道徳以外を教えます   作:マウスブン

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11月 トマシュ

その日の午後、カシアンは珍しくガルグ=マク大修道院の広大な書庫に足を運んでいた。彼の目的は、特定の古い文献を探すことか、あるいは単に自身の研究に必要な知識を求めてか、それとも…別の意図があったのか。高い書架が迷路のように連なり、古い羊皮紙とインクの独特な匂いが満ちる静謐な空間。彼は書架の間をゆっくりと歩き、時折背表紙に目を走らせていた。

 

やがて、彼は書庫の奥にある貸出カウンターへと向かった。そこには、いつもと変わらぬ穏やかな表情で、書物の整理をしている老人の姿があった。書庫番のトマシュだ。

 

「トマシュさん、ご無沙汰しております」カシアンは静かに声をかけた。

 

トマシュは顔を上げ、カシアンの姿を認めると、柔和な笑顔を浮かべた。

「おお、これはカシアン先生。お久しぶりですな。何かお探しの書物でも?」

 

「ええ、少し調べたいことがありまして」カシアンはカウンターに軽く手をつきながら、世間話でもするように続けた。

「それにしても、最近は何かと物騒な噂が後を絶ちませんね。レア様への暗殺計画の話や、近隣での盗賊の出没…この大修道院も、以前のような静けさばかりではないようです」

 

トマシュは、ふむ、と頷きながら、カシアンの言葉に耳を傾けていた。

「まことに。嘆かわしいことですな。このような聖なる場所にも、俗世の騒がしさが忍び寄ってくるとは…。ですが先生がこうして、再びこの書庫に足を運んでくださるのを見ると、儂は少しばかり心が安らぐのですよ」

彼は目を細め、どこか懐かしむような表情になった。

 

「と言いますと?」

 

「先生がまだ、士官学校の制服を着ておられた頃のことです」トマシュは穏やかに語り始めた。

「毎日のように、それこそ日が暮れるまで、この書庫に通い詰め、難しい顔をして古い書物を読み耽っておられましたな。実に良い生徒でした。他の生徒さんたちが剣の稽古や友人との語らいに時間を費やす中、先生はただ一人、知識の海に深く潜っておられた。あの頃から、先生は他の方とは違う、底知れないほどの深い探求心と、物事の本質を見抜こうとする鋭い目をお持ちでした。この老いぼれは、密かに、きっと将来は偉大な学者か、あるいは人々を導く立派な教師になられるだろうと、そう思っておりましたよ」

 

トマシュの言葉は、単なる昔語りにしては、どこか含みがあるようにも聞こえた。カシアンは、その言葉の裏を探るように、しかし表面上は穏やかに応じた。

「それは…過分なお言葉です、トマシュさん。貴方のような、この書庫の全てを知り尽くしておられるような方に、学生時代から温かく見守っていただけたこと、今でも光栄に思っております」

 

「はっはっは、儂など、ただのしがない書庫番ですわい」

トマシュは笑ったが、その目は笑っていない。彼はふと声を潜め、まるで秘密を打ち明けるかのように、カシアンに顔を近づけた。

「…しかし、カシアン先生。長年この書庫に仕え、星の数ほどの書物に触れてきた、この老いぼれだからこそ、分かることもあるのです」

 

彼の声には、先ほどまでの穏やかさとは違う、確信めいた響きが宿っていた。

「このガルグ=マク大修道院…そして、フォドラ全土に絶大な影響力を持つセイロス聖教会という組織には、その輝かしい光が強ければ強いほど、決して表には出ることのない、深く、暗い…『暗部』というものが、確かに存在するのです…」

 

「暗部、ですか…」カシアンは、トマシュの核心に触れる言葉に、内心の警戒心を高めながらも、興味を隠さずに応じた。

「ええ、私も同感です。教団が公式に編纂した歴史書や、広く流布されている教義を学べば学ぶほど、説明のつかない矛盾や、明らかに意図的に隠蔽され、あるいは歪曲されたとしか思えない記述に突き当たることがあります」

 

彼は、自身の抱える具体的な疑念を口にした。

「特に私が解せないのは、かつてフォドラに存在したはずの、高度な発明…例え天体に関する学術書や本を印刷する技術、また燃える液体に関する本といったものが、なぜか『禁忌』として扱われ、その研究や記録の閲覧すら厳しく制限されていることです。合理的な理由付けも曖昧なまま、ただ『危険だから』『女神の意に反するから』と。まるで、何か…教会にとって都合の悪い真実や、あるいは、独占したい知識を、意図的に封印しているかのようでなりません」

 

カシアンの言葉を聞き、トマシュの目に、満足そうな、そして共感するような光が灯った。

「ほう…! やはり、カシアン先生は、そこまで深くお考えでいらっしゃいましたか。流石ですな。儂の目に狂いはなかった」

彼は深く頷いた。

「…ええ、先生のおっしゃる通りなのです。この書庫には、一般の生徒や修道士が決して立ち入ることのできない区画が存在します。そこには、表向きの蔵書とは別に、閲覧が厳しく制限された書物…教会が『禁書』として封印してきた知識や、あるいは、彼らが書き換える前の、生の歴史の記録が、今もなお眠っているのかもしれません…」

 

トマシュはさらに声を潜め、まるで悪魔が囁くかのように、カシアンの耳元に言葉を続けた。その目は悪戯っぽく、しかしどこか真剣な光を宿している。

 

「もし…もし、カシアン先生が、その禁断の知識の扉を開き、教会が隠し続ける『真実』の一端に、ご自身の目で触れてみたいと、心の底から強くお望みになるのでしたら……」

 

彼はそこで言葉を切り、カシアンの反応を窺った。

 

「……この老いぼれ、書庫番トマシュに、こっそりとお声をかけてくださいませんか? 長年、この知識の番人として仕えてきた誼と、そして何より、先生のその飽くなき探求心と真実への渇望に敬意を表して……あるいは、先生になら、その『特別な扉』を開けるための、ささやかなお手伝いができるかもしれませんぞ…?」

 

トマシュからの、甘く、そして明らかに危険な誘い。それは彼の知的好奇心と、教会への根深い不信感が、その危険な誘惑へと強く引き寄せられていた。

 

 

 

 

その夜、書庫番のトマシュは、満足感に浸りながら、人気のない大修道院の回廊を自室へと向かっていた。昼間のカシアンとの会話は、彼の予想以上に実り多いものだった。あの怜悧で疑り深い教師は、見事にこちらの撒いた「禁断の知識」という餌に食いついた。これで彼を駒として利用し、教会内部の情報をさらに深く探り、ゆくゆくは我々の計画に引き込むことも可能だろう…。トマシュの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。長年被り続けてきた温和な老人の仮面の下で、ソロンとしての本性が、計画の進展を喜んでいた。

 

しかし、その油断が命取りとなった。

 

慣れた回廊の角を曲がったところで、彼は壁に寄りかかる人影に気づいた。それは、セイロス騎士団の中で知られる女騎士、カトリーヌだった。こんな夜更けに、彼女がなぜここに?

 

「おお、これはカトリーヌ殿」トマシュは、内心の動揺を隠し、いつもの穏やかな笑顔で挨拶した。

「こんな夜更けにどうなさいましたかな? 訓練帰りですかな?」

 

彼がそう言い終えるか、終えないかの瞬間だった。

 

バキッ!!!

 

カトリーヌの拳が、老人の顔には到底見合わない、凄まじい速度と破壊力をもって、トマシュの顔面を正確に捉えた! 予期せぬ一撃に、トマシュの体は紙切れのように吹き飛ばされ、鈍い音を立てて石の壁に叩きつけられた。

 

「ぐっ…!? がはっ…!」口から血を流し、視界がかすむ。何が起きたのか理解できない。

「な、何を…なさるのですか、カトリーヌ殿!? この老いぼれに、何の恨みが…!?」

彼は混乱と痛みの中で、必死に抗議の声を上げた。

 

だが、カトリーヌは一切の容赦を見せなかった。彼女は腰に帯びた英雄の遺産「雷霆」を抜き放ち、その切っ先をトマシュに向け、さらに追撃を加えようと一歩、また一歩と迫ってくる! その目には、冷たい殺意すら宿っている。

 

(まずい! バレたのか!? いや、なぜ!?)

 

トマシュの思考が高速で回転する。もはや、温和な書庫番を演じている場合ではない。彼は震える手で床に複雑な魔法陣を描き出した。ワープの魔法だ!

 

「逃がすと思うか!」カトリーヌが雷霆を振り下ろすよりも早く、魔法陣が眩い光を放った。トマシュの姿がその場から掻き消え、すぐ近くの建物の、月明かりに照らされた屋根の上に瞬間移動する。

 

「ふぅ…ふぅ…危ないところを…! だが、なぜ気づかれたのだ…?」屋根の上で息を整え、下の様子を窺おうとした、まさにその時だった。

 

ヒュンッ!

 

闇の中から放たれた一本の矢が、夜気を切り裂き、彼の右脚の太腿を寸分の狂いもなく貫いた!

 

「ぐあああああああっ!!」

 

骨に響くような激痛と共に、魔力を込めた矢が彼の防御結界をやすやすと貫通したことに驚愕しながら、トマシュはバランスを完全に崩した。彼は屋根の上を転がり落ち、下の石畳に無様に叩きつけられた。

 

射抜かれた脚を押さえ、脂汗を流しながら、彼は矢が飛んできた方向――闇の中に静かに佇む、弓使いシャミアの姿――を憎悪の目で睨みつけた。

「おのれ…シャミア…! そしてカトリーヌ…! なぜだ! なぜ儂の正体に気づいたというのだァァッ!?」

 

もはや、温和な老人の仮面を被り続けることは不可能だった。隠していた膨大な魔力が、彼の体から禍々しいオーラとなって溢れ出す。骨がきしみ、肉が変質し、その姿はみるみるうちに、痩せこけた長身、異様に長い指、そして深い闇を湛えた瞳を持つ、不気味な魔道士――ソロン本来の姿へと変貌を遂げた!

 

変貌したソロンの前に、カトリーヌがゆっくりと近づいてくる。その手には、抜き身の雷霆が握られている。

「気づいた理由、だって? 簡単なことさ、トマシュ…いや、ソロン。あんたは、ちと『話しすぎた』のさ。それも、一番喋っちゃいけない相手にね」

 

カトリーヌの言葉の意味を測りかねているソロンの前に、さらに二つの人影が現れた。紋章学の権威であるハンネマンと、そして…昼間、彼が言葉巧みに誘いをかけたはずの、カシアンその人だった。彼らは皆、この状況を予期していたかのように、冷静にソロンを見下ろしている。

 

ハンネマンは、苦痛に顔を歪めるソロンに対し、軽蔑の色を隠さずに言った。

「特に、あなたがカシアン先生のことを評して、学生時代から熱心に学ぶ、良い生徒だったなどと、ありもしない美辞麗句を並べ立てたのが、最大の失敗でしたな、ソロン殿」

 

「な…何を…」

 

「よろしいかな?」ハンネマンは、まるで講義でもするかのように、しかしその声には怒気を含ませて続けた。

「カシアン先生は、確かに類稀なる知識欲と探求心の持ち主でした! それは認めましょう! しかし! 彼の学生時代の素行は、断じて『良い生徒』などという言葉で形容できるものではありませんでしたぞ!」

ハンネマンは、当時の苦労が蘇ってきたのか、次第に熱を帯びてくる。

 

「興味のない授業は平気で抜け出しては、一日中この書庫に籠もり! 私が情熱を込めて教えている紋章学の授業中ですら! 平然と、隠れて全く別の分野の難解な魔道書や工学書を読みふける! 注意すれば、小難しい理屈を並べて言い返す! まさに、手のつけられない筋金入りの『問題児』!! この私が! 彼のその不真面目な態度と反抗的な物言いに、どれだけ頭を痛め、胃をキリキリさせられたことか! ええい、思い出すだけでも腹が立つ!」

 

ハンネマンは一度咳払いをして、冷静さを取り戻そうとした。

「…失礼。取り乱しましたな。ともかく、そんな彼の本質を、長年この書庫の番人を務め、彼が学生だった頃の奇行の数々を間近で見てきたはずのあなたが、知らないはずがない! あなたが昼間、カシアン先生を不自然なほど褒め称えた、その瞬間に、カシアンは確信したのです。あなたが我々の知る『書庫番トマシュ』ではない、何か別の目的を持った、偽りの存在であるとね!」

 

「カシアン、貴様ぁ!もう少しまともに授業を受けないかぁ!」

ソロンはキレながら正論をぶちかます。それでもハンネマンの熱弁の隣で、カシアン本人は腕を組み、ただ無表情のまま静かに頷いていた。彼の表情からは、恩師に問題児扱いされたことへの反発も照れも、何も現れていない。ただその目は、追い詰められたソロンを冷静に観察していた。

 

正体を暴かれ、脚を射抜かれ、そして屈強な騎士と狙撃手、さらには知識で嘘を暴く学者と、得体の知れない元教え子に完全に包囲されたソロン。彼の計画はカシアンという男への接触というほんの少しの油断から、致命的な綻びを見せてしまった。

 

 

 

 

「…そうか、貴様、昼間の儂との会話は…儂を試すための芝居だったというわけか! この儂を、まんまと諮りおったな!」

 

脚を押さえ、禍々しい異形の姿へと変貌したソロンが、憎悪に満ちた目でカシアンを睨みつけ、叫んだ。もはや温和な書庫番の仮面は完全に剥がれ落ち、その本性が露わになっている。

 

カシアンは、その非難にも表情一つ変えずに答えた。

「探りを入れる前にあなたが勝手に話し出しただけです。そもそも貴方が我々のリストの最上位にいたのは、レア様からの依頼を受けて開始したスパイ調査の初期段階から、ほぼ明らかでしたからね」

彼は冷静に続ける。

「書庫番という、多くの情報にアクセスしやすい立場。そして、他の誰よりも突出して多かった、貴方の異常なまでの外部への外出回数と、相手先不明の書簡の多さ…実に分かりやすい兆候でしたよ。今日の会話は、貴方が『トマシュ』ではないという確証を得て、こうして炙り出すための、最後の一押しに過ぎません」

(そもそも禁止書物ぐらい、既に何冊も持ち出して読みましたしね。)

 

「ぐ…ぬぬぬ…!」ソロンはカシアンの言葉に歯噛みする。

 

「問答無用!」

 

カシアンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、カトリーヌが雷霆を閃かせ、ソロンに猛然と切りかかった!

「これ以上、好きにはさせない!」

 

「くっ…!」

 

ソロンは脚に深手を負い、魔力も先ほどの変身で消耗しているはずだが、その動きは常人離れしていた。彼は、獣のような俊敏さでカトリーヌの斬撃を必死で回避する。しかし、歴戦の勇士であるカトリーヌの剣技は鋭く、完全に避けることはできない。ソロンのローブが切り裂かれ、腕や脇腹に新たな浅い切り傷がいくつも刻まれていく。

 

(まずい…! このままでは…!)

 

ソロンは焦燥感を募らせる。カトリーヌだけでも厄介なのに、背後からはシャミアの殺気を孕んだ視線が突き刺さり、ハンネマンとカシアンも虎視眈々と機会を窺っている。この包囲網を破るのは不可能に近い。どうにか嵌めてきたカシアンだけでも殺してやりたいが、エーデルガルドやヒューベルトにでも、カシアンのスケジュールについて聞けば今後チャンスが生まれるはずだ。そのためにも、ここで捕まるわけにはいかない!

 

ソロンは、カトリーヌが次の一撃を繰り出そうとした瞬間、最後の力を振り絞って地面を蹴り魔法を作動させた。そして、誰もが予想しなかった方向――壁際の、一見するとただの物置スペースにしか見えない暗がりへと、転がり込むように突進した!

 

「何をする!?」カトリーヌが追おうとする。

 

しかしソロンはその暗がりに隠されていた、巧妙な隠し扉に魔力を流し素早く開け放つと、その奥へと転がり込み、即座に内側から扉を閉ざしてしまった!

 

「ちぃっ! 逃がしたか!」カトリーヌは舌打ちし、閉ざされた扉を蹴りつけるが、それはびくともしない。

「どこへ繋がっているんだ、この通路は!?」ハンネマンも焦りの声を上げる。

 

「逃がすな! 奴は深手を負っている、遠くへは行けんはずだ!」カトリーヌが叫ぶ。

「この近くに潜んでいる可能性が高い。徹底的に探せ!」シャミアも弓を構え直し、周囲に鋭い視線を走らせる。

「騎士団にも応援を要請する! 朝までに必ず見つけ出すぞ!」ハンネマンは指示を飛ばし、自らも周囲の捜索を開始した。

 

カトリーヌ、シャミア、ハンネマンたちは、ソロンが消えた隠し扉の周囲や、そこから繋がっているかもしれない地下通路、あるいは近くの建物などを、怒りと焦りを滲ませながら捜索し始めた。

 

一方、カシアンはその一連の騒ぎを、腕を組み、冷静に見ているだけだった。彼はやれやれといった様子で小さく肩をすくめると、まるで他人事のように呟いた。

 

「……まあ、正体を暴き、深手を負わせただけでも良しとすべきですかね。取り逃がしたのは、少々後味が悪いですが…」

 

彼は、必死になってソロンを探し回るカトリーヌたちを一瞥すると、

「後のことは、皆さんにお任せしますよ。私の役割はもうありませんし、少々疲れましたのでね。これで失礼して、自室で休ませていただきます」

 

「まったく、あの男は…!」ハンネマンが呆れたように呟く。カトリーヌは苦虫を噛み潰したような顔で、カシアンが去った方向を睨んでいた。

 

 

 

その後、カトリーヌとシャミア、ハンネマン、そして駆けつけた騎士団員たちによる、大修道院の地下通路や周辺区域における徹底的な捜索が、文字通り一晩中続けられた。ソロンが残した血痕を追い、彼が潜んでいそうな場所を隈なく探したが、ついにその姿を発見することはできなかった。まるで、闇に溶けるように、完全に姿を消してしまったのだ。

 

東の空が白み始め、朝の光が大修道院の尖塔を照らし出す頃、疲労困憊の捜索隊は、悔しさを滲ませながらも、やむなく捜索を打ち切ることになった。

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