カシアンがフェリクス率いる王国軍先遣隊を降伏させ、焦土と化した第2層を完全にその支配下に置いてから数日が経過した。吹き荒れていた強風はいつしか止み、焼け焦げた第2層には、不気味な静寂と、鼻を突く煤の匂いだけが残されていた。
その頃、王都フェルディアの宮廷は、文字通り蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。王国西部、カシアン旧領方面へ派遣された一個方面軍が、事実上壊滅し敗走した――そんな衝撃的な第一報が、伝令によってもたらされたからだ。
「馬鹿な!あの方面軍には、勇猛で知られるフェリクス殿も参加していたはず!いかに帝国の領主が相手とはいえ、そのような事態があり得るものか!」
玉座の間にてディミトリの前では、居並ぶ貴族たちが口々にウソだと主張した。初め、誰もがその報告を誤報だと断じ、あるいは敵による流言飛語の類だと一笑に付そうとした。それほどまでに、王国軍の、それも精鋭を含む一部隊が敗れるなど、考えられないことであった。
しかしその楽観的な憶測は、数日もしないうちに打ち砕かれることになる。
カシアン旧領から命からがら逃げ延びてきた兵士たちが、後詰として待機していた部隊の陣営に雪崩れ込んできたのだ。彼らは一様に憔悴しきっており、その瞳には深い恐怖の色が刻み込まれていた。何よりも異常だったのは、彼らがほとんど武装をしていなかったことだ。剣も槍も、盾さえも持たず、ただ着の身着のままで、悪夢から逃れてきたかのように震えていた。
「炎だ…!全てが、全てが炎に…!」
「罠だらけだった…どこもかしこも…」
「声が…あの声が頭から離れない…降伏しろと…」
彼らは戦闘の詳細を語るというよりも、ただただ体験した恐怖と、圧倒的な敗北の事実を、途切れ途切れの言葉で訴えるばかりだった。ある者は夜空を焦がした巨大な火の手のことを、ある者は仲間たちが次々と姿を消した不可解な出来事を、そして多くが正体不明の指揮官による冷徹な降伏勧告と、武器を炎に投げ入れさせられた屈辱を口にした。
後詰の部隊長は、当初半信半疑であったものの、あまりにも多くの兵士が同様の証言をすること、そして彼らの尋常ならざる様子から、事態の深刻さを悟らざるを得なかった。直ちに偵察隊が派遣され、彼らが持ち帰った報告は、悪夢が現実であったことを裏付けるものだった。第2層と呼ばれる区域は黒焦げの廃墟と化し、夥しい数の王国軍の武具が焼却された痕跡が生々しく残っていたという。そしてその地を支配しているのは、フードで顔を隠した不気味な兵士たちであり、彼らは第3層への道を強固に封鎖していたと。
偵察隊は敵の巧妙な警戒網を前に深入りすることなく撤退したが、持ち帰った情報は、王都に更なる衝撃を与えた。「カシアン旧領の勢力、未だ健在。そしてその指揮官は恐るべき計略の使い手である」と。
「一体、誰が指揮を執っているのだ…?」
「あれほどの策略を用いるとは…フォドラのどこに、そのような将が隠れていたというのだ?」
王国の将軍たちは、捕虜となった兵士たち――幸いにも、カシアンは一般兵を解放したため、多くの者が帰還していた――から詳細な聞き取りを行った。しかし敵の指揮官の正体については、誰もが口を揃えて「分からない」と答えるばかりだった。フードを目深にかぶり、声もどこか機械的に響くような印象で、その顔を見た者はいなかったという。
彼らにとって今回の悪夢のような敗北は、どこからか現れた正体不明の、恐ろしく有能な指揮官によるものであり、その名は恐怖と共に囁かれるようになった。
「まるで悪魔の所業だ…」
ある兵士は、そう言って身を震わせた。
王都ではこの不可解な敗北の原因究明と対策に追われることとなる。だが敵の正体も、その目的さえも掴めない中、宮廷には重苦しい不安と焦燥感が漂い始めていた。彼らはまだ自分たちが目覚めさせてしまったものが何なのか、その本当の恐ろしさを理解していなかった。
帝都、その壮麗な歌劇場の一角。貴賓席とも呼べるその場所で、三人の影が舞台の幕開けを待っていた。炎帝ことエーデルガルト、その腹心たるヒューベルト、そしてもう一人は異質な空気を纏う男、カシアンであった。
シャンデリアの柔らかな光が降り注ぐ中、カシアンは悠然と口を開いた。
「おはようございます。皇帝陛下、宰相閣下。……3年半ぶりに起床しました」
その突拍子もない挨拶に、エーデルガルトは片眉を微かに動かしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。ヒューベルトは表情を変えず、ただカシアンの言葉の真意を探るように彼を見据えていた。
「もうご存じのことと存じますが、先日、王国軍の部隊が我がカシアン領に侵入いたしましたので、これを撃退いたしました。幸い、敵将であったフェリクス殿、並びに彼が所持していたとされる英雄の遺産も確保しております。これらは後日、帝国に献上させていただきます」
淡々と、まるで他人事のように語るカシアンの言葉に、エーデルガルトは小さく頷いた。事前に報告は受けていたが、こうして当事者の口から聞くと、その戦果の重みが改めて感じられる。ファイルに記録されていた、王国軍の混乱と恐怖に染まった兵士たちの姿が脳裏をよぎる。
「これでカシアン領は、ファーガス神聖王国にとって、無視できぬ恐怖の対象となり、そして何よりも優先して陥落させるべき戦略拠点となったことでしょう。つきましては、領土防衛のための増援、並びに継続的な物資の援助を改めて要請いたします」
カシアンは淀みなくそう述べると、芝居がかった仕草で一礼した。
エーデルガルトはヒューベルトと短く視線を交わす。言葉はなくとも、互いの意思は通じ合っていた。ヒューベルトが小さく頷くのを確認すると、エーデルガルトはカシアンに向き直った。
「あなたの働きには感謝しています、カシアン卿。先の戦勝、そして今回の提案、いずれも帝国にとって有益なものです。要請は承認しましょう。詳細は後ほどヒューベルトと詰めてください」
「御意」とヒューベルトが応じる。
「ご賢察、痛み入ります」
カシアンは満足げに微笑むと、ちょうど幕が上がり始めた舞台へと視線を移した。きらびやかな衣装をまとった役者たちが、甘美な音楽と共に登場する。それは英雄と姫の情熱的な恋愛を描いた、帝都で人気の演目だった。
しばらく無言で舞台を眺めていたエーデルガルトだったが、ふと隣のカシアンに視線を送り、意外そうな表情で声をかけた。
「意外ですね、カシアン卿。あなたがこのような恋愛ものの舞台を鑑賞するとは」
カシアンは舞台から目を離さぬまま、手元では熱心に何かをメモ帳に書き留めながら答えた。
「ええ。実は以前、ガルグ=マクでベレスたちに、この物語の原作である叙事詩について教わったことがあるのです。ですがその時は登場人物たちの感情の機微や行動原理が今ひとつ理解できず、消化不良でして。こうして実際に演じられるのを見れば、何か得るものがあるかと思いまして」
その言葉とは裏腹に、カシアンの表情からは感情の機微といったものは読み取れない。ただ舞台上の役者の動き、セリフの間、観客の反応までもを分析し、データとして収集しているかのようだった。
舞台はそのように見るものではないと思いながらも、エーデルガルトは、カシアンのその特異な探求心と、彼が時折見せるベレスへの言及に、内心わずかな興味を覚えながら、再び舞台へと視線を戻した。
領内の復興作業が急ピッチで進められる喧騒を背に、カシアンは一人、領主の館の地下深くへと続く隠し階段を降りていた。ひんやりとした石の壁に囲まれた螺旋階段は、彼がアビスの奥深くに設けた、彼自身の聖域であり、そして何よりも大切な存在が眠る場所へと繋がっている。
やがて彼は、重厚な木製の扉の前にたどり着いた。そこは、かつて彼が長年かけて収集し、醸造してきた秘蔵の酒たちが眠っていた貯蔵庫の一角であり、今は静かで、外界の光も音もほとんど届かない、安息の小部屋へと改造されていた。
カシアンは音もなく扉を開け、中へと足を踏み入れた。部屋の中央には、簡素だが清潔な寝台が二つ並べられ、その一つに、ベレスが静かに横たわっていた。彼女の髪は今は頭巾で隠されているカシアンと同じ、淡い緑色へと変じているが、その寝顔はまるで長い旅の疲れを癒すかのように穏やかで、そしてどこか幼い少女のような無垢さを漂わせていた。彼女の呼吸は静かで規則正しく、胸が微かに上下している。しかし彼女が目覚める気配は、まだなかった。
カシアンは、ベレスが眠る寝台の傍らに置かれた古びた木の椅子に、音を立てずに腰を下ろした。そして、まるで大切な宝物にでも触れるかのように、そっとベレスの頬に手を伸ばし、こぼれ落ちた髪を優しく耳にかけてやった。その指先が触れた肌は、ひんやりとしていたが、確かに生きている温もりを伝えていた。
「……ベレス」
カシアンは、眠り続ける彼女に語りかけるように静かに、そしていつもの彼からは想像もつかないほど優しい声で、最近の出来事を報告し始めた。
「この領地も騒がしかっただろう。王国軍の連中が攻めてきたんだ。ジェラルト殿が負傷して指揮を執れなくなったのを好機と見たのか。随分と大規模な軍勢で、本気でこの町を潰しに来たようだった」
彼の声は、まるで子守唄でも歌うかのように穏やかだったが、語られる内容は過酷な戦いの現実だった。
「だが心配はいらない。アビスや町の人が、そしてジェラルト殿が、この私に託してくれたこの領地と、ここに住む者たちの生活を、そう簡単に奪わせるわけにはいかないからな。…まあ、少しばかり手荒なやり方になってしまったが、結果として、王国軍は文字通り叩き潰すことができた。文字通り、物理的に、彼らが二度と刃向かってくる気力を起こさせない程度には、徹底的にな」
カシアンの口元にほんのかすかな、冷徹な笑みが浮かんだ。あのロングアーチの雨と、焦土と化した第2層で繰り広げられた一方的な殲滅戦の光景が、彼の脳裏をよぎった。
「もっとも…」彼は言葉を続けた。
「最後に、武器を捨てて逃げ出す者たちまでは、追い討ちをかけることはしなかった。彼らは、恐怖に駆られ、もはや戦意など欠片も残っていなかったからな。それに…君がもし、あの場にいて、意識があったなら、きっとそうしてほしいと願っただろうと思ったからだ。…そのうち答え合わせをさせてくれ。」
彼はベレスの穏やかな寝顔を見つめながら自嘲するように、しかしどこか誇らしげにそう言った。
「町の復興も、少しずつだが進んでいる。アビスの連中も、ユーリスを中心に皆よくやってくれているよ。新しい酒の醸造も始めた。君が目覚めた時に、とびきり美味い酒を振る舞えるように、私も腕を磨いておかないとな」
カシアンはベレスの手にそっと自分の手を重ねた。彼女の指が彼の言葉に応えるかのように、ほんのわずかに動いたような気がした。
「だから、ベレス。君は何も心配することはない。安心して、今はゆっくりと眠っていてくれ。君が目覚めた時に、この世界が少しでもマシな場所になっているように…そして君と私が、心から安心して、穏やかに、一緒に過ごせる未来のために、私ができる限りのことは、全て進めておくから」
彼の声は確かな決意と、ベレスへの深い言葉にできないほどの想いに満ちていた。
カシアンはしばらくの間、ベレスの手を握ったまま、彼女の寝顔をじっと見つめていた。やがて彼はゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に置かれていた、秘蔵の蒸留酒の樽の一つから、小さな杯に琥珀色の液体を注いだ。
彼はその杯を片手に、再びベレスの寝台の傍らに戻り、壁に背を預けるようにして静かに座った。そして眠り続ける彼女の穏やかな寝息だけが聞こえる静寂の中で一人、静かに酒を味わい始めた。グラスの中で揺れる琥珀色の液体は、まるで彼の複雑な心境を映し出しているかのようだった。
杯を空にするのに、それほど時間はかからなかった。カシアンは最後に一度だけ、ベレスの寝顔を慈しむように見つめると、音もなく立ち上がり、そっと部屋を後にした。重い扉が閉まると、部屋には再び、ベレスの穏やかな寝息と、古い酒の微かな香りだけが残された。