道徳以外を教えます   作:マウスブン

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4月 兵站

翌日カシアンは黒鷲の学級が使用する教室へと向かった。扉を開けると、既にほとんどの生徒が席に着き、思い思いの時間を過ごしていた。最前列で熱心に書物を読み耽るエーデルガルトとその傍らに控えるヒューベルト、選ばれしものについて熱く語っているフェルディナント、早くも机に突っ伏して微動だにしないリンハルト、隣のカスパルに何かちょっかいを出されているベルナデッタ、そんな彼らを微笑ましそうに見守るドロテア、異国の言葉で書かれた書物を静かに読んでいるペトラ。個性豊かな面々だ。

 

だがカシアンの視線は、その生徒たちよりも手前、教壇に最も近い席に向けられた。そこには見慣れたようでいて、この場にいるはずのない人物が座っていたからだ。

 

「ベレス…?」

 

カシアンは思わず声を漏らした。そこにいたのは、昨日ジェラルトから話を聞いたばかりの娘ベレスだった。彼女はカシアンに気づくと、静かに顔を上げた。その表情は読み取りにくいが、どこか期待のようなものが含まれているように見える。

 

「おはようございます、カシアン先生」

ベレスは落ち着いた、少しだけくだけた丁寧語で挨拶した。

 

「…おはようございます。ベレス、貴女がここで何を?」

カシアンはわずかな戸惑いを隠しつつ、尋ねた。彼女は黒鷲の学級の担任のはずだ。生徒と一緒に席に着いているのはどういうわけか。

 

「カシアン先生の授業を受けに来ました。先生の授業を私も学びたいと思いました。」

ベレスはこともなげに答えた。

 

カシアンは一瞬思考を巡らせた。担任教師が生徒と一緒に授業を受けるというのは異例だが、彼女の真剣な眼差しを見ると、無下に断る気にはなれなかった。それに彼女が兵站に関心を持つこと自体は、合理的と言える。

 

「…そうですか。構いませんよ。貴女にとっても、無駄な時間にはならないでしょう」

カシアンは頷き、教壇へと歩を進めた。生徒たちの何人かが、驚いたように、あるいは興味深そうにベレスとカシアンを交互に見ている。特にヒューベルトの視線は、値踏みするような鋭さを含んでいた。

 

カシアンは咳払いを一つして、教室全体を見渡した。

 

「さて、黒鷲の学級の諸君。今日、私が諸君らと共に考えるテーマは『兵站』だ」

 

“へいたん?”という疑問の声がいくつか小さく上がる。馴染みのない言葉に戸惑う生徒もいるようだ。

 

「兵站。簡単に言えば、軍隊が活動するために必要な物資…食料、武器、弾薬、医療品などを管理し、前線まで送り届ける活動全般を指す。諸君らは戦術や個々の戦闘技術に関心が高いだろうが、この兵站なくして、いかなる軍隊も戦争を継続することはできない。むしろ、戦争の勝敗の多くは、この兵站によって決まると言っても過言ではない」

 

カシアンは淡々と語る。リンハルトがわずかに顔を上げ興味を示したようだ。

 

「今日は具体的な課題を通して、兵站の重要性と難しさを考えてもらおう」

 

 

 

【課題1:飢えとの戦い】

 

「最初の課題だ」

カシアンは黒板に数字を書きながら言った。

「兵士1000人の部隊が、敵地深くの前線で一ヶ月間、戦闘行動を継続する必要があるとする。さて、この部隊が必要とする食料は、一体どのくらいの量になるだろうか? そしてその膨大な食料を、どうやって確保し、前線まで安全に輸送するか? 誰か考えを聞かせてほしい」

 

教室がざわつく。具体的な数字と状況設定に、生徒たちは想像力を働かせ始めた。

 

「1000人分…一ヶ月…」

フェルディナントが腕を組み、真剣な顔で唸っている。

「まず、一人あたり一日どれだけの食料が必要かを計算せねばなるまい! それも平時ではなく戦時下の兵士に必要なカロリーを考慮してだ!」

 

「それだけじゃないわ。その食料は腐らないようにしないといけないでしょう? 保存が効くものを選んだり、特別な処理が必要になったりするんじゃないかしら」

ドロテアが手を挙げた。

 

「輸送手段も問題ですな」

ヒューベルトが冷静に指摘する。

「敵地深くまでとなると、通常の荷馬車では危険が伴う。護衛部隊が必要になるし、そもそも道が整備されているかも分からない。現地調達という手もあるが、敵地での徴発は住民の反感を買い、後の統治に悪影響を及ぼすリスクがある」

 

「うう…そんなたくさんのご飯、どうやって運ぶんでしょう…途中で魔物とかに襲われたりしたら…」

ベルナデッタが早くも青ざめている。

 

カシアンは生徒たちの発言に頷きながら、補足した。

「その通りだ。考慮すべき点は多い。必要なカロリー、栄養バランス、保存性、重量、体積。輸送手段は何か? 荷馬車か、人の背か、あるいは船か? 輸送経路の安全性は? 敵による妨害は? 現地調達は可能か、そのリスクは? そしてこれら全てにかかるコストは誰が負担するのか? 全てを計算に入れ、計画を立てる必要がある」

 

カシアンはちらりとベレスを見た。彼女はペンを走らせ、生徒たちの意見やカシアンの言葉を熱心に書き留めている。その横顔は真剣そのものだ。

 

 

 

【課題2:途切れぬ刃、尽きぬ矢】

 

「次の課題に移ろう」

カシアンは黒板に新たな図を描き始めた。

「弓兵が100人いる部隊を想像してほしい。彼らが敵との激しい射撃戦が予想される前線で、一週間戦い抜くとする。さて彼らが必要とする矢は、およそ何本になるだろうか? そして、戦闘で消耗・破損した弓や、他の兵士たちの剣や槍といった武器は、どのように補充し、修理するのか?」

 

「矢の数!? そんなの、撃てるだけ撃つに決まってるだろ!」

カスパルが拳を握りしめて叫んだ。

 

「カスパル、それでは答えになっていない」

エーデルガルトが静かに窘めた。

「一人の弓兵が一日に放つ矢の平均本数、戦闘の激しさによる消耗率の変動、予備としてどれだけ持つべきか…などを考慮する必要があるでしょう。そして矢は消耗品ですが、弓本体や剣、槍は修理も可能です。前線に鍛冶職人を同行させるのか、後方の工房へ送るのか…」

 

「補給線の確保が肝要ですな」

リンハルトが欠伸をしながら呟いた。

「矢や武器だけ運んでも、輸送部隊が襲われたら意味がない。いっそ現地で矢を作るのはどうでしょう? 材料さえあれば…いや、それも手間か…」

 

「フォドラの外では、戦場で使う矢を、自分たちで作ることもあります」

ペトラが少し訛りのある言葉で言った。

「木を削り、鳥の羽をつけます。でも、たくさん作るのは、時間がかかります」

 

「良い視点だ、ペトラ」

カシアンは言った。

「補給線の長さと安全性は常に考慮しなければならない。前線での生産も一つの手だが、品質や生産量の問題がある。武器の標準化は進んでいるか? 予備の武器はどれだけ用意すべきか? 整備や修理を行う専門の兵員は確保できるか? 彼らの安全は? これらも兵站の重要な要素だ」

 

 

 

【課題3:見過ごされがちな命】

 

「最後の課題だ」

カシアンの声が、わずかに低くなった。

「戦闘を行えば、必ず負傷者が出る。時には、一度の戦闘で数十、数百の負傷兵が発生することもあるだろう。さてこれらの負傷兵を、どうやって危険な前線から後方の安全な場所まで運び、適切な治療を受けさせるか? そのために必要な人員、物資、施設は何だろうか?」

 

この課題には、教室の空気が少し重くなった。ベルナデッタはさらに縮こまり、優しいドロテアも、表情を曇らせている。

 

「負傷兵の搬送は、担架や荷車が必要でしょう。でもそれだけでは…」

エーデルガルトが考え込む。

「後方に野戦病院のような施設を設営し、医師や薬を準備しなければなりません。そしてそこまでの搬送路の安全確保も…」

 

「問題はそのための人員をどう確保するか」

ヒューベルトが指摘する。

「戦闘要員を割くわけにはいかない。専門の衛生兵や輸送兵が必要になるが、その育成と確保は容易ではありません。」

 

「怪我をした人を、早く、安全な場所に運ぶことが、大事です」

ペトラが真剣な表情で言った。

「士気、関わります」

 

「その通りだ」

カシアンは頷いた。

「負傷兵への対応は、兵士たちの士気に直接影響する。見捨てられるかもしれないと思えば、兵は勇敢に戦えない。衛生兵の数と練度、医薬品や包帯などの医療物資の確保、後方施設の規模と機能、前線から後方への搬送手段と所要時間、治療後の兵士の復帰プロセス…これら全てが、軍隊の継戦能力を左右する。見過ごされがちだが、極めて重要な兵站の問題だ」

 

カシアンは一通り話し終えると、再び教室を見渡した。生徒たちの多くは、提示された課題の重さと複雑さに、押し黙っているか、あるいは仲間と小声で議論を交わしている。

 

 

 

「今日の授業はここまでとする」

カシアンは言った。

「兵站とは、単なる物資の管理ではない。それは戦略であり、戦術であり、国家の総合力が問われる領域だ。戦いは前線だけで行われているのではない。むしろ目に見えない後方での戦いが、前線の勝敗を決定づけることすらある。そのことをよく覚えておくように」

 

授業終了の鐘が鳴り、生徒たちは少し疲れたような、しかし何か新しい視点を得たような表情で席を立ち始めた。カシアンが教材を片付けていると、ベレスがそばに寄ってきた。

 

「カシアン先生」

 

「どうしましたか、ベレス」

カシアンは彼女に向き直った。

 

「今日の授業。興味深かった」

 

ベレスは表情をほとんど変えず、まっすぐにカシアンを見て言った。言葉は短く、その声に感情の起伏はうかがえない。まるで事実を報告するかのような口調だった。

 

「…そうですか」

カシアンは少し間を置いて答えた。彼女の反応の乏しさは今に始まったことではないが、その静かな瞳の奥にある強い関心は感じ取れる。

「兵站の重要性が少しでも伝わったのなら幸いです」

 

「はい。また、授業に来ても?」

ベレスは小さく頷いた。これも単なる確認のような問いかけだった。

 

「ええ、構いませんよ。貴女の自由です」

カシアンは静かに答えた。

 

ベレスは軽く会釈すると、そのまま音もなく教室を出て行った。その背中を見送りながら、カシアンは一人、窓の外に目を向けていた。

 

 

 

 

兵站学の授業を終えた数日後、カシアンのもとに大司教レアからの呼び出しがあった。使者の修道士が告げた場所は、彼女が執務を行う部屋だという。カシアンは内心で舌打ちした。セイロス聖教会の頂点に立つレアは、彼にとって最も近づきたくない人物の一人だった。彼女の慈愛に満ちた仮面の下には、底知れない深淵と、教会のためなら手段を選ばないであろう冷徹さが隠れていることを、カシアンは感じ取っていたからだ。

 

(何の用だ…? まさか、先日の授業内容が問題視されたか? それとも立ち入り禁止区域への侵入が露見したか…?)

 

様々な可能性を頭の中で巡らせながら、カシアンは大聖堂の奥にある、荘厳な扉の前にたどり着いた。衛兵に名を告げると、重々しい扉が静かに開かれる。

 

部屋の中は、外光がステンドグラスを通して柔らかく差し込み、神聖さと同時に為政者の執務室としての機能美も備えていた。部屋の奥、大きな窓を背にしてレアが穏やかな微笑みを浮かべて座っていた。

 

「よく来てくれました、カシアン」

レアは立ち上がり、柔らかな声でカシアンを迎えた。

「急な呼び出しに応じてくれて感謝します」

 

「大司教殿直々のお呼びとあらば、いかなる用件であろうと馳せ参じます」

カシアンは無表情のまま、恭しく頭を下げた。その言葉にはわずかな皮肉が込められていることに、レアが気づかないはずはなかった。

 

「ふふ、そう畏まらないでください。今日は、あなたにお願いがあって呼んだのです」

レアは再び椅子に腰掛け、カシアンにも座るよう促した。カシアンは勧められた椅子に、浅く腰掛ける。

 

「お願い、でございますか?」

 

レアは頷いた。

「ご存知かもしれませんが、間もなく、士官学校の伝統行事である『鷲獅子戦』が開催されます。三つの学級が互いの実力を競い合う、重要な模擬戦です」

 

カシアンは黙って続きを待った。鷲獅子戦の存在はもちろん知っている。生徒たちの実戦能力を測る良い機会だと考えていた。

 

「実は、その鷲獅子戦で指揮を執る予定だった教師の一人が、先日、訓練中に怪我を負ってしまいましてね。残念ながら、今年の参加は難しくなってしまったのです」

レアは心から残念そうに言った。

 

「それは…お気の毒なことです」

 

「ええ。それで、代役を探していたのですが…あなたにお願いできないかと思いまして」

レアはまっすぐにカシアンの目を見た。

「カシアン、あなたのその卓越した戦術眼と指導力をもって、生徒たちを導いてもらえませんか?」

 

カシアンは内心で眉をひそめた。教師は他にもいるはずだ。なぜ、よりにもよって自分なのか。レアが続ける。

 

「もちろん、他の教師に頼むことも考えました。ですがあなたは最近、各学級で特別講義を行い、生徒たちとも顔見知りでしょう? 全く知らない教師が突然指揮を執るより、少しでも顔を知っているあなたの方が、生徒たちも戸惑うことなく、実力を発揮しやすいのではないかと思ったのです」

 

(顔見知りだから…ね。随分と、もっともらしい理由だ)

カシアンはレアの言葉の裏を探った。これはおそらく、自分の能力を最近来た人間にも確認させる機会なのだろう。あるいは、自分の思想がどの程度生徒たちに影響を与えているかを見極めようとしているのかもしれない。どちらにせよ、レアの監視下に置かれることに変わりはない。

 

しかしカシアンにとって、この提案は悪い話ではなかった。鷲獅子戦は彼の戦術理論を実践し、生徒たちの能力を直接評価する絶好の機会だ。それにレア直々の「お願い」を断れば、余計な疑念を招きかねない。

 

「…大司教殿がそうおっしゃるのであれば、謹んでお受けいたします」

カシアンは冷静に答えた。

「微力ながら、生徒たちの成長の一助となれるよう、努めさせていただきます」

 

「まあ、嬉しい。引き受けてくださるのですね」

レアは満足そうに微笑んだ。その微笑みはやはりどこか底が見えない。

「あなたのことですから、きっと素晴らしい采配を見せてくれることでしょう。生徒たちも、あなたの指導から多くを学ぶはずです」

 

彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

 

「期待していますよ、カシアン。あなたのその類稀なる才能が、フォドラの未来を担う若者たちにとって、良い導きとなることを。…くれぐれも、道を違えることのないように」

 

最後の言葉には明確な警告の響きが込められていた。レアはカシアンのセイロス教への不信を知りつつも、その才能を利用価値ありと判断し、手元に置いている。だが一線を越えれば容赦しない、という意思表示だろう。

 

「肝に銘じます」

カシアンは再び頭を下げた。

 

「では、詳細は追って連絡します。下がって結構ですよ」

 

カシアンは礼をし静かに執務室を後にした。扉が閉まると彼は小さく息をついた。レアの意図は読めた。彼女は自分を試している。ならばその期待に(ある意味で)応えてやるまでだ。

 

(鷲と獅子と鹿の戦い、か…懐かしい)

 

カシアンの頭脳は、すでに三つの学級の戦力分析と、勝利のための最適解の算出を開始していた。彼にとって、この模擬戦は単なる学校行事ではない。自身の能力を示すための、そして、この大修道院という盤上で有利な駒を進めるための、重要な布石となるだろう。彼の無表情な顔の下で、冷徹な戦略家としての血が静かに滾り始めていた。

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