「はぁ……」
その日のカシアン領は、束の間の平穏に包まれていた。空は高く澄み渡り、領主の館の中庭には柔らかな日差しが降り注いでいる。しかし、その長閑な風景とは裏腹に、館の一室の主、カシアンは昼間から手酌で酒を煽ってため息をついていた。グラスに注がれたのは、彼が「研究の副産物」と称して密造している琥珀色の蒸留酒。普段の彼からは想像もつかない、どこか投げやりな姿だった。
そこへ、気だるげな雰囲気と共にハピが現れた。彼女は部屋に入ってくるなり、テーブルに並ぶ酒瓶と、グラスを傾けるカシアンの姿を見て、大きなため息をついた。
「……。あんた、昼間っから何やってんのさ。そんなに飲んで、また変なこと企んでるんじゃないでしょうねぇ」
カシアンは、ハピの言葉にも特に表情を変えず、手の中のグラスをゆっくりと揺らした。
「…張り合いがないのです」
ぽつりと、カシアンが呟いた。
「先生だった頃は、いかにして教会の目を盗み、彼らの鼻を明かすかという、それなりのスリルと緊張感がありました。常に二手三手先を読み、彼らの監視を出し抜くことには、ある種の知的な遊戯としての面白みもあった。だが今はどうです。領主となり自分が取り締まる側、秩序を維持する側になってしまった。実に退屈だ」
その言葉に、ハピはジトっとした視線をカシアンに向けた。
「あんたねぇ、相変わらず言うことがズレてるっていうか、普通じゃないっていうか…。普通はさ、領主になったらもっとやることあるでしょ。民のためだとか、領地の発展だとかさ。それを『張り合いがない』って、どんだけ贅沢な悩みなんだか」
彼女はカシアンの向かいの椅子にどっかりと腰を下ろすと、頬杖をついて続ける。
「それにさ、あんたが退屈してるってことは、この町が平和ってことでもあるんじゃないの? それって、良いことじゃん。みんなあんたのおかげで、前よりは安心して暮らせるようになったって感謝してるんだから。スリルがないって不満垂れてる領主様なんて、聞いたことないよ、私は」
ハピの言葉はいつもの気だるい口調とは裏腹に、的を射ていた真っ当な意見だった。カシアンはぐっと言葉に詰まる。確かにこの町は彼の統治とアビスの者たちの尽力により、以前とは比べ物にならないほど安定し、発展しつつあった。それは彼自身が望んだ結果のはずだった。
「……それも、一理ありますね」
カシアンは小さく認め、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。
「ですがハピ。人間というものは、常に新たな刺激を求める生き物なのですよ。平和は結構ですが、それだけでは…心が鈍る」
「へえ、あんたにも心なんてものがあったんだ。意外」
ハピは皮肉っぽく笑う。そして、何かを思いついたように、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「だったらさ、そんなにスリルが欲しいって言うなら、私があんたに一つ、とびっきりの刺激をあげようか?」
彼女のその悪戯っぽい笑みと、意味ありげな言葉に、カシアンの眉がピクリと動いた。退屈を持て余していた彼の瞳の奥に、ほんのわずかながら、興味の光が灯ったのを、ハピは見逃さなかった。
「いっそのことさ、あんたがこの領地で『最高の娯楽施設』でも作ってみたら? もちろん、普通のつまんないやつじゃなくて、あんたのあのイカれた発想をこれでもかってくらい詰め込んだ、誰も見たことないようなやつ。それなら、教会の目なんか気にせずに、あんたのやりたい放題、スリル満点なんじゃないの?」
「娯楽施設…ですか」カシアンは、ハピの突拍子もない提案に、一瞬言葉を失った。だが、その表情は嫌悪や拒絶ではなく、むしろ未知の数式に初めて触れた学者のような、強い興味と分析欲が混じり合ったものへと変わっていった。彼の頭脳が、ハピの言葉に含まれる「イカれた発想」「誰も見たことないようなやつ」という部分に、強く反応したのだ。
「ふむ…最高の娯楽施設、ですか。確かに、領地の経済活性化、住民の余暇の提供、そして何よりも…新たな『実験場』としては、興味深いかもしれませんね」
カシアンは顎に手を当て、何かを高速で計算するように目を細めた。彼の頭の中では、既に様々な娯楽施設の設計図が、彼の合理的かつ非情なフィルターを通して再構築され、最適化され始めているのかもしれない。
「うーん、とりあえず…カジノ、ですかね」
やがて、彼が呟いた言葉は、意外にもありふれたものだった。しかし、その後に続く言葉が、彼の真意を物語っていた。
「アビスの者たちも、傭兵たちも、どうやら賭け事を好む者が多いようですし。彼らの有り余るエネルギーと、おそらくは持て余しているであろう金銭を、効率的に循環させるシステムとしては、有効かもしれません。もちろん、運営方法には、私の『独自』の工夫を凝らしますが」
その口元にはいつもの冷徹な、しかしどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「あとは、そうですね…」カシアンは、ハピに視線を戻した。
「この計画、ハピ、貴女も一枚噛んでいただきたい。貴女には…その、姿を隠して、いくつか『特別な役割』をお願いしたいのですが…協力してくれますか?」
ハピは、カシアンのその申し出に、いつものようにけだるそうに回答した。
「……。また面倒なことに巻き込まれる予感しかしないんだけど。でもまあ、あんたが退屈しのぎに良からぬ戦争でも企むよりは、娯楽施設作って金儲けしてる方が、平和でいいかもねぇ」
彼女は肩をすくめると、あっさりと答えた。
「いいよ。どうせ暇だし。面白そうなら、手伝ってあげなくもない」
その瞳の奥には、カシアンの「イカれた発想」とやらが何を生み出すのか、わずかな好奇の色が揺らめいていた。
カシアンの頭脳は、ハピが「最高の娯楽施設」という種を蒔いた瞬間から、フル回転を始めていた。退屈という名の錆びつきかけていた歯車が、再び高速で噛み合い、新たな計画を練り上げていく。
その言葉通り、カシアンは驚くべき速さで行動を開始した。領主として管理を任された町には、幸いにも以前の貴族が建てたものの、長らく使われずに放置されていた大きな建物があった。そこを彼の新たな「実験場」――カジノへと改装することにしたのだ。外装は最低限の修繕に留め、むしろその古びた雰囲気を逆手に取るかのように、怪しげな魅力を漂わせる。
そしてその内装に関しては、カシアンの合理的な計算とは全く異なる次元の才能が投入された。コンスタンツェ。彼女の「独自の美学」は、カジノという空間に見事に、ある意味で破滅的にマッチした。彼女の指示のもと、アビスの器用な者たちが腕を振るい、館の内部は瞬く間に、フォドラのどこにも存在しないであろう、奇抜で、退廃的で、それでいて妖しいほどに魅惑的な空間へと変貌を遂げた。
天井からは黒と深紅を基調としたシャンデリアが怪しく煌めき、壁には見る角度によって表情を変える騙し絵のようなタペストリーが飾られた。遊戯台は黒檀のような艶のある木材で作られ、そこに座る者たちの欲望を映し出すかのように鈍い光を放つ。部屋の隅々には、コンスタンツェが「わたくしの魔道の粋を集めた芸術品ですわ!」と豪語する、用途もモデルも不明だがなぜか目を引くオブジェが配置され、訪れる者たちを非日常の世界へと誘い込む。それは、高貴さと胡散臭さ、そして抗いがたい誘惑が奇妙に同居した、まさに「コンスタンツェ空間」とでも呼ぶべき異様な美学に彩られていた。
「カジノ・アビス」と名付けられたその施設は、オープンするや否や、カシアンの予想を遥かに超える大盛況となった。アビスの住人たちは、薄暗い地下での生活では味わえなかった刹那的な興奮と、一攫千金の夢に酔いしれ、傭兵たちは日々の戦いで得た報酬を、惜しげもなくサイコロやカードに注ぎ込んだ。喧騒と熱気、酒の匂い、そして金貨が擦れる音――それは、カシアンの領地に新たな、そして少々危険な活気をもたらした。
カシアンの野心は、それだけに留まらなかった。彼は先の金型職人に作らせた活版印刷機をフル活用し、「カジノ・アビス」の魅力を巧みに記した広告チラシを大量に印刷。それを帝都アンヴァル中にばら撒き、大々的なPRを展開したのだ。結果好奇心旺盛な帝国の貴族たちが、物見遊山とばかりに馬車を連ねて訪れるようになり、さらには近隣の町の富裕な商人たちも、その噂を聞きつけて足を運ぶようになった。中にはお忍びで、あるいは何らかの密命を帯びて、敵対するはずの王国から危険を冒してまで遊びに来る者もいる、という真偽不明の噂まで流れる始末だった。
もちろん光が強ければ影もまた濃くなる。カジノの繁盛と共に、いかさまを働く者や、身を持ち崩すまで賭け事にのめり込む者も後を絶たなかった。しかしそこはカシアンの計算の内。彼は、そういった者たちを捕らえ、表向きは「更生プログラム」と称し、実態としては町の城壁建設や、彼が計画する新たな事業のための「強制労働」に従事させた。皮肉なことに、カジノで財産を失った者たちが、そのカジノを支えるインフラ整備に、文字通り身を粉にして貢献するという、極めて効率的な循環システムが確立されていた。
そしてカジノのもう一つの大きな収入源となったのが、カシアン領で醸造される「特製酒」の販売だった。カシアン自身が開発に関わり、アビスの者たちが特殊な魔法を用いて発酵・熟成させた酒は、その独特の風味と高いアルコール度数で、博打の興奮をさらに煽り立てる。芳醇な果実酒から、舌を焼くような強烈な蒸留酒まで、そのラインナップは豊富で、カジノを訪れる多くの客が、その魔性の液体に酔いしれた。酒の売上はカジノの収益と並び、カシアン領の財政を潤し、彼の次なる「実験」のための軍資金となっていったのである。
カシアンは自らが生み出したこの混沌と喧騒の渦を、領主の館の窓から、あるいは時折カジノの片隅に姿を現しては、冷徹な観察者の目で静かに見つめていた。「最高の娯楽施設」というハピの提案は、彼の退屈を紛らわせるには十分すぎるほどの刺激と、そして莫大な利益をもたらし始めていた。
カジノ・アビスの喧騒が夜の町を満たす一方でカシアンの「領地経営」はそれだけに留まらなかった。彼の合理的な精神は、あらゆる資源を最大限に活用することを求める。そして、その対象には、アビスの仲間たちの特異な能力も含まれていた。
町の喧騒から少し離れた郊外。そこにはいつの間にか高い木の柵で厳重に囲われた、広大な一角が設けられていた。一見するとただの荒れ地か、あるいは何かの訓練場にも見える。しかしその内部では、カシアンの指揮のもと、奇妙だが極めて効率的な「事業」が秘密裏に展開されていた。
その日も柵の内側には、顔をフードで深く隠したハピが、数人の信頼できる護衛兵に守られて立っていた。彼女の周囲には、カシアン領の兵士や、カジノで一攫千金を夢見る傭兵たちの中から選抜された腕利きの者たちが、武器を手に待ち構えている。彼らの表情には、緊張感と共に、どこか期待のような色も浮かんでいた。
「なあ、ハピさんよぉ。本当に、例の『お香』を焚くだけで、魔獣がおびき寄せられるのかねぇ? 少しばかり、眉唾な話に聞こえるんだが」
一人の傭兵がハピの足元に置かれた、奇妙な香炉から立ち上る怪しげな煙を見ながら、半信半疑といった様子で尋ねた。
カシアンはハピの特異な体質――ため息をつくと魔獣を呼び寄せてしまう呪い――を、この新たな「事業」の核として利用することを考えた。しかしその秘密が外部に漏れれば、彼女自身が危険に晒されることは明白だ。そこで彼は「魔獣をおびき寄せる特殊な薬草と、それを焚くための香炉」という巧妙な偽情報(カバーストーリー)を作り上げ、兵士や傭兵たちにはそれを信じ込ませていた。ハピが魔獣出現の原因であるとバレないように、彼女は常に顔を隠し、あくまで「薬草の効果を最大限に引き出すための、魔法使いの協力者」という役割を演じていたのだ。
ハピは、傭兵の言葉に、いつものように大きな、そして心底うんざりしたようなため息をついた。
「はぁ……。だから、何度言ったら分かるのさ。これは『お香』じゃなくて、カシアンが調合した『特別な誘引剤』。私がここにいるのは、その効果を魔法で強めるためのお手伝い。あんたたちは、私じゃなくて、あの煙に感謝しなさいよね」
そのため息が、図らずも引き金となった。
ゴゴゴゴゴ……!
大地が微かに震え、柵の向こうの森の奥から、複数の獣の咆哮と、木々をなぎ倒しながら近づいてくる地響きが聞こえてきた。
「来たぞ!」「構えろ!」「今日の獲物は大物そうだぜ!」
兵士や傭兵たちの間に緊張が走る。彼らは自らが考案した陣形に従い、迫りくる魔獣の群れを効率的に殲滅すべく、一斉に武器を構えた。
「やれやれ、またこの騒ぎか。本当、ため息一つでこれなんだから、私の人生、ハードモードすぎでしょ…」
ハピは、迫りくる魔獣の気配に顔をしかめながらも、護衛兵に守られて安全な場所へと後退する。
そして戦闘の火蓋が切られた。傭兵たちが先陣を切って魔獣に斬りかかり、兵士たちがロングアーチや弓矢で後方から援護する。カシアンの指示のもと、彼らは見事な連携を見せ、群がるようにして魔獣を一体また一体と叩き潰していく。それは危険な狩りであると同時に、彼らにとって最高の「実戦訓練」の場でもあった。
やがて戦闘が終わり、静寂が戻ると、兵士たちは手際よく魔獣の亡骸を解体し始めた。
「おし、今日の骨は上物だぜ! こいつぁ、武器の柄にも、鎧の補強材にもなる!」「こっちには『魔石の欠片』があったぞ! カシアン先生に高く買い取ってもらおう!」「この皮も、なめせば上等な革製品になるはずだ!」
叩き潰された魔獣たちの骨は、驚くほど頑丈で、様々な武具や道具の素材として再利用された。また、時には魔獣の体内から、魔力を秘めた石や、特殊な効果を持つ内臓といった「稀少素材」が発見されることもあり、それらはカシアンを通じて高値で取引されたり、新たな兵器や薬の研究開発に利用されたりした。
こうして、ハピのため息は、カシアンの巧妙な計画によって、危険な呪いから、領地を潤す貴重な資源へと姿を変えていた。兵士や傭兵たちは、この定期的な「魔獣狩り」を通して実戦経験を積み、同時に報酬も得る。カシアンは、最小限のリスクで貴重な素材を手に入れ、兵力の錬度も向上させる。そしてハピは…まあ、相変わらずため息をついてはいたが、以前のようにただ魔獣に怯えるだけでなく、自分の力が仲間たちの役に立っているという、ほんの少しの自覚と、どこか諦観にも似た複雑な感情を抱きながら、この奇妙な日常を受け入れていた。