カシアンの領地が、息を取り戻しつつあった頃。帝都アンヴァルに送った物資支援の要請に対する返答として、待望の援軍の第一陣が到着した。それはカシアンが特に「空を自在に駆け、高い機動力を有する部隊を、可能な限り多く」と要望していた、まさにその通りの戦力だった。
領地の上空に、風を切る音と共に、多数のペガサスと数騎の屈強なドラゴンの影が舞い降りた。その先頭に立ち、見事な手綱さばきで愛竜を操っていたのは、フォドラの空に鮮やかな異国の色彩を放つ、ブリギットの王女ペトラだった。褐色の肌に精悍な顔つき、その身に纏うは故郷の戦士の装束。彼女はエーデルガルト皇帝の信頼も厚い、帝国の重要な将の一翼を担う存在だ。
「カシアン、待たせた。帝都より、援軍、来た。あなたの要望、エーデルガルト皇帝、聞き届けた」
ペトラはペガサスから軽やかに飛び降りると、カシアンの前に立ち、フォドラの共通語にまだ少し残る独特のアクセントで、しかし力強く告げた。その瞳はブリギットの太陽のように真っ直ぐで曇りがない。
カシアンは長旅の労をねぎらう型通りの挨拶もそこそこに、すぐに執務室の大きな机の上に広げられた一枚の羊皮紙――彼が数日徹夜して練り上げたであろう、新たな軍事計画の概要書――を指し示した。
「ペトラ殿、遠路遥々ご苦労様です。早速で恐縮ですが、これに目を通していただけますかな」
ペトラはその羊皮紙に描かれた新しい飛行部隊の活用方法、また簡潔ながらも奥深い意味を秘めた文字の羅列に、最初は訝しげな表情を浮かべていた。しかしカシアンが指し示す要点を追いながら読み進めるうちに、その表情は驚愕へと変わり、やがて信じられないといった面持ちでカシアンを見上げた。
「カシアン…これ、本気、言っている? 本当に、人間の力、できる、ですか?」
彼女の声には、計画の斬新さと大胆さに対する畏敬の念と、そしてわずかな疑念が混じっていた。
カシアンは、頭巾の下で静かに頷いた。
「ええ、できます。理論上はですが。しかしこの計画を成功させるためには、あなたとその飛行部隊の、他者の追随を許さぬ卓越した飛行技術と、精密な位置の把握が、絶対不可欠となります。…そして、その前の、地道で過酷な訓練と、念入りな準備もね」
そしてカシアンは、工房から運び出されてきたばかりの、木箱に厳重に梱包されたいくつかの「機械」を指差した。
「まずは訓練がてら、これらの物資を秘密裏に構築を進めている川の向こう側の拠点まで、迅速かつ安全に運んでもらいたいのです。敵の勢力圏に近いですが、あなた方の飛行部隊ならば、素早く安全に届けることが可能でしょう。これが我々の計画の第一歩です」
ペトラはカシアンの瞳の奥にある揺るぎない確信と、彼が語る計画の壮大さ、そしてそれが成功した暁にもたらされるであろう計り知れない戦術的優位を、瞬時に理解した。彼女の胸には、ブリギットの戦士としての血が騒ぐのを感じた。
「承知。カシアン、計画、とても面白い。私、誇り高き戦士たち、この命運を賭けて、全力で協力する。その『機械』、必ずや、届ける」
そう言うと、ペトラは少しもためらうことなく部下の飛行兵たちに指示を出し、精密機械の梱包状態を入念に確認させ、ドラゴンやペガサスへの搭載準備を迅速かつ的確に開始させた。その動きには、一切の無駄も迷いもなかった。カシアンは、ペトラとその部隊の規律正しく、そして活力に満ちた動きを、静かに見守っていた。
ペトラ率いるブリギットの飛行部隊が、カシアンから託された「精密機械」を積み込み、北の山岳地帯へと飛び立っていった数日後。帝都アンヴァルから派遣された、カシアンが要請していた援軍の第二陣が、物々しい雰囲気と共に領地に到着した。
陣地の入り口に現れたその一団を見て、カシアンは思わず頭巾の下で盛大に顔をしかめ、小さく舌打ちをした。そこに立っていたのは、不吉な漆黒の全身鎧に身を包み、見る者全てを威圧するような禍々しいオーラを放つ男――かつて幾度となく戦場でその凶刃を振るい、敵味方双方から恐れられた死神騎士、イエリッツァの姿だった。彼の傍らには、彼に劣らず屈強で、主君同様に感情の読めない重装騎兵が数騎、影のように控えている。
「……ちっ、よりによって、なんでこいつなんだ……。エーデルガルド陛下も、人が悪いにも程がある」
カシアンのぼやきは、ほとんど独り言に近かったが、死神騎士の鋭敏な聴覚はそれを捉えていたらしい。
「フン…それはこちらの台詞でもあるな。まさか、お前のような得体の知れない男の下で、一時的にでも剣を振るうことになるとは、夢にも思わなかった」
仮面の奥から響くイエリッツァの声は、冬の北風のように冷たく、隠しようもない嫌悪と侮蔑の色を滲ませていた。
「だが、これも皇帝陛下の勅命。そしてお前自身が『強力かつ迅速な打撃力を有する騎馬戦力』を帝都に要望した結果であろう。俺とその配下の者たちは、その任に最も適していると判断されたまでのことだ」
その言葉には彼なりの歪んだ騎士道精神と、自らの戦闘能力に対する絶対的な自負が垣間見えた。
カシアンはイエリッツァの嫌味を柳に風と受け流し、執務机の上に広げられたフォドラ西部の広域地図を無感情な指先で叩きながら事務的に、有無を言わせぬ口調で指示を出し始めた。
「…まあいい。貴様の個人的な感情や、俺に対する評価など、今はどうでもいいことだ。ユーリスたちが現在、王国軍の後方奥深くで、敵の補給線の寸断と、重要拠点の攪乱作戦を展開している。貴様にはその部隊に可及的速やかに合流し、彼らの任務を支援してもらいたい。具体的な合流地点や連携方法については、ユーリスに直接聞け。彼の方が、お前のような戦馬鹿より、よほど上手く状況を判断し、的確な指示を出せるだろうからな」
そしてカシアンは地図から顔を上げ、イエリッツァの仮面を真っ直ぐに見据えて付け加えた。その声には、一切の感情が乗っていなかった。
「目標は、敵の補給能力の徹底的な破壊と、後方における継続的な混乱の創出だ。その過程において、敵兵の生死は問わん。殺したければ殺せばいいし、恐怖を与えて見逃したければそうすればいい。結果さえ出せば、その手段や過程は貴様の自由に任せる。ただし、無用な虐殺や略奪行為は禁ずる。」
イエリッツァはカシアンのその言葉に、仮面の奥でわずかに唇の端を吊り上げたのが分かるような、不気味な気配を漂わせた。
「フン…死神に獲物の生死を問わぬとは、随分と面白いことを言う。だが前線で敵を狩ること自体は、俺の性に合わんこともない。ユーリスとかいう、アビスの小僧の指揮下に入るのは少々癪だがな…まあいいだろう」
彼はそう吐き捨てるように言うと、傍らに控える部下の重装騎兵たちに顎で合図し、カシアンに一瞥もくれることなく、その漆黒の巨体を翻して作戦地域へと向かっていった。その背中からは、戦いへの抑えきれない渇望と、酒で燃やされたカシアンへの根深い反感が、まるで黒いオーラのように立ち昇っていた。
カシアンは死神騎士の去っていく後ろ姿を、頭巾の下の冷めた目で見送っていた。確かに、これ以上なく厄介で、危険極まりない駒ではある。しかしその戦闘能力は間違いなく本物であり、今のカシアン領にとっては喉から手が出るほど必要な戦力でもあった。彼がユーリスたちと合流することで、王国軍の後方は、さらに大きな、そしてより絶望的な混乱に陥るだろう。
フォドラのとある街、その日の仕事を終えた者たちや、次の仕事を求める者たちで賑わう酒場は、熱気と喧騒に包まれていた。木のテーブルにはエールのジョッキが並び、あちこちで威勢の良い話し声や笑い声が上がっている。
そんな中、店の隅にあるテーブルでは、数人の傭兵たちが声を潜めながらも興奮した様子で話し込んでいた。
「おい、聞いたか? 王国軍の連中が、帝国のどっかの領地でとんでもねえ目に遭ったって話だ」
年かさの、顔に古い傷跡のある傭兵が、周囲を見回しながら切り出した。
「ああ、カシアンとかいう新しい貴族の領地だろ? なんでも、あの王国の指揮官のことごとくが捕まったとか」
若い傭兵が、目を丸くして応じる。
「それだけじゃねえ。聞いた話じゃ、一個方面軍がまるまる壊滅状態らしいぜ。生き残った奴らは、武器も鎧も放り出して、幽霊みたいになって逃げ帰ってきたってよ」
別の傭兵が、ゴクリと喉を鳴らしながら付け加えた。彼の顔には、噂の真偽を測りかねるような、それでいてどこか恐怖を煽られたような表情が浮かんでいる。
「一体どんな手を使ったんだ? 魔法か? それとも、とんでもない数の罠でも仕掛けてたのか…」
「“炎だらけだった”とか、“どこもかしこも罠だった”とか言ってるらしいぜ、逃げてきた兵隊は。中には、“降伏しろって声が頭から離れねえ”って魘されてる奴もいるとか…気味が悪ぃ」
彼らの脳裏には、常識では考えられないような戦場の光景が広がっていた。それは、これまでの経験からは想像もつかない、異質で冷酷な戦術の匂いを漂わせていた。
その時、一人の傭兵が壁に目をやった。そこには、いくつかの古い手配書やギルドの依頼書に混じって、一枚の比較的新しい羊皮紙が掲示されている。
「ん? ありゃなんだ? 新しい募集か?」
彼は席を立ち、その張り紙に近づいた。他の傭兵たちも興味深そうに彼を見守る。
張り紙には、力強いがどこか無機質な筆跡でこう書かれていた。
『傭兵募集:カシアン領防衛隊』
『条件:戦闘経験者優遇。日当はフォドラ標準相場より2割減。ただし特典として、領内指定酒場にて一日三杯まで酒類を無償提供する』
「おいおい、なんだこりゃ? 日当はちょいと安めだが…」
張り紙を読んでいた傭兵が、首を傾げながら戻ってきた。
「酒がタダで三杯だと? そいつは本当か!?」
別の傭兵が、目を輝かせて身を乗り出す。彼にとって、日当の多少の増減よりも、日々の酒代の方が切実な問題だった。
「ああ、そう書いてある。カシアン領…さっき話してた、あの王国軍をコテンパンにしたっていう領地だよな?」
「へえ…気前がいいのか、それとも何か裏があるのか…」
「だがよ、腕に覚えがあって、タダ酒にありつけるってんなら、悪くねえ話かもしれねえぜ? あんな化け物じみた戦果を上げるってことは、指揮官は相当なキレ者なんだろうしな」
顔に傷のある傭兵が、腕を組んで唸る。彼の脳裏には、恐怖と同時に、そんな指揮官の下で働くことへのある種の興味も湧き上がっていた。
「確かに、そんな指揮官なら、無駄死にさせられることはねえかもしれねえな」
「よし、俺はちょっと話を聞きに行ってみるぜ! タダ酒三杯は魅力だ!」
若い傭兵の一人が勢いよく立ち上がった。それに続くように、何人かの傭兵たちが、期待と少しの不安を胸に、カシアン領への道を思い描き始めていた。酒場の喧騒の中で、新たな運命の歯車が、静かに回り始めようとしていた。