王国貴族の調略という、裏工作の算段を終えた数日後。カシアンは自室で領地の防衛計画の最終調整と、先日量産体制に入ったロングアーチの改良案に没頭していた。部屋にはインクと羊皮紙の匂い、そして彼が時折口にする薬草茶の微かな香りが漂っている。
そこへ珍しく神妙な面持ちでユーリスが訪れた。彼はカシアンの前に立つと、いつもの軽薄な態度は鳴りを潜め、真剣な眼差しで切り出した。
「なあ、センセ。ちょっと相談したいことがあるんだが…いや、提案、と言った方がいいかもしれねえな」
カシアンは設計図から顔を上げ、訝しげにユーリスを見た。「提案、ですか。貴方からとは珍しい。どのような内容です?」
ユーリスは少し言い淀んだ後、意を決したように言った。
「…孤児院を、この町に作れねえかと思ってな」
「孤児院?」カシアンの眉がピクリと動いた。その言葉は、彼の合理的な思考回路の中では、優先度の低い項目として分類されるものだった。
「ユーリス、貴方も分かっているはずです。我々の領地はまだ盤石とは言えず、常に王国軍の脅威に晒されている。限られた資源は、まず防衛と、生産力の向上に優先的に割り当てるべきです。孤児院の設立と運営には、莫大な費用と人手が必要となる。そして、率直に言って、そこから直接的な『費用の回収』は見込めません。現時点では非効率的と言わざるを得ない」
カシアンの返答は、冷徹なまでの正論だった。
しかしユーリスは食い下がった。「非効率的、ね。確かにそうかもしれねえ。だがな、センセ。戦乱が長引くにつれて、親を失った子供たちが、この町にも、そして近隣の村々からも、少しずつだが確実に流れ着いてきてるんだ。今はアビスの連中が、見様見真似で面倒を見てるが、それも限界がある。あいつらだって、自分のことで手一杯だからな」
カシアンは黙ってユーリスの言葉を聞いていた。彼の脳裏にふと、遠い過去の記憶が蘇る。両親も、村も、全てを奪われ、たった一人で森を彷徨い飢えと恐怖に怯えながら生き延びた、幼い日の自分の姿。あの時の絶望感、孤独感、そして誰にも頼ることができなかった無力感…。彼は無意識のうちに、頭巾の下で唇を噛み締めていた。
(…孤児…か。確かに私自身も、あの時、誰かの温かい手があればと、願ったこともあったな)
カシアンの表情にほんのわずかな逡巡の色が浮かんだのを、ユーリスは見逃さなかった。彼は畳みかけるように続けた。
「センセ、あんただって、昔は苦労したクチなんだろ? 詳しいことは知らねえが、今のあんたがあるのは、ただ運が良かっただけじゃねえはずだ。あのガキどもだって、今は誰の助けもねえかもしれねえが、ちゃんと育ててやりゃあ、将来この町を支える大きな力になるかもしれねえ。それに…」
ユーリスは声を潜め、カシアンの耳元に囁くように言った。
「孤児院ってのは、使い方によっちゃあ、色々と『都合のいい』人材育成の場にもなる。物心つく前から、センセの『特別な教育』を施しておけば、将来表にも裏にも使える、忠実で有能な駒が育つかもしれねえぜ? 長期的に見ればそれだって立派な『投資』じゃねえのか?」
ユーリスのその言葉はカシアンの心の奥底にある過去の傷に触れると同時に、彼の合理的な側面にも訴えかけるものだった。純粋な同情心だけで動く男ではないことを、ユーリスはよく理解していたのだ。
カシアンはしばらくの間、目を閉じて黙考していた。彼の頭の中では孤児院設立のコスト、期待できるリターン、そして何よりも自身の過去の経験が複雑に絡み合い、激しくせめぎ合っていた。
やがて彼はゆっくりと目を開け、ユーリスに向き直った。その瞳にはもう迷いの色はなかった。
「…ユーリス、貴方の言うことにも、一理ありますね。確かに、子供たちは未来への投資であり、適切に育成すれば、この領地の貴重な人的資源となり得る。…それに、戦災孤児を放置することは、長期的に見れば治安の悪化や、反乱分子の温床となる可能性も否定できません。それを未然に防ぐという意味でも、一定の合理性はあるでしょう」
彼はあくまで合理的な理由付けをしながらも、その声にはどこか普段とは違う、微かな温かみが含まれているようだった。
「やるのは良いでしょう。孤児院の設立を許可します」
カシアンはそう言うと、しかしすぐにいつもの鋭い付け加えた。
「ただし、条件があります。それは、単なる慈善事業であってはならない、ということです。その孤児院はこの領地に明確な『良い影響』をもたらすものでなければなりません。そして何よりもそこで育つ子供たちにとって、本当に『良いもの』…つまり、彼らが将来、自立して生きていくための知識や技術、そして困難な時代を生き抜くための強さを身につけられるような場所でなければならない。中途半端な感傷や、非効率的な運営は、一切認めません」
ユーリスは、カシアンのその言葉に、満足そうにニヤリと笑った。
「へっ、あんたらしい言い分だぜ、センセ。だが、それでこそ、あんただ。分かった、その条件、必ず守らせる。ただ飯を食わせるだけの場所にはしねえよ。このユーリス様が保証する」
カシアンは頷きすぐに作戦卓の上の羊皮紙に、新たな計画を書き込み始めた。それは、彼が構想する「カシアン式孤児院」の、最初の青写真だったのかもしれない。その孤児院が、子供たちにとって本当に「良いもの」となるのか、そしてカシアンの領地にどのような影響を与えるのか、それはまだ、誰にも分からない話だった。
カシアンが孤児院の設立を許可してから、数ヶ月が経過した。彼の領地の一角、以前は打ち捨てられていた古い修道院の建物を改修し「カシアン幼年育成所」と名付けられたその施設は、瞬く間に戦災孤児たちで溢れかえった。しかしカシアンの指示により、受け入れられる子供の数は厳格に三百人に限定された。彼の合理的な思考は、無限の慈善よりも、管理可能な範囲での「質の高い育成」を優先したのだ。
育成所での生活は一般的な孤児院のそれとは大きく異なっていた。子供たちは、カシアン領に住む実に様々な人々から「授業」を受けた。ジェラルトからは基本的な護身術と馬術、バルタザールからは実践的な体力作りと喧嘩殺法、ペトラからは狩猟の技術と異国の知恵、アビスの元職人たちからは鍛冶や木工、裁縫といった生活技術。カシアン自身も時折姿を現し、読み書き算盤といった基礎学問に加え、彼独自の戦術論や歴史観、そして生き残るための冷徹な知恵を叩き込んだ。ハピでさえ、気まぐれに子供たちに紛れては、不思議な魔法の断片や、世の中の理不尽さについて語って聞かせることがあった。
そしてこの育成所の最大の特徴は、徹底した実力主義と競争原理だった。子供たちは定期的に行われる様々なテスト――学力、体力、技術、そして時には「問題解決能力」を問うカシアン独自の試験――の結果によって厳格に順位付けされた。そしてその総合順位によって、彼らに与えられる食事の内容、寝泊まりする部屋の広さや快適さ、さらには支給される衣服の質までもが明確に決定されるのだ。まさに弱肉強食。上位の者はより良い環境と機会を与えられ、下位の者は最低限の生活は保障されるものの、常に上を目指すことを強いられる。それは、カシアンが考える「困難な時代を生き抜くための強さを育む」ための、彼なりの教育方針だった。
一方で子供たちには「小遣い稼ぎ」として、比較的良い賃金が支払われる仕事も斡旋された。それは、町の清掃や簡単な使い走りから、ロングアーチの部品作りや薬草の栽培といった、より専門的な手伝いまで多岐にわたる。これもまた彼らの労働意欲を刺激し、自立心を養うためのカシアンの計算だった。そして事実、たとえ最下位の子供であっても、路上で飢え、誰からも顧みられなかった孤児の頃よりは、遥かに安全で少なくとも飢えることのない生活を送ることができていたのは確かだった。
しかしこのカシアンのあまりにもドライで、競争を煽るような育成所のシステムに対し、アビスの仲間たちの中から異議を唱える者が出た。特に声を大にして抗議したのは、コンスタンツェと、意外にもユーリスだった。
「カシアン! これは一体どういうことですの!?」
コンスタンツェは、扇子を激しく振りながらカシアンの執務室に乗り込んできた。その美しい顔は怒りに歪んでいる。
「子供たちを順位で区別し、食事や寝床まで変えるなど、あまりにも非人道的ですわ! これでは子供たちの心は荒み、他者を蹴落とすことしか考えない、冷酷な人間ばかりが育ってしまいます! それこそ、わたくしが最も忌み嫌う、貴族社会の悪しき競争そのものではありませんこと!?」
ユーリスも腕を組み、普段の皮肉な笑みを消して厳しい表情でカシアンに詰め寄った。
「センセ、俺もコンスタンツェの言うことに賛成だ。確かに、ガキどもに生きる力をつけさせるってのは分かる。だがやり方が極端すぎるぜ。もう少し…こう、人の温かみってやつがねえと、あいつら、本当に心が歪んじまう。それこそ効率と結果が全ての、人間味の欠片もねえような奴らが量産されるだけだ。それは俺たちにとっても、この町にとっても、長い目で見りゃあマイナスにしかならねえんじゃねえか?」
ユーリスの真剣な、どこか心配を滲ませた言葉は、カシアンの胸に静かに響いた。コンスタンツェも、扇子を持つ手に力を込め、カシアンの返答を待っている。
実際に孤児院にて競争を煽られた子供たち同士だが、仲間が成果を出す寸前に「お邪魔します」と言って邪魔をする。下手な仲間を「勝手にイってろ泥船」。挙句の果てには「お前だけは100%〇す」といった問題発言が発生していた。誰も悪口は教えていないのにこれである。
カシアンは二人のその必死の訴えに対し、すぐに反論することはなかった。彼はしばし目を閉じ、何かを深く思考した。
やがて彼はゆっくりと目を開け、いつもより少しだけ低い、落ち着いた声で話し始めた。
「……人の温かみ、ですか。確かに、それは考慮すべき点かもしれません」
その言葉はコンスタンツェとユーリスにとって、少し意外なものだった。いつもの彼ならば、即座に合理的な反論が返ってくると思っていたからだ。
カシアンは続ける。
「私の意図は、彼らにこの戦乱の世を生き抜くための『強さ』を植え付けること。それは時に他者を出し抜く狡猾さであり、逆境に屈しない精神力であり、そして何よりも自らの足で立ち、自らの力で未来を切り開くための、徹底した現実認識です。甘えや感傷は、時に命取りになる。それを私は、身をもって知っていますから」
彼の声には自身の過去を匂わせる、微かな痛みが含まれていた。
「ですが…」と彼は言葉を切った。
「貴方たちの言う『人の温かみ』というものが、彼らの成長過程において、本当に全く不要なものなのかどうか。あるいは私のやり方が、彼らの心に予期せぬ『歪み』を生み出す可能性が、本当にゼロであると言い切れるのか。…それについては、私自身、まだ明確な答えを持ち合わせていません」
カシアンは珍しく自身の計画に対する絶対的な自信を揺らがせているかのようだった。それは彼が二人の意見を、そしてその根底にある子供たちへの純粋な懸念を、真摯に受け止めている証でもあった。
「……分かりました」彼はしばらくの沈黙の後、決断したように言った。
「貴方たちの主張には、一考の価値がある。この『カシアン幼年育成所』の運営方針について、少しばかり『調整』を加えることにしましょう。競争原理そのものを完全になくすつもりはありません。それは彼らの成長を促す重要な要素の一つだと、今も考えていますから。ですがその度合いを少し緩め、子供たちが過度なストレスや不信感に苛まれることのないよう、配慮する必要はあるでしょう」
カシアンは具体的な変更点について言及し始めた。
「例えば、食事や部屋のランク分けは維持しつつも、最下位の子供たちにも、もう少し質の高い、そして何よりも『安心感』を与えられるような環境を提供する。そして個人の成績だけでなく、グループでの協力や、他者への貢献といった『協調性』も評価の対象に加える。それによって、彼らが自然と助け合い、支え合うことを学ぶ機会が増えるかもしれません」
彼はまるで新たな実験計画を立てるかのように、しかしその声にはわずかな期待を込めて言った。
「これもまた、一つの『実験』です。どのような結果が出るか、興味深く観察させてもらいましょう」
コンスタンツェとユーリスは、カシアンのその予想外に柔軟な対応に、驚きと安堵が入り混じった表情を見せた。
「まあ…! カシアンが、わたくしたちの意見を真摯に受け止めてくださるなんて…!感謝しますわ!」コンスタンツェは扇子を広げ、満足げに微笑んだ。
「へっ、あんたもたまには、効率以外も考慮するんだな」
ユーリスも肩の力が抜けたように息をついた。
カシアンの指示により、育成所の運営方針には、わずかな、しかし確かな変化が加えられた。過度な競争は緩和され、子供たちの生活には少しだけ「ゆとり」が生まれた。
そしてその変化は、思いがけない形で実を結び始める。以前から見られていた子供たちの自発的な助け合いの輪は、さらに広がり、そして深まっていった。上位の子供たちが、下位の子供たちに勉強を教えるのは日常茶飯事となり、食事の際には、自然と皆で分け合い、誰もが同じものを食べられるように工夫する姿が見られるようになった。仕事で得た小遣いも、個人のためだけでなく、グループで必要なものを購入したり、体調の悪い仲間のために薬を買ってやったりと、自然発生的な「共助」の精神が芽生え始めていた。
彼らはカシアンの敷いた競争のレールの上で、彼自身の過去とは異なる形で、他者との繋がりや、温かさ、そして「道徳心」とでも呼ぶべきものを、自分たちの力で獲得し始めていたのだ。それは、カシアンの計算された「教育」の範疇を少しだけ超えた、しかし彼が心のどこかで望んでいたかもしれない、人間らしい成長の姿だった。