道徳以外を教えます   作:マウスブン

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VS死神騎士

壁が崩れ落ち、土煙が舞う中、床に転がったフェルディナントが激しく咳き込んでいる。壁の穴の向こうからは、金属が激しくぶつかり合う音、悲鳴に近い詠唱、そして重々しい鎌が空を切る不気味な風切り音が絶え間なく響き渡り、この隠し部屋が決して安全な場所ではないことを示していた。アビスの面々は即座に武器を構え、警戒態勢をとる。

 

カシアンは、床に転がるフェルディナントを一瞥した後、反射的に自身の「聖域」へと視線を向けた。…そして、その表情が凍りついた。先ほどの壁の崩壊の衝撃で、長年かけて作り上げ、熟成させてきた酒が保管されていた棚の一部が崩れ落ち、無数のガラス瓶が無残にも砕け散っていたのだ。床には、年代物の貴重な蒸留酒や、試行錯誤の末に完成した特別なリキュールが、価値のない水たまりのように広がり、芳醇な、しかし今は虚しい香りを漂わせている。彼が時間と情熱、そして独自の技術をつぎ込んできた「作品」たちが、一瞬にして瓦礫と液体に変わってしまった。カシアンの眉間に、かつてないほど深い皺が刻まれ、その指先が微かに震えている。

 

次いで、彼は壁の穴から、騒乱の元凶である向こう側の通路へと視線を向けた。そこでは、予想通りの、しかし許しがたい光景が繰り広げられていた。禍々しい黒馬に跨り、巨大な死神の鎌を振るう、あの忌まわしき死神騎士。その圧倒的な力の前に、ベレスと、彼女が率いる黒鷲の学級の生徒たち――ヒューベルト、カスパル、ベルナデッタ、ドロテア、ペトラ、そして先ほど吹き飛ばされたフェルディナントも元々はそこにいたのだろう――が必死に応戦していた。ベレスは女神の力を宿す剣を振るい、果敢に立ち向かっているが、体にはいくつもの傷があり、その表情には疲労の色も見える。他の生徒たちは明らかに劣勢で、ヒューベルトの闇魔法も、カスパルの突撃も、ペトラの俊敏な動きも、死神騎士の絶対的な力の前に有効打を与えられずにいる。ベルナデッタは怯えながらも必死に矢を放ち、ドロテアは回復魔法を唱え続けているが、状況は絶望的に見えた。

 

砕け散った自身の研究成果(酒)。そして、壁の向こうで繰り広げられる、教え子や生徒たちが一方的に蹂躙されかねない戦闘。カシアンの中で、何かが音を立てて切れた。

 

「……貴様……ッ!!」

 

彼の口から漏れたのは、低く、しかし抑えきれないほどの激情が込められた声だった。その怒りが、長年かけて慈しんできた美酒を破壊されたことへのものなのか、無力な生徒たちやベレスが危険に晒されていることへの義憤なのか、あるいは単に自身の領域を侵犯され、計画を邪魔されたことへの不快感なのか…その複雑な感情の源は、彼の歪んだ表情からは判別できなかった。確かなのは、彼が今、猛烈に怒っているということだけだった。

 

カシアンは、足元に転がっていた、奇跡的に割れずに残っていた蒸留酒と思われるガラス瓶を、乱暴に掴み取った。それは雑ながらカットが施された、彼の自信作の一つだった。だが今、それは彼の怒りをぶつけるための、粗末な投擲武器に過ぎなかった。

 

「おい、センセ! まさか…!」ユーリスがカシアンの異様な気配に気づいて声をかける。

「待て、カシアン! 一人で突っ込むのは無茶だ!」バルタザールも制止しようとする。

 

しかし、カシアンは彼らの声など耳に入らないかのように、掴んだ酒瓶を振りかぶり、壁の穴へと向かって一直線に走り出した!

 

「あの馬鹿! 行くぞ、お前ら!」ユーリスは悪態をつきながらも、即座にアビスの傭兵たちに指示を飛ばす。

「ちっ、仕方ねえ! センセを死なせるわけにゃいかねえからな!」バルタザールも戦斧を担ぎ直す。

コンスタンツェやハピも杖を構える。アビスの面々は、カシアンの突飛な行動に驚きつつも、彼を見捨てるという選択肢はないようだった。彼らは次々と壁の穴から戦闘へと加勢していく。

 

通路に出たカシアンは、ベレスたちと対峙していた死神騎士に向かって叫んだ。

「そこをどけ!」

 

死神騎士は、突如として壁の穴から現れたカシアンと、その後に続いて現れた怪しげな風体の集団(アビス組)に気づき、一瞬、鎌を振るう手を止めた。

「…なんだ、貴様らは? どこから湧いて出た、鬱陶しい虫けらが」

仮面の奥から、冷たく侮蔑的な声が響く。

 

「黙れッ!!」

カシアンは、死神騎士の言葉を遮るように怒鳴った。その瞳は、普段の冷静さからは想像もつかない、剥き出しの怒りに燃えている。

「貴様だけは…! 私の大切なものを…! いや、貴様のような存在は…絶対に許さんッ!!」

 

彼は叫びと共に、手に持っていた年代物の酒瓶を、渾身の力で死神騎士めがけて投げつけた!酒瓶が、空気抵抗を無視するかのように高速で回転しながら、死神騎士の黒い鎧へと吸い込まれていく!

 

貴重な酒が武器として宙を舞うという、常軌を逸した光景。カシアンの爆発した怒り。突如として現れたアビスという謎の勢力。そして、迎え撃つ死神騎士。ベレスや黒鷲の生徒たちも、この予期せぬ援軍(?)の登場と、カシアンの豹変ぶりに、ただただ唖然とするしかなかった。

 

 

 

カシアンが怒りに任せて投げつけた酒瓶は、美しい放物線を描きながら、死神騎士の禍々しい黒鎧の胸元に命中し、パリン!と甲高い音を立てて砕け散った!中に入っていた琥珀色の液体――カシアンが長年熟成させてきたであろう、90%以上と言う極めてアルコール度数の高い秘蔵の蒸留酒――が、死神騎士の全身に派手に降りかかる。芳醇な、しかし今は場違いなアルコールの香りが、戦闘の喧騒の中に一瞬だけ漂った。

 

死神騎士は、その程度の衝撃にはびくともしない。むしろ、液体を浴びせかけられたこと、そして目の前の取るに足らない人間(カシアン)の敵意に、仮面の奥の目を不快そうに細めた。

「虫けらが、実にふざけた真似をしてくれる…! その無礼、死をもって償わせてくれる!」

彼は巨大な鎌を構え直し、カシアンを確実に葬り去るべく、ゆっくりと、しかし確実な威圧感を伴って近づいてくる。ベレスやヒューベルトが警戒の声を上げ追いかけるが、死神騎士に迂闊に追いつけない。

 

カシアンは、迫りくる死の気配に、しかし臆する様子はない。彼は冷静に後退りながら、右手を突き出した。彼の掌に、ゆらり、と小さな火の玉が灯る。それは、彼が扱える数少ない攻撃魔法の一つ、初級の「ファイアー」だった。お世辞にも威力があるとは言えず、死神騎士の分厚い鎧には、傷一つ付けることすらできないだろう。

 

「死ね」

 

カシアンは狙いを定め、小さな火球を死神騎士に向かって放った! 火球は、頼りない軌道を描きながら、死神騎士の胸元へと吸い込まれていく。

 

そして、次の瞬間、カシアン以外誰もが予想しなかった事態が発生した。

 

ボッッ!!!

 

カシアンの放った小さな火球が、死神騎士の鎧に付着していた高濃度のアルコールに見事に引火したのだ! 青白い炎が、まるで導火線に火がついたかのように、一瞬にして死神騎士の全身へと燃え広がった! 黒いマントや中に着た服は瞬く間に火柱と化し、鎧の隙間や関節部分からも激しい炎が噴き出す!

 

「なっ!? 何だこれは!? 炎が…消えぬだと!?」

 

予期せぬ事態に、常に冷静沈着、あるいは傲岸不遜だった死神騎士の声が、初めて明らかに動揺していた。彼は慌てて燃え盛るマントを剥ぎ取ろうとし、鎧についた炎を手で叩き消そうとするが、アルコールを燃料とした炎はしつこく燃え続け、彼の視界と動きを確実に奪っていく!

 

「グ…オオオ…!」苦しげな呻き声が仮面の奥から漏れる。

 

その劇的な光景を目の当たりにしたユーリスが、ポン、と手を打った。彼の目には「理解」の光が宿っている――ただし、それは完全な誤解だったが。

「なるほどな! そういうことか、センセ! わざと酒をぶっかけて、そこに火魔法でドカン!か! さっすが、考えることがエグいぜ!」

彼はカシアンの攻撃を、周到に計算された作戦だと理解した。

 

「おい、お前ら! 見たか! センセの作戦はこうだ! あの黒焦げ野郎に、もっと燃料をぶっかけてやれ!」

ユーリスは、近くに転がっていた別の酒瓶を拾い上げながら、アビスの傭兵たちに檄を飛ばした。

「おおよ!」「燃やせ燃やせ!」「了解! 追加燃料だ!」「派手にファイヤーしてやろうぜ!」

 

「それは駄目!!」

 

バルタザールや他の傭兵たちも、ユーリスの言葉に即座に反応! 彼らは、カシアンの悲痛な叫びを耳にする間もなく、あるいは無視して、隠し部屋に転がっていたり、まだ棚に残っていたりするカシアン秘蔵の年代物の酒瓶を、次から次へと「武器」として手に取り、燃え盛る死神騎士に向かって投げつけ始めた!

 

「ま、待て! やめろ貴様らァァッ! それは違う! 断じて違う! それは私が購入した10年物の…! ああっ! バルタザールの馬鹿力! そのビンは高かった…! やめろぉぉぉぉぉぉっ!!!」

 

戦闘の喧騒の中、カシアンの魂の叫びは届かなかった。彼の怒りの矛先は、もはや燃える死神騎士ではなく、貴重な美酒を惜しげもなく「燃料」として投下し続けるアビスの仲間たち(?)へと完全に向いていた。しかし、彼の嘆きは、戦場の興奮の中では誰にも届かない。

 

一方、死神騎士は悲惨な状況だった。次々と投げつけられる酒瓶が割れ、さらに大量の高濃度アルコールを浴びせかけられたことで、炎はもはや彼の全身を完全に包み込み、巨大な人型の松明と化していた。

「グオオオオオッ! 許さん…! 許さんぞ、虫けらどもがぁぁっ!」

彼は苦悶の叫びを上げながら、視界も奪われ、呼吸もままならない様子で、巨大な鎌を無差別に振り回し始めた。その動きはもはや、かつての圧倒的な強さの片鱗もなく、ただただ苦し紛れのもがきに見えた。

 

燃え盛る死神騎士。それを遠巻きに見守り、反撃の機会を窺うベレスと黒鷲の生徒たち。そして、自作の酒と貴重なコレクション(酒)が次々と炎の中に消えていくのを本気で嘆き悲しむカシアンと、彼を「さすがだ、センセ!」と称賛しながら、嬉々として酒瓶を投げ続けるユーリスたちアビス組。

 

かつてないほど混沌とした、そしてある意味で滑稽ですらある光景が、カシアンの秘密の酒蔵の前で繰り広げられていた。戦況は、予期せぬ火計によって大きく傾いた。

 

 

 

 

狂騒とも言える状況を切り裂くように、通路の奥から、凛とした、しかし有無を言わせぬ威圧感を伴った声が響き渡った。

 

「―――そこまでだ」

 

声は静かだったが、不思議な力でその場の全ての動きを止めた。ユーリスたちが投げようとした酒瓶が宙で止まり、カシアンの嘆きも一瞬途切れる。誰もが声のした方へと視線を向ける。

 

暗がりの中から、ゆっくりと一人の人物が姿を現した。顔を覆う奇妙な仮面、燃えるような赤い意匠が施された黒衣。その異様な出で立ちと、纏う只者ではないオーラは、彼が何者であるかを雄弁に物語っていた――炎帝だ。

 

「……興が過ぎるぞ、死神騎士。そして、そこの者たちも」

 

炎帝は、燃え盛る死神騎士と、酒瓶を構えたカシアンやアビス組、そして警戒するベレスたちを冷静に見渡し、低い声で言った。その声には不快感と、場を支配するような絶対的な力が込められていた。

 

しかし、炎に包まれ苦痛と怒りで我を忘れかけている死神騎士は、炎帝の出現に気づいていないのか、あるいは無視しているのか、カシアンに向かって憎悪に満ちた声を張り上げた。

「ぐ…おおお…! き、貴様ァ…! この私を…! 我が逸楽…この心地よき殺戮の興を…! こ、こんな下らぬ小細工で…邪魔をしおって…! 万死に…万死に値するぞ、虫けらがァァッ!!」

 

その言葉に、カシアンの怒りが再び沸点に達した。彼は足元に転がっていた、まだ無事だった高級そうなカットグラスの酒瓶を、まるで武器のように拾い上げる!

「黙れ、化け物めッ! 貴様こそが! 私の長年の研究成果と! 静謐なる探求の日々! 我が逸楽(酒)を無惨にも踏みにじった張本人ではないか! その罪、貴様こそが万死に値する!」

 

カシアンの叫びに呼応するように、後ろに控えていたユーリスやバルタザール、アビスの傭兵たちも、手に持っていた酒瓶を再び構え直した。「そうだそうだ!」「やっちまえ!」「センセの言う通りだ!」「まだ燃料はありますぜ!」

彼らは完全に、カシアンの作戦の支持者となっていた。

 

炎帝は、その異様な光景――燃え盛る部下、酒瓶を武器に逆上する教師、そして同じく酒瓶を構える怪しげな集団――を、仮面の下で冷ややかに見つめていた。そして炎帝はこれ以上の戦闘は無意味であり、見たくもないと判断した。炎帝は、燃え続ける死神騎士に向かって、短く、しかし決定的な命令を下した。

 

「帰るぞ、死神騎士。今日のところは退く」

 

その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。炎帝はそう言うと、マントを翻し、空間が陽炎のように歪むと共に、自身の姿を瞬時にその場から掻き消した。ワープによる離脱だ。

 

「……顔と名、決して忘れぬ」

 

炎帝の命令を受け、そして自身の惨状を鑑み、死神騎士は悔しげに、あるいはどこか安堵したかのように、低く呟いた。彼は燃え盛る炎に包まれたまま、最後にカシアンを射殺さんばかりの憎悪の視線で一瞥すると、同様にワープを発動させ、禍々しい気配と共にその場から姿を消した。

 

脅威は、嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった。

 

通路には、再び静寂が戻った。しかし、それは安らかな静寂ではない。破壊された壁、床に散乱するガラスの破片、そして鼻をつく焦げ臭い匂いと、甘くも虚しい高級酒の香り…。残されたのは、戦闘の爪痕と、呆然と立ち尽くす人々だけだった。

 

カシアンは、手に持っていた酒瓶を力なく床に落とした。カラン、と軽い音が響く。彼は、床に広がる自身の「作品」たちの残骸を、まるで我が子を失ったかのような、深い喪失感を浮かべた目で、ただ黙って見つめていた。

 

「終わったのか?」

ユーリスが、呆然としながら呟いた。アビスの面々も、顔を見合わせ、困惑の色を隠せない。

 

ベレスと黒鷲の生徒たちも、ようやく安堵の息をつきながらも、今しがた目の前で起こった一連の出来事を、まだ完全には飲み込めていないようだった。特に、普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど激しい怒りを見せたカシアンの姿は、彼らの目に強く焼き付いていた。

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