道徳以外を教えます   作:マウスブン

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10月 縁談破壊

その日の午後、大修道院の中庭にある古木のベンチに、イングリットは一人座り、愛用の槍の手入れをしていた。しかしその手つきはどこか上の空で、磨き上げる穂先を見つめる彼女の青い瞳には、普段の快活さとは裏腹に、深い悩みの色が浮かんでいた。時折はぁ…と大きなため息が漏れる。真面目で責任感の強い彼女にしては、珍しい姿だった。

 

「あら、イングリットちゃん? そんなに大きなため息ついちゃって、どうしたの?」

 

明るく鈴を転がすような声がかけられた。見上げると歌姫ドロテアが、心配そうな表情で彼女を覗き込んでいた。

 

「ドロテア…いえ、なんでもありません。少し考え事をしていただけです」

イングリットは慌てて笑顔を作ろうとしたが、その表情は硬かった。

 

「ふーん? そうかしら?」ドロテアはイングリットの隣に腰を下ろした。

「でも、そんな顔してたら、せっかくの綺麗な顔がもったいないわよ。私でよかったら、話くらい聞くけど?」

ドロテアの優しい、そして少しお姉さんのような眼差しに、イングリットは頑なだった心を少しだけ開く気になった。

 

「……実は先日、父から手紙が届きまして…。縁談の話なのです」イングリットは意を決し、声を潜めて打ち明け始めた。

 

「縁談!? イングリットちゃんに?」ドロテアは少し驚いた顔をした。

 

「はい…。相手は、レスター諸侯同盟の、最近になって力をつけてきた新興商人の方だそうで…」

イングリットは俯きながら続けた。

「ご存知の通り、我がガラテア家は…その、決して裕福ではありません。父は、家の将来と、私の将来を案じて、この縁談を進めたいようなのです。相手方は、おそらく、歴史あるガラテアの家名と…そして、私が持つ紋章で箔をつけたいのでしょう。将来、英雄の遺産を扱えるかもしれない、という期待もあるのかもしれません」

 

彼女の声には、貴族の娘としての責務と、自身の夢との間で揺れ動く苦悩が滲んでいた。「父の気持ちも分かるのです。決して政略のためだけに私を嫁がせようとしているのではない…ただ、娘の将来を、家の未来を、純粋に心配してくれているのだと…。でも、私は…私は騎士として、自分の力で生きていきたい。誰かの妻として、家の飾りになるような生き方はしたくないのです。それに…」

 

「それに?」ドロテアが優しく促す。

 

「そのお相手の方について、あまり良い話を聞かないのです…。どなたか、ご存知ありませんか? この方なのですが…」

 

イングリットが相手の名前を告げた瞬間、ドロテアの表情がさっと曇った。彼女は眉をひそめ、確信を持った口調で言った。

「…! ああ、やっぱり…。その方なら、私も劇団にいた頃に、名前だけは聞いたことがあるわ」

彼女はイングリットに顔を近づけ、声をさらに潜めた。

「イングリットちゃん、悪いことは言わないわ。その縁談、絶対に受けちゃダメよ」

 

「え…?」

 

「その方、確かに最近急に成り上がったみたいだけど、そのやり方がかなり強引で、汚いっていう噂なの。後ろ暗い商売に手を染めているとか、邪魔な相手を陥れたとか…黒い噂が絶えないのよ。お金の使い方も派手で、借金の話も聞いたことがあるし、それに、女性関係も…あまり褒められたものじゃないって。貴族の世界なんて、綺麗なことばかりじゃないのは私も知ってるけど、その方は特に評判が悪いわ」

 

ドロテアはイングリットの手をそっと握った。

「ねえ、イングリットちゃん。いくら家のためでも、そんな『血塗られたお金』で建て直されたような家の奥方になって、あなたが幸せになれると思う? あなたの騎士としての誇りは、そんなことで汚されていいものじゃないでしょう?」

 

ドロテアの言葉は、イングリットの胸に突き刺さった。やはり、良くない相手なのだ…。父はきっと、こんな裏の顔を知らずに、ただ娘の将来を案じて話を進めているのだろう。しかし、どうすればいい? 父の期待を裏切ることになる。家の財政はますます苦しくなるかもしれない。でも、そんな相手と結婚するなんて、絶対に嫌だ…。イングリットはうーんと唸り、再び頭を抱えてしまった。

 

「…一人で悩んでいても、堂々巡りよ」見かねたドロテアが言った。

「こういう時は、信頼できる大人に相談するのが一番だわ。そうだ、ベレス先生に相談してみましょう? あの先生なら、きっとあなたの気持ちを理解して、親身になってアドバイスしてくださるはずよ」

 

ベレス先生…。確かに、彼女なら優しく話を聞いてくれるだろう。しかしこの貴族間の、しかも裏がありそうな縁談の問題を、彼女が解決できるだろうか? 彼女は世俗の権力闘争には疎いように見える。イングリットは少し考え込んだ。もっと、こういう込み入った問題を、常識にとらわれない方法で解決できるような人はいないだろうか…?

 

その時、イングリットの脳裏に、一人の教師の顔が浮かんだ。あの、合理的で、冷徹で、時に非情な手段も厭わない、異端の教師。

 

「待ってください、ドロテア!」イングリットは顔を上げた。その目には、新たな決意の光が宿っていた。

 

「え? どうしたの、イングリットちゃん?」

 

「ベレス先生も、もちろん素晴らしい方です。ですが…こういう、少し『裏』がありそうな貴族間の問題を、正面からではなく、何か別の…『策』をもって解決するなら、もっと適任の方がいるかもしれません!」

 

「え? 適任って…まさか…」ドロテアは、イングリットが誰のことを言っているのか察したようだ。

 

イングリットは力強く頷いた。

「はい! カシアン先生です! あの先生なら、きっと…あの先生なら、きっと『正攻法』ではない解決策を知っているはずです。手段は選ばないかもしれないが、結果を出してくれます。」

 

「か、カシアン先生に!? 本気なの、イングリットちゃん!? あの先生、ちょっと…いや、かなり変わってるし、何を考えてるか分からないところがあるじゃない!」

ドロテアは少し不安そうだ。

 

「分かっています! でも、だからこそ、です! 普通の方法では解決できないかもしれない。だからこそ、あの先生の力が必要なんです!」

イングリットは既に立ち上がり、ドロテアの手を取っていた。

「お願いです、ドロテア! 一緒に来てください! 一人では、あの先生に相談する勇気が…!」

 

「も、もう…仕方ないわねぇ」

ドロテアはため息をついたが、友人の必死な様子を見て、断ることはできなかった。

「分かったわ。一緒に行ってあげる。でも、変なことに巻き込まれても知らないわよ?」

 

「ありがとうございます、ドロテア!」

 

イングリットはドロテアの手を引いて、力強く歩き出した。目指すは、ガルグ=マク大修道院の一角にあるはずの、カシアンの研究室だ。

 

やがて二人は、相変わらず雑然としているが、どこか知的な空気が漂うカシアンの部屋の前にたどり着いた。イングリットは深呼吸を一つすると、意を決して扉をノックした。

 

「どうぞ」中から、落ち着いた声が聞こえる。

 

扉を開けると、カシアンが机に向かい、何かの書類を読んでいるところだった。彼は顔を上げ、突然の訪問者であるイングリットとドロテアを見て、わずかに眉を動かした。

 

「イングリット殿、ドロテア殿。どうかなさいましたか? 何か急用でも?」

 

イングリットは、緊張で少し震える声で、しかし決意を込めて話し始めた。

「カシアン先生。突然申し訳ありません。実は、先生にご相談したい儀がありまして…。私の…家のことで…その、縁談の話なのですが…」

 

彼女は、父からの手紙のこと、相手の貴族のこと、ドロテアから聞いた悪い噂、そして自身の騎士としての夢と家のための責務の間で揺れる苦しい胸の内を、正直に、そして必死にカシアンに語り始めたのだった。カシアンは、ただ黙って、その話を、表情を変えずに聞いていた。

 

 

 

 

イングリットから語られた、家名と紋章に縛られた望まぬ縁談、そして相手の黒い噂。カシアンは、その話を最後まで黙って聞いていた。彼の表情からは、同情や義憤といった感情は読み取れない。ただ、その瞳の奥で、何かが高速で計算されているような、冷たい光が宿っていた。

 

イングリットが話し終え、不安げにカシアンの返事を待っていると、彼は意外なほどあっさりと、そしてどこか楽しむかのような響きすら含んだ声で言った。

 

「なるほど、事情は理解しました、イングリット殿。それは確かにお困りの状況でしょう。ガラテア家の事情、貴女自身の騎士への道…そして、評判の芳しくない縁談相手。実に、厄介な問題だ」

 

彼はふっと息をつくと、立ち上がった。

「…よろしい。その件、私の方で『対応』しましょう」

 

「えっ?」イングリットと、隣で心配そうに聞いていたドロテアが、同時に驚きの声を上げた。

 

「こういう込み入った問題は、下手に時間をかけると余計にこじれ、選択肢が狭まるものです。善は急げ、と言いますからね。早速、今夜にでも必要な『準備』を整え、明日にも『現地調査』に出向いてきましょう。ええ、私が直接」

 

その口調は、まるで少し遠くの町へ資料を探しにでも行くかのように、事もなげだった。

 

「ほ、本当ですか!? カシアン先生!ありがとうございます! 本当に…なんと感謝してよいか…!」

イングリットは、予想外の即断即決と、その頼もしい(?)言葉に、思わず顔を輝かせた。

 

一方、ドロテアはカシアンの妙なまでの乗り気の良さと、「現地調査」という言葉に、何か得体のしれない不穏なものを感じ取っていた。

「せ、先生…? 今夜準備して、明日出発って…いくらなんでも急すぎませんか? それに、先生お一人で同盟領まで行かれるのですか? 一体、何を…?」

 

「ご心配なく、ドロテア殿」カシアンは、ドロテアの不安を見透かしたように言った。「私には、こういう『調査』に協力してくれる、信頼できる『友人』がおりますのでね。一人ではありませんよ。…さて、イングリット殿、その縁談相手の貴族の館の場所、そして可能な限りの内部情報…例えば、家族構成や使用人の数、警備体制など、分かる範囲で結構ですので、後ほど詳しく教えていただけますか? 調査の参考にしますので」

 

「は、はい! もちろんです!」イングリットは力強く頷いた。

 

 

 

 

数日後の深夜。レスター諸侯同盟領内にある、例の新興貴族の豪奢な館は、深い闇と静寂に包まれていた。高い塀に囲まれ、いくつかの窓からはまだ明かりが漏れているが、ほとんどの住人は既に眠りについている時間だろう。

 

しかし、その静寂を破るように、館の周囲の闇の中を、複数の影が音もなく動いていた。黒い衣服に身を包み、闇に完全に溶け込んだ彼らは、カシアンと、ユーリスに率いられたアビスの精鋭たちだった。彼らは、カシアンの言う「現地調査」のために、ガルグ=マクから密かにこの地までやってきたのだ。

 

「…よし、時間だ。ユーリス、予定通りに」カシアンが、懐中時計を確認し、低く呟く。

 

「へいへい、お任せを」

ユーリスは慣れた様子で頷くと、手練れの傭兵数名に合図を送った。彼らは、まるで猫のようにしなやかな動きで高い塀を乗り越え、音もなく庭へと侵入していく。見張りの兵士が欠伸をした、ほんの一瞬の隙を突いて。アビスの住人にとって、暗闇での隠密行動や、厳重に見える警備を掻い潜ることなど、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。

 

内部に侵入した部隊からの合図を受け、カシアンたち本隊も、解錠された裏口から静かに館の中へと足を踏み入れる。

 

「二手に分かれる」カシアンは小声で指示を出した。

「私とハピは書斎と執務室へ。不正の証拠を探す。ユーリス、残りの者は金目のものがありそうな場所…金庫や宝物庫の捜索を。発見次第、合図を」

 

彼らは、まるで自分たちの庭であるかのように、迷いなく館の内部を進んでいく。

 

カシアンたちは、すぐに目的の書斎と思われる部屋にたどり着いた。彼は手早く部屋の中を物色し始める。机の引き出し、本棚の裏、そして巧妙に隠された小さな金庫…。しばらくして、彼は顔を顰めながら、一冊の分厚い帳簿と、数通の手紙の束を手に取った。それは、密輸と思わしき物品の取引記録、帳簿の改竄を示す数字、そして他の貴族や商人との間で交わされた、明らかに違法な取引を匂わせる書簡だった。イングリットの縁談相手が「黒い」というのは、噂だけではなかったようだ。

 

ほぼ同時に、別の場所を捜索していたユーリスから、「見つけたぜ、センセ。頑丈そうな金庫と、宝石やら美術品やらが詰まってそうな部屋だ」という念話による連絡が入った。

 

全ての「証拠」と「獲物」の在り処が判明した。カシアンは、発見した書類を素早く懐にしまうと、潜入しているアビスのメンバー全員に向けて、冷徹な、そして最終的な命令を発した。

 

「―――証拠は押さえた。これより『回収作業』に入る。…やれ」

 

その命令は、静かな館に、嵐を呼び込む合図となった。

 

次の瞬間、館の各所に潜んでいたアビスの戦闘部隊が一斉に動き出した! 彼らは、主である貴族とその家族が眠る寝室、使用人たちが集まる部屋、そして少数ながら配置されていた護衛兵の詰め所に、文字通り音もなく、しかし電光石火の速さで突入した!

 

「な、何だ!?」「賊だ!」「うわあっ!」

 

叩き起こされ、状況も理解できないまま抵抗しようとする者たちを、アビスの精鋭たちは容赦なく打ちのめし、猿轡を噛ませ、手際よく縄で縛り上げていく。悲鳴を上げる暇すら与えない、完璧な制圧劇だった。わずか数分のうちに、館の主だった貴族とその家族、そして使用人や護衛たちは、一人残らず無力化された。

 

制圧完了の合図を受け、カシアンとユーリスの指示のもと、別働隊による「回収作業」が始まった。ユーリスが連れてきた解錠のプロが、いとも簡単に巨大な金庫を開け放ち、中から金貨や宝石類が詰まった袋を運び出す。別の部隊は、保管庫に眠っていた高価な絵画や調度品、そして貴族が不正に蓄財したであろう金目の物を、手際よく用意していた大きな袋や用意周到にも持ってきていた空の木箱へと詰め込んでいく。

 

同時に、縛り上げられた貴族本人と、その家族も、まるで荷物のように担ぎ出され、館の外で待機させていた荷馬車へと運び込まれていく。それは、皮肉なことに、この館の主である貴族自身の、立派な紋章が描かれた荷馬車だった。

 

夜が白み始め、東の空がわずかに明るくなってきた頃、全ての「作業」は完了した。館の中は、荒らされた痕跡こそあるものの、死傷者は出ておらず、ただ住人たちが縛られて転がっているだけだ。

 

カシアンたちは、捕らえた者たち、そして館から「回収」した大量の金品を、その貴族自身の荷馬車に満載した。そして、まるで朝早くに旅立つ正当な一行であるかのように、朝靄の中を、堂々と館の正門から出発し、一路ガルグ=マクへの帰路についたのだった。馬車の幌には、確かに貴族の紋章が描かれているため、この町の門番なども怪しまれずに通過できるだろう、という計算まで働いていた。

 

イングリットの悩みは、おそらくこれで解決するだろう。だが、その解決方法は、誘拐と強盗という、紛れもない大罪だった。カシアンの冷徹な合理性と、アビスの住人たちの裏社会のスキルが融合した時、それは正義とはかけ離れた、しかし極めて「効率的」な結果を生み出した。

 

 

 

夜明けと共にガルグ=マク大修道院へと戻ったカシアンは、アビスの協力者たちに手早く指示を出し、まずは「戦利品」である金品類をガルグ=マク西の拠点へと運び込ませた。それらは、アビスの者たちの新たな生活資金、そしてカシアンが進める町の要塞化と酒造計画のための貴重な原資となるだろう。カシアン自身は、その作業には直接関与せず、捕らえた貴族本人とその家族の一部、そして彼が「発見」した不正の証拠書類だけを携え、騎士団の詰所へと向かった。

 

彼は事が大きくなる前に、そして自身の関与を可能な限り隠蔽した形で、この「成果」を教会側に引き渡す必要があった。彼は当直の騎士に、「街道筋で不審な一団を発見し、交戦の末に捕縛した。身元を調べたところ、どうやら同盟領で悪行を重ねていた貴族とその関係者だった。逃げられる前に貴族も捕まえたので、証拠と思われる書類と共に、正式に引き渡したい」と、もっともらしい口実で説明した。騎士は驚きながらも、その手際の良さに、疑念よりも安堵を覚えて対応した。

 

その後、カシアンはセテスの執務室を訪れ、今回の件について報告を行った。彼は、あくまで「偶然」と「生徒を守るためのやむを得ない行動」を装い、殊勝な態度で語った。

「セテス様、ご報告がございます。先日より、本校生徒であるイングリットが、同盟領の某貴族より不当な縁談の圧力を受けているとの相談を受けておりました。折しも、先日のレア様暗殺計画の件などで騎士団の方々も多忙を極めていると拝察し、私自身で内密に『調査』を進めておりましたところ、偶然にも当該貴族とその一味が不正行為を行っている現場に遭遇いたしました」

 

彼は続ける。

「生徒の安全確保を最優先と考え、やむを得ず、同行していた者たちと協力し、彼らを捕縛いたしました。結果的に、彼の不正を示す証拠も多数発見できましたが、これは明らかに私の独断専行であり、騎士団や教会の手続きを無視した越権行為であったと深く反省しております。申し訳ありませんでした」

カシアンは深々と頭を下げた。

 

セテスは、カシアンのその流れるような報告と謝罪を、鋭い、疑念に満ちた目で聞いていた。偶然? やむを得ず? この男の言うことを鵜呑みにするほど、セテスは甘くはない。彼の行動の裏には、必ず何か別の意図が隠されているはずだ。しかし、不正の証拠は確かであり、厄介な貴族が一人捕まったのも事実。教会としても、表立ってこの貴族を断罪するよりは、この形の方が都合が良い側面もあるのかもしれない。

 

「……ふん、貴様の勝手な行動は、断じて褒められたものではない。その点は厳重に注意しておく。だが…」

セテスは鼻をならし、言葉を切った。

「結果だけを見れば、悪党を捕らえ、不正を暴いたという功績は認めねばなるまい。今回は、その『生徒を思う義憤』とやらに免じて、不問としてやろう。ただしあまりこのような独断専行は許さんぞ。分かったな?」

 

「はっ。肝に銘じます」カシアンは、内心の計算を隠し、恭しく答えた。これで終わった、そう考えるカシアンを、物陰からじっと、レアが見つめていた。

 

 

 

 

場所は変わり、数日後の大修道院の中庭。カシアンは、約束通りイングリットと、心配して付き添ってきたドロテアに、事の顛末を報告していた。

 

「イングリット殿、ドロテア殿。先日の件ですが、ご安心ください。例の貴族ですが、私の『調査』の結果、彼の数々の不正行為…密輸、横領、そして他の貴族への脅迫などを示す動かぬ証拠を発見しました。よって、彼の身柄を確保し、証拠と共に正式に騎士団へと引き渡しました。彼はもはや、貴女やガラテア家に何らかの圧力をかけることはできません。縁談の話も、これで完全に消滅したと考えてよいでしょう」

カシアンは穏やかな口調で言った。

 

「まあ…! 本当に…!?」

イングリットは、信じられないといった表情で目を見開いた。あの頑なで、高圧的だった貴族が、捕まった? 悩みの種が、本当に消えた? 彼女の顔に、安堵と喜びの色が急速に広がっていく。

 

しかし、その隣でドロテアは、カシアンの言葉を手放しでは喜べなかった。彼女は鋭い視線をカシアンに向け、尋ねた。

「先生、それは本当に素晴らしいニュースですけれど…一つ、お伺いしても? 実は、わたくし、妙な噂を耳にしました。その貴族のお屋敷から、彼が捕まった後、金目のものが…それこそ根こそぎ、綺麗さっぱり消えてしまっていた、と。先生は、何かご存知ではありませんこと?」

ドロテアの目は、カシアンの反応を探るように、じっと彼を見据えている。

 

カシアンは、ドロテアの追及に、一瞬たりとも動揺を見せなかった。彼は心底意外だ、というように首を傾げてみせる。

「ほう、金品が消えた? それは初耳ですね。私には全く心当たりがありません」彼は少し考えるふりをして続ける。

「…ふむ、もしそれが事実だとすれば、考えられる可能性はいくつかありますね。例えば、我々が貴族本人を捕らえている間に、彼の悪事に加担していた共犯者が、証拠隠滅と口封じを兼ねて持ち去ったのかもしれません。あるいは、彼の失脚を知った別の盗賊団あたりが、火事場泥棒のように侵入し、根こそぎ奪っていったという線も考えられますな。悪党の考えることは、我々には計り知れませんから」

彼は、しれっとした顔で、白々しい嘘を並べ立てた。

 

「……そうですか」ドロテアは、カシアンの答えに納得したわけではなかったが、それ以上追及する材料もない。彼女は釈然としない表情で口をつぐんだ。

 

一方、イングリットは、二人の間の微妙な空気に気づく様子もなく、ただただカシアンへの感謝で胸がいっぱいだった。彼女は、カシアンに向き直り、深く、そして心を込めて頭を下げた。

「やはり、本当に悪い人たちだったのですね…。先生! 本当に、本当にありがとうございます! 先生が助けてくださらなければ、私はどうなっていたか…。先生のおかげで、私も、父も、そしてガラテア家も救われました。このご恩は、一生忘れません!」

 

「どういたしまして、イングリット殿」カシアンは、穏やかな教師の顔で微笑んだ。

「困っている生徒がいれば、手を差し伸べる。それが教師として当然の務めですから」

そして、彼は悪びれもせずに付け加えた。

「もし、イングリット殿や、あるいはドロテア殿でも結構ですが、他にも、誰かの不当な行いに心を痛めているとか、世にはびこる悪徳貴族の黒い噂をご存知でしたら、いつでも遠慮なく、この私にご相談ください。可能な限り、お力になりますよ」

まるで、次の「獲物」を探しているかのようにも聞こえる言葉だった。

 

イングリットは、カシアンのその言葉に、さらに感極まった様子で、懐から小さな、しかし上質な布袋を取り出した。

「先生、これは、本当にささやかな物で、先生への感謝の気持ちを表すには足りないとは存じますが…どうか、受け取ってください」

彼女が差し出したのは、ガラテア家に古くから伝わる意匠であろうか、青い石がはめ込まれた、古風で美しい銀の指輪だった。

 

「そして、父にも、今回の詳しい顛末…貴族の悪行が暴かれ、私が先生に助けていただいたことを、詳しく手紙で報告させていただきます。きっと父も、先生に深い感謝の念を抱くことと存じます」

 

カシアンは、その指輪を静かに受け取った。彼の指には少し小さいかもしれない、女性的なデザインの指輪。彼はそれを複雑な表情で見つめ、「…ありがたく頂戴しましょう、イングリット殿。大切にさせていただきます」とだけ言った。

 

「はい!」イングリットは、満面の笑顔で頷いた。ドロテアも、複雑な思いを抱えながらも、友人が救われたことに安堵の表情を見せ、二人はカシアンに改めて深く礼を述べると、連れ立ってその場を後にした。

 

一人残されたカシアンは、受け取った銀の指輪を、光にかざすように眺めていた。イングリットの純粋な感謝の気持ちが込められた、小さな輝き。彼はそれを無表情で見つめていたが、やがて、ふっと息を吐き、誰に言うともなく、皮肉とも本心ともつかない声で呟いた。

 

「ふむ……なるほど。誰かのために、世のため人のためにならない悪党を排除し、『正義』を成すというのは、こういう予期せぬ見返りもあるものなのか。実に……気分が良いものですね」

 

彼の口元には、満足なのか、嘲笑なのか、判別のつかない奇妙な笑みが浮かんでいた。彼の非情な「問題解決」は、一つの結果を生み出し、感謝という形で報われた。だが、その過程で彼が得たものと、失ったものどちらが大きいのか、それは彼自身にしか分からない。

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