道徳以外を教えます   作:マウスブン

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12月 縁談再び

ルミール村での忌まわしい事件も、ベレスやジェラルト、そして騎士団の尽力によってなんとか収束し、ガルグ=マク大修道院にも表面上はいつもの落ち着きが戻りつつあった、そんなある日の午後。カシアンは自室兼研究室で、先日アビスから運び込んだばかりの古い文献の解読に没頭していた。静かな研究の時間は、彼にとって何よりの安らぎ…のはずだった。

 

コンコン、と控えめなノックの音が響く。カシアンが「どうぞ」と応じると、扉が開き、イングリットと、なぜか彼女に付き添うようにしてメルセデスが入ってきた。イングリットの表情は硬く、何か重大な話を切り出す前の緊張感が漂っている。メルセデスは、心配そうな、それでいてどこか面白そうな、微妙な表情で友人を見守っていた。

 

「カシアン先生、お忙しいところ申し訳ありません」イングリットはカシアンの机の前に進み出て、深々と頭を下げた。

「また…先生にご相談したい儀がございまして…」

 

カシアンは読んでいた文献から顔を上げた。その目には「またか」という、わずかな諦観の色が浮かんでいる。

「イングリット殿。構いませんよ。して、今度はどのような?」

 

イングリットは、少し言い出しにくそうにしながらも、懐から一通の封書を取り出した。「…それが、その…父から、また手紙が届きまして。…再び、縁談に関する内容なのです」

 

カシアンは、思わずやれやれといった風に息をついた。

「またですか。貴女のお父上も、なかなか諦めが悪いようです」

彼は前回の騒動…貴族の館への夜襲と「回収」を思い出し、苦笑いを浮かべながら尋ねた。

「それで、今度のお相手は? また何か裏のあるような、『悪い人』なのですか?」

その声には、若干の皮肉が込められていた。

 

すると、イングリットは視線をさまよわせ、指をもじもじさせながら、非常に歯切れ悪く答えた。

「え…ええと、その…悪い人、かと聞かれると…その、決して悪い方ではないと思うのですが…ただ、その…全く問題がないわけでもなく…うーん……少し、悪い人、と言えるかもしれません…」

 

その曖昧で要領を得ない返答に、カシアンは首を傾げた。

「はて? 少し悪い人、とはどういう意味ですかな? 具体的に、どのような問題があるのです?」

 

「そ、それは…」イングリットは言葉に詰まってしまう。

 

カシアンは、彼女の様子から、今回の相手は前回のような明白な悪党ではないのだろうと推測した。

「まあ『少し』程度の問題なのであれば、一度、ご自身の目で直接お会いになって、お話しになってから判断されても遅くはないでしょう。世の中、完璧な人間などおりませんからね。」

彼は、今回は穏便に、そして常識的な対応を促すつもりだった。前回の「解決策」は、ベレスとの約束もあり、実行できないのだ。

 

しかし、その時、黙って二人のやり取りを見ていたメルセデスが、くすくすと笑いを堪えるような仕草を見せながら、口を挟んだ。

「あらあら、カシアン先生。そう結論を急がずに、まずはそのお手紙を、よーく、最後までしっかりとお読みになって差し上げてくださいな。ね、イングリットちゃん?」

 

「え? あ、はい…」イングリットはメルセデスに促され、おずおずと手紙をカシアンに差し出した。

 

「…?」カシアンは、メルセデスの悪戯っぽい笑みと、イングリットの妙に緊張した様子に、何か腑に落ちないものを感じながらも、差し出された手紙を受け取り、封から出して中身に目を通し始めた。

 

手紙は、イングリットの父親であるガラテア伯爵からのもので、丁寧な時候の挨拶から始まっていた。そして、娘の将来を案じる親心、家の状況などが綴られ、本題である新たな縁談の提案へと移っていく。候補者の人物像について、父親は熱心に書き連ねていた。

 

『…先日、そなたが手紙で知らせてくれた、ガルグ=マクの教師殿のことだが』

 

(ん? 私のことか?)カシアンは眉をひそめる。

 

『そなたの窮地を救い、悪しき者から守ってくれたばかりか、そなたからの感謝の印である、指輪まで快く受け取ってくれたというではないか。』

 

(いや、あれは感謝の印として受け取っただけで、そういう意味では…)カシアンの額に嫌な汗が滲み始める。

 

『そなたの話によれば、歳はそなたより少し上とのことだが、若くして大修道院で教鞭をとるほどの類稀なる才覚を持ち、極めて優秀で、いざという時には頼りになる、素晴らしい人物であるとのこと。…』

 

(まあ、事実ではあるが、書き方が…)カシアンは読み進めるうちに、背筋がぞくりとするような、不吉な予感を覚え始めていた。

 

『…イングリットよ。父は考えたのだ。そなたの幸せを願うならば、家名や財産だけでなく、そなた自身を理解し、守り、そして共に未来を歩んでくれる、そのような誠実な伴侶こそが相応しいのではないかと。そして、その教師殿こそ、まさにそなたの伴侶として、これ以上ないほどふさわしいお方なのではないだろうか…!』

 

そして、手紙の最後には、父親の熱い想いと共に、決定的な一文が記されていた。

 

『…つきましては、父として、この縁談を強く推したいと考えている。近いうちに、ガラテア家より正式な使者を立て、カシアン先生ご本人に、そなたとの縁談について、お話を伺わせていただきたい…』

 

「なっ…………こ、こ、これは………ッッ!!??」

 

カシアンは、手紙を持つ手がわなわなと震えるのを抑えられなかった。血の気が引き、頭が真っ白になる。自分の名前が、イングリットの縁談相手として、父親公認で書かれている!

 

「イ、イングリット殿!! 一体全体、これはどういうことですか!? なぜ、私の名前が、貴女の縁談相手としてここに書かれているのですかっ!?」

彼は内心は激しく動揺しつつも、表面上はもう少し取り繕おうとする。だが裏返った声でイングリットに詰め寄った。

 

イングリットは、カシアンの剣幕に完全に怯えながらも、必死に弁明を始めた。

「も、申し訳ありません、先生! わ、私も、父がここまで早合点しているとは…!」

彼女は涙目になりながら説明する。

「その…父には、先日の事件のこと…先生が、あの悪徳貴族から私を守るために、大変なご尽力をしてくださったことを、感謝の気持ちを込めて詳しく手紙で報告したのです…」

 

「それで!? なぜこうなるのです!?」

 

「その手紙に…『とても頼りになるカシアン先生に相談したところ、まるで自分のことのように親身になってくださり、あっという間に問題を解決してくれた』と書きました…。そ、それに、『感謝の印として、家に伝わる指輪を贈ったところ、先生は快く受け取ってくださった』とも…」イングリットは顔を真っ赤にして俯く。

 

「指輪を受け取ったからといって、それが縁談に繋がるなど、普通は考えないでしょう!?」

 

「そ、そうなのですが…父は、その…私が先生を大変信頼していることと、指輪の件で、何か特別な関係があると勘違いしてしまったようで…それで、返書で『そのカシアン先生とは、一体どのようなお方なのだ?』と、根掘り葉掘り聞かれましたので…」

 

「それで、どう答えたのですか!?」

 

「…ですから、『私より少し年上で、ガルグ=マク大修道院の先生で、お若いのにお立場もあって、とても優秀で、いざという時には本当に頼りになる、素晴らしい方です』と……その、解決してもらって悪い事を言うのもあれなので……良い事実のみをお伝えしただけなのですが……父には、それが、その…私からの推薦のように聞こえてしまったらしく……」

 

「………………」

 

カシアンは、イングリットの説明を聞き終えると、力が抜けたようにその場にへたり込みそうになった。事実? 事実だと!? 確かに一つ一つは嘘ではないのかもしれない。だが、その組み合わせと文脈、そして父親の娘を思う暴走した親心が、とんでもない化学反応を起こしてしまった!

 

(私の…平穏な生活が…! なぜこうなる…!?)

 

彼は頭を抱え、呻き声を上げることしかできなかった。隣では、メルセデスが「あらあら、大変なことになりましたわねぇ」と言いながらも、必死で笑いを堪えている。

 

異端の教師カシアンの日常に、またしても予期せぬ方向からの、そして極めて個人的で厄介な嵐が、まさに吹き荒れようとしていた。

 

 

 

「ど、どうしましょう、先生…! わ、私のせいで…先生に、とんでもないことに…!」

隣では、イングリットが顔面蒼白になり、今にも泣き出しそうな声で狼狽えている。彼女の悪意なき父親への報告が、こんな事態を引き起こしてしまったのだ。

 

「あらあら、まあまあ」そんな二人とは対照的に、メルセデスだけはどこか楽しそうに、くすくすと笑いを堪えている。

「ふふ、でも、なんだか面白いことになりましたわねぇ?」

 

そのメルセデスの言葉に、カシアンははっと我に返った。彼は深呼吸を一つし、こめかみを押さえながら、無理やり思考を再起動させる。そうだ、今は混乱している場合ではない。この状況をどう収拾するか、考えなければ。

 

「……イングリット殿」カシアンは、努めて冷静な声で、しかしその声には隠しきれない疲労と呆れの色が混じっていた。

「少し、落ち着きなさい。そして、状況を正確に把握しましょう」彼はイングリットをじろりと見据えた。

「つまり、貴女がお父上に送った手紙…私のことを、必要以上に良く書き立て、さらに、私が貴女から指輪を受け取ったという事実を伝えたことが、お父上に『カシアンが次の縁談相手として最適である』という、この…壮大な誤解を招いた。原因は、百パーセント、貴女のその報告の仕方にある、ということで、よろしいですね?」

 

カシアンの正論ではあるが容赦ない指摘に、イングリットは「うぅ…」と呻き、さらに縮こまってしまった。

「そ、それは…結果的には、そう…かもしれませんが…! で、ですが先生! 私には本当に、そんなつもりは…! お願いです、どうか、見捨てないでください! このままでは、父は本当にガルグ=マクに使者を送って、先生に正式な縁談の話を持ちかけてしまいます! どうか、何とかしてください!」

彼女は、藁にもすがる思いで、カシアンに必死に懇願した。

 

カシアンは、涙目で訴えるイングリットを見て、本日何度目か分からない深いため息をついた。

(全く…なぜ私が巻き込まれなければならないのだ…?だが、ここで彼女を見捨てれば、それはそれで後々、さらに面倒なことになる可能性が高い)

 

「……分かりました」彼は、観念したように言った。

「パニックになっていても状況は好転しません。まずは、お父上のこの熱狂的な誤解を解き、この縁談話を一度、完全に保留にする必要があります」

 

彼は少し考え、具体的な対策を指示した。

「イングリット殿、貴女からお父上へ、大至急、返信の手紙を書きなさい。ですが、ここで下手に私のことを悪く書いたり、事実と異なる言い訳をしたりしてはいけません。かえって怪しまれるだけです」

彼は続ける。

「内容はこうです。『父上、先日は温かいお心遣いの手紙、ありがとうございました。ですが、カシアン先生は、私にとっては大変尊敬すべき恩師であり、それ以上の関係ではございません。私たちはあくまで教師と生徒という立場であり、そのような関係の者同士が、すぐに縁談などというのは、世間の方々の目もございますし、何より時期尚早かと存じます。私は今、この士官学校での学業と、騎士になるための鍛錬に全身全霊を注ぎたいと考えております。ですので、この度のお話は大変ありがたく、光栄に存じますが、どうか、少なくとも私が卒業するまでは、あるいは、もっと先の未来まで、この件はお待ちいただけないでしょうか』と。

…このように、あくまで貴女自身の意志として、今は学業に専念したいということを前面に出し、丁重に、しかし明確に、縁談の『延期』をお願いするのです」

 

カシアンの具体的で、かつ現実的な指示に、イングリットの顔にぱっと希望の光が差した。

「! そ、その手がありましたか! わ、私の気持ちを正直に伝えれば…! た、確かに、父も私が騎士になることを応援してくれていますから、学業に専念したいと言えば、少しは冷静になってくれるかもしれません…!」

彼女はようやく混乱から抜け出し、安堵の息をついた。

「ありがとうございます、先生!」

 

二人がとりあえずの解決策という名の時間稼ぎを見つけて落ち着いたのを見て、メルセデスが、少し残念そうな、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「あらあら、それで一件落着ですの? せっかく面白くなりそうでしたのに。カシアン先生とイングリットちゃんの縁談、わたくし、ちょっとだけ見てみたかったような気もします」

 

メルセデスの悪気のない言葉に、イングリットは「メ、メルセデスったら!」と顔を真っ赤にした。

 

「…………」カシアンはメルセデスの言葉を完全に無視すると、「…まあ、ともかく、少し頭を冷やしましょう。」と言い、立ち上がって部屋の隅にある戸棚へと向かった。彼はそこから、使い慣れた様子のティーポットと数種類の茶葉が入った缶、そしてカップを三つ、さらには彼が個人的に研究室に常備しているらしい、素朴な見た目の焼き菓子の袋を取り出してきた。

 

彼は、まるで気分転換でもするかのように、手際よく湯を沸かし、良い香りのするハーブティーを淹れ始めた。その所作は、意外にも手慣れており、彼の持つ別の顔を垣間見せるようだった。

 

やがて、温かいお茶の優しい香りが、緊張感の残っていた部屋の空気を和らげる。カシアンは淹れたてのハーブティーをそれぞれのカップに注ぎ、皿に盛った焼き菓子と共に、二人の前に差し出した。

「どうぞ。少し休憩してください。頭が混乱したままでは、良い手紙も書けませんからね」

彼の声には、先ほどの動揺や苛立ちはもうなかった。

 

「あ…ありがとうございます、先生」

「まあ、ごちそうになりますわ」

 

イングリットとメルセデスは、カシアンの意外な気遣いに少し驚きながらも、温かいお茶と焼き菓子に手を伸ばした。とりあえずの嵐は過ぎ去ったように見える。三人は、束の間の休息を取りながら、ハーブティーの温かさと焼き菓子の素朴な甘さに、それぞれの思いを巡らせる。

 

 

 

カシアンが淹れた温かいハーブティーの香りが、静かな部屋に漂っていた。先ほどの縁談騒動による緊張感はいくらか和らぎ、イングリットもメルセデスも、そしてカシアン自身も、束の間の休息を楽しんでいた。テーブルの上には、カシアンがどこからか調達してきたらしい、素朴な見た目だが滋味深い味わいの焼き菓子が並んでいる。

 

イングリットは、焼き菓子を一つ手に取り、ほっとしたように息をついた。

「…本当に、どうなることかと思いました。先生のお知恵のおかげで、なんとか…」

彼女は焼き菓子をかじりながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

「あ、先生。そういえば、以前いただいた、あの戸棚に入っているベリーのジャム…あれ、このお菓子にも合いそうですね。少し頂いてよろしいですか?」

 

その言葉は、あまりにも自然で、まるで自分の家の戸棚の場所を尋ねるかのようだった。カシアンは一瞬だけ動きを止めたが、「ええ、どうぞ。ご自由に」とあっさりと許可を出した。イングリットは「ありがとうございます!」と言うと、慣れた様子で立ち上がり、部屋の隅にある食器棚から、目的のジャムの小瓶を手際よく取り出してきた。

 

その様子を、メルセデスは興味深そうに眺めていた。

「まあ、イングリット。なんだか、このお部屋のこと、とってもよくご存知みたいですわね? まるで勝手知ったる、という感じ。もしかして、普段からよくいらしてるの?」

 

「えっ!? あ、いえ、その…!」メルセデスの指摘に、イングリットは少し慌てたように顔を赤らめた。

 

「ええ、たまに、ですね」イングリットが言い淀んでいる間に、カシアンが淡々と答えた。

「特に、私が何か新しいお菓子の試作品を完成させた後とか、あるいは、ちょうど食事の準備をしているような時間帯を、実に的確に『狙って』、ふらりと訪ねてこられますよ。彼女の嗅覚は、なかなかに鋭いようです」

彼の口調には、からかいとも事実の指摘ともつかない、微妙な響きがあった。

 

「なっ…! せ、先生! 人聞きの悪いことを言わないでください! ね、狙ってなどいません! た、たまたま通りかかっただけです! たまたま!」

イングリットはむきになって反論した。

「そ、それに、先生が作るものや、先生がどこかから手に入れてくる珍しいお菓子が、その…と、とても美味しいから、仕方ないじゃないですか!」

彼女はそう言いながら、少し拗ねたように、持ってきたジャムをたっぷりとお菓子につけ、大きな口で頬張り始めた。

 

カシアンはそんなイングリットの行動を特に咎めるでもなく、むしろどこか面白がるかのように眺めていた。そして彼は平然と、まるで当然のことのように言葉を続けた。

 

「まあ、別に構いませんよ。貴女がこの部屋を訪れることを、私が拒んだことは一度もないはずです。騒がしくなければ、ですが」

彼は一口お茶をすする。「それに…」

 

彼はジャムで口の周りを少し汚しながらも、夢中で焼き菓子を頬張るイングリットの姿を見て続けた。

 

「私もイングリット殿が、そうして美味しそうにものを食べる姿を見るのは、好きですからね」

 

その言葉はあまりにも自然に、何の含みもなく発せられた。カシアンはまるで動物の生態を観察した結果でも報告するかのように、淡々と客観的な事実として、そう言い放った。

 

………………。

 

時が、止まったかのように感じられた。

 

イングリットの動きが完全にフリーズした。手に持っていた食べかけの焼き菓子が、ポロリ、と音もなく皿の上に落ちる。彼女の顔は、まるで熱湯でも浴びたかのように、みるみるうちに首筋から耳まで真っ赤に染まっていった。

 

「………………せ、…………先生っ!?」

 

かろうじて絞り出した声は、完全に裏返っており、蚊の鳴くような声になっていた。彼女は、信じられないものを見るかのように、目を白黒させながらカシアンを見つめている。今、この人は、何と言った…?

 

しかしカシアンは、イングリットのその激しい動揺ぶりに、全く気づいていないようだった。彼は本気で不思議そうな顔をして、首を傾げた。

「? どうかしましたか、イングリット殿? 急に固まってしまって。顔も真っ赤ですが…」

 

「ち、ち、ち、違いますっっっ!!!! なんでもありませんっ!!!!!」

 

イングリットは椅子から飛び上がるようにして立ち上がった。彼女は残っていたお茶と焼き菓子を、もはや味わう余裕もなく、まるで罰ゲームでも受けているかのように一気に口の中に詰め込むと、ゴクリと無理やり飲み込んだ。

 

「あ、あの、わ、私、きゅ、急用を思い出しましたので! そ、そろそろ、失礼いたしますっ!!」

 

彼女は混乱の極みに達した頭で、早口でそうまくし立てると、カシアンの返事も隣で必死に笑いを堪えているメルセデスの視線も無視して、文字通り部屋から逃げるように飛び出していった。バタン!と扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 

嵐のように去っていったイングリットの後姿を、メルセデスは肩を震わせながら楽しそうに見送っていた。そして優雅にお茶を飲み干すと、にこやかに立ち上がった。

「ふふふ、イングリットちゃん、行ってしまいましたわね。…それでは先生、わたくしもそろそろ失礼いたしますね。美味しいお茶とお菓子、ごちそうさまでした」

 

カシアンはまだイングリットが出て行った扉の方を見ながら、本気で不思議そうに呟いていた。

「一体、どうしたというんでしょうかね、イングリット殿は…。よほど急な用事だったのでしょうか? それにしても、あんなに慌てて…」

 

その様子を見てメルセデスは部屋を出る間際に、カシアンに向かって、意味ありげな、そして楽しそうな微笑みを浮かべて言った。

「あらあら、先生。イングリットちゃんのあの慌てぶり…原因は、先生ご自身のようですわよ?」

彼女は先ほどイングリットがカシアンを評した時の言葉を思い出すように、わざとらしく付け加えた。

「…ええ、これは確かに…イングリットちゃんの言う通り、『少し悪い人』、ですわねぇ、先生は。ふふっ」

 

メルセデスは軽く笑いながら優雅に一礼すると、今度こそ部屋を出て行った。

 

一人残されたカシアンは「…? 少し悪い人…? 私がですか…?」と、メルセデスの最後の言葉の意味も、イングリットの突然の動揺の理由も、全く理解できないまま、首を傾げるばかりだった。彼は、テーブルに残された自分の分の紅茶とお菓子に視線を落とすと、仕方がないといった様子で、それを黙々と口に運び始めた。

 

彼を取り巻く人間関係の複雑な機微や、言葉の裏に隠された感情の揺らぎは、彼が長年没頭してきた難解な古代文献の解読よりも、よほど困難な問題なのかもしれない。カシアンは、ただ静かに午後の紅茶を味わうのだった。

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