アビスの西の拠点の一室。薄暗い部屋には薬草の匂いが微かに漂っていた。カシアンは簡素な寝台に横たわり、腹部には真新しい包帯が痛々しく巻かれている。顔色は依然として青白く、数日間の絶食とレアの一撃が彼の体力を著しく奪ったことを物語っていた。しかし、その瞳には僅かながらも力が戻りつつあった。
傍らには、ユーリスが静かに控えている。彼が持ってきた水と、消化の良い粥を少量口にしたカシアンは、ゆっくりと息をつくと、掠れた声で尋ねた。
「……ガルグ=マクの様子は…どうだ?何か情報は入っているか」
ユーリスは頷き、慎重に言葉を選びながら報告を始めた。
「ああ、潜入させている連中から幾つか。まず一つ目だが…あんたの行方不明の件だ。表向きは『ソロンら残党による拉致、もしくは殺害』として処理されているようだ。騎士団の一部は、今も先生の捜索を続けているらしいがな」
カシアンはそれを聞くと、鼻でフンと笑った。
「ケッ…よく言えたもんだ。自分たちで拉致監禁しておいて、それをあの勢力のせいにするとはな。あの女狐…どこまでも食えん奴だ」
その声には、隠しきれない怒りと侮蔑が滲んでいた。
ユーリスは構わず続けた。
「二つ目。これは奇妙な話なんだが…ベレス先生の髪の色が、鮮やかな明るい緑色に変わったそうだ。まるで…そう、女神ソティスを彷彿とさせるような色だと」
その言葉に、カシアンの眉がピクリと動いた。彼の脳裏に、感情豊かとは言えないが、真っ直ぐな瞳で自分を見つめていたベレスの姿が浮かぶ。髪色の変化――それが何を意味するのか、彼の戦術眼が危険な可能性を弾き出そうとする。
「ユーリス、続けてくれ」カシアンは促した。
「ああ。それと同時に、近々、大修道院で何か大きな儀式か、あるいは何かがあるという噂が流れている。詳細は不明だが、厳戒態勢が敷かれ始めているらしい」
「…儀式…行い…」カシアンは呟き、思案に沈む。
「そして三つ目だ。アドラステア帝国の皇女、エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。彼女の姿が、ここ数日、大修道院内から完全に消えているそうだ。病気というわけでもなく、何の告知もないまま…忽然と」
エーデルガルトの不在。これもまた、彼の計算に新たな変数を加える情報だった。
カシアンは数秒黙考した後、一番気にかかる点を口にした。
「…ベレスの状態は…分かるか? 髪の色が変わったことと、儀式に彼女が関わるかどうか」
ユーリスはわずかに首を横に振った。
「動いている姿は目撃されている。だが、常にセイロス騎士団の兵士が数名、護衛なのか監視なのか…ぴったりと張り付いているらしくてな。俺の手の者も、迂闊には近づけない状況だ。詳しい様子までは…」
カシアンは眉間の皺を深くする。レアがベレスを隔離し、何かを強いている可能性が高い。そして、その傍にいるはずの男の行方も気になった。
「…ジェラルト殿は? 彼の姿は確認されているのか」
「ジェラルト殿も、エーデルガルト皇女と同じく、数日前から姿が見えない。騎士団の一部では、極秘の任務でどこか遠方に赴いている、という話もあるが…真偽は定かじゃない」
ジェラルトまで不在。レアの周到な手配に、カシアンは舌打ちしたい気分を抑えた。
「うーん……レアの奴、一体何を企んでいるんだ…? ベレスの髪色の変化、エーデルガルトとジェラルト殿の不在、そして謎の『行い』…。これらが全て繋がっていると見るべきか…」
彼は思考を巡らせようとしたが、急激な疲労感が全身を襲い、ずきりと腹の傷が痛んだ。まだ本調子には程遠い。
「…すまない、ユーリス。少し…頭が回らん。まだ回復には時間がかかりそうだ」
カシアンは苦笑し、ゆっくりと目を閉じた。
「今からまた寝る。何か…本当に些細なことでも動きがあったら、すぐに起こしてくれ。頼んだぞ」
「ああ、分かってる。あんたはゆっくり休め。ここは安全だ」
ユーリスは力強く頷くと、カシアンが再び眠りにつくのを見届けた。静かな寝息が聞こえ始めると、彼はそっと部屋を後にする。
(ベレスの髪の色…。レア様が何を考えているにせよ、碌なことじゃないのは確かだな。先生が回復するまで、何としても情報を集め続けねば…)
ユーリスはアビスの薄暗い通路を歩きながら、決意を新たにする。フォドラを覆う不穏な空気は、確実に濃度を増していた。
アドラステア帝国の帝都アンヴァル。その一室で、エーデルガルト=フォン=フレスベルグは、窓の外に広がる帝都の景色を背に、腕を組んで立っていた。彼女の傍らには、常に影のように寄り添う腹心、ヒューベルト=フォン=ベストラが控え、静かに主君の言葉を待っている。部屋の空気は張り詰め、来るべき大きな変革の前の、嵐の前の静けさを孕んでいた。
やがて、エーデルガルトはゆっくりと振り返り、その紫水晶の瞳でヒューベルトを真っ直ぐに見据えた。
「ヒューベルト。例の件…ガルグ=マクの特別教師、カシアンの失踪について、叔父上――アランデル公は本当に何も関知していないのね?」
その声は静かだったが、疑念の色が隠しきれずに滲んでいた。カシアンという男は、その特異な思想と能力から、帝国にとって無視できない存在だった。教会への不信感は帝国と共通しており、上手く取り込めれば大きな戦力になる可能性も秘めていた。
ヒューベルトは恭しく頭を下げ、淀みなく答えた。
「はっ。改めて確認いたしましたが、アランデル公本人は『全く関知していない』との一点張りでございます。以前のカシアン暗殺未遂の件も伺いましたがソロンの義憤?にかられた暴走との事。あの御方の言葉、鵜呑みにできるものではございませんが」
ヒューベルトの声には、主君と同様の、アランデル公――否、その背後にいる「闇に蠢く者」への深い不信が込められていた。
「彼の言い分では、カシアンという男は確かに興味深い存在ではあったが、現時点では帝国の計画に不利益な影響を及ぼす駒ではない、と。むしろ、その思想は帝国に寄りつつあったため、ここで彼を消すことは帝国にとってメリットが乏しく、各国に戦争を仕掛ける帝国が彼を消すのは、いささか不自然な一手である、とも付け加えておりました」
エーデルガルトは小さく息をついた。アランデルやヒューベルトの分析は的確だ。あの叔父が、自らの利益にならないことで、しかもこのような重要な時期に、不必要な波風を立てるとも考えにくい。だが疑念は完全には晴れない。
「では、叔父上の仕業でないとすれば、他に考えられる線は?」
「可能性としては三つ。一つは、ファーガス神聖王国による暗殺。彼の戦術や知識は脅威ですが、彼の経歴を知れば王国の敵になる可能性が高いと考えます。二つ目は、最も可能性が高いと思われますが、セイロス聖教会です。彼の教会に対する不信と探究心は、レアにとって看過できない領域に踏み込んでいたのかもしれません。教会の秘密主義を考えれば、邪魔者を『粛清』することは、彼らにとって造作もないこと」
ヒューベルトの言葉に、エーデルガルトは眉をひそめた。教会による粛清――それならば、カシアンの消息が完全に途絶えたことにも説明がつく。
「そして三つ目は、単なる偶然。…例えば、外出中に物盗りや盗賊の類に襲われ、命を落としたという可能性も、皆無ではございません。彼自身は戦闘能力に乏しいと聞き及んでおりますゆえ」
エーデルガルトは再び窓の外へ視線を移した。アンヴァルの街並みの向こう、遥か東にはガルグ=マク大修道院が聳え立っている。
「…そう。いずれにせよ、彼がこのタイミングで舞台から姿を消したことは、我々にとって計算外の出来事ではあるわね」
彼女の声には、僅かな苛立ちと、そして才能ある者を失ったことへの微かな惜別の念が混じっていた。
「私たちが、あのガルグ=マクに…いえ、セイロス聖教会に牙を剥こうとしている、この寸前に、このような事件が起きるとは。何かの…警告だとでもいうのかしら」
しかし彼女の瞳に迷いはなかった。むしろその光はより強く、決意に満ちて燃え上がっているかのようだった。
「ですが、ヒューベルト、どのような不測の事態が起ころうとも、私たちの歩みを止めることはできません。帝国が…フォドラが新たな時代を迎えるためには、もう後戻りは許されない。」
エーデルガルトはきっぱりとした口調で言った。
彼女は拳を強く握りしめた。
「私たちはもう止まれない。進むしかないのよ。フォドラの未来のために」
その言葉は、部屋の静寂に重く響き渡った。ヒューベルトは深く頭を垂れ、主君の揺るぎない覚悟を改めて胸に刻む。窓の外では、厚い雲が空を覆い始め、やがて来るであろう激動の時代を予感させていた。
ガルグ=マク大修道院、大司教レアの執務室。窓から差し込む陽光は、床に置かれた焼け焦げた木片――先日発生した地下牢の火災現場から回収された残骸――を虚しく照らしていた。レアはその前に静かに佇み、傍らに控える騎士からの報告に耳を傾けていた。
「…以上が、現場の状況でございます。火の回りが予想以上に速く、建物は半壊。内部におりました罪人のものと思われる遺体も発見されましたが…」
騎士は言葉を区切り、わずかに顔を曇らせた。
「損傷が激しく、個人の特定には至っておりません。また、あれほどの大火となった原因も、現在のところ不明でございます」
レアは表情一つ変えずに頷いた。
「…そう。つまり、中で死んでいたのが、あのカシアンであったかどうかは、分からない、ということですね」
「はっ…誠に申し訳ございません」
騎士が恐縮して頭を垂れると、レアは静かに手を振った。
「いえ、あなたの責任ではありません。分かりました、下がりなさい」
騎士が退出すると、執務室には再び静寂が戻った。レアはゆっくりと窓辺に歩み寄り、眼下に広がる大修道院の景色を見下ろした。
「カシアンの死を、この目で確かめられなかったのは…少々困りましたね」
独りごちるように呟いたその声には、微かな苛立ちが滲んでいた。あの男の知識と、教会に対する不信感は、放置するにはあまりにも危険だ。
しかしレアはまずは目の前に迫った悲願をから目が逸らせない。それは目前に迫った計画への確信と、女神への揺るぎない信仰から来るものだった。
「ですが…あと少し。あの者に余計な手出しをされなければ、あと少しで、ベレスが聖墓にてお母さまの啓示を授かるはずなのです」
彼女の胸には、ベレスという存在への大きな期待があった。あの不思議な少女は、女神の器となり、フォドラを覆う闇を払い、人々を正しき道へと導く存在となる――レアはそう信じて疑わなかった。
「そうなれば、ベレスもきっと、その力をフォドラの民を救い、導くために、正しく使ってくれることでしょう。お母さまがそうであったように…」
レアはしばし瞑目し、祈りを捧げるかのように静止していたが、やがて目を開くと、再び鋭い眼光を取り戻した。彼女は卓上の鐘を鳴らし、先程とは別の、屈強な騎士を呼び寄せた。
「大修道院内、および周辺の警戒を一層強化なさい。」
騎士は息を呑み、レアの次の言葉を待った。
「カシアンがもし生きているのなら…先のモニカのように、何者かがなりすましている可能性が高い。何より彼の知識は、闇に蠢く者たちにとっても利用価値があります。」
レアの声は、氷のように冷たかった。
「万が一、カシアン、あるいはそれに類する不審な者を発見した場合は、躊躇う必要はありません。すぐに私の元へ連れてきなさい。抵抗するようなら…即刻、殺しても構いません」
その言葉は、大司教という聖職者のものとは思えぬほど、非情な響きを帯びていた。
「よろしいですね?」
「…はっ!承知いたしました!」
騎士は力強く応え、一礼すると足早に退出していった。
再び一人になったレアは、祭壇に飾られたセイロス聖教の象徴を静かに見つめた。絶対的な忠誠を持つセイロス騎士団員に、門番や監視の仕事を任せ現れ次第、自身の力も使って処理する。
また念のためにカシアンが教会内にて不信な動きがあったと証拠を捏造する必要もある。彼女の表情は穏やかに戻っていたが、その瞳の奥には、目的のためには如何なる犠牲も厭わない、鋼のような意志が燃え続けていた。
フォドラの安寧と、女神の再臨。それこそが、彼女の長年の悲願であり、揺るがぬ正義なのだから。