道徳以外を教えます   作:マウスブン

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1185年夏 コミュ

ユーリスたちが王国軍の後方で破壊工作を続ける一方で、フォドラの各地は依然として戦乱の渦中にあった。カシアンの領地から北へ幾つかの小領をまたいだ先にある、ファーガス神聖王国の一角ガラテア伯爵領。そこに蒼きペガサスを駆る女騎士イングリットの姿があった。

 

彼女の心には今も癒えぬ傷が二つあった。一つはかつて将来を誓い合った許嫁、グレンの戦死。王国の動乱の中で若くして散った彼の死はイングリットを深い悲しみの底に突き落とし、一時は剣を置くことさえ考え、自室に引き籠もる日々が続いた。

そしてその傷がようやく癒され学園生活を送っていた頃、今から3年ほど前、ガルグ=マク大修道院が帝国軍の手に落ちたという衝撃的な報せと共に、彼女にとって少なからぬ存在だったもう一人の人物の訃報が届いたのだ。それはかつて士官学校で特別教師として教鞭を執っていた、カシアンという男の「死」の知らせだった。

 

死亡した元許嫁のグレンほどではなかった。だがイングリットにとってカシアンは単なる教師と生徒という関係以上の、どこか気を許せる不思議な存在だった。彼の講義は常に常識外れで刺激的だったし、戦術や兵站に関する個人的な相談にもあの独特の皮肉と合理性で的確な助言をくれた。父が持ってきた彼との縁談は騎士としての道を優先したいという彼女自身の意志で断ったものの、彼の人となりや時折見せる変人じみた奇才ぶりを、別に嫌いだと思ったことは一度もなかった。

(…そりゃあ、縁談をお断りするのにも、先生には色々とご協力いただきましたけれど…。別に…嫌いではなかったのに)

二つの大きな喪失を経験した娘の痛々しい姿を見てガラテア伯も、それ以上イングリットに新たな縁談の話を持ってくることはなくなっていた。

 

しかしイングリットはそこで心折れるようなか弱い女性ではなかった。1か月かからず、彼女を悲しみの中から再び立ち上がらせた。そして幼い頃からの揺るがぬ夢であった「騎士になる」という道を、彼女は再びより強い意志を持って歩み始めたのだ。それは亡きグレンの遺志を継ぎ王国の平和を取り戻すという、彼女自身の新たな誓いでもあったのかもしれない。

 

だが彼女が身を置く現実の戦場は騎士としての理想とは程遠いものだった。ガラテア領は元々フォドラでも指折りの貧しい土地であり、長引く戦乱はその乏しい資源をさらに削り取り領民たちは日々の糧にも事欠くような、ひもじい生活を強いられていた。イングリット自身も騎士としての俸給など名ばかりで、常に空腹と背中合わせの毎日を送っていた。

 

そして何より彼女が幼い頃に胸を躍らせて読んだ「騎士物語」に描かれていたような華々しく名誉に満ちた戦いは、現実の戦場にはどこにも存在しなかった。そこにあるのは泥と血に塗れた裏切り、理由の分からぬ無益な殺戮、そしていつ終わるとも知れない陰鬱な消耗戦。騎士道精神だけでは到底太刀打ちできない遥かに複雑で、遥かに汚濁に満ちた現実。それは胸躍るどころかただ心を重くし、疲弊させるだけのものだった。

 

それでもイングリットはペガサスの手綱を握る手を緩めようとはしなかった。騎士としての務めをそしてガラテアの貧しい民を守るという使命を、彼女は決して放棄するつもりはなかった。彼女はかつてカシアンが教えてくれた「道徳以外の戦い方」――効率的な戦術、兵站の重要性、そして時には非情な決断も必要だという現実的な教えの断片を胸の奥で反芻しながらこの厳しい現実の中で自分に何ができるのかを、ただひたすらに模索し続けていた。

 

 

 

カシアンは眠り続けるベレスの穏やかな寝顔から、そっと視線を外した。その琥珀色の瞳は再び手元の羊皮紙へと戻る。そこには彼がガルグ=マクの禁書庫やアビスの深奥で得た知識の断片、そして彼自身の怜悧な頭脳が生み出した複雑な図形や数式がびっしりと書き込まれていた。それは来るべき戦いに備えるための緻密な計画の一部だった。

 

部屋には依然としてベレスの静かな寝息と、遠く響くアビスの鍛冶場の槌音だけが満ちていた。ジェラルトの告白がもたらした重苦しい空気は、しかし絶望ではなくむしろ静かな覚悟へと昇華されつつあるようにカシアンには感じられた。彼はペンを置きゆっくりと口を開いた。その声は、先ほどジェラルトに向けた気遣いの響きとは異なり冷静沈着な指揮官としての顔を覗かせていた。

 

「ジェラルトさん、貴方のその腕のことは…今は何も申しません。ただ我々はベレスが目覚めるその時までに、そして彼女が己の道を見出すその時までに出来る限りの備えをしておかねばなりません。」

 

カシアンは立ち上がり部屋の隅に置かれたもう一つの長机へと歩み寄った。そこにはフォドラの地図が広げられ、様々な色の印や線が引かれている。さらに奇妙な形状をした機械の設計図らしきものや、古代の文字で書かれた文献の写しが散乱していた。

 

「先の王国軍との衝突、そしてアドラステア帝国、ファーガス神聖王国、レスター諸侯同盟…フォドラ全土を巻き込むで大戦は、まだまだ続きます。ただ幸いなことに王国はダスカーの悲劇以降は、国王と貴族、そして貴族間の上下関係が壊れています。それに加えて教会との方針の違いで中々連携ができていません。まぁ長子相続に似た紋章相続で家自体は分割されるケースは少ない、青の学級同士は仲が良いのがディミトリにとって幸いですかね。」

 

「その間に私はこのカシアン領とアビスを拠点とし来るべき戦乱に備えています。アビスの者たちが持つ独自の技術、そしてガルグ=マクの書庫の奥深くに眠っていた、望遠鏡、石油、医療手術、活版印刷に関する記述、…それらを組み合わせ新たな戦術を実験中です。」

 

カシアンは設計図の一つを指さした。それは見たこともない巨大な兵器や爆発物に関する資料、また飛竜部隊の新たな運用方法などだった。

 

「アビスの錬金術師や魔道士たちの協力も得て、対人、対魔物、そして…あるいは“英雄の遺産”に対抗しうる手段も、いくつか形になりつつあります。ですが…」

 

そこでカシアンは言葉を区切り、窓の外、夜の闇が支配するであろうカシアン領の森の方向へと視線を向けた。その瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいた。

 

「ですがジェラルトさん。我々が最終的に対峙せねばならぬ相手は、それら人間の範疇を超える存在…“竜”です。レア…大司教レアと、彼女が率いる教会、そして教会と敵対する闇に蠢くものたち。あるいはフォドラの喉元に牙を突き立てようとしている、別の何者か。彼らを相手にするには現状の我々の力では…まだあまりにも足りない。」

 

カシアンの声には確かな手応えを感じている部分とそれでもなお拭いきれない巨大な壁への絶望に近い認識が同居していた。彼がどれほど知略を巡らせどれほど新たな兵器を開発しようとも、神代の存在である竜の力は人間の想像を遥かに超えていることを、彼は実体験や文献を通して痛いほど理解していた。

 

その言葉を聞いたジェラルトは眠るベレスのそばに座ったまま、静かに頷いた。先ほどまでの弱々しさは僅かに影を潜め歴戦の傭兵団長としての、そして何よりもレアの側近くに仕えた騎士としての経験がその短い返答に重みを与えていた。

 

「……そうだろうな。」

 

その一言には多くの言葉が圧縮されていた。レアの圧倒的な力、女神の眷属たちの恐るべき戦闘能力、紋章の力、そして彼自身がかつて目の当たりにしてきたであろう人知を超えた奇跡と破壊の光景。カシアンが文献や伝承から推測するしかない「竜の力」をジェラルトは実体験として知っているのだ。だからこそカシアンの分析と懸念は彼にとって痛いほど現実的なものとして響いた。

 

ジェラルトはゆっくりと自身の左手で、あまり動かない右腕の肩をさすった。その目は遠い過去を見つめているかのようだった。

 

「奴らは…強い。それこそそこいらの軍隊なんざ赤子の手をひねるようなもんだ。正攻法でぶつかっても勝ち目は低いだろう。特にレア自身が出てくるような事態になればな。」

 

彼の言葉はカシアンの分析を裏付けるには十分すぎた。部屋には再び沈黙が訪れる。しかしそれは先ほどまでの重苦しいものではなく、共通の困難な敵を前にした者たちが分かち合う静かで張り詰めた緊張感を伴っていた。

 

カシアンは深く息を吸い再び地図と設計図が広がる机に向き直った。その顔には先ほどまでの憂慮の色は消え不屈の闘志が宿っていた。

 

「ええ、承知しています。だからこそ、力で劣るならば、知恵で補うまで。正攻法が通用しないならば奇策をもって対抗する。古の知識、アビスの技術、そして…あるいは、このフォドラに未だ眠る、我々がまだ知らない“何か”を利用する。あらゆる可能性を考慮し一手を打ち続けなければなりません。」

 

彼は羊皮紙に新たな数式を書き加え始めた。そのペン先は迷いなく慎重に動いていた。

 

「ジェラルトさん、貴方の経験と知識もいずれ必ず必要になります。今は…今はただベレスのそばで、ゆっくりと力を蓄えてください。そして、もし…もし、その右腕が本当に昔のようには戻らないのだとしても、貴方が長年培ってきた戦場の知恵、傭兵としての勘、何物にも代えがたい我々の武器となるはずです。」

 

カシアンの言葉はジェラルトの現状を慮りつつも彼を戦力として明確に計算に入れていることを示していた。それはジェラルトにとってある意味で最大の励ましとなったかもしれない。役に立たなくなることこそ、彼が最も恐れていたことの一つだったからだ。

 

ジェラルトはふっと短い息を吐き口元にかすかな笑みを浮かべた。それはいつもの飄々としたものではなく、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情だった。

 

「…へっ、おだてても何も出ねえぞ、カシアン。だがまあこの老いぼれの知恵袋が役に立つってんなら、いくらでも貸してやるさ。ベレスが…あいつが一人前になるまでは、な。」

 

その言葉を最後にジェラルトは再び眠るベレスへと視線を戻した。その横顔は父親としての深い愛情に満ち溢れていた。カシアンもまた、ペンを走らせながら、時折ベレスの寝顔に目をやる。彼女の存在こそがこの絶望的な戦いに立ち向かうための、彼らの最大の希望であり原動力なのだった。

 

隠れ酒蔵の静かな一室でフォドラの未来を左右するかもしれない二人の男は、それぞれの覚悟を胸に、来るべき日に備え続けていた。アビスの鍛冶場の槌音は、まるで彼らの決意を鼓舞するかのように夜の静寂の中に力強く響き渡っていた。

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