道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1月 選択肢2

ユーリスが部屋を出て行くと、後に残されたのはカシアンとベレス、そして広げられたフォドラの地図と散乱した資料が作り出す、重苦しい沈黙だけだった。先ほどの会議で語られた、見えざる敵の脅威、そしてフォドラ全土に漂う不穏な空気は、現実として二人の肩に重くのしかかっている。

 

ベレスは、窓の外に広がる夕闇…あるいは、机の上の複雑な地図を、ぼんやりと眺めていた。そして、ぽつり、と呟いた。その声は、か細く、深い不安の色を帯びていた。

「……帝国、王国、同盟、教会……。私は……どこかを選ばなければならないの?」

 

それは、彼女が自身の内に宿る計り知れない力と、それ故に否応なく巻き込まれていくであろう運命の重さを、漠然と、しかし確実に感じ取っているからこその問いだった。

 

カシアンは、ベレスのその問いに、一切の躊躇なく、そして冷徹なまでの現実認識をもって答えた。

「ええ、そうでしょうね。残念ながら、ベレス。貴女が望むと望まざるとに関わらず、その選択の時は、必ず訪れます」

 

彼は立ち上がり、ベレスの隣に立つと、テーブルの上の地図を指し示した。

「現在のフォドラの情勢は、見た目以上に不安定で脆い。帝国はその覇権を取り戻そうと野心を燃やし、王国は癒えぬ過去の傷と内部対立に喘ぎ、同盟は有力貴族たちの権力争いで一枚岩になれず、そして教会は…その絶大な権威の裏で、多くの秘密と矛盾を抱えている。それぞれの思惑が複雑に絡み合い、水面下では既に火花が散っているのです」

 

彼は言葉を続ける。

「そこに、我々の知らない『見えざる敵』までもが暗躍し、混乱を煽っている。この歪な均衡が、いつまでも続くはずがない。近い将来、どのような組み合わせで、どれほどの規模になるかは現時点では予測できませんが…この均衡が破られ、フォドラの過半を巻き込む大きな争いが起こることは、もはや避けられないでしょう」

 

そしてカシアンはベレスの緑の瞳を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし容赦なく宣告した。

「そしてベレス。貴女はその特別な力をその身に宿し、天帝の剣を振るう、唯一無二の存在です。その力を持つ以上、貴女は間違いなく、その争いの渦の中心へと否応なく巻き込まれることになる。貴女の存在そのものが、各勢力にとって、利用すべき対象であり、あるいは排除すべき脅威となるからです。必ず貴女は何らかの重大な選択を迫られることになります。」

 

カシアンの言葉は、ベレスが漠然と感じていた不安を、冷徹な現実として突きつけた。彼女は唇を固く結び、視線を落とす。どの道を選べばいいのか? エーデルガルトの掲げる理想か、ディミトリの求める正義か、クロードの示す新たな道か、それともレアの導く信仰か…。どの勢力にも、守りたいと願う生徒たちがいる。しかし同時に、どの勢力にも、決して容認できないと思える影の部分がある。どこにも、絶対的な正しさなどないのかもしれない…。彼女の心は、深い迷いの淵で揺れ動いていた。

 

そんなベレスの葛藤と苦悩を見て、カシアンは、彼にしては珍しい行動に出た。彼は、ベレスの前に静かに歩み寄ると、床に片膝をつき、彼女と視線の高さを合わせた。そして、まるで大切な何かを語りかけるかのように、真剣な、しかしどこか優しい響きを帯びた声で、語り始めた。

 

「ベレス」彼の声は、いつになく穏やかだった。

「貴方は、どの道が最も『正しい』か、あるいは最も『罪がない』かで、進むべき道を選ぶ必要はありません」

 

その言葉は彼女にとって意外なものだった。

 

カシアンは続けた。

「そんな完璧な道は、この世界のどこを探しても、残念ながら存在しないからです。どんなに崇高な理想を掲げる勢力も、その理想を実現するためには、大なり小なり、何らかの犠牲を払い、矛盾を抱え、時には『悪』と呼ばれる行為に手を染めることから逃れられない。それが、人間が作り出す社会の、そして歴史の現実なのです」

 

彼は、各勢力が抱えるであろう「闇」について、静かに語った。

「先ほど、敵の黒幕は帝国関係者の可能性が高いと言いましたが、それに加えて帝国が理想のために、多くの血を流し、他者を踏みつけてきた歴史があることも、また事実です。

そしてジェラルト殿が長年避け続けてきたセイロス聖教会もまた、決して清廉潔白な存在ではない。むしろ彼らは最も深く巧妙に、女神という絶対的な権威の影にこの大陸の進歩を停滞させ支配し続けています。貴女のその力の本当の由来、そしてジェラルト殿が教会を避けてきた事実が、それを何よりも雄弁に物語っているではありませんか」

 

「ファーガス王国とて同じことです。忠誠や騎士道を美徳としながらも、その実態はダスカーの悲劇のような癒えぬ憎しみと、貴族たちの間の根深い対立、そして絶え間ない反乱の火種を抱え続けている。

レスター同盟は、自由と平等を謳いながらも、その実、有力貴族たちが互いの利権のために足を引っ張り合い、真の意味で一つにまとまることもできず、何かを成し遂げた訳でもありません。」

 

カシアンは、ベレスの緑の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「ですから、ベレス。貴方が将来、どの旗の下に立つことを選んだとしても、あるいは誰にも属さず、傭兵として特定の誰かのために剣を振るう道を選んだとしても、必ず誰かと敵対し誰かを傷つけ、そして貴女自身も傷つく可能性から、完全に逃れることはできないでしょう。それが争いが避けられない人間という世界の厳しく、そして変えようのない現実なのです」

 

彼はベレスの肩にそっと手を置いた。

「だからこそ、貴方が選ぶべき基準は、ただ一つです。

あなたが何をやりたいかや誰とやりたいかです。誰かに強く誘われたからでも構わない。あるいはどこかの国の掲げる理念や理想に、それがたとえ不完全で、矛盾を孕んでいたとしても、貴方自身の心が強く共鳴したからでも良いでしょう。理由は究極的には、貴女自身の心の中にしかないのです」

 

カシアンの言葉は、熱く、そして真摯だった。それは彼が長年の経験と考察の末に辿り着いた、彼なりの「真実」なのかもしれない。

 

「最も重要なのは、それが、誰かに強いられた選択ではなく、貴方自身の自由な意志で、『選びたい』と心から思った道であること。ただ、それだけです。そして一度選んだならば、その選択に伴うであろう困難や、痛みや、後悔の可能性すらも全て引き受ける覚悟を持つこと。それがこの混沌とし正解のない世界で、貴女が貴女自身の足で立ち、貴女らしく生き抜くための唯一の、そして最も確かな道標となるでしょう」

 

カシアンの言葉は、静かな部屋の中に深く響き渡った。それは、冷徹な現実認識に基づきながらも、最終的にはベレス自身の「心」と「意志」の力を信じ、その選択を尊重するという、彼なりの深い思いやりと、彼女への計り知れない期待が込められているように聞こえた。

 

 

 

 

カシアンの言葉は、静かにしかし確かな重みを持ってベレスの心に響いた。どの勢力にも正義と悪があり、絶対的な正しさなど存在しない。重要なのは、他人の評価ではなく、自分自身の意志で道を選ぶこと、そしてその選択に責任を持つ覚悟。それは、常に周囲の期待や、自身の持つ力の意味に翻弄されがちだった彼女にとって、暗闇の中で見つけた一条の光のように感じられた。

 

彼女はゆっくりと顔を上げ、カシアンの目を真っ直ぐに見つめ返した。その緑の瞳には、先ほどまでの深い迷いの色は薄れ、代わりに、静かな決意と、そして目の前の教師への深い感謝の色が宿っていた。

「……分かった、先生。ありがとう」彼女の声は、もう震えてはいなかった。そこには確かな力が込められていた。

「先生のおかげで……少しだけ、自分がどうすべきか、進むべき道の輪郭が見えた気がする。ありがとう」

 

ベレスはそう言うと、テーブルに置かれたままだった自分のカップを手に取り、残っていたハーブティーをゆっくりと飲み干した。温かい液体が、緊張で強張っていた心と体を、優しく解きほぐしていくようだった。ふぅ、と安堵のため息が漏れる。

 

しかし、彼女の心には、まだ一つの大きな問いが残っていた。カップを静かにテーブルに置くと、彼女は再びカシアンに向き直った。その声は、先ほどよりも落ち着いていた。

「……先生はどこを選ぶ? 色々な誘いもあるでしょう?」

 

ベレスからの真っ直ぐな問いに、今度はカシアンの方が少し戸惑うような表情を見せた。彼は、他人の未来については冷静に分析し、道を示すことができても、自分自身の選択となると、話は別なのかもしれない。

「私、ですか? うーん、どうしましょうかねぇ……」

彼はわざとらしく天井を見上げ、腕を組む。

「正直なところ、まだ何も明確には決めてはいませんよ。どの勢力も、それぞれに問題を抱えていますからねぇ。選択するのは、なかなか骨が折れる」

 

彼はまるで他人事のように、いくつかの可能性を口にした。

「まあ、個人的な見解を、あくまで思考実験として述べるならば…ですが。変革の可能性と、ある種の合理性を追求するなら、エーデルガルト殿下の帝国か、あるいはクロード殿のいる同盟が、最も興味深い選択肢かもしれません。…あるいは子供のころに住んでいた、そして青獅子の生徒たちのことを考えれば……多少の非合理性や矛盾には目をつぶって、古き良き?ファーガス王国に、我慢して留まる、という道も、なくはない…かもしれませんねぇ」

 

彼の言葉は、様々な可能性を示唆しつつも、その本心は巧みに隠されていた。だがその答えに納得せず、無表情ながらじっとベレスが見つめるので、しぶしぶカシアンは本音を漏らした。

 

「どこにも課題とややこしい事があって悩んでます。

帝国を選択する場合にネックなのは、炎帝やトマシュらが帝国関係者くさいと言うことです。…仮に彼らが本当に帝国所属なら、まずはエーデルガルトに奴らとの関係を今後どうするか吐かせます、そして、うーん、半壊させられた酒蔵の代償として最低限帝国の保管されてる相当本数の年代物のワイン、もしくは私が欲しいかつ帝国にとって掛け替えのないもの、で払ったらですね。腹は立ちますが自家用酒ならまた造れますし、弁償するなら許せはします。」

 

「後はクロードから誘いの手紙はあるんですけど、自由以上のプランが見えない。返信はしましたけど、その後の手紙もパッとしないので会ってません。そもそも国力と同盟のくだらない内輪揉めから考えても、任される軍隊も金も少ない。その為他の同盟貴族を滅ぼしてよいか聞いたところ拒絶されました。…彼ならまだ何か隠し玉はあるかもですけど、まだ戦争は先の事と考えてるからか、互いにそこまで踏み込めてないんですよね。」

 

「王国や教会は私と根本の思想が異なります、彼らは大陸の変化を最も望まない勢力です。その上王国だと謀殺される可能性があります。可能な限りここは避けたいです。仮に帝国と戦争になれば王国と教会は協調しそうです。」

 

「どこも面倒なんで、いっその事、戦争に巻き込まれなかった国に移住して、先生を続けるってのもありですね。」

 

しかしベレスはその答えに、不安を感じずにはいられなかった。カシアンが、自分とは違う道を選ぶかもしれない。そうなった時、二人の関係はどうなるのだろうか?

「……ということは」彼女の声が、わずかに震えた。

「もし先生が同盟につき、私が…帝国と共に戦うことを選んだとしたら……私たちは、敵として、戦場で相まみえることになる可能性もある?」

 

その問いにカシアンの表情から、いつもの余裕や皮肉が消えた。彼は少し辛そうに、しかし現実から目を背けることなく答えた。

「……ええ。それは……私個人としては、最も避けたいシナリオですが……可能性としては、残念ながら、ゼロではない、と言わざるを得ませんね。戦場では、個人の感情よりも、所属する組織の利害や命令が優先されるものですから」

 

その苦い肯定の言葉を聞き、ベレスは激しく動揺するのではなく、静かに目を伏せた。彼女はその言葉の意味を、その重みを深く深く噛みしめているようだった。彼女の表情に、深い悲しみの影が落ちる。

 

やがて彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は潤んでいたが、涙は流れていなかった。そこには、悲しみ以上に、何かを決意したような、静かで、しかし強い光が宿っていた。

 

彼女はカシアンの目をまっすぐに見つめ返すと、叫ぶのではなく、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、静かで、しかし心の底から響くような声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「…………嫌だ、カシアン」

 

その響きは、部屋の静寂の中に、特別な意味を持って溶けていく。

 

「私は……カシアンと、敵になるのは、嫌だ」

 

彼女は視線をわずかに落とし、自分の気持ちを一つ一つ確かめるように、あるいは自分自身に言い聞かせるように、言葉を続けた。

「これから先、どんな道を選ぶことになったとしても……なったとしても……私は……」

 

彼女は再び顔を上げ、カシアンの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「私はカシアンと一緒にいたい。……」

 

それは感情的な懇願というよりは、静かに、しかし揺るぎなく灯された、彼女自身の心の奥底からの願い、そして決意表明のように聞こえた。

 

ベレスのその静かな、しかしあまりにも真っ直ぐで、重い言葉と眼差しは、激しい感情の爆発よりも、むしろ深く、鋭く、カシアンの心を貫いた。彼の顔が赤くなるような外面的な動揺はない。しかし彼の内側では、長年築き上げてきた合理性の分厚い壁が、音もなく静かに崩れ落ち、これまで経験したことのない種類の、温かくも、ひどく切ない感情の波が、どうしようもなく押し寄せてきているのを感じていた。

 

「…………ベレス……」

 

彼は、ただ彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。言葉を失い、彼女の言葉の重みを、その想いの深さを、全身で受け止めていた。彼の心臓が、早鐘のように打っているのが自分でも分かった。

 

しばらくの、重く、そして濃密な沈黙の後、カシアンはようやく、何とか言葉を紡ぎ出した。激しい動揺ではなく、深い感慨と、未来へのどうしようもない不確かさを滲ませながら。

「……貴女の、その気持ちは……痛いほど、分かりました。ありがとう、ベレス。その言葉は…私にとっても大きい…」

彼は言葉を選んだ。

 

彼は努めて穏やかな声で続けた。

「ですが……やはりまだ選択は迫られていません。私たちが共にいられる道が、この先にあるのかどうか…今はまだ分からない。だから……」

 

彼は、ベレスの瞳を見つめ、真摯に頼んだ。

「だから、もう少しだけ…時間をいただけませんか? 私が貴女のその温かい想いに、どう向き合うべきなのか…そして、私自身の進むべき道を、改めて見つめ直すための時間を。それまで…待っていては、くれませんか?」

 

それは、もはや単なる時間稼ぎではなかった。彼女の想いに真剣に向き合いたいという、彼なりの誠実さの表れだった。

 

ベレスは、カシアンの言葉に、そしてその瞳に宿る真摯な響きに、静かに頷いた。

「……分かった。待ってる」

その声は穏やかだった。そして、彼女の口元に、ほんのわずかに、寂しさと、しかし確かな希望の色を宿したような、美しい微笑みが浮かんだ。

 

二人の間に流れる空気は、静かで、切なく、しかし以前とは比べ物にならないほど深い感情で満たされていた。ベレスの穏やかながらも強い想いと、それに心を根底から揺さぶられたカシアン。彼らの未来は依然として不透明なままだが、この夜の出来事が、二人の関係にとって、そしてそれぞれの運命にとって、決定的な意味を持つであろうことは、疑いようもなかった。

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