王国軍の総攻撃を告げる角笛が遠く響く頃、カシアンの領地内の即席工房では、まさに戦争と呼ぶにふさわしい喧騒が支配していた。この一週間、カシアンは文字通り寝食を忘れ、ロングアーチとその矢の製作に没頭していた。彼の周囲には、領内の鍛冶師や腕の立つ木工職人たちが集められ、カシアンの指示のもと、まるで巨大な機械の歯車のように動いていた。
カシアン自身、その手は常に油と木屑、そして金属の煤で汚れ、目の下には深い隈が刻まれていた。食事は作業の合間に立ったままパンを齧る程度、睡眠も工房の隅で数時間、作業台に突っ伏して取るのが常だった。しかしその動きに一切の淀みはなく、彼の頭脳は常に回転し続けていた。職人たちにロングアーチの精密な構造、効率的な製作手順、そして戦況に応じた改良のアイデアまで、的確かつ簡潔に指示を出し、彼らの作業を厳しく監督しながらも、自らも槌を振るい、鋸を引いた。
時折、ユーリスやバルタザールが工房を訪れ、前線の状況や物資の配分について報告し、短い打ち合わせが行われた。その際の彼の言葉は常に冷静で、まるで数手先の盤面まで読み切っているかのようだった。
そんなカシアンの常軌を逸した働きぶりを、工房で一番の年嵩である鍛冶師の老人が、畏敬と好奇の入り混じった複雑なまなざしで見つめていた。彼は、カシアンが図面を確認するために一瞬手を止めたのを見計らって、おずおずと話しかけた。
「あの…旦那様。大変失礼とは重々承知しておりますが、旦那様は一体どちら様でいらっしゃいますかな…? ジェラルト様やユーリス様からも一目置かれ、我々のような者にまで、これほどの驚くべき知恵と技術を惜しげもなく授けてくださる。ただ者ではないお偉いお方だとはお見受けいたしますが…」
カシアンは、作業台に広げられた図面から顔を上げることなく、汗を拭うことさえせず、淡々とした口調で答えた。
「…カシアンだ。元々は、ガルグ=マクでしがない教師をしていただけの男だよ」
鍛冶師は、その答えに納得がいかない様子で首を傾げた。「教師、でございますか…? それだけのお方では、断じてないような気がいたしますが…」と、なおも食い下がろうとした。しかし、カシアンはそれ以上は何も語ろうとせず、ただ黙々と図面の修正を続けていた。
老鍛冶師は、しばらく言葉を探していたが、諦めきれずに別の角度から尋ねた。
「では…このような、我々の度肝を抜くような仕掛け――このロングアーチは、一体どこで…? これほどのものを考案されたり、あるいはその作り方を学ばれたりしたのは、やはりガルグ=マクで…?」
その問いに、カシアンはふっと顔を上げ、その瞳に一瞬、遠い過去を懐かしむような、あるいは何かを自嘲するような、微かな光を宿した。
「…ああ、これか? ガルグ=マクの禁書庫の、そのまた奥深く…忘れ去られたように埃を被って、厳重に封印されていた代物さ。まだ若気の至りというやつで、ちょいとばかり拝借してな。まさか、こんな形で再び日の目を見ることになるとは、これを作った物好きな奴も、そしてそれを盗み出した俺自身も、夢にも思っていなかっただろうがな」
老鍛冶師はカシアンのその言葉の真偽を測りかね、ただ呆気に取られたように口を開けていた。カシアンはそんな鍛冶師の様子を気にするでもなく、すぐに再び作業へと没頭していく。工房には槌を打つ金属音、木材を削る音、そしてロングアーチが次々と組み上げられていく力強い音が、まるで戦いを前にした進軍ラッパのように響き渡っていた。
カシアンがロングアーチの図面を描き上げ、その量産体制が軌道に乗ってから、さらに1週間が経過した。王国軍の陣営では、将軍の強硬な命令のもと、カシアンの領地に対する総攻撃が、犠牲を払いながらも執拗に続けられていた。
町から放たれるロングアーチの矢の雨は、その勢いを増すばかりで、王国軍の被害は日を追うごとに拡大していた。特に城壁に取り付こうとする兵士たちの損耗は凄まじく、攻城兵器も次々と破壊されていった。フェリクスは、この無謀としか言いようのない攻撃によって積み重なる自軍の兵士の犠牲に、奥歯を噛みしめることしかできなかった。将軍の「手柄を立てる好機ぞ!」というヒステリックな叱咤を受け、やむなく自隊を率いて突撃を繰り返しながらも、彼の心は重く沈んでいた。
(これが正義の戦いか…? この無益な消耗の先に、何があるというのか…)
しかし数と物量で圧倒的に勝る王国軍の波状攻撃は、徐々に確実にカシアン領の防衛力を削り取っていく。そしてついに、その時は訪れた。連続する投石と、兵士たちの決死の突撃による破城槌の攻撃が、ついに第2層の城壁の一角を捉え、轟音と共に巨大な缺口を開けたのだ。
「でかしたぞ! 突撃ィィィッ! 臆するな、勝利は目前だ! あの忌々しいアビスのネズミどもを一人残らず血祭りにあげよ!」
将軍は、血走った目で叫び、抜き身の剣を振り上げて兵士たちを鼓舞する。その声に応え、王国兵たちは堰を切ったように鬨の声をあげ、崩れた城壁の缺口から、第2層の市街地へと雪崩のように突入していった。
(しめたぞ! あとは第3層を残すのみ! この勢いで攻め落とせば後詰が到着する前に、この町の攻略は完全に我が手中に収まる! さすれば、王国における我が名声も、確固たるものとなろうぞ!)
将軍は、そんな甘い皮算用を胸に、高揚感で顔を紅潮させながら、自らも精鋭の手勢を率いて、意気揚々と第2層へと足を踏み入れた。
しかし彼らが突入した第2層の市街地で待ち受けていたのは、勝利の栄光とは程遠い、異様な光景だった。家々はことごとく基礎だけを残して解体・撤去されており、見渡す限り瓦礫と、何もない更地が広がっている。食料になりそうなものは当然何一つなく、生命線であるはずの井戸は土砂で念入りに埋められ、生活の痕跡が完全に消し去られていたのだ。まるで、巨大な嵐が全てを薙ぎ払っていったかのような、不気味なまでの静寂がそこにはあった。
「な…なんだこれは…!? まるで蝗の群れにでも食い荒らされた後のようだ…! あの者ども自分たちの町をここまで徹底的に破壊し尽くすとは…正気か!?」
将軍はそのあまりの徹底ぶりと、そこに込められた冷徹な意志に一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直し、部下たちに叫んだ。
「ええい、臆することはない! 敵は全ての物資を第3層に運び込み、そこで最後の抵抗を試みるつもりなのだ! 後方部隊に伝えい! 急ぎ、この第2層まで食料、水、矢弾を運び込め! ここを我々の新たな拠点とし、一気に第3層を攻め落とすぞ!」
王国軍の兵士たちは、不気味なほど静まり返り、何の遮蔽物もない第2層の更地に戸惑いながらも、将軍の命令に従い、物資の搬入と次の攻撃のための陣地構築を始めた。
第2層が王国軍の手に落ち、彼らがそこを新たな突貫の拠点として第3層への攻撃を本格化させてから、さらに1週間が経過した。王国軍は第三層への攻撃を優先したため、第2層からの入り口を広げることも、第2層をくまなく調べることも行わなかった。そしてカシアンの領地の最深部である第3層では、昼夜を問わず王国軍の猛攻が続き、防衛線はもはや限界寸前と思われた。兵士たちの疲労は色濃く、矢弾も底を突きかけていた。しかしその絶望的な状況は、カシアンが仕掛けた次の一手を隠蔽するための、計算された煙幕でもあった。
その夜はまるで天がカシアンたちに味方したかのように、木々を根元から揺るがし、砂塵を激しく巻き上げるほどの強い西風が、一晩中止むことなく吹き荒れていた。月も厚い雲に覆われ、地上は真の闇に閉ざされていた。
そんな夜の闇に紛れ、ユーリスに率いられた少数精鋭の部隊――バルタザール、ハピ、コンスタンツェの姿もその中にあった――が、アビスの者だけが知る秘密の通路を縫うように進み、王国軍が占拠し、油断しきっている第2層へと静かに潜入を開始した。
彼らの動きは闇に溶け込む影よりもなお静かで、猛る風の音が彼らの立てる微かな物音さえもかき消していく。第2層の各所に配置されていた王国軍の見張り兵たちは、背後から忍び寄る死の気配に気づく間もなく、次々と音もなく無力化されていった。ユーリスの濡羽色の短剣が闇夜に冷たく煌めき、バルタザールの鉄のような剛腕が兵士の太い首を的確に締め上げた。
周囲の安全を確保すると、彼らは背負ってきた革袋から、粘性の高い特製の油を、事前にカシアンとユーリスが練り上げた計画ルートに従って、手際よく撒き始めた。王国軍が大量の物資を集積している広場、兵士たちが仮眠を取っているであろう建物の残骸の周囲、そして何よりも念入りに、第1層と第2層を繋ぐ、今は瓦礫で半ば埋まった城門跡地――王国軍の唯一の退路であり、生命線でもある補給路――とその周辺の地面に、油はまるで黒い蛇のように染み込んでいった。
全ての準備が整ったのを確認したユーリスが、夜空に向けて一瞬だけ小さな光の合図を送る。それを確認した仲間たちが、一斉に油に松明を投じた。
メラメラと音を立てて燃え上がった小さな炎は、またたく間に油に引火し、まるで導火線に火がついたかのように、一条の火線となって暗闇の中を走り始める。ユーリスたちは、その光景に一瞥もくれることなく、来た時と同じように迅速かつ静かに、秘密通路を通って第3層へと撤退していった。
強風はまるで悪魔の息吹のように炎を煽り立てた。一つの小さな火種は、瞬く間に巨大な火柱となり、乾燥しきった瓦礫や、王国軍が運び込んだばかりの木製の盾、大量の矢、槍の柄、そして山と積まれた食料袋へと、まるで意志を持っているかのように次々に燃え移っていく。カシアンの指示で更地にされた第2層の広大な空間は、皮肉にも炎が障害物なく燃え広がるための、これ以上ないほど完璧な舞台と化していた。
轟々という炎の音と、爆ぜるような破壊音、そして熱風。やがて、王国軍の兵士たちの何事かと驚く声、それが混乱の叫びへと変わり、そして絶望の悲鳴へと変わっていくのが、吹き荒れる風に乗って、第3層にまで生々しく聞こえ始めた。
第2層は、瞬く間に紅蓮の炎に包まれ、天を焦がす巨大な松明のように夜空を赤々と染め上げた。カシアンが仕掛けた非情にして周到な罠が、ついにその牙を剥き、王国軍を未曾有の混乱と恐怖の渦へと、容赦なく叩き込もうとしていた。
ユーリス率いる一団が夜陰に乗じて第3層への連絡路へと姿を消した直後、まるで地獄の釜が開いたかのような光景が第2層に広がった。王国軍が辛うじて制圧し、次の拠点と定めたはずの広大な空間は、瞬く間に阿鼻叫喚の坩堝と化した。
夜間警備の任を終え、仮眠をとっていたフェリクスは、鼓膜を劈くような絶叫と、何かが崩れ落ちる轟音に叩き起こされた。反射的に愛剣の柄を握りしめ、テントを飛び出す。その目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
第2層の至る所で、巨大な火の手が上がっていた。それは単なる焚火の類ではない。明らかに意図的に、それも同時多発的に放たれた火は、この地に吹き荒れる強風――数日前からカシアンの領地を覆っていた、あの不気味なまでの強風――に煽られ、恐ろしい速さで燃え広がっていく。木造の仮設兵舎や防柵は瞬く間に炎に包まれ、パチパチと不気味な音を立てながら崩れ落ちていく。夜空は、まるで終末の空のように赤黒く染まり、熱風が肌を焦がす。
「何事だ!敵襲か!?」
「火を消せ!水を!水を持ってこい!」
「氷魔法では対処できない!」
「ダメだ、風が強すぎる!」
兵士たちの怒号と悲鳴が、燃え盛る炎の音と混じり合い、不協和音となってフェリクスの耳を打つ。しかし、その声も、炎の勢いの前には虚しく響くだけだった。彼が守るべきだったはずの第1層への主要な出入り口――王国軍の生命線とも言える場所――は、既に業火に包まれ、黒煙が天高く立ち昇っていた。分厚い炎のカーテンが、彼らの退路を完全に遮断していた。
「くそっ…!どうなっている…!?」
フェリクスは歯噛みする。敵はどこから?これほどの規模の放火を、どうやって?思考が追いつかない。だが、目の前の現実が、そんな疑問を差し挟む余裕すら与えない。
混乱の中、誰かが叫んだ。
「あそこだ!第3層へ続く扉の周りだけは燃えていないぞ!」
その声に、パニックに陥っていた兵士たちが我に返ったように顔を上げる。確かに、第2層の奥、カシアンの最後の砦へと続く巨大な扉の周辺だけは、奇妙なほどに火の手が及んでいなかった。まるでそこだけが安全地帯であるかのように、炎の輪から取り残されている。よく見れば、その一帯の地面は濡れており、油が撒かれていなかったことが見て取れた。計算された罠であることは明白だったが、背後から迫る炎の恐怖は、兵士たちから冷静な判断力を奪っていた。
「そっちへ行け!逃げ道はそこしかない!」
「押すな!順番だ!」
生き残ろうとする本能が、恐怖に駆られた兵士たちを、その唯一燃えていない場所へと殺到させた。まるで蟻が甘い蜜に群がるように、彼らは我先にと第3層への扉へと押し寄せる。
その時だった。
「ヒュッ!」という風切り音と共に、扉を見下ろす城壁の上から無数の矢が降り注いだ。それは精密な狙いを持ったものではなく、明らかに群衆を狙った威嚇射撃だった。しかし、密集していた兵士たちにとっては十分な脅威であり、数人が悲鳴を上げて倒れる。
「うわぁっ!」
「伏せろ!矢だ!」
炎から逃れてきた者たちが、今度は頭上からの死の恐怖に晒される。パニックは頂点に達し、兵士たちは身を寄せ合い、盾を掲げるが、降り注ぐ矢の雨は止まらない。
その混乱の只中、城壁の一角に松明の光が集まり、人影が現れた。フードを目深にかぶった人物――カシアンだ。彼は、眼下で繰り広げられる地獄絵図を冷ややかに見下ろしながら、朗々とした、しかし感情の温度を感じさせない声で言った。
「無益な抵抗は止めるがいい、王国軍の諸君。見ての通り、君たちに逃げ場はない。第1層への道は炎で閉ざされ、この第2層も間もなく全て灰燼に帰すだろう。今ここで武器を捨て、降伏するならば、命までは取らぬと約束しよう。第3層への扉を開け、諸君らを安全な場所へ誘導する」
その声は、不思議なほど騒音の中でもはっきりと聞こえた。カシアンの言葉は、絶望的な状況に置かれた兵士たちの心に、一縷の望みと、同時に屈辱的な選択を突きつけた。
フェリクスは、燃え盛る炎と、頭上から降り注ぐ矢、そしてカシアンの冷徹な声に挟まれながら、ギリギリと奥歯を噛み締めた。降伏――その言葉が、彼の騎士としての誇りを激しく揺さぶる。だが、周囲を見渡せば、炎に巻かれて断末魔の叫びを上げる仲間、矢に射抜かれて呻く兵士、恐怖に顔を引きつらせて立ち尽くす者たちの姿が目に映る。このままでは、全滅だ。
目の前の炎は、もはや人の手でどうこうできる規模ではない。それは自然の猛威そのものであり、抗うことすら許さない絶対的な破壊力を持っていた。戦略も、武勇も、この圧倒的な炎の前には無力だった。
(…ここまで、か)
フェリクスは、焼け付くような空気の中で、乾いた喉をごくりと鳴らした。騎士として、フラルダリウスの人間として、死を恐れたことはない。だが、犬死は許されない。そして、自分一人が意地を張ったところで、この状況は好転しない。むしろ、無駄な犠牲が増えるだけだ。彼は、苦渋に満ちた表情で顔を上げ、城壁の上のカシアンを睨み据えた。
「…分かった。降伏する」
絞り出すような声だった。その一言は、彼の矜持をズタズタに引き裂くものだったが、同時に、多くの兵士たちの命を救うための唯一の道でもあった。彼の宣言を聞いて、周囲の兵士たちから安堵とも絶望ともつかない溜息が漏れる。
カシアンは、フェリクスの返答を聞いても表情一つ変えなかった。ただ、わずかに顎を引くと、次の指示を出す。
「賢明な判断だ。では、まず誠意を示してもらおう。各自、持っている全ての武器――剣、槍、弓、ナイフに至るまで――を、左右に燃え盛る炎の中へ投げ入れろ。抵抗の意思がないことを、その行動で示せ」
その命令は、武器を生命線とする兵士たちにとって、あまりにも過酷なものだった。しかし、炎の壁と矢の威嚇は、彼らに選択の余地を与えなかった。フェリクスは、一瞬、腰の剣に手をかけたが、ぐっと堪えた。そして、まず自らの長剣を抜き放つと、躊躇うことなく、燃え盛る炎の中へと力強く投げ入れた。金属が炎に触れ、ジュッと音を立てる。
彼の行動に、他の兵士たちも、遅れて武器を解き始めた。絶望と屈辱の色を浮かべながら、彼らは次々と愛用の武器を、業火の中へと投げ込んでいく。カチャカチャという金属音と、炎がそれを飲み込む音が、第2層の悪夢に新たな効果音を加えていた。
鉄が焼け、肉が焦げる異臭と、未だ鎮まらぬ炎の轟音が支配する第2層。王国軍の兵士たちが、まるで魂を抜かれたかのように立ち尽くす中、城壁の上のカシアンが再び冷ややかな声で命じた。
「武装の放棄、ご苦労。これで話し合いのテーブルにつく準備が整ったと言えよう。さて、まずは指揮系統を明確にしたい。司令官、及び将軍職にある者は、名乗り出てもらおうか。君たちは捕虜として、我が方で丁重に保護する」
その言葉は、無力感に打ちひしがれていた王国軍の将校たちに、新たな屈辱を刻みつけた。しかし、もはや抗う術はない。武器を失った彼らは、ただの肉塊でしかなかった。フェリクスは、他の将校たち数名と共に、悔しさに顔を歪ませながらも、一歩前に進み出た。彼らの目には、諦観と、未だ消えぬ怒りの炎が揺らめいていた。
カシアンは彼らの姿を確認すると、満足げに頷き、背後に控えていたアビスの兵士たちに手で合図を送った。すると、城壁の一部が音もなく開き、そこからロープや梯子を使って、十数名のアビス兵が手際よく第2層へと降りてくる。彼らは皆、フードを目深にかぶり表情を窺い知ることはできないが、その動きには一切の無駄がなく、訓練され尽くしていることが見て取れた。
アビス兵たちは、一切の言葉を発することなく、フェリクスたち将校に近づくと、用意していた頑丈な縄で彼らの両手を背中に回し、手際よく縛り上げていく。抵抗する者は誰一人いなかった。いや、抵抗する気力すら、既に奪い去られていたのかもしれない。フェリクスは、縄が食い込む腕の痛みに耐えながら、唇を噛み締めた。かつてこれほどの屈辱を味わったことがあっただろうか。
将校たちが捕縛されるのを見届けると、アビス兵の一人がカシアンに合図を送る。そして、フェリクスたちは、まるで家畜のように引かれて歩かされた。彼らが連れて行かれたのは、第3層へと続く巨大な扉の脇に巧妙に隠された、小さな隠し扉だった。そこから、彼らはカシアンの支配する第3層の暗がりへと、一人、また一人と姿を消していった。
司令官たちが連行されると、カシアンは傍らに控えていた別の部隊に指示を出した。
「例の物を。手筈通りに」
その命令を受け、数十人のアビス兵が、今度は大量の土嚢のようなものを抱えて城壁から降りてきた。彼らが向かったのは、第3層と第2層を繋ぐ、あの炎上している主要な出入り口だった。兵士たちは、指揮官の指示に従い、土嚢の中身――大量の乾いた砂――を、燃え盛る炎の根元や、まだ火の手が回っていない扉の周辺に、手際よくばらまき始めた。
濛々と立ち込めていた黒煙が、砂を浴びることで徐々に白煙へと変わり、あれほど猛威を振るっていた炎の勢いが、目に見えて衰えていく。油が撒かれていたとはいえ、木材が主体だった構造物は、酸素を遮断されれば鎮火も早い。
やがて、第1層への道は、黒焦げの残骸と立ち込める煙によって通行は困難であるものの、完全な遮断状態からは脱した。
その様子を城壁の上から静かに見下ろしていたカシアンは、残された王国軍の一般兵士たちに向かって、最後の宣告をするかのように言った。
「さて、諸君。我が軍は、これ以上の流血を望まない。指導者を失い、武器も持たぬ君たちを一方的に虐殺するのは問題だ。」
そこでカシアンは一呼吸置き、まるで慈悲を施すかのように続けた。
「故に、見逃してやろう。第1層への道は、今や鎮火した。命が惜しくば、そこから逃げるが良い。ただし、二度とこの地を踏み、我々に刃を向けることのないように。次に相見える時は、一切容赦はしない」
その言葉は、絶望の淵にいた兵士たちにとって、まさに天啓だった。一瞬の静寂の後、誰からともなく、第1層へと続く黒焦げの通路へ向かって駆け出す者が現れる。
「助かるのか…?」
「行け!早くここから離れるんだ!」
「もうこんな場所はこりごりだ!」
一人、また一人と、兵士たちは我先にと逃げ出した。恐怖と安堵が入り混じった表情で、彼らは互いを押し退けるようにして、煙の立ち込める通路へと殺到する。武器を捨て、仲間を見捨て、ただ生き延びたい一心で。その姿は、もはや軍隊のそれではなく、単なる烏合の衆でしかなかった。
カシアンは、その混乱と無秩序な逃走劇を、微動だにせず見下ろしていた。彼の唇の端が、ほんの僅かに吊り上がったように見えたのは、炎の揺らめきが生んだ錯覚だったのかもしれない。
こうして、王国軍によるカシアン領第2層の占拠は、悪夢のような一夜にして終焉を迎えた。そしてその全ては、カシアンの冷徹な計算と、非情なまでの合理主義によってもたらされた結果だった。