帝国軍の暫定的な陣地は、夜の森の静けさとは裏腹に、見えない緊張感と疲労感に包まれていた。焚き火の揺らめく光が、集まった者たちの複雑な表情を照らし出す。ベレスは、カシアンのすぐ隣に座り、まるで彼の存在を確かめるかのように、その腕にそっと触れ続けていた。その温もりが、彼女にとって何よりの心の支えとなっているようだった。
まずは互いの情報を整理し、共有することから始まった。ユーリスがカシアンに代わって、あるいはカシアン自身が淡々と、しかし要点を押さえて、レアによって地下牢に監禁され、餓死させられそうになったこと、そしてアビスの者たちによって救出された経緯を語った。エーデルガルトは静かに耳を傾け、彼女の傍らに控えるヒューベルトは、時折鋭い視線をカシアンに送りながらも、その話に深く聞き入っていた。帝国側にとって、レアがそこまで非情な手段に出たという事実は、彼女たちの打倒すべき相手の底知れなさを改めて認識させるものだった。
次に、カシアンが聖墓で目の当たりにしたこと、そしてアビスで得ていた断片的な情報が繋ぎ合わされていった。ベレスが女神の力をその身に宿し、覚醒したこと。エーデルガルトが帝国の新たな皇帝として即位し、フォドラに変革をもたらそうとしていること。そして何より、潜在的にタレスらと敵対したいが、彼女が暗躍した「炎帝」その人であったという事実。
全ての情報を把握したカシアンは、ゆっくりとエーデルガルトに向き直った。その表情は、一見すると穏やかで、いつものように感情の起伏を見せない。だがその瞳の奥には、煮え滾るマグマのような怒りが静かに燃えていた。
「…なるほど。あなたが、炎帝でしたか、エーデルガルト殿。いえ、炎帝陛下、とおよび申し上げるべきですかな?」
カシアンの声は平坦だったが、その言葉の端々には、隠しきれない棘があった。
エーデルガルトは、彼の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「ええ、そうよ。私が炎帝。フォドラの歪みを正すため、あの仮面を被る必要があった」
カシアンは、その言葉に小さく頷くと、表面的にはにこやかな笑みさえ浮かべてみせた。だが、次の瞬間、その笑みは凍りつき、声のトーンは僅かに、しかし確実に低くなった。
「左様でございますか。では、炎帝陛下。一つ、ご確認させて頂きたい儀がございます。かつて、あなた様と、あの物騒な死神騎士殿が、フレン嬢を拉致なされた一件…覚えておられますかな?」
エーデルガルトは眉をひそめた。その事件は、彼女の計画の中でも初期の、そして少々手荒な手段を伴ったものだった。
「…ええ、記憶しているわ。それが何か?」
「その際、あなた方の乱暴狼藉によりまして、私が丹精込めて醸造し、大切に保管しておりました貴重な酒が、実に…実に無残にも、大量に破壊された件は、ご記憶にございますでしょうかッ!」
最後の言葉は、カシアンにしては珍しく語気が強まり、周囲の空気がピリッと震えた。ユーリスは「また始まった…」とでも言いたげに額に手を当て、アビスの者たちは苦笑いを浮かべている。ベレスだけは、カシアンの剣幕に少し驚きながらも、心配そうに彼の手をぎゅっと握った。
エーデルガルトは一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐに状況を理解し、ふっと息を漏らした。
「…ああ、あの時の。確かに、我々の不手際で、あなたの研究室が多少荒れたことは知っているわ」
「多少、ですと!? 私の数年に渡る研究の結晶が! あの芳醇な香りと深遠なる味わいが! 木っ端微塵に!」
カシアンは、普段の冷静さをかなぐり捨てるかのように、熱弁を振るう。彼にとって、それは単なる酒ではなく、芸術作品であり、研究の成果であり、そして何よりも個人的な楽しみだったのだ。
エーデルガルトは、その剣幕に苦笑しつつも、ある種の感心すら覚えていた。この男は、命の危機を乗り越えた直後だというのに、その執着心と交渉術は健在らしい。
「…分かったわ、カシアン。その件については、私の非を認めましょう。皇帝として、あなたに誠意ある対応を約束する。私に叶えられることなら、何でも要求してくれて構わないわ」
皇帝の宝物庫や保管庫には、歴代のワインもあり、またカシアンが興味を持ちそうな宝がいくつもある。惜しいがそれで終わらせてくれるなら安いものだと、エーデルガルトは考えた。
その言葉を待っていたかのように、カシアンはすっと表情を普段の冷静なものに戻した。
「それは大変結構なお言葉。では早速ですが、お願いしたい事柄が一つ、ございます」
彼はにこりと微笑み、その瞳の奥に悪魔的な輝きを宿らせた。ベレスはそんなカシアンの横顔を、やはり彼から手を離さずに、じっと見つめていた。彼女には、カシアンが本当に酒の恨みだけでこれを言っているのではないことが、何となく分かっていた。
エーデルガルトはわずかに身構えながらも、「何かしら? 聞きましょう」と促した。焚き火の光が、カシアンの計算高い瞳を怪しく照らしている。ベレスは、そんなカシアンの袖を、祈るようにそっと握りしめていた。
「皇帝陛下、まずは先ほどの寛大なるお申し出、心より感謝申し上げます」
カシアンは芝居がかったように一礼すると、本題に入った。
「実を申しますと、我々アビスの…いえ、私の指揮下にある部隊は、ご存知の通り、英雄の遺産のような強力な武具を持ち合わせておりません。この先生きのこるためには、これから本格化するであろう大戦において、戦力的に著しく劣勢を強いられることが予測されます」
その言葉に、エーデルガルトは静かに頷いた。アビスの者たちの個々の能力は高くとも、国家間の総力戦となれば、装備の差は歴然としている。
「そこで、陛下に一つ、ご提案、いえ、先ほどの『皇帝らしい誠意ある対応』の一環として、お願いしたい儀がございまして」
カシアンは一呼吸置き、そして、とんでもないことを平然と言ってのけた。
「つきましては、かの天帝の覇剣を振るい、女神の力をその身に宿すベレス殿を、正式に我が『領土』専属の配属としていただきたいのでございます」
その瞬間、陣地の空気が凍りついた。いや、一部は熱狂的に沸騰した。
「待ちなさい!それは…!」
エーデルガルトが思わず声を荒げたが、カシアンは表情一つ変えずに言葉を遮る。
「それは何でしょうか、陛下? 何か不都合でも?」
ユーリスは頭を抱え、アビスの若い衆の一部は「ヒュー!」「カシアン先生、男だねぇ!」などと口笛を吹き、やんやの喝采を送っている。ヒューベルトは眉間に深い皺を刻み、「こいつ…正気か…?」とでも言いたげな苦虫を噛み潰したような顔でカシアンを睨みつけていた。あまりの展開に呆然としているフェルディナンド、奇声を上げるをベルナデッタ、キャーと歓声をあげるドロテアなど様々だ。
エーデルガルトは言葉に詰まった。ベレスの力は帝国にとっても、そして彼女個人にとっても計り知れない価値がある。できることなら、常に自軍の側に、そして自分の傍に置いておきたい。しかし先ほどカシアンに「私に叶えられることなら何でもするわ」と大見得を切ったばかりだ。皇帝として、一度口にした言葉をそう簡単に翻すわけにはいかない。だが、これは…。
そのエーデルガルトの葛藤を見透かしたかのように、カシアンは決定的な一手を打った。彼は、隣で固唾を飲んで成り行きを見守っていたベレスに向き直ると、その手を優しく取り、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて尋ねた。
「ベレス。あなたは、どうしたいですか? …私と一緒に戦ってくれますか? それとも…」
カシアンはあえて言葉を区切り、彼女自身の言葉を待った。それは選択を迫るというよりは、彼女の心の奥底にある本当の願いを確かめるような、静かな問いかけだった。
ベレスは、カシアンの真摯な瞳に見つめ返された。彼女の脳裏には、これまでの様々な出来事が駆け巡る。レアの裏切り、カシアンとの再会、そして、かつて彼女自身がカシアンに告げた言葉――。
彼女は、カシアンの手を握る自分の手に力を込めた。そして、迷いのない、澄んだ声で答えた。
「……うん。カシアンと、一緒に居たい。一緒に、戦いたい」
その言葉は、聖墓でのものよりも、さらに強く、確かな響きを持っていた。それは、誰かに流されたわけでも、状況に追い込まれたわけでもない、彼女自身の明確な意志表示だった。
ベレスの答えを聞いたエーデルガルトは、天を仰ぎ、深く長い溜息をついた。そして、ゆっくりと目を開けると、その表情には苦渋の色が浮かんでいたが、同時にある種の諦観と、そして皇帝としての覚悟が滲んでいた。
「……分かりました。ベレスの意思も、そして皇帝としての私の言葉も、違えるわけにはいきません。カシアン、あなたの要求を認めましょう」
彼女は、まるで大切な宝物を手放すかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「天帝の覇剣の力、そして何よりも、ベレス自身の力を…あなたの『領土』に、一時「ありがとうございます、陛下! そのご英断、私は未来永劫忘れることはないでしょう!」……」
エーデルガルトの一時的という言葉を遮るように、カシアンは満面の笑みで感謝の言葉を述べた。その手際の良さに、エーデルガルトは再び溜息をつくしかなかった。
「これがベレスの『私は、あなたと、一緒にいたい。』への私の回答です。あなたと一緒にいられますね。」
ベレスは、カシアンとエーデルガルトの顔を交互に見つめ、そして、安堵と喜びが入り混じったような、柔らかな微笑みを浮かべた。カシアンの隣に、彼と共に在るという未来が、今、確かに形になったのだ。
その様子を、アビスの者たちは再び歓声で祝い、帝国側は複雑な思いで眺めていた。
ベレスのカシアン軍への配属という、前代未聞の人事が決定し、アビスの者たちは「カシアン先生、男だ!」「これで未来も安泰だ!」などと、まるで戦勝祝いのような騒ぎで盛り上がっていた。
(エーデルガルトが潜在的にタレスらと敵対するなら、一旦はよしとしますか。)
カシアンも、エーデルガルトから大きな譲歩を引き出し、ベレスが隣にいるという状況に、まんざらでもない表情を隠せずにいた。その上炎帝というふざけた名前の野郎に一泡吹かせてやったのだ。
今のカシアンに敵などいない、そのはずだった。
つかの間の祝祭的な雰囲気を破るように、陣地の入り口から野太い声が響いた。
「おーおー、随分と楽しそうじゃねえか。一体何があったのか、あっちでじっくり教えてもらおうか、カシアン?」
声の主は、腕組みをしながら仁王立ちするジェラルトその人だった。その鋭い眼光は、真っ直ぐにカシアンを射抜いている。カシアンの顔が、みるみるうちに引き攣っていくのが分かった。先程までの余裕綽々の態度はどこへやら、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「ジェ、ジェラルト殿…これはその…」
カシアンが何か言い訳をしようとする前に、ジェラルトはズカズカと歩み寄り、有無を言わさずカシアンの首根っこを掴んだ。
「いいから来い。お前さんとは、ちぃーっとばかし込み入った話をする必要がある」
まるで猫の子でも運ぶかのように、ジェラルトはカシアンを引きずりながら陣地の隅の方へと向かっていく。
「カシアン!」
ベレスは慌てて後を追おうとしたが、ジェラルトは片手を上げてそれを制した。
「ベレス、大丈夫だ。これはな、男同士の大事な話をするだけだ」
ジェラルトの真剣な目つきに逆らえず、ベレスは不安そうにしながらも、そっとカシアンから手を放した。
「分かった…」
カシアンは、ジェラルトに引きずられながら、ベレスに向かって絶望に満ちた、助けを求めるような視線を送る。そのあまりの情けなさに、ベレスは思わずくすりと笑ってしまいそうになりながらも、拳を握って力強く言った。
「カシアン、頑張れ!」
カシアンの「ああ…」という呻き声が、夜の森に虚しく消えていった。
きっかり一時間後。
陣地の隅から現れたのは、肩を落とし、まるで魂が半分抜け殻になったかのようにぐったりとしたカシアンと、対照的にどこかスッキリとしたジェラルトだった。アビスの者たちは、遠巻きにその様子を眺め、何を言われたのかと賭け合っている。
エーデルガルトは、そのジェラルトに近づき、単刀直入に切り出した。
「ジェラルト殿。先の戦いぶり、そして傭兵としてのあなたの名声は聞き及んでいます。もしよろしければ、帝国軍に力を貸していただけないかしら? もちろん、相応の待遇は約束します」
それは、皇帝として当然の人材獲得の試みだった。ジェラルトほどの男が味方に付けば、百人力となるだろう。
しかし、ジェラルトはニヤリと笑うと、首を横に振った。
「ありがたい話だが、皇帝陛下、そいつは断らせてもらうぜ」
そして、彼はぐったりしているカシアンの肩をバンと叩いた。カシアンが「ぐふっ」と変な声を出す。
「いいや、俺はこいつ…カシアンの軍に入らせてもらう。」
その予想外の言葉に、エーデルガルトだけでなく、ベレスやカシアン自身も驚いた表情を見せた。
ジェラルトは、腕組みをしながら続ける。
「何しろ、俺の大事な一人娘と、この得体の知れねえ男の関係を、よーくこの目で見張ってやらねえといけねえからな。万が一のことがあっちゃ、寝覚めが悪くて仕方ねえ」
彼はそう言うと、悪戯っぽくカシアンの顔を覗き込んだ。
「そうだろ? カシアンよぉ?」
カシアンは、もはや反論する気力もないのか、あるいはジェラルトの「教育」がよほど効いたのか、力なく「…はい、おっしゃる通りでございます…」と答えるのが精一杯だった。
そのやり取りを見て、ベレスは嬉しそうに微笑み、エーデルガルトは少し残念そうな、しかしどこか面白そうな表情で彼らを見つめていた。
こうして、カシアン率いるアビスの軍勢は、天帝の覇剣を持つ女神の器と、伝説の傭兵団長という、強力すぎる仲間を迎えることになった。