アビスの西の拠点。あの日、炎と煙に紛れて運び込まれたカシアンは、数日間のアビス流の看護と、薬草の知識に長けたアビスの住人の治療により、ようやく床から起き上がれるまでに回復していた。
「…ふむ、久々にまともな固形物だ。」
カシアンは、アビスの住人が差し出した黒パンと干し肉の皿を前に、いつもの調子で軽口を叩いた。顔色はまだ完全とは言えないが、その声には力が戻りつつある。腹の傷も、時折鈍痛を訴えるものの、日常生活には支障がない程度には癒えていた。
ユーリスは呆れたように肩をすくめる。
「本当に大丈夫なのか? 無理は禁物だぜ」
「問題ない。レアの一撃は深かったが、そんなことも言ってられない。それよりも…」
カシアンが何かを言いかけたその時、部屋の外がにわかに騒がしくなり、血相を変えた斥候の男が転がり込んできた。
「大変だ!ユーリスさん、カシアン先生!南から…南から帝国軍の大軍が!!」
息を切らしながら叫ぶ斥候の言葉に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
カシアンは、先ほどまでの軽口が嘘のように鋭い眼光を放ち、冷静に問い返した。
「落ち着け。詳細を報告しろ。規模、装備、そして最も重要なのは進軍方向だ」
斥候はごくりと唾を飲み込み、必死に言葉を繋いだ。
「は、はい!規模は…街道を埋め尽くすほどです。装備も重装で、攻城兵器らしきものも確認できました。先遣隊と思われる部隊は、既に街道を北上しており…その進路から察するに、ガルグ=マク大修道院、もしくはその先のファーガス神聖王国領を目指しているものと思われます!」
ガルグ=マク、あるいは王国。その言葉に、カシアンの脳裏にはベレスの姿と、レアの企みがよぎる。そして、エーデルガルトが不在であるという情報も。全てのピースが、一つの大きな絵を形作ろうとしていた。
カシアンは即座に立ち上がった。まだ本調子ではない体がわずかに軋むが、構うものか。
「総員に告げろ!直ちに進軍準備!ありったけの武器と、数日分の食料を携帯し、いつでも動けるようにしろ!」
その声は、アビスの薄暗い拠点に力強く響き渡った。
傍らで報告を聞いていたが、驚いたようにカシアンを見た。
「おいおい、進軍って…どこへ行くつもりだ? まさか、帝国軍に真正面から挑むなんて無謀なことは考えてないだろうな」
カシアンは不敵な笑みを浮かべた。
「目的地か? 知らないな」
「はあ!? 知らないって、あんた…」
呆気に取られるユーリスを尻目に、カシアンは言葉を続ける。
「だが、心配はいらない。我々はただ、彼らの後ろを付いていけばいいだけだ。彼らが道を切り拓き、我々はその恩恵に与る」
そう言うと、カシアンは拠点の一角にある、頑丈そうな倉庫の扉へと歩み寄った。鍵を開け、重々しい音を立てて扉を開け放つ。
「この土地は、表向きは帝国貴族から『正式に借り受けた』ことになっている。少々特殊な契約でな。その対価として、様々な『便宜』が図られてきた」
カシアンは倉庫の中を指し示す。そこには、整然と並べられたアドラステア帝国の兵士の軍服、鎧、槍や剣、そして紋章が描かれた盾までが一式、大量に保管されていた。
「当然、有事の際には帝国軍として『協力』することが期待されている。そのための装備一式も、こうして『貸与』されているというわけだ」
カシアンは、まるで手品でも披露するかのように言い放った。ユーリスと、集まってきたアビスの住人たちは、目の前の光景と言葉の意味を理解するのに数秒を要し、そして息を呑んだ。
「我々は帝国兵として、彼らの進軍に紛れ込む。これほど好都合な状況もそうあるまい」
カシアンは倉庫から帝国軍の外套を一つ手に取ると、満足げにそれを眺めた。彼の瞳の奥には、既に次なる一手、そのまた次の一手までの計算が始まっているかのようだった。
アドラステア帝国の軍服と武具は、アビスの住人たちにとって慣れない重さだったが、カシアンの有無を言わせぬ指示と、その瞳に宿る奇妙な確信に引かれるように、彼らは黙々と装備を整えた。黒い外套に身を包んだカシアンは、まるで長年その軍服を着慣れた将校のような雰囲気を醸し出していた。
準備を終えた一行は、カシアンの言葉通り、北上する帝国軍の後方へと慎重に接近した。街道を進む帝国兵の隊列は壮観で、その数と統制の取れた動きは、フォドラ全土を揺るがすであろう戦いの始まりを予感させた。
「止まれ!何者だ!」
最後尾に近い部隊の警戒兵に呼び止められたが、カシアンは臆することなく馬を進めた。
「我らは、この先の伯爵領より、急遽馳せ参じた。本隊への合流を許可願いたい」
カシアンが事前に用意していたであろう偽の身分を示す羊皮紙を差し出すと、警戒兵は訝しげにそれを受け取ったが、そこに押された紋章と署名に目を通すと、上官らしき男に報告に走った。やがて戻ってきた上官は、多少の不審を滲ませながらも、カシアンたちの合流を許可した。おそらく、後方部隊であることと、急がねばならないという現実が、彼らの判断を鈍らせたのだろう。
「我々は第二軍に所属し、本隊の後詰めと補給線の確保が主な任務だ。貴殿らには、我々の指揮下に入ってもらう」
合流した部隊の隊長らしき男は、ぶっきらぼうにそう告げた。カシアンは恭しく頷きながらも、巧みに情報を引き出す。
「して、本隊の進捗はいかがですかな? 我々も一刻も早くお役に立ちたいと考えております」
「ふん、威勢だけはいいようだな。第一軍は、既にガルグ=マクの喉元に迫っている頃だろう。我々の本当の役目は、奴らが中枢を叩いた後、速やかに撤退するための殿(しんがり)よ」
(やはり、狙いはガルグ=マク中枢。そして、撤退戦を想定しているということは、短期決戦、もしくは何らかの目標達成後の離脱を意図しているか…)
カシアンは内心で分析しながら、アビスの者たちに目配せで注意を促す。
やがて、巨大なガルグ=マク大修道院の威容が目前に迫ってきた。帝国軍は、表門からの強行突破を避け、事前に手配されていたのであろう、大修道院の古い地下水路へと続く、秘密の侵入口へと進路を変えた。薄暗く湿った通路を進むと、やがて遠くから剣戟の音や怒号が響き始めた。
「始まったか…」ユーリスが緊張した面持ちで呟く。
帝国兵たちは雄叫びを上げ、セイロス騎士団の兵士たちが守る通路へと突撃していく。戦闘の混乱が、大修道院の地下に急速に広がっていった。
カシアンは、その戦闘には加わらず、壁際に身を寄せながら冷静に戦況を観察していた。彼の視線は、帝国兵の突撃方向や、教会兵が重点的に守りを固めている場所を捉え、脳内の地図と照合していく。
「…ユーリス、聞こえるか。教会兵の防衛ライン…あれは、特定の場所を守るための配置だ。そして、帝国軍のあの隊の動きは、そこへ向かうための陽動と見て間違いない」
カシアンは、人知れず懐から取り出した、以前ガルグ=マクの書庫から「拝借」した古い図面を指差した。
「逆算すれば、彼らが真に守りたいもの、そして帝国軍が真に狙うものは一つに絞られる。…聖墓だ」
その言葉に、アビスの者たちは息を呑んだ。レアの執着、そしてベレスにまつわる不穏な噂。全てがその場所へと繋がっている。
「我々は、この騒ぎに乗じて聖墓へ直行する。帝国軍の連中には、思う存分暴れてもらうとしよう」
カシアンはそう言うと、帝国兵と教会兵が激しく衝突している主戦場を避け、比較的守りの薄い横道へとアビスの者たちを導いた。時折、行く手を阻む教会兵や、味方のはずの帝国兵が訝しげにカシアンたちを見咎めようとしたが、アビスの者たちの連携と、カシアンの的確な指示による奇襲で、最小限の戦闘でこれを排除、あるいは強引に突破していく。
「どけ!我々は皇帝陛下の特命を帯びている!」
カシアンは時に帝国軍の虎の威を借り、時にアビスの者たちの影働きで障害を取り除きながら、最短ルートで聖墓へと続く深部へと進んでいく。
そして、幾つかの小戦闘と、迷路のような地下通路を抜けた先――ついに彼らは、荘厳な雰囲気を漂わせる巨大な石扉の前にたどり着いた。そこが、フォドラの最も神聖な場所の一つ、聖墓の入り口であることは疑いようもなかった。扉の前には、精鋭と思われるセイロス騎士が数名、そして何らかの魔力による結界らしきものが淡い光を放っているのが見えた。
カシアンは、荒い息を整えながら、その扉を睨み据えた。彼の旅の、そしてフォドラの歴史の、大きな転換点が、この扉の向こうに待ち受けている。
聖墓の奥深く。そこは、フォドラの歴史の深淵を覗き込むかのような、荘厳かつ異様な空気に満たされていた。先程まで響いていたであろう剣戟の音は止み、今はただ重苦しい沈黙が支配している。床にはセイロス騎士団の者たちと、そして数少ない帝国兵の亡骸が転がり、熾烈な戦闘があったことを物語っていた。
その中央で、銀色の鎧に身を包んだアドラステア皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグは、消耗しつつもその双眸に揺るがぬ意志を宿し、大司教レアと、そしてその傍らに立つベレスと対峙していた。
「エーデルガルト…!フォドラに戦禍を招く、忌むべき災厄の子!主は、このフォドラの地で、あなたのような叛徒が生き続けることを決して、決して許しはしません!」
レアの鋭い声が、聖墓の石壁に反響する。その表情は怒りに歪み、エーデルガルトを射殺さんばかりの憎悪を向けていた。
ベレスはその二人の間に立ち、静かに揺れていた。一方にはフォドラの歪みを正そうとするかつての教え子。もう一方には女神の代行者として、長年フォドラを導いてきた大司教。どちらが正義で、どちらが悪なのか。彼女の心は千々に乱れ、天から貸し与えられたという聖剣の重みが、今はただ肩に食い込むばかりだった。
やがてベレスは一つの決断を下したかのように、ゆっくりと聖剣を持つ手を下ろした。そして、一歩、また一歩と、エーデルガルトの方へと歩み寄った。その動きは、彼女が帝国側につくことを明確に示していた。
「ベレス…あなた…!」
レアの目が見開かれ、驚愕と裏切られたという激情がその顔を覆う。だが次の瞬間、その表情は凍りつくような冷静さを取り戻し、唇の端に微かな、しかし底知れぬ悪意を込めた笑みが浮かんだ。彼女の頭脳が、この土壇場で一つの悪辣な知恵を紡ぎ出したのだ。
「ベレス、待ちなさい」
レアの声は、先程までの激情が嘘のように落ち着き払っていた。彼女はゆっくりと続ける。その声は、まるで甘い毒のようにベレスの耳に染み込んだ。
「セイロス聖教会の秘奥には…古の女神の奇跡として、死した人間を蘇らせたという伝承が、存在します」
ベレスの足が、ぴたりと止まった。その言葉が何を意味するのか、彼女には痛いほど理解できた。
「先の騒動で…あなたの元教官、カシアンはいまだに発見できず、命を落とした可能性が高い。ですが…もし、万に一つの可能性があるとすれば、それは教会の秘奥をおいて他にないでしょう。それでもあなたは、彼を見捨てて、その女の道を選ぶというのですか?」
カシアンの名。その響きは、ベレスの胸の奥深くに突き刺さった。彼がレアの手によって命を奪われたかもしれないという恐怖。そして、万が一にも彼を救える可能性があるのなら――。彼女の決意は、脆くも揺らぎ始めた。
ベレスはゆっくりと天を仰いだ。その緑色の瞳には、深い苦悩と絶望の色が浮かんでいる。やがて彼女はか細い声で、誰に言うともなく呟いた。
「……すまない……」
そして踵を返し、再びレアの元へと戻ろうとした。エーデルガルトが何かを叫ぼうとしたが、その声はベレスの耳には届いていないようだった。
その刹那――。
聖墓の入り口方向から、一条の紫電が迸った。それは正確無比な軌道を描き、ベレスがレアの数歩近づいたまさにその瞬間、油断しきっていたレアの顔に叩き込まれた。
「ぐ…ああッ!?」
悲鳴とも苦悶ともつかぬ声を上げ、レアは前のめりに崩れ落ちる。聖墓内にいた誰もが、そのあまりにも突然の出来事に反応できなかった。
遅れて聖墓の入り口から、黒い帝国兵の外套を羽織ったカシアンが、数名のアビスの住人と共に姿を現した。彼の右手にはまだ魔力の残滓が揺らめいており、明らかに今の攻撃を放ったのは彼だった。
「…ふぅ、間に合った、か? どうやら、何やら込み入った話の最中だったようだが」
カシアンは、聖墓内の緊迫した空気や、レアが倒れている状況、そしてベレスとエーデルガルトの位置関係など、目の前の光景を一瞥し、冷静に状況を分析しようと努めながらも、ここに至るまでの会話の流れは全く知らない、といった体で呟いた。彼の表情には、いつものように感情の起伏は乏しいが、その瞳の奥には鋭い計算の光が宿っていた。
聖墓の静寂は、カシアンの唐突な登場によって破られた。エーデルガルトは警戒を解かずに事態を見守り、アビスの者たちはカシアンの背後で武器を構えている。そして、ベレスは――。
「カシアン……?」
信じられないものを見るかのように、ベレスの唇からその名がこぼれた。彼女はゆっくりと、確かめるように一歩、また一歩とカシアンに近づく。その瞳は大きく見開かれ、疑念と、そして微かな希望の色が揺らめいていた。
「……本当に……先生? カシアン……?」
声が震えている。無理もない。つい先ほどまで、彼の死をレアから告げられ、絶望の淵にいたのだから。
カシアンは、いつもと変わらぬ抑揚のない声で応えた。だが、その瞳の奥には、ベレスに向けられた確かな温もりがあった。
「ああ、本物だ。見ての通り、しぶとく生きている」
そう言って、彼は左腕をそっと上げた。手首には、簡素だが美しい銀色のブレスレットが巻かれている。それは、かつて教会での活躍の記念品で、揃いのものとしてレアから贈られ、お互いの名前が小さく刻まれたものだった。ベレスもまた、同じものを右腕につけている。
そのブレスレットを目にした瞬間、ベレスの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「カシアン……ッ!」
彼女はたまらずカシアンの胸に飛び込み、強く抱きしめた。その小さな体は震え、嗚咽が漏れる。カシアンは一瞬戸惑ったように両手を上げたが、やがてそっと彼女の背中に手を回し、優しく抱き返した。
「大丈夫ですよ、ベレス。そう簡単には死にません。あなたの先生ですからね」
カシアンの声は、不器用ながらも彼女を安心させようとする響きを持っていた。
「うん……うん……!」
ベレスは、彼の胸に顔を埋めたまま、何度も頷いた。その温もりと匂いが、彼が本当に生きていることを実感させ、安堵と喜びが全身を包み込んだ。かつて彼女が告げた「あなたと、一緒にいたい」という言葉が、今、この瞬間、現実のものとして彼の腕の中にあった。
その感動的な再会を、しかし、冷え切った憎悪の視線が見つめていた。
ゆっくりと、しかし確かな殺意を漲らせて、レアが身を起こした。カシアンの一撃は不意を突いたものの、彼女に深手を負わせるには至らなかったようだ。だがその顔は怒りで唇を噛み、血が滲んでいる。彼女の視線は、抱き合う二人、特にベレスに焼き付くように注がれていた。
「ベレス……あなたも……やはり『失敗』だったのですね……」
その声は、地の底から響くような、深い絶望と怒りに染まっていた。
「聖墓を穢し、我らが同胞を、そしてフォドラの民を欺き、辱めたあの者――エーデルガルトに、あなたは力を貸すと……。そのような裏切り者に、お母さまの聖なる力を行使させるわけには、断じていきません!」
レアの言葉は、聖墓の壁に不気味に反響する。彼女の瞳は常軌を逸した光を放ち始めていた。
「もはや、言葉は不要。せめて私の手で、あなたを裁きましょう。その女神の力を宿した心臓を、この手で抉り出し、浄化してくれる…!」
次の瞬間、レアの体から凄まじい量の魔力が迸った。金色の光が彼女を包み込み、その人としての輪郭が急速に歪み、膨張していく。骨がきしみ、肉が裂けるようなおぞましい音と共に、彼女の姿はみるみるうちに巨大な、純白の鱗に覆われた存在へと変貌を遂げていった。
天を衝くほどの二本の角、鋭い牙が並ぶ顎、そして全てを薙ぎ払うかのような巨大な翼と尾。それは、古の伝承に語られる「白きもの」――聖者セイロスが変身したとされる、伝説の竜の姿だった。
「グオオオオオオオオオオオッッ!!」
聖墓の空間を震わせる、圧倒的な咆哮。その威圧感は、カシアンやアビスの者たちはもちろん、歴戦の勇士であるはずのエーデルガルトでさえも、一瞬身動きを封じるほどだった。ベレスはカシアンの腕の中で息を呑み、目の前に現れた絶望的なまでの力を持つ存在を、恐怖と共に見上げるしかなかった。
聖墓に響き渡る「白きもの」――竜と化したレアの咆哮は、石壁を震わせ、その場にいる全ての者の鼓膜を圧した。神々しいまでの純白の巨体から放たれる威圧感は、絶望という言葉を具現化したかのようだった。
「…くっ…!化け物め…!」
エーデルガルトは、顔を歪めながらも即座に状況を判断した。今の戦力で、この伝説の存在に立ち向かうのは無謀以外の何物でもない。
「ヒューベルト!」彼女はこの場に駆けつけた腹心の名を呼ぶ。
「全軍に撤退命令!…いえ、この場にいる者は、私と共に直ちに聖墓より離脱する! 本軍と合流後、態勢を立て直し、必ずや再攻撃をかける!」
その声は、絶望的な状況下でもなお、皇帝としての威厳と不屈の意志を失ってはいなかった。
カシアンは、ベレスを庇うように一歩前に出ていたが、冷静に周囲を見渡し、そしてベレスに向き直った。
「ベレス、聞こえますか。今はここから逃げるのが最優先です。走れますね?」
その問いかけに、ベレスはカシアンの腕を強く握り返し、こくりと力強く頷いた。彼女の瞳には、先程までの涙の痕跡はあったが、今は恐怖を乗り越えようとする強い光が宿っていた。カシアンが隣にいる、ただそれだけで、彼女は絶望に立ち向かう勇気を得ていた。
「よし、行くぞ!」
カシアンの号令と共に、アビスの者たちが動く。エーデルガルトも残存する僅かな帝国兵に指示を出し、聖墓の入り口へと向かって走り出した。竜と化したレアは、その巨体を持て余すかのように聖墓内で身動きを取ろうとしており、その隙を突く形での脱出だった。
聖墓の入り口には、カシアンが配置していたアビスの斥候が数名残っており、彼らの手引きで一行は複雑な地下通路を疾走する。背後からは、竜の咆哮と、それが何かを破壊する轟音が断続的に聞こえてくる。
ガルグ=マク大修道院の地下は、帝国軍の侵入と教会側の防衛により、既に各所で戦闘が勃発し、混乱の極みにあった。その混乱が、皮肉にも彼らの脱出を助けることになる。カシアンの的確なルート指示と、アビスの者たちの隠密行動、そしてエーデルガルトの兵士たちの殿としての奮闘が組み合わさり、彼らは奇跡的に追手の目を逃れ、地上へと続く秘密の通路へとたどり着いた。
もはや敵も味方もない。この瞬間、彼らはただ「白きもの」という共通の脅威から逃れるために、一時的に手を取り合っていた。ベレス、カシアン、そしてアビスの者たち。エーデルガルトとその帝国兵。普段ならば決して交わることのない者たちが、今は一つの目的に向かって突き進んでいた。
夜の闇に紛れ、彼らはガルグ=マク大修道院の敷地を脱出した。目指すは、カシアンが事前にユーリスと打ち合わせていた、あるいは帝国軍が後方支援のために用意していたであろう、森の中に隠された暫定的な野営地だった。
息を切らし、泥にまみれながらも、一行はようやくその場所にたどり着いた。粗末な天幕がいくつか張られ、篝火が頼りなげに揺れているだけの簡素な陣地だったが、今はそれが何よりも安全な場所に感じられた。
「それでベレス、あなたは帝国を選んだ、と見てよろしいですね。」
カシアンはベレスの目を見て質問する。ベレスは頷いて肯定する。カシアンはどうしようか考え、エーデルガルトを見つめる。エーデルガルトは、悔しさを滲ませながらも、次の手を思考するように遠くガルグ=マクの方角を睨みつけていた。
(まずはレアを殺すのが最優先か…)
異なる立場、異なる思惑を抱えた者たちが、一つの場所に集った。聖墓での出来事は、彼らの運命を、そしてフォドラの未来を、否応なく新たな局面へと押し進めようとしていた。