道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1184年冬 事前準備

ファーガス神聖王国のとある主要街道。夕暮れが迫り、茜色に染まり始めた空の下、馬と人影が土煙を巻き上げながら疾風のように駆け抜けていく。馬上にはハピの姿があり、その近くにユーリスの姿もあった。彼らの背後からは、微かに確実に王国兵たちの怒号と複数の馬蹄の音が迫っている。ユーリスは時折後方を振り返り、その表情には焦りよりもむしろ計算高さが浮かんでいる。一方のハピは、どこかこの状況を楽しんでいるかのようだが、その瞳は油断なく周囲の森の奥へと鋭く注がれていた。

 

つい先ほどまで、彼らはこの街道のさらに奥深く、王国軍の前線基地へと繋がる補給路の要所を狙い、小規模ながらも重要な補給部隊を襲撃していた。積荷の食糧や武具を焼き払い、さらに街道の数カ所をハピの魔法とユーリスが仕掛けた罠で「適度に」通行困難な状態に陥れていたのだ。その目的は王国軍の兵站を混乱させ、カシアン領への攻勢を鈍らせること、そして彼らの注意を内側へ向けさせることにある。

 

作戦そのものは首尾よく進んでいた。彼らはまるで悪戯を仕掛ける子供のように、しかしプロフェッショナルな手際で痕跡をほとんど残さずに任務を完了するはずだった。だが最後の仕上げの段階で、予想以上に広範囲を巡回していた王国軍の騎兵部隊に運悪く発見されてしまったのだ。ユーリスたちは深追いするつもりも、無駄な戦闘で消耗するつもりも毛頭なく、追手を軽くあしらって攪乱し、今は一路、カシアン領との境界線を目指して逃げ帰る最中だった。

 

「まったく、こういうのは本当に手間だねえ。もうちょっとこう、スマートに終わらせられると思ったんだけど」

ハピが風に長い髪をなびかせながら、いつものように気だるげにぼやいた。馬の小気味よい揺れに合わせて、彼女の肩が軽く上下する。

 

ユーリスは前方の道筋から一瞬も目を離さずに、しかし口の端には不敵な笑みを浮かべて応じた。

「まあな。だが、俺たちのこのひと騒ぎで、カシアンの旦那の町への攻撃が少しでも減るんなら、安いもんだろう? これで奴らも、前線への補給を立て直すだけで手一杯になるはずだ。しばらくは、こっちに構ってる余裕もなくなるだろうよ」

 

彼はちらりとハピに視線を送り、言葉を続ける。

「それにただ守ってるだけじゃジリ貧になるのは目に見えてる。こっちから積極的に仕掛けて、奴らの足元を揺さぶってやらなきゃな。アビスの連中が…そして、あの町で新しい生活を始めようとしてる奴らが、少しでも安心して眠れる夜のためにもさ」

その言葉には、アビスのリーダーとしての責任感と、彼が守るべき者たち――アビスの仲間たち、そして今や彼らの新たな拠点となりつつあるカシアン領と、そこに集う人々への強い思いが込められていた。

 

追手の声は徐々に遠のいていくようだった。ユーリスとハピは、互いに視線を交わして小さく頷くと、さらに移動速度を上げた。彼らの仕掛けた小さな混乱の種は、カシアンの描く大きな戦略の中で、やがて無視できない影響力を持つことになるはずだった。太陽が西の稜線に隠れようとし、彼らの疾走する影が、茜色の街道に長く力強く伸びていた。

 

 

 

 

カシアン自身は領内の別の場所――アビスの地下深く、普段は金属の鍛造音と火花の匂いが絶えない一角にある、腕利きの金型職人の工房を訪れていた。

 

工房の主である老いた金物屋の前に、カシアンはいくつかの小さな金属製のサイコロのようなもの――活字――と、それらを正確に組み合わせるための道具、そして簡単な手動印刷機の構造を示した羊皮紙の図面を静かに広げた。

「親方、少し風変わりなものを作ってもらいたいと思いましてね。まずはこれを見ていただけますかな」

カシアンはそう言うと、手際よく数個の活字を拾い上げ、小さな枠に組み込み、インクを薄く塗って傍らの羊皮紙の切れ端にぐっと押し当ててみせた。そこには鮮明で均一な文字が、まるで最初からそこに書かれていたかのようにくっきりと現れていた。

 

工房の主はその効率的かつ正確無比な文字の複製方法に、長年使い込んできた金槌を思わず取り落としそうになるほど目を見張った。

「こ、こいつは…驚いた。今まで、書物を増やすにゃあ、気の遠くなるような時間と手間をかけて手で書き写すか、あるいは大雑把な木版で一枚一枚刷るくらいしか知らなかったが…こんな、まるで魔法みてえなやり方があったとは。旦那、一体全体、どこでこんな途方もねえ技術を…?」

 

カシアンは、まるで何の変哲もない道具の手入れでもするかのように、指先で活字の一つを弄びながら、こともなげに答えた。

「…ああ、これですか。ガルグ=マク大修道院の、あの埃っぽい禁書庫の奥深くに、忘れ去られたように眠っていましたよ。何かの手違いで紛れ込んだのか、あるいは意図的に隠されていたのか…古い書物の中に、この『活字組版』という技術の記述がね」

 

工房の主はその技術の革新性に深く感心しつつも、ふと眉間に深い皺を寄せた。

「ガルグ=マク、でございますか…。しかし旦那。セイロス教会が、こんなに便利で、しかも別に危険があるようにも思えねえ画期的な技術を、なんでまた禁書扱いなんぞにして、人目につかないように隠していたんでしょうかねぇ? 旦那には、その理由がお分かりになりますかい?」

 

カシアンは、工房の薄暗い隅で燃える炉の炎に視線を送り、しばし沈黙した後、静かに、しかしその言葉には確信にも似た響きを込めて言った。

「新しい知識や、多様な思想が、民草の間に急速に広まることを恐れたのでしょう。人々が自ら学び、考え、賢くなれば、教会の教えや、その絶対的な権威に疑問を抱く者も必ず出てくる。彼らがフォドラを支配し続けるには、そうした『余計な知識』は不要だった…いえ、むしろ、危険で邪魔なものだったのですよ」

 

工房の主は、カシアンのその言葉に何かを感じ入ったかのように、しばらくの間、押し黙っていた。そして、カシアンが提示した活字のサンプルや、印刷機の設計図を改めて手に取り、その精緻な構造を、長年培ってきた職人の目でじっくりと確かめるように眺め始めた。

 

やがて、カシアンが静かに問いかけた。

「…それで、親方。この活字と、それを使うための印刷機、作れそうですかな? まずは試作品で構いません。実用的なものが量産できるかどうか、見極めたいのです」

 

工房の主は、カシアンの顔をじっと見つめ返した。その皺だらけの顔には、長年この道一筋で生きてきた職人の誇りと、そして目の前にある未知の技術への尽きない好奇心、挑戦心が、まるで炉の炎のように赤々と宿っていた。彼は、力強く、そしてどこか楽しそうに頷いた。

「おう、任せときな、旦那。これほどの面白い仕事は、ここ何十年もお目にかかっちゃいねえ。必ずや、旦那の期待に応える逸品を、このわしが打ち上げてみせらあ!」

 

カシアンはその頼もしい言葉に満足そうに頷いた。彼の頭の中には、この活版印刷という新たな武器を使って、どのような書物を複製し、誰に届け、そしてこの戦乱のフォドラにどのような変化の種を蒔くかという、壮大にして緻密な計画が、既に音もなく描かれ始めていた。それは時には武力による直接的な支配とは異なる、知識と思想による静かで、根源的な革命の狼煙となる。

 

 

 

 

カシアン領の仮領主館、その一室は、活版印刷の工房とはまた別の、硝煙と薬品の匂いが微かに漂うカシアンの私的な研究室と化していた。壁にはフォドラ各地の地質図や鉱脈図が所狭しと貼られ、テーブルの上には得体の知れない鉱石や薬品の瓶、そして爆薬の配合に関するメモ書きと思われる羊皮紙が散乱している。ロングアーチの量産化には成功し、王国軍の第一次侵攻は何とか退けたものの、カシアンの思考は既に次の、より確実で破壊的な防衛手段へと向いていた。

 

その日、彼はバルタザールと、アビスの中でも特に腕っぷしが強く、忠誠心の高い兵士数名を研究室に呼び集めた。バルタザールは、相変わらずの屈強な肉体に、先の防衛戦で負ったであろう新しい傷跡を誇らしげに刻みつけ、カシアンの言葉を待っている。他の兵士たちも、この異質な教師の次なる指示に、緊張と期待の入り混じった表情を浮かべていた。

 

カシアンは、テーブルに広げたガルグ=マク周辺の古い地質図の一点を、煤で汚れた指先でトントンと叩いた。

「諸君、集まってもらったのは他でもない。我が軍の防衛力を、そして攻撃力を飛躍的に向上させるための、新たな『力』を手に入れるためだ」

その声は静かだったが、確かな熱量を帯びていた。

 

「…また何かヤバそうなもんでも作る気か、センセ?」

バルタザールが、ニヤリと口の端を上げて尋ねる。彼の知るカシアンは、常に常識の斜め上を行く発想で、危機を乗り越えてきた男だ。

 

「ヤバい、かどうかは使い方次第だがね」カシアンは肩をすくめた。

「私が次に目を付けているのは、爆薬だ。それも、これまでのものとは比較にならないほど、安定し、かつ強力な新型のな。先の戦いで痛感したはずだ。より広範囲を、より確実に制圧できる手段が必要となる」

 

彼は言葉を続ける。その瞳には科学者のような探究心と、軍略家としての冷徹な計算が同居していた。

「その新型爆薬を量産するためには、いくつかの特殊な原材料が不可欠となる。その一つが、高品質な硝石。そしてもう一つが硫黄だ。これらを特定の比率で、木炭と精密に混合することで、従来の黒色火薬を遥かに凌駕する破壊力を生み出すことができる」

 

カシアンは地質図の特定箇所――ガルグ=マク大修道院から北東、峻険な山々が連なる、普段は人の寄り付かない山岳地帯――を指し示した。

「この古い調査記録によれば、このガルグ=マク近辺の山…特に、この洞窟群の奥深くには、純度の高い硝石と硫黄の鉱脈が、手付かずのまま眠っているはずだ。セイロス聖教会がその存在を把握しつつも、その危険性などから、意図的に封印してきたのだろう」

彼はバルタザールと兵士たちに向き直り、きっぱりとした口調で命じた。

「バルタザール、君とここにいる精鋭たちには、この場所へ赴き、可能な限りの硝石と硫黄を採掘し、安全にこの拠点まで持ち帰ってもらいたい。これが我々の次なる戦いを左右する、極めて重要な任務となる」

 

その言葉に、アビスの兵士たちは「おう!」と力強く応じたが、バルタザールだけは、少しばかり眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。

「おいおい、カシアン。ガルグ=マクの聖域じゃねえか。そんな場所で爆薬の材料なんぞを大っぴらに掘り起こして、教会の連中に見つかったらどうする? ただでさえ、あんたは教会に目をつけられてるんだろう?」

彼の懸念はもっともだった。セイロス聖教会は、その教義に反するような技術や知識、そしてそれらに繋がる資源の管理に対し、極めて厳しい姿勢を取ってきた。もし彼らの「聖域」とも言える場所で、そのような危険物を採掘していることが露見すれば、ただでは済まないだろう。

 

しかしカシアンはバルタザールのその懸念を、まるで取るに足らないことであるかのように、鼻で笑い飛ばした。

「バルタザール、君の心配はもっともだ。だが状況は変わったのだよ」

彼は窓の外――ガルグ=マクの方角へと視線を送り、その声には確信が込められていた。

「思い出してみろ。レアを筆頭とするセイロス聖教会の中枢は、先のガルグ=マクの戦いで帝国軍に敗れ、今はファーガス王国へと撤退し、傷を癒やすのが最優先。まだガルグ=マクに残っているのは、日和見を決め込む一部の修道士くらいのものだろう。」

彼は続けた。その口調は、冷徹な現実認識に基づいていた。

「それに我々はもはや、教会の顔色を窺って行動する必要などどこにもない。帝国が教会に宣戦布告した時点で、我々もまた、彼らとは明確に敵対する立場となったのだからな。むしろ彼らが隠してきた『力』を我々が手に入れ、それを利用して彼らの息の根を止めることは、戦略的に見ても理に適っている」

 

カシアンはテーブルの上の別の図面――カシアン領の新たな防衛計画図――を広げた。

「もちろんリスクがないわけではない。王国軍も、そしていつ再起するやもしれぬ教会軍も、常に我々の動きを警戒しているだろう。だからこそ、この新型爆薬は、我々の領土を防衛するための切り札となる。この町の城壁をさらに強化し、巧妙な罠を仕掛け、敵を誘い込み、そして一気に殲滅する…そのための『牙』だ。それに…もはや我々に躊躇している時間はないのだよ」

 

カシアンの言葉には、有無を言わせぬ力があった。バルタザールはしばらくの間、カシアンのその揺るぎない瞳を見つめていたが、やがて大きく息を吐くと、ニカッと不敵な笑みを浮かべた。

「へっ、相変わらず口が上手えな、センセは。分かったよ。そこまで言うなら、俺も腹を括るしかねえか」

彼は立ち上がり、屈強な拳をカシアンの前に突き出した。

「よし、そのヤバそうな鉱石、俺たちが根こそぎ掘り出してきてやるぜ! 任せとけ!」

 

アビスの兵士たちもバルタザールのその言葉に勇気づけられたかのように、再び力強い雄叫びを上げた。彼らの目には危険な任務への覚悟と、カシアンという指揮官への信頼が宿っていた。

カシアンは彼らのその反応に満足そうに頷くと、採掘に必要な道具のリスト、運搬経路の指示、そして万が一の事態に備えての連絡方法などを、手際よく詳細に説明し始めた。彼の頭脳は、既に爆薬の量産化とその運用、そしてそれによってもたらされるであろう戦局の変化までをも、冷静に見据えているかのようだった。

 

フォドラの辺境で、歴史の闇に埋もれようとしていた危険な知識と技術が、今、カシアンという異端の教師の手によって再び掘り起こされ、戦乱の世に新たな嵐を呼び起こそうとしていた。

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