とコツが必要になりますがね。理論上は、誰でも作成可能です」

 

カシアンの説明は、彼らしい合理性と、魔法というファンタジー要素が奇妙に融合したものだった。ベレスは、その説明を食い入るように聞いている。魔法を使って、こんなに美味しいお菓子が作れるなんて。彼女は自分の手のひらをじっと見つめた。自分も氷魔法は使える。もしかしたら、自分にも作れるかもしれない…。そんな考えが、彼女の頭をよぎっているようだった。

 

ベレスはカシアンの説明を聞きながら、自分の手のひらをじっと見つめていた。魔法を使って、あんなに冷たくて甘いものが作れるなんて。彼女の大きな瞳には、未知の技術への強い好奇心がキラキラと宿っているかのようだ。自分にもできるだろうか、そんな思いが彼女の心を占めているのが、カシアンにも見て取れた。

 

その様子を見て、カシアンは口元にかすかな笑みを浮かべた――ように見えた。彼は、ベレスのこの純粋な探求心に、何か特別なものを感じているのかもしれない。

「もし、本当に興味がおありなら、この『氷菓』の作り方も、後日、改めてお教えしましょうか? 牛肉の包み焼きよりは、多少精密な魔力制御の訓練が必要になりますが、貴女になら、あるいはすぐに習得できるかもしれない」

 

「え…」ベレスは驚いたように顔を上げた。彼女の大きな瞳が、期待と戸惑いの間で揺れている。

「…いいの? 先生の研究の邪魔になるのでは…」

 

「構いませんよ。これも、ある意味では魔力応用の実践訓練と言えなくもない。貴女が望むなら、時間を作りましょう」

カシアンはあっさりと答えた。

 

その言葉に、ベレスの表情が、ほんの一瞬だが、ぱっと花が咲いたように明るくなった。普段の彼女からは想像もできないような、素直で、分かりやすい喜びの表現だった。

「……お願いします」

彼女の声は、少しだけ弾んでいた。その変化は、カシアンにとっても新鮮な驚きだったかもしれない。

 

二人の間に、少し和やかで、温かい空気が流れる。オーブンからは、ちょうど良い焼き加減になった牛肉の包み焼きの、たまらなく香ばしい匂いが漂ってきた。ベレスは再びミトンをはめ、慎重にそれを取り出し、先ほどとはまた違う、満足げな表情で出来栄えを確認している。

 

そんなベレスの様子と、彼女が丁寧に箱に詰めようとしている包み焼きを見て、カシアンはふと、あることに思い至った。彼は、片付けをする手を止め、何気ない口調で尋ねた。

「ところで、ベレス。その包み焼き…とても丁寧に作られていましたが。もしかして、ジェラルト殿のために作られたのですか?」

 

カシアンの的確な推測に、ベレスはぴくりと肩を揺らし、少し驚いたように彼を見た。彼女の行動の意図が、この見透かしたような教師にはお見通しだったらしい。しかし、隠すようなことでもないと思ったのか、彼女は少しだけ頬を赤らめながら、素直にこくりと頷いた。

「……ああ。父は、こういう…飾り気のない、素朴な味を好むから。たまには、私が作ったものを食べさせてあげようと」

 

「なるほど、やはりそうでしたか」カシアンは納得したように頷いた。その表情は、どこか柔らかい。

「ジェラルト殿には、私も傭兵団で世話になった身ですからね。彼には、返すべき借りもある」

彼はそう言うと、調理場の隅に置いていた自身の荷物の中から、ずっしりとした重みのある、封のされた陶器の瓶を一本取り出した。それは、以前ジェラルトがカシアンの部屋で飲んでいたものと同じ種類の、カシアン自家製の、琥珀色をした度数の高い蒸留酒だった。

 

「ならば、これも一緒に持っていくといいでしょう」

カシアンは、少し悪戯っぽい光を瞳に宿して、その酒瓶をベレスに差し出した。

「彼は甘いものより、きっとこちらの方が喜ぶはずです。包み焼きと一緒に、貴女からの土産だと言って渡せばいい」

 

ベレスは、目の前に差し出された大きな包み焼きの箱と、ずっしりとした酒瓶を交互に見た。両手で抱えるには、少し重そうだ。彼女は少し戸惑いながらも、カシアンの思いがけない気遣い(?)を素直に受け取ることにした。

「……ありがとう、先生。父も、きっと…喜ぶと思う。」彼女は丁寧に両手で酒瓶を受け取った。

 

「ええ、間違いなく」カシアンは請け合った。

 

ベレスは、大切な宝物を扱うかのように、包み焼きの箱と酒瓶をしっかりと抱え直した。そして、カシアンに向かって深く一礼すると、調理室の扉へと向かった。去り際の彼女の横顔は、どこか誇らしげで、満足そうで、そしてほんのりと桃色に染まっているようにも見えた。

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