道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1月 レア

ガルグ=マク大修道院の心臓部、大司教レアの執務室は、いつもと変わらぬ静謐さに包まれていた。だが、その空気は張り詰め、微かな緊張感を帯びている。窓から差し込む月光が、机に置かれた羊皮紙の報告書を白く照らし出していた。そこには、先の「封じられた森」における戦闘の終結を告げる、簡潔な文字が並んでいた。

 

「……ソロン、そしてクロニエを排除。あの者たちの主要な駒が、また一つ消えたということですか」

 

レアは独りごちると、指先で報告書を静かになぞった。その表情は穏やかであったが、瞳の奥には底知れぬ光が揺らめいている。彼女は傍らに控える騎士に短く命じた。

 

「カシアンをここに。……いえ、私が彼の研究室へ参りましょう。直接伝えねばなりませんから」

 

その言葉に騎士は一瞬訝しげな表情を浮かべたが、すぐに「はっ」と恭しく頭を下げ、退出した。

 

カシアンの研究室は、相変わらず雑然としていた。書物が山と積まれ、用途不明の機械部品や薬品の瓶が所狭しと並んでいる。彼は机に向かい、レアから依頼された調査資料を書き連ねていた。その集中は凄まじく、背後にレアが音もなく入室したことにも気づかない様子だった。

 

「……ご苦労様でした、カシアン。あなたの教え子たちが、見事な戦果を挙げたと報告がありましたよ」

 

レアの静かな声に、カシアンはびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。その顔には、珍しく計算以外の感情――驚きと、そして一瞬よぎった安堵の色があった。

 

「レア様……わざわざご足労いただくとは。」

カシアンは立ち上がり、軽く頭を下げた。その声はいつも通り抑揚に乏しいが、どこか張り詰めたものが緩んだような響きがあった。特にベレスの名がレアの口から直接語られずとも、彼女の無事を確認できたことに、彼の胸の奥深くで微かな温かいものが広がったのを自覚していた。

 

「ええ。ソロンとクロニエ……彼らを排除できたのは大きい。これでまた一つ、フォドラの平穏が近づきました。あなたの指導の賜物でしょう」

レアは穏やかな微笑みを浮かべてカシアンに歩み寄る。その言葉は労いの響きを含んでいたが、カシアンは彼女の瞳の奥に潜む、温度のない光を見逃した。

 

「私の力など微々たるもの。ひとえに戦った者たちの勇気と能力の成果です。特に…ベレスは、目覚ましい成長を見せている」

カシアンは、感情の機微を悟られまいと努めて冷静に返したが、ベレスの名を口にする際、ほんの僅かに声の調子が変わった。

 

レアはカシアンの数歩手前で立ち止まると、その穏やかな表情をふっと消した。次の瞬間、彼女の右手が閃光のように動き、カシアンの鳩尾に重い一撃を叩き込んだ。

 

「ぐっ……!!」

 

予測不能の一撃に、カシアンは呻き声を上げ、反射的に身を屈めた。内臓を直接握りつぶされたかのような激痛が走り、呼吸が一瞬止まる。胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるのを必死でこらえながら、彼は驚愕と混乱に染まった目でレアを見上げた。何が起こったのか、理解が追いつかない。

 

「な……ぜ……」

 

絞り出すような声に、レアは冷え切った視線を返す。その瞳には、先ほどまでの穏やかさは一片もなく、まるで価値のなくなった道具を見るような無慈悲な光だけが宿っていた。

 

「敵が減ったのですよ、カシアン」

レアは静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を込めて言い放った。

「ソロンとクロニエが消え、脅威は一つ去った。そして…あなたの知識と能力は、時に有用でしたが、同時にあまりにも教会には危険すぎる。そしてあなたはアビスや帝国と繋がっている。あなたが一人の機会を逃すわけにはいきません。」

 

カシアンは激痛に耐えながら、壁に手をつき、かろうじて立っていた。レアの言葉が、彼の混乱した頭の中で反響する。

 

「あなたは知りすぎた。教会の…そしてこのフォドラの根幹に関わる秘密を。この教会の禁忌を探っていたのも知っています。その探究心と頭脳は、いずれセイロス聖教会の秩序を乱す、お母さまの復活を阻害する要因となりかねない」

レアはゆっくりとカシアンに近づき、その顔を覗き込むように言った。

「これまでは、あなたの能力を利用する価値があった。ですが敵の概要ややり口も見え、もはやその必要もない。むしろあなたの存在そのものがリスクです。」

 

「……そう、あなたはセイロス教会にとって最悪の異物、不要です。」

 

その言葉は、氷のように冷たくカシアンの心に突き刺さった。利用価値。不要。その言葉が、彼の脳裏で幼少期の記憶と重なる。紛争で家族を失い、逃げ込んだ村や教会から追い返されたあの時の絶望感。そしてそれを乗り越えるために培ってきた合理主義。だが、今の彼の中には、それだけではない感情が渦巻いていた。ベレスの言葉によって芽生えかけた、人間的な感情が、この理不尽な仕打ちに対する純粋な怒りとなって燃え上がった。

 

「……っ、この…ババアが……ッ!」

カシアンは、苦痛に歪む顔で、憎悪を込めてレアを睨みつけた。普段の彼からは想像もつかない、剥き出しの悪態だった。それは計算されたものではなく、心の底からの叫びだった。

 

レアは眉一つ動かさず、その言葉を聞き流した。

「口汚いですね。ですが、それも最早どうでもよいことです」

彼女は扉の外に控えていた兵士たちに鋭く命じた。

「この者を捕らえなさい。地下の牢獄へ」

 

数人の屈強な兵士が研究室になだれ込み、抵抗する間もなくカシアンの両腕を掴み、力ずくで押さえつけた。激痛と屈辱に、カシアンの顔が歪む。

 

「レアッ!貴様、必ず……!」

 

「未来永劫、そのような機会は訪れませんよ」

レアは冷ややかに言い放つと、兵士たちに最終的な指示を与えた。

「食事も水も与える必要はありません。餓死するまで、己の無力さと知りすぎた愚かさを、存分に味わいながら苦しみなさい」

 

その言葉は、カシアンにとって死刑宣告に等しかった。教会のものたちはカシアンを荒々しく引きずり、研究室から連れ出していく。彼の足が床を引きずる音が、がらんとした部屋に虚しく響いた。

 

連行される道すがら、カシアンの脳裏には様々な思いが交錯した。レアへの燃えるような怒り、自らの甘さへの嘲り、そして何よりも…ベレスの顔が浮かんだ。「あなたと、一緒にいたい」――あの言葉が、今や遠い昔の出来事のように感じられる。彼女の温もりを思い出すと、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 

やがて、カシアンは薄暗く湿った地下牢の一室に投げ込まれた。重い鉄格子が閉まる音が、彼の絶望を決定づけるかのように響き渡る。冷たい石の床に打ち付けられた体の痛みよりも、心の奥底で感じる虚無感の方が強かった。

 

(……餓死、か。随分と古典的な手を。だが、そう簡単に終わると思うなよ、レア……)

 

 

 

 

冷たい石の床が、カシアンの体温を容赦なく奪っていく。どれほどの時間が経過したのか、あまり日の光も届かぬ地下牢では正確には分からない。ただ空腹と喉の渇きが、意識を朦朧とさせ始めていた。

 

(独房か…好都合ではあるが、厄介でもあるな)

 

カシアンは壁に背を預けたまま、荒い息を整えようと努めた。レアの不意打ちによる鳩尾の痛みは未だ鈍く残り、体を動かすたびに呻きが漏れそうになる。しかし、彼の思考は驚くほど冷静だった。

 

ふと、天井の一点から、ぽつり、ぽつりと規則的な水音が聞こえてくるのに気づいた。目を凝らすと、岩盤の僅かな亀裂から水滴が染み出し、床の一箇所に小さな水たまりを作っている。

 

(水…か。これがあれば、何も飲まず食わずよりは遥かに長く持つ。計算上、もって一週間といったところか)

 

絶望的な状況下での僅かな希望。だが、カシアンはそれに安堵するよりも先に、次の一手を思考する。靴に手を伸ばし、指先で硬質な筒の感触を確かめた。それは、アビスのリーダーであるユーリスと共に考案し、万が一のために常に身につけていた小型の発煙筒だった。アビスの者たちだけが知る特殊な色の煙を出す、緊急連絡用の切り札だ。

 

(レアの監視の目もあるだろう。使うタイミングは慎重に選ばねばなるまい。…捕らえられてから、おそらく丸一日は経過しているはずだ。連中が本腰を入れて捜索を開始し、かつ油断が生じ始める頃合い…そうだな、あと二日ほど経った夜。それが最善か)

 

カシアンは、迫りくる衰弱と戦いながら、冷静に状況を分析し、反撃の機会を窺っていた。彼の瞳には、まだ諦観の色はなかった。

 

 

 

カシアンが忽然と姿を消してから三日が経過した。ガルグ=マク大修道院の表向きは平静を装っていたが、水面下では彼を慕う者たちによる必死の捜索が続けられていた。

 

「カシアン先生の姿を見た者はいないか!どんな些細な情報でもいい!」

 

ユーリスはアビスの住人たちを総動員し、大修道院の隅々から近隣の村々に至るまで、カシアンの足取りを追っていた。しかし、有力な手がかりは一向に得られず、彼の顔には焦りの色が濃くなっていた。カシアンの能力と用心深さを考えれば、彼がそう易々と何も残さずに姿を消すとは考えにくかった。

 

ベレスやイングリットは学級の生徒たちにも協力を仰ぎ、ガルグ=マクの敷地内はもちろん、教師や騎士、果ては商人たちにまで聞き込みを行った。他の者たちも協力するものはいたが、カシアンの行方は杳として知れなかった。

 

「…やはり、闇に蠢くものに拉致されたと考えるのが自然だろう」

捜索開始から三日目の夜、誰ともなしにそんな話が蔓延し、誰もが諦め始めていた。ベレスもその場にいたが、何も言わず、ただ唇を固く噛み締めていた。カシアンほどの男が、自らの意思で何の痕跡も残さず消えるとは考えにくい。だとしたら、敵対する誰かの手によって――。

 

 

 

 

カシアンが捕らえられてから、五日目の夜。

アビスの隠れ家の一つで、窓の外に見張りを立てながら、仲間たちと今後の捜索方針を話し合っていた。捜査範囲を広めるべきか、選ぶべきか。その時、彼の視界の端に、夜空を背景にして細く立ち上る、見慣れぬ色の煙が映った。

 

「……あの色は……まさか!」

 

ユーリスは思わず叫び、窓に駆け寄った。暗闇の中でも識別できる、特殊な染料を使った、カシアンとの間で取り決めた緊急連絡用の狼煙。それは間違いなく、彼からの合図だった。煙は、大修道院の地下牢がある方角から上がっているように見えた。

 

「おい、お前たち!カシアン先生だ!急げ!」

 

ユーリスは数人の手練れの仲間に声をかけ、隠れ家を飛び出した。逸る心を抑え、彼らは音もなく煙の立ち上る方角へと疾走する。

 

煙の元にたどり着くと、そこは古びた地下牢へと続く入口の一つで、屈強な兵士が二人、槍を手に厳しい表情で警備にあたっていた。だが、アビスの影に生きるユーリスにとって、そのような見張りは障害にすらならない。彼は仲間に目配せすると、一瞬にして兵士たちの背後に回り込み、音もなくその意識を刈り取った。

 

重い鉄の扉をこじ開け、ユーリスは薄暗い地下牢へと足を踏み入れる。黴と汚物の臭いが鼻をつく。そして、一番奥の独房。鉄格子の向こうに、ぐったりと横たわる人影が見えた。

 

「カシアン先生!」

 

ユーリスは鉄格子を力任せに引き開け、駆け寄った。カシアンは痩せこけ、顔は蒼白で、唇は乾ききっている。それでも、ユーリスの声に反応し、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳には、まだ理性の光が宿っていた。

 

「……ふっ……遅いですよ、ユーリス……」

カシアンは掠れた声で、しかしどこか皮肉めいた口調で言った。

 

「一体、誰にこんなことを…!」

ユーリスが怒りに声を震わせながら問うと、カシアンは苦しげに息を吸い込み、吐き出すように答えた。

 

「……レア…に、やられました……。あの女狐…め……」

 

「レア様が…!?」

ユーリスは絶句した。大司教自らが、カシアンほどの教師を、こんな非道なやり方で葬り去ろうとするとは。

 

「…今は、ここにはいられません……。西の…拠点へ……連れて帰って…ください……」

カシアンは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「そして……逃走を隠蔽するため…この建物で…盛大に火事を……起こして……ください。証拠は…灰に……」

 

「…!分かった。センセの指示通りに」

ユーリスは即座にカシアンの意図を理解した。これは単なる逃走ではなく、レアへの反撃の狼煙でもある。彼は傍らの仲間に鋭く指示を飛ばした。

 

「カシアン先生を頼む!慎重に、だが迅速に西の拠点へ!残りの者は、俺と火の準備だ!」

 

仲間の一人がカシアンを慎重に背負い、他の者たちが周囲を警戒しながら、一行は闇に紛れて地下牢を後にした。ユーリスは最後に一度だけ、憎悪を込めて大修道院の方角を振り返ると、松明を手に取り、乾いた木材が積まれた場所に静かに火を放った。

 

炎は瞬く間に燃え広がり、古びた地下牢の建物を紅蓮の舌で舐め尽くし始めた。遠くから見れば、それはまるで巨大な篝火のように、夜空を赤々と染め上げていた。

 

アビスの者たちはその炎を背に闇の中へと消えていった。カシアンの意識は朦朧とし始めていたが、その唇には微かな笑みが浮かんでいた。

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