道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1184年秋 おはよう

ひんやりとした石の感触と、微かに漂う古い酒と土の匂い。

カシアンの意識は、深い深い水の底から、ゆっくりと浮上するように覚醒した。瞼が重く、身体の節々が鉛のように感じる。最後に覚えているのは、白きものの巨大な爪が自らの胸を貫く、あの絶望的な瞬間だったはずだ。

 

(…生きている…のか…?)

 

重い瞼をこじ開けると、薄暗い視界に、樽がいくつも並んだ石造りの部屋が映った。ここは、アビスの最奥、彼が個人的に使っていた隠れ酒蔵の一室のようだ。

状況を把握しようと周囲を見回したカシアンの視線は、部屋の隅に置かれた簡素な木製の椅子に座る人影と、不意に交わった。

 

その人影は、カシアンの視線に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。年の割には鍛え上げられた体躯、しかし今はその肩や腕に痛々しい包帯が巻かれ、顔には深い疲労の色が刻まれている。だが、その瞳には、カシアンの覚醒を認めた確かな光が宿っていた。

「……ようやく、お目覚めか。思ったより、随分と長かったな、カシアン」

その声の主は、ジェラルトだった。

 

「ジェラルト…さん…?」カシアンは掠れた声で呟いた。まだ完全に覚醒しきらない頭で、状況を必死に理解しようとする。

「ここは…一体…? 私は…」

そこで、彼はジェラルトの無数の包帯に気づき、声が上擦った。「そのお怪我は!どうされたんですか!? まさか、ガルグ=マクの戦いで負傷されたのですか!? というか、ベレスは!? ベレスはどこにいるんです!? 無事なんですか!? あの戦いは…ガルグ=マクの戦いはどうなったんですか!? 帝国軍は…レアは…!」

ガルグ=マクでの激戦、レアの竜化、そして自らが貫かれた瞬間の記憶が鮮明に蘇り、カシアンは矢継ぎ早に質問を浴びせた。彼の時間感覚は、あの絶望的な戦いの直後で完全に停止していたのだ。

 

ジェラルトは、カシアンの剣幕にやれやれといった表情で片手を軽く上げて制した。

「おいおい、カシアン。いっぺんに質問しすぎだ。頭が痛くなる。それに、大声を出すと傷に響く…お互いにな」

彼はそう言うと、巻かれた包帯に軽く触れ、わずかに顔を顰めた。そして、一つ咳払いをしてから、カシアンに向き直り、諭すような、しかしどこか重々しい口調で続けた。

「…まあ、無理もないか。お前さんにとっては、ほんの少し前のことだろうからな。だが、落ち着いて聞いてくれ。お前たちが眠っている間に…フォドラは、そして俺たちの状況は、大きく変わっちまったんだ」

ジェラルトの言葉は、これから語られるであろう厳しい現実をカシアンに覚悟させるかのように、静かに、しかし確かな重みを持って、薄暗い酒蔵の部屋に響いた。

 

 

 

ジェラルトは、カシアンの問いに対し、一つ一つ言葉を選びながら、この4年近い歳月の概要を語り始めた。

ガルグ=マク大修道院の陥落。帝国によるファーガス神聖王国とレスター諸侯同盟への宣戦布告。フォドラ全土を覆う戦乱の拡大。そして、このカシアンの領地が、帝国と王国の最前線となり、度重なる王国軍の侵攻に晒され続けていること。自らが負傷し、防衛戦が限界に近づいていることまで、ジェラルトは淡々と包み隠さず伝えた。

 

「ベレスは…お前のすぐ隣の寝台で、お前と同じようにずっと眠り続けている。傷は癒えたが、いつ目覚めるかは分からん。だが、命に別状はない」

ジェラルトは、カシアンが最も気にかけていたであろうベレスの安否について、そう付け加えた。

「レアについては…ガルグ=マクで竜の姿のまま逃げ延びて以来、その正確な行方は掴めていない。だが、いずれ傷を癒やし、再び我々の前に姿を現すだろう。あの女が、このまま終わるとは思えん」

 

カシアンは、時折「なるほど…」と静かな相槌を打ちながら、ジェラルトの言葉に耳を傾けていた。その表情は冷静を保っていたが、語られる過酷な現実の一つ一つが、彼の胸に重くのしかかっているのは明らかだった。

ふと、カシアンは自分の手に視線を落とした。何か、以前とは違う感覚。そして、無意識に自らの髪に触れた。その時、ジェラルトが傍らにあった水差しと杯を手に取り、杯に水を注ぐと、その磨かれた金属製の水差しの表面をカシアンに向けた。

「…気づいたか。自分の姿を見てみるといい」

水差しの表面にぼんやりと映る自分の顔。そして、そこに映る髪の色は――かつての黒ではなく、陽光の下では淡い緑色にも見える、不思議な色合いへと変わっていた。

 

「それは…ベレスの血の力だ。結果としてお前は女神の眷属に近い存在になったらしい。ソティス…だったか、あの女神と同じ系統の髪の色だそうだ」

ジェラルトの説明に、カシアンは複雑な表情を浮かべた。

「…レアと、同じ…ですか。それは…正直、虫唾が走るほど不快ですね」

彼は忌々しげに呟いた。だが、次にベレスが眠る隣の寝台へと視線を送り、その声のトーンがわずかに和らいだ。

「…ですが、ベレスと…同じ、あるいは近いというのなら…それは…少し、悪くないのかもしれません」

その言葉には、戸惑いと、そして微かな、しかし確かな喜びが入り混じっていた。

 

ジェラルトは、そんなカシアンの様子を、少しからかうような、それでいて温かい目で見つめていた。

「ふん、昔のお前なら、そんな顔はしなかっただろうな。随分と人間らしく、感情を表に出すようになったじゃねえか」

 

カシアンは、その言葉に小さく肩をすくめると、表情を引き締め、ゆっくりと寝台から立ち上がった。4年近い眠りによる体力低下は否めないが、その瞳には確かな意志の光が宿っている。

「…状況は、概ね理解しました。それじゃあ、まずはこの町の様子を、私自身の目で確認してきます」

 

ジェラルトは力強く頷き、入り口を顎で示した。

「レアも、いずれ必ず回復して戻ってくる。お前が、眠り続けるベレスを守りたいと願うのなら…まずは、今この町に押し寄せている程度の敵を、さっさと追い払うことだ。それが出来なきゃ、この先もっと大きなものを守り抜くなんて、夢のまた夢だからな」

その言葉には、カシアンへの揺るぎない信頼と期待、そして、自らの役割が終わりに近づいていることを悟った者のような、静かで不動の覚悟が滲んでいた。

 

カシアンは、ジェラルトのその言葉の裏にある意味――彼の命の灯火が、もう長くはないであろうこと――を痛いほどに理解した。しかし、彼はあえてそのことには触れず、ただ黙って頷き、ジェラルトに深く一礼すると、部屋の扉へと向かった。

彼が酒蔵の重い扉を開けると、久しぶりに浴びる外の光――もっとも、それはアビスの薄暗い通路に灯る松明の光だったが――に、わずかに目を細めた。これから彼が目の当たりにするであろう荒廃した領地の姿と、彼が再び背負うことになるであろう戦いの重圧を予感しながら、カシアンは確かな一歩を踏み出した。

 

 

 

薄暗い酒蔵の一室を出たカシアンは、まず頭に深く頭巾を被り、変じた髪の色を隠した。アビスの迷路のような通路を抜け、彼が久しぶりに踏み入れた地上の領地は、彼の記憶にある姿とは似ても似つかぬ惨状を呈していた。

 

家々は屋根が焼け落ち、壁は崩れ、無残な骨組みを晒している。道には瓦礫が散乱し、焦げ臭い匂いと血の鉄臭さが混じり合った空気が、重く淀んでいた。広場には臨時の救護所が設けられ、そこかしこから負傷した兵士たちの呻き声や、身を寄せ合う家族の不安げな囁きが聞こえてくる。この3年半という月日は、彼の領地を容赦なく戦火で染め上げていた。これほどの状況であれば、逃げ出す時間はいくらでもあったはずだ。しかし、カシアンが町を歩く限り、その人口は彼が眠りにつく前と比べて、驚くほど減ってはいないように見受けられた。

 

カシアンは、目立たぬように建物の影を選んで歩きながら、手当てを受けている比較的軽傷の兵士の一人に、何気ない風を装って声をかけた。

「…酷い有り様だな。あんた、大丈夫か?」

兵士は、頭巾で顔の上半分が隠れたカシアンを一瞥し、力なく首を振った。

「ああ…まあ、この程度ならまだマシな方だ。それより、あんたこそ見かけない顔だが、どこから来たんだ?」

「通りすがりの者だ」とカシアンは短く答え、本題を切り出した。

「これだけの状況だ。なぜ皆、もっと安全な場所…例えば、東のガルグ=マクとかに逃げないんだ?」

 

兵士は、カシアンの言葉に乾いた笑いを漏らした。

「はっ、逃げるったって、どこへ行きゃあいいんで? ここがダメなら、もうおしまいだ。行く当てもありやせんからね…それに、まだ諦めてねえ旦那方も大勢いるんでさ。あの方々が、この地を守り抜こうとしてる限りは、俺たちだって…」

兵士はそこまで言うと、口ごもり、遠い目をした。

 

カシアンは礼を言ってその場を離れ、他の住民にも同じような問いを投げかけてみた。幼子を抱いた若い母親は、「この子たちを連れて、どこへ行けというのです…食べるものも、寝る場所も、ここ以外には…」と涙ながらに訴え、年老いた農夫は、「わしはこの土地で生まれ育った。どんなことになろうと、ここを離れるつもりはねえ。あのお方が築いてくれたこの町だからのう…」と、皺だらけの手で鍬を握りしめながら語った。彼らの言葉には、諦めと疲弊の色が濃く滲んでいたが、同時に、この土地への強い愛着と、誰かへの信頼、そして僅かながらの抵抗の意志が感じられた。

 

町の中をしばらく歩き回った後、カシアンは町の外れ、敵の攻撃で半壊しながらも、まだかろうじて形を保っている高い見張り台を見つけた。周囲に人影がないことを確認し、彼は音もなくその見張り台へと登っていく。

 

頂上からは、町の外縁部に築かれた第二防衛線の城壁と、そこで繰り広げられている絶望的なまでの攻防戦が一望できた。蟻のように城壁に取り付こうとする王国軍の兵士たち。それを、数で圧倒的に劣りながらも、必死に押し返そうとする領地の兵士たち。投石機が唸りを上げて火球を放ち、矢が雨のように双方から降り注いでいる。城壁の一部は既に破壊され、そこでは激しい白兵戦が展開されていた。領土の兵士たちは、ジェラルトが叩き込んだであろう巧みな連携と、アビスの者たちらしいトリッキーな戦術を駆使し、必死に防衛線を維持しようとしていた。

 

カシアンは、その光景を、頭巾の下で表情一つ変えることなく、ただ黙って、長い時間見つめ続けていた。彼の脳裏には、この町の複雑な構造、兵士たちの練度、残された兵站、敵の攻撃パターン、そしてジェラルトから聞いた「もって三、四ヶ月」という絶望的な数字が、冷徹なまでに再構築され、分析されていく。

夕陽が戦場を赤く染め上げ、両軍の動きが鈍り始める頃になっても、カシアンはまだその見張り台の上に佇んでいた。

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