見張り台から戻ったカシアンは、領主の館――今は野戦病院と司令部を兼ねたような慌ただしい一角にある一室に通された。彼の両手には、警戒した兵士によって簡易的な縄がかけられていた。頭巾で顔の上半分と変じた髪を隠し、勝手に町を散策した彼は、この戦時下の町においては十分に不審者と見なされるものだった。
部屋で待つことしばし、ややあって扉が開き、見知った顔ぶれが入ってきた。ユーリス、バルタザール、ハピ、そしてコンスタンツェ。4年近い歳月は、彼らを戦士として、またリーダーとして著しく成長させていた。ユーリスは鋭さを増した瞳に冷静な光を宿し、バルタザールは以前にも増して屈強な肉体に歴戦の傷跡を刻み、ハピはどこか達観したような憂いを帯びた表情の中に芯の強さを秘め、コンスタンツェは高飛車な態度の裏に仲間を思う確かな意志を覗かせていた。
カシアンは、そんな彼らの姿を認めると、頭巾の下で小さく口角を上げた。
「おっ、皆、見違えたな。良い顔つきになったじゃないか」
カシアンに縄をかけた兵士の一人が、訝しげな顔でユーリスに尋ねた。
「ユーリス様、この者は…?」
ユーリスはカシアンを一瞥すると、その声と佇まいにすぐに気づいたのか、あるいはジェラルトから既にカシアンの覚醒を知らされていたのか、わずかに目を見開いた後、いつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ああ、ご苦労だったな。そいつの縄を解いてやれ。俺たちの…まあ、大事な客人だ」
兵士は戸惑いの表情を浮かべながらも、ユーリスの言葉に従い、カシアンの手にかかっていた縄を解いた。
「お前たちは少し席を外してくれ。込み入った話があるんでな」
ユーリスがそう言うと、兵士たちは一礼して部屋から退出していった。
兵士たちがいなくなると、カシアンは部屋の隅にあった椅子にどっかりと腰を下ろした。
「なかなか良い兵士たちじゃないか。よく鍛えられている」
その言葉に、ユーリスは腕を組み、カシアンをじっと見つめ返した。
「あんたこそ、3年以上も寝たきりだったってのに、まるで昨日会ったみたいに変わらないな。その怪しい頭巾は新鮮だが」
そして、彼の表情が真剣なものに変わる。
「ジェラルトの爺さんから、この町の惨状については粗方聞いたと思う。俺たちの計算じゃ、どんなに上手く立ち回ったところで、あと3、4ヶ月が限界だ」
カシアンは静かに頷いた。
「ああ、町の様子はさっき俺自身の目で見てきた。確かに、厳しい状況なのは間違いない…だが」
彼はアビスの四人を順に見渡し、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ力強さを込めた声で告げた。
「ユーリス、お前たちの焦る気持ちは痛いほど分かる。だがあと1ヶ月だけ待ってくれないか。試してみたいことがあるんだ。撤退の準備に取り掛かるのは、それが無様に失敗に終わってからでも、十分に間に合うはずだ」
その言葉に、一番に反応したのはバルタザールだった。彼は太い腕を組み、信じられないといった顔でカシアンに問い詰めた。
「おいおい、本気で言ってるのかよ、カシアン? このどうしようもねえ状況から、まだ…まだここから勝つつもりだってのか!?」
カシアンは、バルタザールの目を真っ直ぐに見返し、頭巾の下で、確かな意志を込めて、短く、しかし揺るぎなく答えた。
「ああ」
その一言が、部屋の空気を震わせた。絶望的な戦況の中で、カシアンが何を考え、何を成そうとしているのか。アビスの四人は言葉を失い、ただ固唾を飲んで、彼の次の言葉を待つしかなかった。
カシアンの短い肯定は、アビスの仲間たちに重い沈黙と、それ以上の言葉を禁じるような奇妙な圧力を与えた。彼はすぐに立ち上がると、「ユーリス、バル、ハピ、コンスタンツェ、それと手の空いている兵士を数名連れてきてくれ。見せたいものがある」と、有無を言わせぬ口調で指示を出した。
一行が向かったのは、アビスのさらに深部、埃っぽく、長年使われた形跡のない古い武器庫だった。そこには錆びついた剣や穂先の欠けた槍、そして用途の知れない奇妙な機械の残骸などが、無造作に積み上げられていた。カシアンは、そんなガラクタの山には目もくれず、迷いのない足取りで武器庫の奥へと進み、分厚い埃を被った木箱をいくつか引きずり出した。
「よし、これだ」
カシアンが木箱の一つを開けると中から現れたのは、通常の弓とは比較にならないほど長大で、黒光りする強靭な木材と金属で補強された、数張りの巨大な弓――ロングボウだった。
「バルタザール、腕試しだ。こいつを思い切り引いて、あの奥の壁に向かって撃ってみてくれ」
カシアンはロングボウの一張りをバルタザールに手渡した。バルタザールは、そのずっしりとした重さと、指が食い込むほど硬い弦に驚きの声を上げたが、持ち前の膂力を振り絞り、獣のような雄叫びと共に矢を引き絞り、放った。
ビュオッ!と風を切る凄まじい音と共に矢は射出され、通常の弓では到底届かないであろう武器庫の奥の石壁に、まるで吸い込まれるように深々と突き刺さった。
「うおおおっ!なんだこりゃあ!とんでもねえ飛距離と威力だぜ!」バルタザールは興奮気味に叫んだが、すぐに息を切らして付け加えた。
「…だがよ、カシアン。こいつは重すぎるし、引くのにも馬鹿みてえな力がいらあ。俺やジェラルトさんみてえな化け物じゃねえと、まともに扱えねえ代物だぞ、こりゃ」
カシアンは満足そうに頷き、「ああ、その通りだ。だから、これを使う」と言いながら、隣の木箱から、今度は木と金属で組み上げられた、何かの台座と巻き上げ機、そして引き金のような機構がついた、奇妙な機械を取り出した。
「ハピ、これをこうやって地面に固定して、このロングボウをここに嵌める。それから、矢をこの溝にセットして、ここのハンドルを回せば、弦が引けるはずだ。狙いを定めたら、このレバーを引けばいい」
カシアンは手際よくその機械――仮に「ロングアーチ」とでも呼ぶべきか――にロングボウを装着し、ハピに操作方法を教えた。
ハピは普段は大きなため息ばかりついている彼女には似つかわしくないその武骨な機械を、半信半疑ながらもカシアンに言われた通りに操作した。ハンドルを回すと、硬いロングボウの弦が、意外なほど軽い力でギリギリと引き絞られていく。そしておそるおそるレバーを引いた。
バシュッ!
先ほどバルタザールが放ったのと遜色ない轟音と共に矢が射出され、同じように遠くの壁に突き刺さった。
「わあ……すごい。こんな非力な私でも、こんなに強く弓が引けるなんて……」
ハピは驚きに目を見開いた。コンスタンツェもいつもの調子で目を輝かせている。
カシアンは、その反応に静かに頷くと、ユーリスと、同行していた兵士たちに向き直り、きっぱりとした口調で告げた。
「ユーリス、このロングボウと、この『ロングアーチ』を、この武器庫にある資材と、町の鍛冶職人、木工職人を総動員して、可能な限り急いで量産するんだ。設計図は俺が起こす。複雑なハンドルは私と鍛冶職人が作成し、残りの部分は一般市民に作成させる。改良はなしだ、今は数が必要だ」
そして彼は、確信に満ちた声で続けた。
「完成次第、兵士だけでなく、扱える者なら誰でもいい。それこそ片腕が満足に動かせる程度の負傷兵や、体力のある市民…女子供だって構わん。彼らにこのロングアーチを使わせ、城壁の上、家々の窓、ありとあらゆる場所から、城外の敵に向けて一斉に矢を射かけさせる。目標は、敵を近寄らせないこと、そして敵の士気を根こそぎ奪い尽くすことだ」
アビスの仲間たちや兵士たちは、カシアンの言葉とその革新的な武器を前に、最初は半信半疑だった表情が、次第に驚愕と、そして確かな希望の色へと変わっていくのを自覚した。この絶望的な戦況を覆すかもしれない、一筋の光明。カシアンが口にした「1ヶ月だけ待て」という言葉の真意が、今、彼らの目の前に具体的に示されたのだった。
カシアンの作戦指示に、アビスの仲間たちは一瞬息を飲んだが、すぐにユーリスが現実的な問題を口にした。
「カシアン、あんたの言うことは分かった。その『ロングアーチ』とかいうのが、今の俺たちにとって藁にもすがりたい希望の光かもしれねえってこともな。だがな、肝心の資材はどうする? こんな戦続きで、まともな木材も鉄もとっくに底を突きかけてるんだ。町中からかき集めるだけかき集めたとしても、一体どれだけの数が作れるか…」
その懸念に対し、カシアンは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それはこの町の古い案内図だった。彼はその地図の一角、町の外壁に近く、まだ本格的な開発が手付かずだった区画を無感情な指先でトントンと叩いた。
「ここに古い放棄された倉庫群や、今は誰も住んでいない空き家がいくつか集中しているんだ。将来的にアビスの居住区を拡張するために確保していた区画だろうが…もはやそんな悠長な未来を夢見ていられる状況じゃない。また第二の城塞エリアのもうすぐ陥落しそうなエリアも同様に破壊しろ。敵に奪われるなら武器にした方がましだ。」
そしてカシアンは一同を見回し、冷徹とも言える声で、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「これらの区画の建物を全て解体しろ。柱も、壁板も、扉も、釘の一本に至るまで、使えるものは根こそぎ資材として回収するんだ」
その言葉にハピやコンスタンツェは僅かに息をのみ、バルタザールでさえ眉をひそめた。たとえ使われていない建物であっても、それを破壊することへの心理的な抵抗は拭えない。しかしカシアンは構わずに続けた。
「解体して更地になったエリアは、そのまま次の防衛ギミック…新たなキルゾーンの土台として活用できる。何一つ無駄にはならん」
ユーリスはカシアンの言葉に黙って腕を組み、目を閉じて数秒間考え込んでいた。領民が暮らした建物を破壊するという行為の重み。しかしそれを上回る現状の絶望的なまでの閉塞感。そしてカシアンが提示した策がもたらすかもしれない、万に一つの可能性。
やがて彼はゆっくりと目を開けると、覚悟を決めたように深く息を吐き出した。
「…分かった。あんたのそういう、なりふり構わねえやり方は昔から変わらねえな。だが今はそれに賭けるしか選択肢は無さそうだ」
そう言うとユーリスは傍らに控えていた部下の一人に、鋭い声で指示を飛ばし始めた。
「おい、すぐに人手を集めろ!まずは例の北西区画の解体作業だ! 資材になりそうなもんは片っ端から運び出せ! 時間がねえ、急げよ!」
ユーリスが解体作業の指示を飛ばす傍らで、カシアンは武器庫に残っていた兵士たちに向き直った。
「お前たちは、この武器庫の中にある使えそうな金属片、木材の破片、何でもいい、とにかく綺麗に分別・分解して、すぐに加工できる状態にしておけ。埃を被ったガラクタも、見方を変えれば宝の山だ。無駄にするな」
兵士たちはカシアンの覇気に押されるように、あるいはその言葉に新たな希望を見出したかのように、一斉に作業に取り掛かった。
そしてカシアン自身は、武器庫の隅にあった作業台に、新たな羊皮紙を広げると、慣れた手つきで炭筆を手に取った。その表情には、焦りも迷いも一切見られない。ただこれから生み出すべきものを正確に捉えようとする、冷徹なまでの集中力だけが満ちていた。彼の指先から、驚くべき速さと正確さで、ロングボウとロングアーチの精密な図面が、次々と描き出されていった。
町の一角では、建物の解体作業の槌音が響き始め、武器庫では、眠っていた資材が新たな命を吹き込まれるのを待っていた。そして、カシアンの描く図面が、絶望に沈みかけていたこの町に、反撃の狼煙となる新たな力を与えようとしていた。その喧騒は、死を待つばかりだった町に、わずかながらも力強い、再生の鼓動を取り戻させたかのようだった。
カシアンがロングアーチの量産と配備を指示してから、およそ1週間が経過した。王国軍の陣営では、青獅子のフェリクスが、前線から戻ったばかりの斥候兵の報告に眉を寄せていた。
「フェリクス様、ご報告いたします!」斥候兵は切迫した声で続けた。
「この数日、敵陣から飛来する矢の数が、日増しに、いや、時間ごとに増加しております! それも、城壁の真上からというよりは、町の中、やや後方と思われる複数の地点から、まるで雨のように降り注いでくるのです。我が軍の突撃部隊は、城壁に取り付く前に一方的に射抜かれ、進軍が著しく困難になっております!」
フェリクスは腕を組み、顎に手を当てた。
「…妙だな。あの町の戦力は、ジェラルトが負傷して以降、目に見えて衰え、矢の数もまばらになっていたはずだ。今更、どこからあれほどの矢を…? 補給があったとしても、あの射程と密度は尋常ではない」
そこへ、この方面軍の指揮を執る、恰幅の良く壮年の将軍が、フェリクスの煮え切らない態度に苛立ったように割って入った。
「フェリクス、何をぐずぐずしておるか! 敵が多少矢玉を増やしたとて、何を恐れることがある! あの町はもはや風前の灯、あともう一押しで陥落するのは目に見えておるのだ! つまらんことで兵の士気を下げるようなことを申すな!」
フェリクスは将軍に向き直り冷静に、その瞳には強い懸念の色を浮かべて進言した。
「将軍、敵の戦術に何らかの予期せぬ変化が生じた可能性があります。城壁からの反撃ではない、町中からの組織的な遠距離攻撃…これは看過できません。一度攻撃の手を緩め、状況を慎重に分析し直すべきかと愚考いたします。このまま力押しを続ければ、無駄に貴重な兵を損なうだけです」
しかし将軍はフェリクスのその慎重論を鼻で笑い飛ばした。
「馬鹿を申せ、フェリクス! 我らの後詰として、まもなく後詰が到着するのだぞ! ここまで我らが苦労して攻め立てたこの町の攻略、最後の美味しいところを彼奴らに易々と手柄として横取りされてたまるものか! 敵の最後の悪あがきに過ぎんわ! あの町の者どもも、もう弾薬は尽きかけているはずだ!」
その目には今までの戦いで敵の力を見切ったという考えと、手柄を独り占めしようという功名心がありありと浮かんでいた。
そして将軍は、周囲に控える兵士たちに大音声で檄を飛ばした。
「者ども、臆することはない! 敵の矢など、我ら王国騎士の誇りをもってすれば恐るるに足らず! 全軍、予定通り総攻撃を再開せよ! 今日こそ、あの忌々しい帝国兵どもが巣食う町を陥落させ、帝国の喉元に刃を突き立てるのだ!」
フェリクスはその半ば独善的な命令に、内心で深く舌打ちしたが、何か証拠や論理がある訳でもなく、彼は表立って反論することはできなかった。しかし彼の胸には、この先の戦いに対する強い危惧と、敵が仕掛けてきた新たな戦術への得体の知れない警戒心が、暗い影のように深く刻み込まれていた。
やがて王国軍の攻撃再開を告げる角笛が高らかに鳴り響く。彼らを待ち受けていたのは、以前とは比較にならないほどの密度と射程で降り注ぐ、無慈悲な矢の豪雨だった。カシアンの策が、ついに戦場で牙を剥き始めた瞬間だった。