道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1185年春 調略

カシアンの領地――アドラステア帝国より正式にその統治を認められた、ガルグ=マク西方に位置するその町は、今や帝国と王国間の最前線の一つとして、常に緊張の糸が張り詰めていた。以前の貴族の館は、カシアンの手によって司令部兼研究室へと改装され、その一室、普段は軍議やアビスの幹部たちとの密談に使われるであろう広間が、今日は異様な雰囲気の「教室」と化していた。

 

集められたのは、カシアンが最も信頼し、そしてその特殊な能力を高く評価する者たち。ユーリス、ハピ、バルタザール、コンスタンツェといったアビスの四駿。最近援軍として帝都より派遣されてきた、ブリギットの王女ペトラ。そして、その場にいる誰よりも異彩を放ち、部屋の隅の暗がりにまるで亡霊のように佇むのは、死神騎士イエリッツァだった。その他アビスの中でも特にカシアンが「適性あり」と判断した数名が、緊張した面持ちで席に着いている。

 

教壇というよりは大きな作戦卓の前に立ったカシアンは、集まった面々をゆっくりと見渡した。彼の顔は頭巾で半分隠され、その表情は読み取りにくいが、瞳の奥にはいつもの冷徹な光とは別に、どこか楽しんでいるかのような、あるいは新たな「実験」に臨む学者のような奇妙な熱が宿っていた。

 

「皆さん、お集まりいただき感謝します。本日は、通常の戦術訓練とは少し趣の異なる、特別な講義を行いたいと思います」

カシアンの声は静かだったが、広間の隅々まで染み渡るような響きを持っていた。

「テーマは、『敵国に対する情報戦の展開、並びに内通及び裏切りの誘発方法について』です」

 

その言葉が発せられた瞬間、アビスの者たちの間には微かな動揺が走った。彼らは裏社会の住人として、騙し合いや裏切りには慣れているはずだったが、それを「戦術」として体系的に学ぶというのは、また別の話だ。ペトラは、その真紅の瞳をカシアンに向け、真剣な表情で彼の言葉に耳を傾けている。イエリッツァは、依然として壁に寄りかかったまま微動だにせず、仮面の奥の視線はどこを見ているのかも定かではない。

 

「まず、情報戦について」カシアンは、作戦卓の上に広げられたフォドラの地図を指し示した。

「直接的な武力衝突が戦いの全てではありません。むしろ、戦わずして敵を弱体化させ、あるいは自壊させることこそが、最も効率的な勝利と言えるでしょう。そのための強力な武器が、情報です」

 

彼は続ける。

「情報戦の基本は、敵の目と耳を欺き、その思考を我々の望む方向へと誘導すること。そのために用いる手段は多岐にわたります。例えば、敵国内に意図的に偽の情報を流布させる。それは、軍の配置に関する虚偽の報告であったり、指導者に対する不信感を煽るような悪意ある噂であったり、あるいは経済的な混乱を引き起こすための偽の市場情報かもしれません」

 

ユーリスが、腕を組みながら皮肉っぽく口を挟んだ。

「へっ、まるでアビスのゴロツキがやるような手口じゃねえか、センセ。違うのは、規模が国単位ってことくらいか」

 

「その通りです、ユーリス」カシアンは頷いた。

「手法そのものは、古今東西、小規模な諍いから国家間の戦争に至るまで、本質的に変わりません。重要なのは、その情報の『信憑性』をいかに高めるか、そしてどの『経路』で、どの『対象』に向けて流すか、です。時には真実の情報の中に巧妙に嘘を織り交ぜることで、全体の信憑性を高めるという手法も有効でしょう。あるいは敵が最も信頼している情報源を逆用し、そこから偽情報を流させることも考えられます」

 

ハピが、いつものように気だるげなため息をついた。

「なんか聞いてるだけで頭が痛くなってくるんだけど。嘘とか噂とか、そういうネチネイチしたのは苦手なんだよねぇ。もっとこう、ドカーンと一発で終わらせられないわけ?」

 

「物事には順序と、適切な手段というものがあります、ハピ」カシアンは諭すように言った。

「敵の士気を低下させ、内部に不和の種を蒔き、民衆の支持を失わせる…これらは直接的な戦闘で敵兵を一人殺傷するよりも、時には遥かに大きな効果をもたらすのです。例えば、敵国の兵士たちが『我々の指導者は無能だ』『この戦いに大義はない』『降伏すれば手厚い保護が受けられる』といった情報を繰り返し耳にすれば、彼らの戦意はどうなるでしょうか? 武器を取って戦う前に、心が折れてしまう者も出てくるはずです」

 

ペトラが少し考え込むようにして口を開いた。彼女の言葉は、まだ少し辿々しいが、その内容は鋭かった。

「カシアン…その、偽りの情報、広める方法、難しい。ブリギット…私の故郷、小さい。大きな国、情報、どうやって隅々まで?」

 

「良い質問です、ペトラ殿」カシアンは頷いた。

「大規模な国家に対して情報戦を仕掛ける場合、吟遊詩人、旅の商人、あるいは巡礼者を装った密偵などを活用し、彼らに噂や歌、物語といった形で情報を広めさせるのが古典的かつ効果的な手法の一つです。また敵国内の不満分子や、教会と対立する勢力など、我々と利害が一致する可能性のある集団と接触し、彼らを情報拡散の協力者として利用することも考えられます。そして忘れてはならないのが、先ごろ私が導入した『活版印刷』の技術です。これにより特定の思想や情報を記したビラや小冊子を大量に複製し、秘密裏に敵国内に持ち込み、配布することも可能になるでしょう。文字の力は、時に剣よりも雄弁であり、そして根深く人々の心を侵食するのです」

 

カシアンはそこまで語ると一度言葉を切り、集まった者たちの反応を確かめるように見渡した。アビスの者たちはカシアンの語る非情な戦術に、ある者は感心したように、ある者は僅かな嫌悪感を浮かべながらも、真剣に聞き入っている。ペトラは、その内容を自身の故郷の未来と重ね合わせているのか、厳しい表情で何かを深く思考している。

 

そして、カシアンは次のテーマへと移った。

「さて情報戦によって敵の内部を揺さぶり、弱体化させたならば、次なる段階は、敵組織の中から『協力者』…すなわち、内通者や裏切り者を作り出すことです」

 

その言葉に広間の空気が一層重くなった。仲間を裏切らせる――それは、情報戦以上に人の心の闇に深く踏み込む行為だ。

「敵を内部から崩壊させる上で、これほど効果的な手段はありません。しかしこれにはより高度な洞察力と、緻密な計画、そして何よりも人間心理に対する深い理解が求められます」

 

カシアンは壁に貼られた敵国の組織図や主要人物のリストを指し示した。

「まずターゲットの選定です。誰が我々にとって最も『価値のある』情報を提供できるか、あるいは誰が組織の意思決定に影響を与えうる立場にいるか。それと同時に、誰が最も『裏切りやすい』かを見極める必要があります」

 

「裏切りやすい人間とは、どのような者か」カシアンは問いかけるように続ける。

「それは金銭に困窮している者、現在の待遇や地位に不満を抱いている者、野心は強いが評価されていないと感じている者、個人的な恨みや復讐心を抱いている者、あるいは、敵国の掲げる大義やイデオロギーに、密かに疑問を感じ始めている者…人間の弱さや欲望、あるいは信念の揺らぎ、それら全てが、我々にとっては利用可能な『隙』となるのです」

 

バルタザールが、腕を組みながら唸った。

「なるほどな…金か、地位か、恨みか。確かに、そういうもんに釣られてフラフラする奴はどこにでもいるもんだ。だがよ、カシアン。どうやってそいつらを見つけ出し、そして確実にこっちに引き込むんだ? 下手すりゃ、こっちが罠にかけられることだってあるだろう」

 

カシアンは冷静に答えた。

「その通りです、バルタザール。ターゲットの選定とその後の接触、そして懐柔工作は極めて慎重かつ段階的に進める必要があります。まずは徹底的な情報収集。対象の性格、趣味嗜好、交友関係、金の流れ、秘密の会合、そして何よりもその人物が抱える『弱み』や『隠された欲望』を、あらゆる手段を用いて洗い出すのです。そのためには、潜入工作員による直接的な観察、買収した情報提供者からのリーク、あるいは時には敵のゴミ箱を漁るような地道な作業も厭わない覚悟が必要です」

 

コンスタンツェが、扇子で口元を隠しながら、芝居がかった口調で言った。

「まあ、下衆なやり方ですこと。ですがそのようなものにも対応できてこその貴族ですわね。」

彼女の瞳はこの禁断の知識に対する、どこか倒錯した好奇心に輝いていた。

 

カシアンはコンスタンツェの言葉には特に反応せず、続けた。

「ターゲットの弱みを完全に把握したならば、次はいよいよ接触です。最初は偶然を装った出会いや、第三者を介した間接的な打診から始めるのが定石でしょう。そして徐々に信頼関係を構築し、相手の警戒心を解きながら、少しずつ我々の『提案』を匂わせていくのです。金銭による買収、地位の保証、あるいは抱えている問題の解決を手助けするといった『飴』。時には握っている弱みをちらつかせ、脅迫するという『鞭』も必要になるかもしれません。最も効果的なのは、その両方を巧みに使い分け、相手を心理的に追い込み、我々に協力する以外の選択肢がない、という状況を作り出すことです」

 

「そして一度『協力者』となった人間は、徹底的に利用し尽くす。彼らを通じてさらなる情報を得たり、偽情報を流させたり、あるいは組織内で我々に有利なように動いてもらう。時には、二重スパイ…ダブルエージェントとして敵を欺き、より大きな成果を得ることも可能でしょう。ただし、常に忘れてはならないのは、裏切り者は、いつか必ず再び裏切る可能性があるということです。彼らに対する監視と、万が一の裏切りに備えた対策は、決して怠ってはなりません」

 

カシアンの講義は、一切の感情を排し、ただ淡々と恐ろしいほど具体的に、人の心を操り、組織を内部から蝕むための技術を語っていた。その内容は、騎士道や正義といった概念とはあまりにもかけ離れた、戦場のもう一つの、より暗い側面を浮き彫りにするものだった。

 

広間に集まった者たちは、言葉を失い、カシアンのその言葉に聞き入っていた。ペトラは、その知識が自国を守るために、あるいは敵国を打ち破るために、いかに強力な武器となり得るかを痛感し、真剣な表情でメモを取っている。ユーリスやバルタザール、ハピ、コンスタンツェといったアビスの面々は、カシアンの語る内容に、ある者は既視感を、ある者は新たな戦慄を、そしてある者は底知れない興奮を覚えていた。

 

ただ一人、部屋の隅の暗がりで微動だにしなかったイエリッツァだけは、その仮面の奥で何を考えていたのか、誰にも窺い知ることはできなかった。あるいは、彼にとって、このような人の心の機微を弄ぶような戦術は、血と鉄がぶつかり合う直接的な戦闘に比べて、あまりにも些末で、興味を引かないものだったのかもしれない。それとも、彼自身が抱える心の闇とカシアンの語る人間の暗部が、どこかで静かに共鳴していたのだろうか。

 

カシアンは一通り話し終えると、集まった者たちを見渡し、最後にこう締めくくった。

「情報戦、そして内通工作。これらは決して華やかな戦術ではありません。むしろ、泥臭く、人の心の最も醜い部分に触れる行為です。しかし正しく理解し、効果的に用いることができれば、最小限の犠牲で、最大の戦果を上げることが可能となる。そして、これから我々が直面するであろう戦いは、おそらく、このような『見えざる戦い』の比重が、ますます大きくなっていくでしょう。諸君らには、この知識を、ただ知るだけでなく、実戦で活用できるレベルにまで高めてもらいたい。今日の講義は、そのための第一歩です」

 

教室はカシアンの言葉が残した重い余韻と、集まった者たちの複雑な思惑が入り混じった、濃密な沈黙に包まれていた。それは、彼らがこれから足を踏み入れるであろう、より深く、そしてより危険な戦いの始まりを予感させるものだった。

 

 

 

 

カシアンによる「情報戦と裏切り誘発」の特別講義から数日後。彼の司令部兼研究室には、当の本人と、アビスのリーダーであるユーリス=ルクレールの二人の姿があった。部屋の中央に置かれた大きな作戦卓には、ファーガス神聖王国の西部、カシアン領に隣接する地域を中心とした詳細な地図が広げられ、その上には無数のメモや、密偵からもたらされたのであろう報告書が散らばっている。カシアンは頭巾の奥で鋭い視線を地図に落とし、ユーリスは腕を組みながら、そのカシアンの分析を待っていた。

 

「さて、ユーリス」カシアンが静かに口火を切った。

「先日の講義で述べた理論を、いよいよ実践に移す時が来ました。我々の当面の目標は、このカシアン領に隣接する王国側の領主、あるいは有力者の中に、我々に『協力』してくれる可能性のある人物を見つけ出し、接触することです」

 

ユーリスは肩をすくめた。

「へっ、言うのは簡単だがな、センセ。連中も馬鹿じゃねえ。今のこの状況で、帝国に与するような動きを見せれば、どうなるかくらい分かってるだろうよ。それに、王国の貴族ってのは、妙なところで頑固で、誇り高い連中が多いからな」

 

「ええ、承知しています。だからこそ、慎重なターゲット選定が不可欠となるのです」

カシアンは、地図上のある一点を指で示した。そこはカシアン領との国境に位置する、比較的小さな貴族の領地だった。

「例えばこの男爵。男爵自身は凡庸で、特に目立った才覚もないと報告されていますが、その一方で若い頃から賭け事を好み、近年はかなりの額の借金を抱えているとの情報があります。金銭的な困窮は人の判断を容易に狂わせるものです」

 

次に彼は別の地点を指す。

「あるいは、こちらの子爵家。現当主は野心家で、自身の家格を上げることに執着しているようですが、王国内での発言力は弱く、常に不満を燻らせているとか。彼のような人物には、『より大きな力』や『栄誉』をちらつかせれば、案外簡単に食いついてくるかもしれません」

 

カシアンはまるで獲物を選ぶ狩人のように、淡々と候補を挙げていく。彼の分析は、先日彼自身が講義した「人間の弱み」を的確に突いたものだった。

「ゴーティエ辺境伯やガラテア伯といった、名家中の名家、あるいは騎士道精神に凝り固まったような連中は、現時点では調略の対象としては不適切でしょう。彼らは結束もあり、我々の誘いに乗ってくる可能性は極めて低い。狙うべきは、より小規模で、内部に何らかの『歪み』を抱えている場所です」

 

ユーリスは、カシアンの挙げた名前や領地の情報を、アビスで培った裏社会の知識と照らし合わせながら聞いていた。

「こいつの賭博狂いは俺も聞いたことがあるな。確かに、金で転ぶ可能性は高そうだ。野心家ってのも、扱いやすそうではあるな。だが、どいつもこいつも小者ばかりだ。もっとこう、戦略的に価値のある場所…例えば、あの鉄壁の要塞都市、アリアンロッドあたりに手を出すってのはどうだ? あそこを内部から切り崩せれば、王国西部を一気に叩ける……」

 

ユーリスのその提案に、カシアンは一瞬だけ沈黙した。アリアンロッド――王国西部の最重要拠点であり、帝国軍にとっても目の上のこぶのような存在だ。確かに、そこを落とせれば戦局は大きく動く。だがエーデルガルトとヒューベルト曰く、当主のコルネリアは闇に蠢くものの一員だ。仲間にも公開は禁じられた情報だが、奴らは特殊な魔法も利用でき、下手に動くことができない。

 

だがカシアンが何かを言いかける前に、ユーリス自身が苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。

「…いや、やっぱりアリアンロッドは無しだ、センセ。あそこはダメだ。絶対に手を出しちゃいけねえ」

 

「ほう? 何か理由でも?」カシアンは興味深そうに聞き返した。

 

ユーリスは、まるで思い出したくもない記憶でも辿るかのように、顔をしかめて言った。

「アリアンロッドの現領主は、あのコルネリアだろ? 表向きは穏やかな魔道士を装ってるが、あの女の腹の中は真っ黒だ。アビスにいた頃、何度か彼女の『裏の仕事』について聞いたがあるが…あの女は、目的のためなら平気で仲間を切り捨てるし、敵対する者は徹底的に、それこそ根絶やしにするまで追い詰める。そのやり口は、そこらの悪党よりもよっぽどえげつないぜ」

彼の声には、コルネリアという女に対する、本能的な恐怖と嫌悪が滲んでいた。

 

「それにコルネリアだけじゃねえ。アリアンロッドには、他にも素性の知れない、やたらと腕の立つ連中や、得体の知れない魔道士どもが何人も出入りしてるって噂だ。それこそ、俺たちアビスの人間でも、迂闊に手を出したら最後、生きては帰れねえような、本物の『やばい奴ら』の巣窟だよ。あそこだけは、関わらない方が身のためだぜ、センセ」

 

カシアンは内心ほっとしつつ、ユーリスのその言葉に静かに頷いた。アリアンロッドのコルネリア。彼女については、カシアン自身も帝国側からいくつかの不穏な情報を得ていた。ユーリスの警告は、その情報の信憑性をさらに高めるものだった。

「…分かりました。アリアンロッドは、現時点では我々の調略対象から除外しましょう。リスクとリターンが見合わない」

 

カシアンはそう結論付けると、再び地図に視線を戻した。

「では、それ以外の、より『攻略可能』なターゲットについて、さらに詳細な情報を集め、それぞれの脆弱性を徹底的に分析する必要があります。ユーリス貴方には、例の男爵と子爵、そしてその周辺のいくつかの小領主について、彼らの金の動き、交友関係、そして何よりも『隠されたスキャンダル』について、アビスの情報網を駆使して可能な限り詳細に洗い出してもらいたい。我々が彼らに『提案』を持ちかける際の、重要な『交渉材料』となるはずですからね」

 

カシアンの瞳の奥に、再び冷徹な計算の光が灯る。ユーリスはやれやれといった表情で肩をすくめながらも、その目に鋭い光を宿してカシアンの指示に頷いた。彼らの「見えざる戦い」は、今、新たな標的を見据えて、静かに動き出そうとしていた。

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