道徳以外を教えます   作:マウスブン

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8月 工兵

青獅子の学級の教室には、カシアンが教壇に立っていた。先の「宴の訓練」やアロイスとの実技試験などによる、カシアンの「奇行」を経て、生徒たちのカシアンを見る目には、以前の単なる警戒心や反発とは違う、畏怖や困惑、そしてほんの少しの興味が混じり始めていた。今日の授業は何だろうか、そんな視線が彼に集まっている。

 

「今日のテーマは、『戦場の縁の下の力持ち:工兵の役割と技術』についてだ」

 

カシアンは静かに告げた。「工兵」という聞き慣れない言葉に、教室がわずかにざわつく。

 

「諸君らの多くは、騎士や兵士として、あるいは魔道士として、前線で華々しく戦うことを夢見ているかもしれない。だが、戦場の勝敗というものは、剣や魔法による直接的な戦闘の結果だけで決まるのではない。むしろ、その勝敗を陰で大きく左右する存在がいる。それが、今日話す『工兵』…戦闘工兵、あるいはサッパーとも呼ばれる専門技術者たちだ」

 

彼は教室を見渡し、言葉を続ける。

「どんなに屈強な重装騎士であっても、渡ることのできない深い河の前では、その力は何の意味もなさない。どんなに強力な騎馬隊の突撃であっても、巧妙に仕掛けられた逆茂木や落とし穴の前では、その勢いは無残に削がれるだろう。そして、どんなに難攻不落に見える城壁であっても、それを打ち破る技術と手段が存在すれば、決して安泰とは言えない」

 

カシアンは黒板に、川、障害物、城壁の簡単な図を描いた。

「工兵とは、いわば戦場の『地形』と『構造物』を支配する者たちだ。彼らは道なき場所に道を作り、渡れない川に橋を架け、敵の進軍を阻む壁を築き、そして時には、敵の守りを打ち破る。軍隊という組織がその能力を最大限に発揮するためには、彼ら工兵の働きが不可欠なのだ。決して地味な存在などではない。むしろ、戦場の勝敗を決定づける、隠れた主役と言っても過言ではない」

 

カシアンの力説に、生徒たちは真剣な表情で聞き入っていた。騎士道や武勇伝とは違う、しかし無視できない戦場の現実がそこにはあった。

 

「では、具体的に工兵はどのような役割を担うのか」

カシアンは黒板に書き出しながら説明を始めた。

 

「まずは陣地構築。敵の攻撃から味方を守るための塹壕や土塁、物見やぐら、あるいは負傷者を収容する野戦病院などを、迅速かつ堅牢に設営する。地形を読み、効果的な配置を考え、限られた資材で最大の防御効果を得る技術が求められる」

ディミトリが、祖国防衛の観点からか、真剣な眼差しで頷いている。ドゥドゥーも、主君を守る盾としての役割を重ねているのかもしれない、じっとカシアンの言葉に耳を傾けていた。

 

「次に渡河支援。大軍が河川を渡るための舟橋の架設は、工兵の最も重要な任務の一つだ。流れの速さ、川幅、水深を正確に測量し、敵の妨害がある中で、いかに迅速かつ安全に橋を架けるか。簡易的な筏や橋を作る技術も必要とされる」

イングリットが、騎馬での渡河の困難さを思い出したのか、興味深そうに聞いている。

 

「障害物の設置と除去も重要だ。逆茂木、拒馬、地雷のような罠を設置し、敵の進軍を妨害・遅延させる。どこに、どのように設置すれば最も効果的か、敵に悟られずに偽装する技術も必要だ。逆に、敵が設置した障害物を、味方の進軍のために安全かつ迅速に除去する技術も求められる。これには特殊な機材や、場合によっては爆薬の知識も必要になる」

フェリクスが、障害物という言葉に、わずかに眉をひそめた。彼の剣技も、足元を掬われては意味がない。

 

「そして、破壊工作」

カシアンの声が少し低くなる。

「敵の城門や城壁、橋梁といった重要拠点を破壊し、無力化する。これには、爆薬の精密な設置と起爆技術、あるいはトレビュシェットのような大型攻城兵器の設計・運用能力が求められる。時には、敵地に潜入して破壊活動を行う必要も出てくるだろう」

シルヴァンが、この派手な響きのする言葉に、少しだけ興味を示したように口元を歪めた。

 

「最後に、これら全てを支える道路・補給路の建設と維持。軍隊が迅速に移動し、食料や武器弾薬といった補給を受け続けるためには、道がなければ始まらない。工兵は、荒れ地に道を切り開き、壊れた橋を修復し、兵站線という軍隊の生命線を維持する役割も担う」

 

カシアンの説明を聞き、生徒たちはそれぞれの関心に基づいて質問を始めた。

「先生、堅牢な防御陣地を築く上で、最も考慮すべき点は何でしょうか?」(ディミトリ)

「橋を架ける際の、必要な強度計算などは、どれほど複雑なのですか?」(アネット)

「その…爆薬というのは、どのような仕組みで…?」(シルヴァン)

「戦いが終わった後も、工兵の方々が作った道や橋は、人々の生活のために役立つのですか?」(アッシュ)

 

カシアンは、一つ一つの質問に対し、専門的な知識を交えながら、的確に、そして分かりやすく答えていく。彼の知識は、戦術論だけでなく、工学、土木、測量、さらには化学にまで及んでいるようだった。

 

やがて、授業の終了時間が近づくと、カシアンは講義を締めくくった。

「今日話したように、戦場において、英雄的な活躍をする騎士や魔道士だけでなく、この工兵のような、専門的な知識と技術を持つ者たちの地道な働きがいかに重要か、理解できたはずだ。戦いは、決して華やかな側面ばかりではない。むしろ、こういった目立たない部分の積み重ねが、最終的な勝敗を分けることが多い」

 

彼は生徒たちを見渡し、言った。

「諸君らの中にも、将来、このような工兵としての分野でその才能を開花させる者が出てくるかもしれん。あるいは、指揮官として、彼ら工兵の能力をいかに理解し、効果的に活用するかが、君たちの責務となるだろう。今日の講義が、諸君らの視野を広げる一助となったことを願う」

 

教室には、静かな納得と、戦いというものに対する新たな視点を得たような空気が漂っていた。

 

 

 

 

 

その日、カシアンはガルグ=マク大修道院の喧騒から離れ、近郊に広がる穏やかな丘陵地帯の地形調査を行っていた。彼の傍らには、槍を手に、常に周囲への警戒を怠らないイングリットの姿があった。彼女は、カシアンからの依頼というよりは、自ら志願する形で今日の護衛任務に就いていた。先日のスパイ捕獲作戦で、あと一歩のところで取り逃がし、結果的にカシアンに少なくない傷を負わせてしまったことへの責任を、彼女は強く感じていたのだ。せめてもの償いとして、そして二度と同じ轍は踏まぬという決意を込めて、彼女はカシアンの護衛を買って出たのだった。

 

カシアンは、そんなイングリットの心境など意に介する様子もなく、黙々と調査に没頭していた。手に持った羊皮紙の地図と、時折取り出す測量器具のようなものを使い、丘の起伏、森の境界線、小川の流れる方向と水深、そして古びた道の状態などを、驚くほど丹念に確認し、地図に細かく書き込んでいく。

 

「この丘陵を越えれば、街道へ抜ける最短経路は…ふむ、やはりこの谷間か。だが、待ち伏せには絶好の地形だな」

「川の水量は安定している。渡渉可能な地点は三箇所…いや、増水時を考慮すると二箇所と見るべきか」

「動物たちも一定数生息している。食料にも困らなさそうだ。」

 

彼の呟きは、単なる地形調査というよりは、まるで戦術的な観点からこの土地を分析しているかのようだった。イングリットは、彼の目的が何なのか計りかねながらも、護衛としての務めを果たそうと、神経を研ぎ澄ませていた。

 

しかし、調査は地味で時間のかかる作業だった。太陽は高く昇り、空には白い雲がゆっくりと流れ、鳥のさえずりと風が草を揺らす音だけが聞こえる。予想していた盗賊の襲撃も、厄介な魔物の出現もなく、拍子抜けするほど平和な時間が流れていく。張り詰めていた緊張感が、穏やかな陽気の中で少しずつ弛緩していくのを感じながら、イングリットは思わず、ふぁあ…と小さなあくびを漏らしてしまった。

 

はっとして口元を押さえる。任務中に何たる気の緩みか、と自身を戒めようとしたその時、ふと、自分が背負っている大きな革製のカバンから、何とも言えず美味しそうな匂いが漂ってくることに気がついた。それは、焼きたてのパンと、香ばしい肉、そして新鮮な野菜が混ざり合ったような、食欲を強く刺激する香りだった。そういえば、朝早くに出発してから、昼食もまだだった。

 

途端に、ぐぅぅぅ~~~…。

 

静かな丘の上に、はっきりと、しかし情けない音がお腹から響き渡った。イングリットの顔が、カッと赤くなる。よりによって、カシアン先生の前で…。

 

「……」

 

地図に何かを書き込んでいたカシアンが、ぴたりと動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。その無表情な目が、顔を真っ赤にして俯くイングリットを捉える。

 

「…腹が減ったのですか、イングリット」

 

カシアンの声は、平坦で、感情が読み取れない。イングリットは恥ずかしさで消えてしまいたい気分だったが、正直に頷くしかなかった。

「も、申し訳ありません…その…」

 

すると、カシアンは意外にも、責めるような口調ではなく、淡々と言った。

「そのカバンの中身は、今日の昼食用に用意してきたものです。調査が長引くことも想定して、多めに作ってありますから、当然、貴女の分も入っていますよ」

彼は再び地図に視線を落としながら、「護衛任務も体力を使う。先に食べ始めても構いません」と、あっさりと許可を出した。

 

「えっ、しかし、先生のお仕事が終わるまで…」

イングリットは任務中の身であることを思い出し、遠慮しようとした。だが、その言葉を遮るかのように、再びお腹が「ぐぅ~」と鳴ってしまう。

 

カシアンは顔を上げずに言った。「腹が減っては戦はできん、と言います。護衛も同じでしょう。貴女が空腹で集中力を欠いては、それこそ護衛任務に支障が出る。気にせずどうぞ」その言葉は、彼にしては驚くほど常識的で、配慮のあるものに聞こえた。

 

イングリットは一瞬ためらったが、空腹には勝てなかった。

「…では、お言葉に甘えさせていただきます」と、少し照れたように小声で言い、背負っていたカバンを慎重に地面に下ろした。

 

カバンを開けると、中からは丁寧にワックスペーパーで包まれた、分厚いサンドイッチがいくつか出てきた。彼女が一つ手に取って包みを開くと、香ばしく焼かれたパンの間に、厚切りのローストされた鶏肉、シャキシャキとしたレタスやトマト、そして風味の良いチーズがたっぷりと挟まれている。見た目も非常に美味しそうだ。(これは…カシアン先生が?)そんな疑問が頭をよぎったが、今は空腹を満たすことが先決だった。

 

イングリットは、周囲への警戒を怠らないようにしながらも、サンドイッチにかぶりついた。パンは柔らかく、鶏肉はジューシーで、野菜は新鮮そのもの。絶妙な味付けが施されており、驚くほど美味しかった。

 

「おいしい…」思わず声が漏れる。

 

近くのヤギや猿たちも穏やかにしている平和な丘の上で、地道な調査を続ける教師と、その護衛を務めながら美味しいサンドイッチを頬張る騎士見習い。それは、少し奇妙で、しかしどこか穏やかな昼下がりの光景だった。イングリットは、カシアンという教師の、掴みどころのない一面にまた一つ触れたような気がしながら、二つ目のサンドイッチに手を伸ばすのだった。

 

 

 

 

イングリットはカシアンから少し離れた、日当たりの良い岩に腰を下ろし、先ほど受け取ったサンドイッチを味わっていた。一口食べるごとに、パンの香ばしさ、鶏肉の旨味、野菜の瑞々しさが口の中に広がる。空腹も手伝って、格別な美味しさだ。

 

「先生、このサンドイッチ、本当に美味しいです」

彼女はもう一つ手に取りながら、調査を続けているカシアンに話しかけた。

「それに、これだけの量を用意されるなんて…ずいぶん手が込んでいますね。失礼ですが、先生お一人で作られたのですか?」

先日の料理教室のこともあり、自然とそんな疑問が口をついて出た。

 

カシアンはイングリットの問いには直接答えず、「そうですか」とだけ短く応じると、地図と睨めっこしていた顔を上げた。「調査もひとまず区切りがつきましたし、私も少し休憩しましょうか」彼はそう言うと、イングリットの隣に置かれていた、サンドイッチが入ったままの大きな革製のカバンに手を伸ばした。

 

まさに、カシアンがカバンに手を入れ、自分の分のサンドイッチを取り出そうとした、その瞬間だった。

 

「キキッ!」

 

鋭い鳴き声と共に、近くの木の茂みから、茶色い影が矢のように飛び出してきた! それは、この辺りにも生息している小柄な猿だった。猿は信じられないほどの俊敏さで、開けっ放しになっていたカバンの中に残っていたサンドイッチの包みを全てひったくると、一瞬のためらいもなく身を翻した!

 

「あっ!」「こらっ! 待て!」

 

突然の出来事に、イングリットもカシアンも驚いて声を上げる。イングリットは食べかけのサンドイッチを放り出し、カシアンも素早く立ち上がって、逃げる猿を追いかけた。

 

しかし、猿は人間を嘲笑うかのように、身軽に近くの木の幹を駆け上がり、枝から枝へと飛び移っていく。二人が慌てて木の下まで駆けつけた時には、猿は既に深い森の奥へと姿を消した後だった。残されたのは、風に揺れる木の葉と、呆然と立ち尽くす二人、そして地面に転がったイングリットの食べかけのサンドイッチだけだった。

 

カシアンが、力なく呟いた。

「……やられましたね。用意していた昼食が、これで全てパーですか」

彼の表情は相変わらず乏しいが、その肩は目に見えてがっくりと落ちている。大切にしていた実験器具でも壊されたかのような、深い失望感が漂っていた。

 

彼は猿が消えた森の奥をしばらく見つめていたが、やがて深いため息をついた。

「このどうしようもない空腹感と、予期せぬ形で食料を失うという理不尽な喪失感…実に、久しぶりです」

その言葉には、彼がかつて経験したであろう、飢えと隣り合わせだった日々の記憶の断片が、重く滲み出ていた。

 

イングリットは、そんなカシアンの様子に、先日の彼の過去の告白を思い出し、かける言葉を見つけられずにいた。

 

すると、カシアンはふと、足元に茂る緑の草に目を留めた。そこでは、小さな野鳥が数羽、熱心にその草の葉を啄んでいる。

「おや…」彼の目が、僅かに光ったように見えた。彼はその草を指差した。

「イングリット殿、あれをご覧なさい。あの鳥が食べている草…確か、キリの実草とか言ったかな。あれは、我々人間でも食べることができるのですよ。多少の苦味とアクはありますが、適切に処理すれば、ビタミンやミネラルも補給できる。非常時には、貴重な食料源となり得ます」

 

そう言うと、カシアンはこともなげに屈み込み、その緑色の草に手を伸ばし、むしり取ろうとした。まるで、道端に落ちている木の実でも拾うかのように、自然な動作で。

 

「せ、先生! お待ちください! それはダメです!」

 

その光景を見たイングリットが、慌ててカシアンの腕を掴んで制止した。彼女の顔は少し青ざめている。

 

「確かに! その草は食べられないことはありません! ですが、先生! それは生で食べると酷く苦くて、舌が痺れるほどですし、アクが非常に強いのです!しっかりと何度も水に晒して、長時間煮込まないと…!」

イングリットは自身の辛い記憶を必死に語りながら、カシアンの手から草を半ば奪い取るようにして取り上げた。

「これは、本当に、本当に最後の手段のようなものなのです!」

 

彼女は、目の前の教師が、まるで日常的な行為のように、その「最後の手段」に手を出そうとしていることに、強い衝撃を感じていた。

 

そして、イングリットは呆れたような、それでいて放っておけないというような目でカシアンを見つめた。

「今は、そんな飢饉の時ではありません! ここから少し歩けば、大修道院に戻れます。そこには温かくて、安全で、美味しい食事がたくさん待っているではありませんか! お願いですから、先生、そんな草を食べようとするのはやめてください!」

 

「でも久しぶりに童心に帰るのも悪くないかもしれませんよ。」

 

彼女は、まだ少し名残惜しそうに周囲を見回しているカシアンの腕を、今度はしっかりと掴んだ。

 

「さあ、先生、帰りましょう! 今日の調査は、もう十分すぎるほどです! 美味しいサンドイッチは残念でしたが、大修道院でちゃんとした食事を摂りましょう!」

 

イングリットは、半ば強引に、まだ少し抵抗するようなカシアンの腕を引き、彼をガルグ=マクへの帰路へと促した。カシアンは、イングリットに引かれるまま歩き出しながらも、ちらりと後ろを振り返り、先ほどの草が生えていた場所を見ている。

 

イングリットは、この掴みどころのない教師の、また新たな一面――サバイバル知識の異常なまでの深さと、食糧事情を忘れさせるかのような食への執着―に触れ、深いため息をつかずにはいられなかった。今日の護衛任務は、平和ではあったが、別の意味で非常に疲れるものになりそうだった。それでも、彼女はカシアンの腕をしっかりと引き続け、大修道院へと続く道を歩き始めた。二人の間の距離は、物理的にも、そしておそらくは精神的にも、また少しだけ奇妙な形で縮まったのかもしれない。

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