道徳以外を教えます   作:マウスブン

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9月 スカウト

その夜、ガルグ=マク大修道院の広大な書庫の片隅、普段は稀にしか人の訪れない古い写本室に、三つの人影があった。蝋燭の灯りが、彼らの真剣な表情を揺らめかせている。一人は、異端の教師カシアン。そして向かい合うのは、アドラステア帝国の皇女エーデルガルトと、その腹心ヒューベルト。空気は張り詰め、重要な密談が行われていることを示していた。

 

カシアンが静かに口火を切った。

「さて、エーデルガルト殿下、ヒューベルト殿。以前より書面にてやり取りさせていただいていた件、直接お話しできる機会をいただき感謝します」

 

エーデルガルトは、皇帝としての威厳をその若さの中に宿しながら、まっすぐにカシアンを見据えた。

「こちらこそ、カシアン先生。お忙しい中、我々の呼びかけに応じていただき、感謝します。お手紙では何度かお伝えしましたが、改めて私の口から、直接お話ししたく」

 

彼女は一呼吸置き、強い意志を込めて言った。

「単刀直入に申し上げます。カシアン先生、私はあなたの類稀なる知略と、既存の権威や常識にとらわれない、その柔軟かつ大胆な発想を、心の底から高く評価しています。この士官学校で見せてこられた数々の実績、生徒たちの能力を引き出す独自の教育、そして何より、その卓越した戦術眼と分析力は、これからのアドラステア帝国にとって、必ずや大きな、かけがえのない力となるでしょう。どうか、その類稀なる才能を、我が帝国のために貸していただけませんか?」

 

エーデルガルトの言葉は、淀みなく、力強かった。彼女は自身の真の目的――女神と紋章に支配された世界の打倒――については一切触れず、あくまでカシアンの「能力」を帝国が必要としている、という形でのスカウトを提示した。

 

カシアンは、エーデルガルトの真摯な言葉を静かに受け止めた。彼はしばらくの間、指を組んで黙考していたが、やがて顔を上げ、落ち着いた声で答えた。

 

「…エーデルガルト殿下。貴殿からの光栄なお申し出、そして以前より示していただいた帝国改革への並々ならぬ熱意と、私個人への過分な評価、大変興味深く受け止めさせていただいておりました」

彼は言葉を選びながら続ける。

「私自身、現在のフォドラが抱える歪み、特に、セイロス聖教会が長年にわたり築き上げてきた権威とその影響力に対しては、強い疑問と…率直に言って、不信感を抱いております。もし、貴殿の目指す帝国の未来が、そのような旧弊を打破し、より合理的な社会を築くことにあるのならば…その試みに、私の知識と経験が役立つのであれば、前向きに検討させていただきたい。そう考えております」

 

カシアンは、自身の教会への不信感を表明することで、エーデルガルトとの間に存在するであろう共通認識を強調し、協力への意思を示した。

 

その肯定的な反応に、エーデルガルトの表情がわずかに和らぐ。隣に控えていたヒューベルトが、すかさず具体的な条件提示に移った。

「先生のお気持ち、お聞かせいただき感謝いたします。先生のような方に帝国へお越しいただけるとなれば、我々にとってこれほど心強いことはありません」

ヒューベルトは、いつものように冷静沈着な口調で続けた。

「つきましては、帝国にお迎えする際の待遇についてですが、現時点では、殿下の特別顧問、あるいは帝国軍における軍師、作戦立案官といった地位をご用意することを考えております。階級や俸給に関しましては、先生のこれまでの実績、そして我々が期待する貢献度に見合う、最大限の誠意をもってご提示させていただく所存です」

 

さらに彼は、より魅力的な可能性を示唆した。

「そして、今後の先生のご活躍…特に、殿下が目指される『新たな帝国』において、多大な貢献を果たされた暁には、帝国貴族への叙爵も視野に入れております。先生ほどの卓越した才覚をお持ちの方には、それにふさわしい名誉と地位が用意されるべきだと、我々は考えております」

 

貴族への取り立て――それは多くの者にとって、抗いがたい魅力を持つ提案だろう。しかし、カシアンは眉一つ動かさなかった。

 

彼は静かに言った。

「厚遇のご提示、痛み入ります。ですが、正直なところ、私自身は貴族の地位というものに、現時点ではさほど興味はありません。むしろ、肩書きや慣習に縛られるのは、私の性に合わない」

彼は自身の考えを述べた。

「可能であれば、まずは『臨時の軍属』、あるいは契約に基づいた傭兵のような、より自由度の高い立場で帝国に協力させていただく、というのはいかがでしょうか。まずは私の働きぶりを貴殿らに見ていただき、その上で、改めて正式な身分や役割についてご判断いただく。その方が、お互いにとって、より合理的かと存じますが」

 

彼は最初から帝国という組織に完全に組み込まれることを避け、自身の裁量権と行動の自由を確保しようとしていた。エーデルガルトとヒューベルトは、その条件に少し驚いた表情を見せたが、カシアンの性格を考えれば、あり得ない要求ではない。

 

さらに、カシアンはもう一つの、より重要な条件を付け加えた。

「そして、もう一点、お認めいただきたい条件がございます。私は現在、様々な事情から、アビスに住む者たちと、ある種の協力関係を結んでいます。彼らの中には、表社会では生きていけなくとも、戦闘や諜報において非常に有用な能力を持つ者も少なくありません。私が帝国へ赴く際には、彼らを私の個人的な指揮下にある『特殊部隊』、あるいは私設の傭兵団として、共に連れて行くことを許可していただきたいのです。彼らの力は、必ずや殿下のお役に立つはずです」

 

臨時の身分での雇用、そしてアビスの住人の同行。どちらも、帝国の体面や規律を重んじる立場からすれば、即座には受け入れがたい条件かもしれない。ヒューベルトの眉間に、わずかに皺が寄った。

 

しかし、エーデルガルトの決断は早かった。彼女は、カシアンという得難い才能を確実に手に入れることの重要性と、彼が掌握しているというアビスの「裏の戦力」の潜在的な有用性を瞬時に見抜いたのだろう。

 

「分かりました、カシアン先生」

彼女は、強い意志を宿した瞳でカシアンを見据え、きっぱりと言った。

「あなたの条件を、全て受け入れましょう。まずは臨時の軍属として、帝国のためにその辣腕を存分に振るってください。アビスの方々の同行も認めます。彼らの管理と指揮については、全権をあなたに一任いたします」

 

「…感謝いたします、殿下」カシアンは静かに頭を下げた。

 

こうして、密談は合意に達した。帝国への移籍時期、表向きの理由、アビスの者たちの具体的な扱いなど、いくつかの実務的な事項について簡単な打ち合わせが行われ、三者はそれぞれ、人目を忍んでその場を後にした。

 

 

 

 

帝国への将来的な移籍という密約を交わした後、カシアンは早速、ガルグ=マクからの「引っ越し」の準備に取り掛かっていた。行き先は、ヒューベルトが手配した、大修道院と城塞都市アリアンロッドの間にある町で、現在は使われていない元貴族の古い館の一つだ。当面の活動拠点として町を暫定統治してよいとされていた。またアビスから連れていく者たちの仮住まいとして、近隣も利用することになっていた。

 

カシアンの自室は、引っ越し作業のために混沌としていた。山のような書物、難解な図面が描かれた羊皮紙の束、用途不明の実験器具や金属部品、そして彼が個人的に収集・製作したであろう奇妙な品々が、次々と木箱に詰め込まれていく。まだ先生としての仕事も続けるので一部のものはそのままだが、それでも荷物が多い。その作業を手伝っているのは、ユーリス、バルタザール、ハピ、コンスタンツェといったアビスの面々と、彼らが連れてきた腕の立つ傭兵たちだった。

 

「ったく、センセの荷物はガラクタみてえなもんばっかりだな! これ、本当に全部持ってくのか?」

ユーリスが埃っぽい機械部品を持ち上げながら、呆れたように言う。

「これは一体、何の魔法装置ですの? わたくしの深遠なる魔道の知識をもってしても、その構造が理解できませんわ!」

コンスタンツェは、奇妙なガラス管の集合体を興味深そうに眺めている。

「重い…なんで私がこんな力仕事を…」

ハピは文句を言いながらも、書物の詰まった重い箱を運び出していく。

「おう! 任せとけ! このバルタザール様にかかれば、こんなもん楽勝だぜ!」バルタザールは持ち前の怪力で、次々と重い荷物を運び出していた。

 

彼らにとって、この肉体労働は決して楽なものではない。しかし、その顔にはどこか明るさが宿っていた。長年暮らした薄暗いアビスを離れ、日の光が降り注ぐ地上で、たとえ一時的であっても「普通の町」で暮らせるという事実は、彼らにとって大きな喜びだったのだ。

 

「へへ、これでやっとカビ臭い地下の寝床ともおさらばか!」「日の光が眩しいぜ!」「まともな飯が食えるようになるといいわね!」そんな声があちこちから聞こえてくる。

 

部屋の主要な荷物が運び出され、だいぶガランとしてきた頃、カシアンは壁際にあった大きな本棚を静かに動かした。すると、その後ろには、壁と見分けがつかないように巧妙に偽装された、隠し扉が現れたのだ。

 

「おいおい、センセ。まだ何か隠してたのかよ。こんなところに隠し扉なんて…」

ユーリスが驚きの声を上げる。

 

カシアンは何も言わずにその扉を開けた。途端に、独特の、芳醇なアルコールの香りが漂い出てくる。扉の奥には、カシアンの部屋よりもさらに広い空間が広がっており、そこには驚くべき光景が広がっていた。小規模ながらも本格的な銅製の蒸留器、いくつもの大きな発酵樽、そして壁一面に設置された棚には、様々な大きさや形の瓶、そして木樽が、まるで宝物のように整然と並べられ、保管されていたのだ。

 

バルタザールが、目を爛々と輝かせて叫んだ。「こ、これは…!?すげえ! 酒だ! 大量の酒だぞ!」

 

「見ての通り、私の個人的な趣味の部屋…まあ、長年にわたる研究の成果を発表する場、とでも言っておきましょうか。酒造所兼保管庫です」

カシアンは、こともなげに説明した。

「学生時代から、細々と続けていたものでしてね。これらも、新しい拠点へと慎重に運び出したい。中には非常にデリケートな熟成中のものもありますから、特別な注意が必要です。運び方を指示しますので、手伝っていただきたい」

 

ユーリスは、呆れたような、それでいて少し面白そうな顔でカシアンを見た。

「趣味、ねぇ…。どう見ても本格的な密造酒工房じゃねえか、センセ。こんなもん、教会のお偉方にバレたら、あんた、ただじゃ済まねえぞ」

 

「心配は無用です」カシアンは眉一つ動かさずに言い返した。

「ここで醸造した酒は、一度たりとも外部に販売したことも、不特定多数に譲渡したこともありません。あくまで私個人の学術的研究と、ごく親しい間柄の者への個人的な提供に限定しています。個人的な趣味と研究の範囲内であり、法的に何ら問題はないはずです」

彼の独自の論理、あるいは詭弁には、もはや誰も突っ込む気力がないようだった。

 

「さて、ではまず、この一番大きな樽ですが、これは特に振動に弱いので…」

カシアンが、最も注意が必要そうな大きな木樽を指差し、その運び方について説明を始めようとした、まさにその瞬間だった。

 

ガンッ!! ドガァァンッ!! バキィィィッ!!!

 

突如として、壁の向こう側――隠し部屋の奥の壁と思われる方向から、激しい物音と、剣戟のような金属音、そして何かが破壊されるような轟音が、続け様に響き渡ってきたのだ!

 

「戦闘!? こんな場所でか!? 聞いてねえぞ!」ユーリスも短剣を抜き、警戒レベルを引き上げる。

「ええっ!? な、何が起きてるの!?」ハピが怯えたように身をすくめる。

 

アビスの面々が音のする方向を見つめ、困惑と緊張に包まれていると、事態はさらに予想外の展開を見せた。

 

ドッッッッッッッッッッ!!!!

 

先ほどまで音がしていた壁の一部が、内側から凄まじい衝撃と共に、粉々に砕け散った! 土煙と壁の破片が、隠し部屋の中に派手に舞い散る!

 

そして、その破壊された壁の穴から、何かに強く吹き飛ばされたかのように、見慣れたオレンジ色の髪の青年が、勢いよく部屋の中に転がり込んできたのだ!

 

「ぐっ……!!」

 

床に叩きつけられ、激しく咳き込みながら呻き声を上げるその人物は、まぎれもなく、黒鷲の学級に所属する貴族の子息――フェルディナント=フォン=エーギルだった。

 

唖然として、突然の闖入者を見つめるカシアンとアビスの面々。壁の穴の向こうからは、依然として激しい戦闘の音が鳴り響いていた。

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