道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1月 人の心

うっすらと目を開けると、まず感じたのは全身を包む鈍い痛みと、消毒薬のツンとした匂いだった。特に左肩と右足首には、ズキズキとした鋭い激痛が走り、カシアンは思わず顔をしかめて呻き声を上げた。白い天井、清潔だが簡素な寝台…どうやら自分は病室の個室に寝かされているらしい。窓の外は、既に昼の光が穏やかに差し込んでいる。あの死闘から、丸一日が経過したのだろうか。何とか、生き延びた…その事実だけが、霞む意識の中で確かなものだった。

 

「……」

 

ゆっくりと首を巡らせると、ベッドの脇に置かれた簡素な木の椅子に、腕を組み、険しい表情でこちらを見つめている男の姿があった。

 

「…ジェラルト、殿…?」掠れた声で呼びかける。

 

「よう、目が覚めたか。気分はどうだ?」

ジェラルトは低い、しかしどこか安堵の色を含んだ声で尋ねた。その目には、深い疲労と、カシアンの身を案じる色が浮かんでいる。

 

カシアンは、痛みに耐えながらも、ゆっくりと現状を把握しようとした。

「…ええ、何とか。全身が軋んで、まるで鉄塊にでもなったかのようですが、意識は…はっきりしています」彼は自嘲気味に言った。

 

「そうか、なら良かった」ジェラルトは深く頷き、椅子から立ち上がってベッドに近づいた。

「だが、無理はするな。医務室の連中の話では、お前さん、かなり深手を負ってたらしいからな。特に肩の傷は、あと少し位置がずれていたら危なかったとよ。最後はエーデルガルトの嬢ちゃんが助けてくれたそうだ。感謝しとけ。」

 

「…意外ですね。ですが、生きているだけでも儲けものです」

カシアンはエーデルガルトに皮肉を込めて言った。

 

「全くだ」ジェラルトは同意し、すぐに真剣な表情に戻った。

「さて、カシアン。早速で悪いんだが、頭がはっきりしているうちに、昨日のことを詳しく聞かせてもらいたい。一体何があった? モニカとかいう生徒に襲われたというのは本当か?」

 

カシアンは、ジェラルトの問いに、ゆっくりと記憶を辿り始めた。魔獣出現の報せ、礼拝堂へ向かおうとした矢先のモニカ(クロニエ)の奇襲、彼女がソロンの名を出したこと、そして、強酸や音響装置を使った必死の応戦と、辛くも逃走に成功するまでの経緯を、感情を排し、客観的な事実だけを淡々と、しかし正確に説明していった。

 

説明を聞き終えたジェラルトは、難しい顔でしばらく黙り込んでいた。彼の脳裏には、ソロン、闇に蠢く者たち、そして娘ベレスに宿る女神の力…様々な情報が複雑に絡み合い、この事件の背後にある、より大きな闇の存在を確信させていた。

「……そうか、大体の事情は分かった」彼は重々しく頷いた。

「モニカという生徒は、偽物だったわけか。お前さんは、とんだ災難だったな」

ジェラルトは、カシアンの肩を軽く叩いた。

「とにかく、今はゆっくり休め。後のことは、俺たちの方で何とかする」

彼はそれだけ言うと、何かを深く考え込むような表情で、静かに病室を出て行った。その背中には、騎士団の元団長としての、そして一人の父親としての、重い責任感が漂っていた。

 

 

 

 

その後、医師や回復魔法を得意とする僧侶たちによる診察と治療が施され、カシアンはベッドの上で絶対安静を強いられた。痛み止めの薬が効いているのか、激痛はいくらか和らいだが、体は鉛のように重く、自由は利かない。窓の外の空の色が、昼の青から、夕焼けの茜色へとゆっくりと移り変わっていくのを、彼はただぼんやりと眺めていた。

 

コンコン、と控えめなノックの音が響き、カシアンが「どうぞ」と応じると、扉が静かに開き、イングリットが心配そうな顔で入ってきた。その手には、小さな野の花が活けられた花瓶と、見舞いの品であろうか、布で包まれたバスケットが抱えられている。

 

「カシアン先生! お加減はいかがですか…?」彼女はベッドのそばまで来ると、不安げにカシアンの顔を覗き込んだ。

「その…昨日は、本当に大変な目に遭われたと聞きました。怪我の具合は…」

 

「ああ、イングリット殿。わざわざ見舞いに来てくださったのですか。ありがとうございます」

カシアンは、ベッドの上でできる限り丁寧に頭を下げた。

「おかげさまで、命だけはどうにか繋がったようです。まあ、しばらくは安静にしていろとのことですがね」

 

イングリットは持ってきた花を窓辺の小さなテーブルに飾り、バスケットの中からティーセットを取り出した。

「先生、もしよろしければ、紅茶でもいかがですか? 私が淹れますので」

 

「それはありがたい」カシアンは頷いた。

 

イングリットは手際よく紅茶を淹れ始めた。やがて、病室に優しい紅茶の香りがふわりと漂う。彼女がカシアンのカップに琥珀色の紅茶を注ぐと、カシアンは「ありがとう」と言いながら、枕元に隠すように置いていた小さなフラスコを、おもむろに取り出した。そして、その中に入っていた無色透明の液体を、自分の紅茶の中に、トクトクトク…と、ためらいなく、かなりの量を注ぎ込んだのだ。

 

「せ、先生…?」イングリットは、その怪しげな行動に、目を丸くして尋ねた。

「それは一体…? まさか、お薬か何かですか…?」

 

カシアンは、悪びれる様子もなく、むしろ少し得意げに答えた。

「ええ、まあ、そんなところですよ、イングリット殿。これは、私が調合した元気が出る『秘薬』でしてね。疲労回復、滋養強壮、気分高揚…様々な効果が期待できます。イングリット殿も、よろしければ一杯いかがですか? きっと、日頃の疲れも吹き飛びますよ」

彼は、にこにことフラスコを彼女に差し出した。

 

イングリットは、カシアンの言う「秘薬」という言葉と、その怪しげな雰囲気の液体に、一瞬顔を引きつらせた。しかし教師からの勧めを無下にもできず、また少しだけ好奇心もあったのかもしれない。

「で、では、ほんの少しだけ…お相伴にあずからせていただきます」と、ためらいがちに自分のカップを差し出した。

 

カシアンは嬉々として(?)、彼女の紅茶にも例の液体を少量注いだ。イングリットは、意を決して、その紅茶を一口飲んだ。そして、次の瞬間。

 

「こ、これっ…!!」彼女の目が、驚きと、信じられないという表情で大きく見開かれた!

「この味と、この喉を焼くような感覚…これは、お酒じゃないですか!!」

 

彼女の声が、裏返って病室に響き渡る。

 

「先生!! 病室で! しかもご自身がこれほどの大怪我をされているというのに、一体何を考えてるのですか!? お酒など、治療の妨げになるに決まっています! いけません、絶対にいけません!!」

彼女は騎士としての正義感と、カシアンのあまりの不謹慎さへの呆れから、カッと顔を赤らめ、カシアンの前に仁王立ちになった。

 

「このお酒は、私が責任をもって預からせていただきます! これは没収です!」

 

「ま、待ちなさい、イングリット!」カシアンは慌てた。

「これは薬だと言っているでしょう! アルコール度数は極めて低く調整してあり…いや、むしろ薬効成分の方が主体で、その…ええと…」

彼は苦しい言い訳をしながら、自分のカップに残っていた紅茶を、慌てて一気に飲み干そうとした!

 

しかし、イングリットの方が一枚上手だった。彼女は素早くカシアンの手からカップをもぎ取るようにして取り上げた。

「問答無用です! 先生が全快まで、この『秘薬』は私が厳重に管理します! よろしいですね!」

彼女はフラスコをしっかりと胸に抱きしめ、カシアンを教師に対するものとは思えないほど厳しく、しかしどこか心配そうに睨みつけた。

 

カシアンは、最大の楽しみを取り上げられ、不満そうな、しかし、どこかこの状況を楽しんでいるようにも見える、複雑な表情でイングリットを見つめていた。イングリットは、やれやれ、本当に世話の焼ける、と深いため息をつきながらも、彼の身を案じる気持ちは本物だった。

 

 

 

イングリットは、カシアンから取り上げた小さなフラスコを固く握りしめ、まるで悪戯っ子を叱る母親のように、ベッドの上のカシアンに言い聞かせていた。カシアンは、最大の楽しみを奪われた子供のような表情で、イングリットの小言を聞き流している。

 

その時、病室の扉が静かに開き、音もなくベレスが入ってきた。彼女は、イングリットがカシアンのベッドのすぐそばに立ち、何やら親しげに会話しているのを目にすると、ほんの一瞬だけ、その大きな緑の瞳をわずかに細めたように見えた。だが、すぐにいつもの無表情に戻り、カシアンの方へと歩み寄った。

 

「…カシアン」

 

ベレスは、イングリットの存在には特に触れることもなく、まっすぐにカシアンのベッドの縁に腰掛けた。そして、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっとカシアンの額に手を触れ、次いで包帯が巻かれた左肩、そしてシーツの上から彼の髪へと、その手を滑らせた。それは、彼の無事を確かめるような、あるいは、ただ彼に触れていたいというかのような、優しく、そしてどこか切実な仕草だった。

 

「…大丈夫? 顔色は、まだあまり良くない…」

彼女の声は、普段よりも低く、心配の色が濃くにじんでいた。

 

カシアンは、ベレスのその自然で、何のてらいもないスキンシップに、特に驚く様子も見せず、むしろされるがままになっていた。彼の合理的な思考も、彼女のこの行動の前では、なぜか静まり返っているかのようだ。

「ええ、大丈夫ですよ、ベレス。少しばかり派手に立ち回ってしまいましたが、命に別状はありません。」

彼の声は、いつもより少しだけ穏やかで、柔らかく聞こえた。

 

そのあまりにも自然で、そして親密なように見える二人の様子を、イングリットは少し離れた場所から、固唾を飲んで見つめていた。胸の奥が、チクリと痛むような、言葉にできない感情が湧き上がってくるのを感じる。

 

彼女は、わざとらしく「コホン!」と一つ咳払いをすると、努めて平静を装いながら、しかしその声には隠しきれない棘と探るような響きを含ませて言った。

「ベレス先生も、カシアン先生のお見舞いにいらしたのですね。…それにしても、お二人は、とても仲がよろしいのですね」

 

ベレスは、カシアンの髪をそっと撫でていた手を止め、ゆっくりとイングリットの方を見た。そして、何の逡巡もなく、あっさりと、しかし確信を込めて言った。

「そうだ」

 

その短い肯定の言葉には、揺るぎない何かが感じられた。

 

そして、今度はベレスが、その感情の読めない大きな瞳で静かに、しかし真っ直ぐにイングリットを見つめ返して尋ねた。

「……イングリット。あなたとカシアンも、仲が良いの?」

 

それはまるで鏡のように、イングリットの問いをそのまま返したかのようだった。しかしその静かな問いかけの中には、イングリットとカシアンの関係を確かめようとする、鋭い探りのようなものが含まれていた。

 

ベレスからの直接的で、逃げ場のない問いかけに、イングリットは一瞬言葉に詰まった。カシアン先生と、仲が良い…? その言葉が意味するものは何だろう。確かに、他の教師とは違う、特別な何かを感じているのは事実だ。助けられたり、食事をご馳走になったり、時には彼の奇行に振り回されたり…。それは「仲が良い」という言葉で表現して良いものなのだろうか?

 

彼女は少し逡巡した後、頬をわずかに赤らめながら、言葉を選んで答えた。

「え、ええ、まあ…その、カシアン先生には、以前私の家のことで大変お世話になりましたし、先日も、美味しいサンドイッチをご馳走になったり…その他にも、色々と助けていただいておりますから…。その、仲が良い、と言えるのかもしれません…」

最後の方は、少し声が小さくなってしまった。

 

「…………そうか」

 

ベレスは、イングリットの言葉を聞き終えると、それ以上何も言わなかった。ただ、じっと、その大きな緑の瞳でイングリットを見つめ返すだけだった。イングリットもまた、ベレスのその感情の読めない、しかし何か強い意志を感じさせる瞳を、負けじと見つめ返した。

 

言葉はない。しかし二人の少女の間には、パチパチと音のしない火花が散っているかのような、張り詰めた、ピリピリとした空気が確かに流れていた。それは、カシアンという一人の、掴みどころのない男を巡る、少女たちの静かで、しかし譲れない何かがぶつかり合う、「女の戦い」の始まりを予感させるものだった。

 

一方、そんな乙女たちの静かなる闘争の中心にいるはずのカシアンは、と言えば。

 

彼は二人の間に流れる不穏で複雑な空気に全く気づいていないのか、あるいは気づいていても全く意に介していないのか、イングリットが先ほど淹れてくれた紅茶の残りを、ただ黙々と、マイペースにすすっているだけだった。

 

(ふむ、このハーブティーも、なかなか悪くない…。どこの茶葉を使っているのだろうか? 後でイングリット殿に聞いてみるか…)などと、全く場違いなことを考えている。

 

病室にはカシアンがマイペースにハーブティーをすする音だけが響いていた。イングリットとベレスは、そんな彼を見つめ、互いに視線を交わした。その目には、深い諦観と、そして「この人は本当に何も分かっていない」という共通の認識が浮かんでいる。先ほどの二人の間の静かな火花も、この男の前では全くの無意味だったようだ。

 

「……はぁ」ベレスが、珍しく聞き取れるほどの大きなため息をついた。

「カシアンには、ゼロから教育し直さないと」

彼女は静かに、しかし確固たる意志を込めて呟いた。

 

イングリットも、こめかみを押さえながら力強く頷く。

「ええ、そうですね、ベレス先生! このまま放置しておくのは、先生ご自身のためにも、そして…周りの人間の精神衛生のためにも、徹底的に叩き込む必要があります!」

 

「は? 教育? 何の話ですか?」

 

カシアンは、二人の不穏な会話にようやく気づいたのか、きょとんとした顔で問いかける。

 

 

 

 

それから約一時間後。

 

カシアンの病室は、先ほどまでの静養の雰囲気から一変し、まるで尋問室か、あるいは何かの特別講義室のような、異様な緊張感に包まれていた。テーブルの上には、どこから持ち込まれたのか、刺繍の施された華やかな表紙の恋愛小説、美しい言葉が並ぶ詩集、そして劇的な愛憎劇が描かれたオペラの台本などが、数冊積み重ねられている。

 

そしてそのテーブルを挟んで、カシアンがベッドの上に上半身を起こして座らされ、その両脇には、ベレスとイングリットが、まるで厳格な試験官のように、腕を組んでカシアンを見据えていた。

 

ベレスが、有無を言わせぬ厳粛な口調で宣言した。

「これよりカシアンに対する特別補習授業を行う。テーマは、『人の心概論:その基礎的理解と共感的応答の試み』です。」

 

「は…? ひ、人の心概論…? 基礎…?」カシアンは、突然始まった奇妙すぎる授業のタイトルに、完全に戸惑いの表情を浮かべた。

「い、一体何のことですか、ベレス、イングリット。私は病人であり、安静が必要だと…それに、このような非科学的な分野は、私の専門外のはずですが…」

 

「先生、言い訳は結構です!」イングリットが、ぴしゃりと言った。

「まずは、この物語の第3章、ヒロインである令嬢イザベラが、長年想いを寄せていた幼馴染の騎士アーサー様の策略によって、夜会で別の男性と親密な姿を無理やり演出され、アーサー様から冷たい視線を向けられ、一人控え室で涙する場面…ここを声に出してお読みください。そして、この時のイザベラ嬢の心情を、100字以内で簡潔に説明していただきます。制限時間は5分です」

彼女は、カシアンの前に一冊の分厚い恋愛小説を置いた。

 

カシアンは二人の剣幕に押され抵抗する気力もないのか、渋々といった様子で、指定された箇所を読み始めた。彼の声は物語の劇的な内容とは裏腹に、抑揚なく淡々としている。

 

読み終えると、彼は得意の分析を開始した。数分間、顎に手を当ててうんうん唸った後、自信ありげに顔を上げた。

「ふむ…理解しました。このヒロイン、イザベラ嬢は、意図せぬ形で自身の社会的評価を著しく低下させられ、かつ、目標対象との関係構築における重大な障害が発生した。これにより、彼女が期待していたであろう婚姻による地位向上、および精神的充足といった期待利益の獲得可能性が著しく損なわれたことによる、強い精神的苦痛と、計画の頓挫に対する失望を感じている。その原因は、恋敵による巧妙な情報操作と、ターゲットであるアーサー騎士の状況判断能力の欠如、及び感情に流されやすい性格にあると推察されます。よって、彼女の心情を簡潔に表現するならば、『戦略的失敗による目標達成の困難化に伴う、強いフラストレーションと、周囲への不信感』であると結論付けられます。どうでしょう?」

 

カシアンは、完全に論理的かつ客観的な回答を、自信満々に述べた。

 

「………………」

「………………」

 

ベレスとイングリットは、カシアンのそのあまりにも人間味のない分析を聞き終えると、二人揃って額に手を当て、深くて長いため息をついた。

 

「……先生。それは、事件の報告書か何かですか? 感情というものが、どこにも見当たりませんが…」

イングリットが、もはや怒る気力も失せたかのように、力なく言った。

 

「…それは、イザベラの気持ちではない。状況の説明だ」

ベレスも、静かに、しかしきっぱりと指摘した。

 

「次です!」イングリットは気を取り直したように、今度は薄い詩集をカシアンの前に叩きつけるように置いた。

「この詩をお読みください! 恋人に心変わりされ、捨てられた女性が、雨の中で一人佇みながら詠んだ詩です! 彼女が、この詩を通して本当に伝えたかったことは何でしょうか! 今度こそ、感情を読み取ってください!」

 

カシアンは詩に目を通し、再び腕を組んで考え始めた。そして、数分後。

「…なるほど。これは非常に高度なレトリックが用いられていますね。雨という状況は、彼女の涙と絶望を比喩的に表現しつつ、相手の行動(心変わり)が、契約の不履行であり、それによって彼女が被った精神的損害に対する、強い抗議の意思表示と解釈できます。そして、詩の最後の一節…『されど我が愛、消せもせず』は、今後の関係修復の可能性を完全には否定せず、相手からの謝罪と、何らかの慰謝料、あるいはそれに代わる誠意ある対応を要求する余地を残した、極めて戦略的な交渉術と言えるでしょう。見事なものです」

 

「「………………もう結構です………………」」

 

ベレスとイングリットの声が、力なくハモった。この男に文学作品から人の心を読み解かせるのは、石に花を咲かせようとするようなものだ、と二人は悟ったのかもしれない。

 

ベレスは、静かに首を横に振り続けている。

「これは長くなるな…」

 

イングリットは、ついに我慢の限界に達したのか、わなわなと肩を震わせ、カシアンを睨みつけ、ピシャリと詩集を閉じた。

「先生! 人の…特に女性の気持ちが、分からないですか?こうなったら、もっと集中的に『人の心』というものを学んでいただくしかありません!」

 

そして、彼女は決然とした表情で、テーブルの上に積まれた書物の山を指差しながら、カシアンに新たな、そして恐るべき課題を宣告した。

「つきましては、先生、宿題です! 今日、私たちが用意したこの本…恋愛小説3冊、感傷的な詩集2冊、そして涙なしには見られないと評判のオペラの台本1冊、これら全てを熟読玩味していただき、それぞれの作品のヒロインが、どのような場面で、どのような感情を抱き、なぜそのような行動に至ったのか、その心情の変遷と理由について、各作品につき最低でも1000字以上の詳細なレポートを提出していただきます!」

 

「なっ…!?」カシアンの目が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれた。

 

イングリットは構わず続ける。

「期限は…そうですね、先生は病人ということも考慮して差し上げますが…明日の夕刻まで、としましょう! もちろん、私たちの納得のいく内容でなければ、再提出です!」

 

イングリットのあまりにも過酷な宿題の宣告に、ベレスが静かに、しかし有無を言わせぬ迫力で頷いた。

「…それがいい。登場人物の感情の機微を追体験することは、他者の心を理解するための重要な第一歩。もちろん、私とイングリットが採点する」

彼女の目には、どこかこの状況を楽しんでいるかのような、悪戯っぽい光も宿っている。

 

「せ、1000字以上を、各作品で…!? 明日の夕刻までに…!?」

カシアンは、まさかの大量読書と、それ以上に難解な「感想文」という課題に、顔面蒼白になった。

「そ、それはあまりにも非効率的かつ、私の専門分野とはかけ離れた苦行では…! い、いや、そもそも安静が必要な病人に対して、そのような過大な精神的負荷を与えるのは、倫理的に問題があるのでは!?」

彼は、かろうじて論理的な反論を試みようとした。

 

だが、二人の女性教師のカシアンを少しでもまともに、そして周りの好意や心配を理解させようという決意は固いようだった。

 

病室で突如として始まった、異端の教師カシアンに対する「人の心」の特別補習授業。夕食抜きは免れたものの、それ以上に過酷かもしれない「文学と感情の試練」が彼を待ち受けていた。果たしてこの奇妙で一方的な授業は、彼の鉄壁の合理主義の心に、ほんのわずかでも変化の兆しをもたらすことができるのだろうか…?

 

恋愛小説と詩集の山に囲まれ、二人の美しい女性教師に詰め寄られるカシアンの姿は、どこか滑稽で、哀れで、しかし彼にとっては、間違いなく真剣そのものの、新たな受難の始まりを告げていた。

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