カシアンが青獅子の学級の教室に足を踏み入れると、生徒たちの間にはどこか重苦しい空気が漂っていた。先の鷲獅子戦で、彼らは三学級の中で最初に脱落するという苦杯を嘗めたばかりだ。勝利を信じて疑わなかったであろう彼らにとって、それは大きな衝撃だったに違いない。特に級長であるディミトリの表情は硬く、何かを深く思い詰めているように見えた。
カシアンはいつも通りの落ち着き払った様子で教壇に立つと、集まった生徒たちを見渡し、静かに告げた。
「今日のテーマは、『敗走戦術と戦場からの生存術』についてだ」
その言葉が発せられた瞬間、教室の空気が凍りついた。生徒たちの顔に、困惑、不快感、そして明確な反発の色が浮かぶ。
イングリットが信じられないといった表情で聞き返した。
「敗走…ですって?先生、我々は騎士を目指す者です! 戦場において、敗北し逃げ帰る術を学ぶなど…!」
「その通りです、カシアン先生!」
ディミトリも強い口調で続けた。
「我々は勝利のために、正義のために戦うのです! 始めから敗北を想定するような考えは、士気を下げ、臆病さを招くだけではありませんか!」
他の生徒たちからも、同様のざわめきが起こる。「逃げるなんて、カッコ悪いぜ…」「そんなこと、考えたくないな…」アッシュやアネットも不安そうな顔をしている。フェリクスだけは、腕を組み、冷めた目で「くだらん」とでも言いたげに窓の外を見ていた。
生徒たちの反発は、カシアンにとって想定内だった。彼は表情一つ変えず、冷静に言葉を返した。
「誇りや理想を語るのは結構だ。だが、それだけで命が守れると本気で思っているのか? 戦場では、どれだけ周到に準備し、勇敢に戦ったとしても、敗北する可能性は常につきまとう。運悪く奇襲を受けたり、圧倒的な物量差に遭遇したり、あるいは味方の裏切りに遭うことだってあり得る。そうなった時、誇りを叫んで無駄死にするのが騎士道だとでも?」
カシアンの言葉は冷徹な現実を突きつける。生徒たちは反論しようとするが、言葉に詰まる。
カシアンの声のトーンがわずかに低くなった。
「死んでしまっては、元も子もない。勝利も正義も、生き残ってこそ掴み取れるものだ。そして…諸君らがこれから生きていくであろう現実を考えれば、この知識は決して無駄にはならないはずだ」
彼は教室全体を見渡し、特にディミトリとイングリットの目を見据えて言った。
「皆さんも薄々気づいているだろう。現在のファーガス神聖王国を取り巻く状況は、決して安泰とは言えない。少なくともダスカーの悲劇以降、王国は深い傷を負い、国内の不和は燻り続けている。帝国の野心、同盟との微妙な関係…いつ、どこで、何が起きてもおかしくはない。まさに『きな臭い』状況だと言える」
“ダスカー”という言葉に、ディミトリの肩が微かに震えた。彼の表情に、深い苦悩と怒りの影がよぎる。
「もし、万が一…いや、遠くない未来に、諸君らが望まぬ大規模な戦乱に巻き込まれたとしたら? 故郷が戦火に晒され、仲間たちが倒れていく中で、それでもなお『誇り』だけを盾にして立ち向かうのか? それとも、一時的に泥水をすする屈辱を味わってでも生き延び、再起を図り、守るべきものを守る道を選ぶのか?」
カシアンの言葉は、青獅子の生徒たちが目を背けたい、しかし無視できない王国の現実に鋭く切り込んだ。
「今日、私が教えるのは、後者のための技術だ。組織的な撤退方法…殿軍の適切な運用、追手を欺くための偽情報の流布、地形を利用した遅滞戦術。そして、孤立無援となった場合の単独での逃走術…追跡を回避し、痕跡を消し、敵地で生き抜くための隠密行動とサバイバル術。食料や水の確保、応急処置、敵情の把握…これらは全て、生き残る確率を、たとえ僅かでも上げるための実践的な知識だ」
教室は静まり返っていた。先ほどまでのあからさまな反発の空気は消え、重い沈黙が支配している。ディミトリは唇を噛み締め、イングリットは俯いて拳を握りしめている。シルヴァンも、いつもの軽薄な笑みを消し、真剣な表情でカシアンを見つめていた。彼らは、カシアンの言葉の重みと、それが突きつける王国の厳しい現実を、痛いほど感じ取っていた。
カシアンは最後に言い放った。
「感傷や理想論は、一旦、心の隅にしまっておけ。今日教えるのは、決して美しいものではない。むしろ、生き汚く、しかし確実に生き残るための技術だ。だが、覚えておけ。生き残らなければ、何も始まらない」
カシアンは黒板に向き直り、撤退経路の図を描き始めた。生徒たちは、複雑な感情を胸に抱えながらも、その黒板に、そしてカシアンの言葉に、否応なく意識を向けざるを得なかった。
カシアンの授業は、具体的な生存術へと移っていった。彼は黒板に簡単な地図や図を描きながら、追跡を効果的に撒くための川の利用法、食べられる野草と毒草の見分け方、夜間に音を立てずに移動する技術、そして狩猟や罠による小動物の捕獲方法などを、詳細かつ実践的に説明していく。その内容は、通常の戦術論では決して語られない、生々しく、そして切実なものだった。
「…敵に追われている場合、開けた場所を避けるのは当然だが、森の中だからといって安全とは限らない。特に、獣道は敵も利用しやすい。敢えて道なき道を進む判断も必要になる。例えば…」
カシアンは黒板に描いた略図の一部を指差した。
「アリアンロッドの西に広がるあの深い森林地帯では、特定の季節になると濃い霧が発生しやすい。これを上手く利用すれば、追手の目を眩ませることが可能だ。また、ガスパール領との境界に近い山岳部には、隠れるのに適した洞窟や岩陰が点在している。ただし、そういった場所は熊などの危険な獣の縄張りである可能性も高い。常に周囲への警戒を怠ってはならない…」
カシアンが淀みなく、まるで自分の庭を説明するかのように王国の具体的な地名や地形の特徴に触れた時、教室の後方から、はっとしたような空気が流れた。
「先生」
静かに手を挙げたのは、イングリットだった。彼女は真剣な、しかし困惑を隠せない表情でカシアンを見つめている。
「失礼ですが…なぜ、それほどまでに王国の、特に南部の地形に、先生は詳しいのですか? アリアンロッドやガスパール領境の地理について、まるで実際に何度も歩かれたことがあるかのような…」
イングリットの疑問は、他の生徒たちの多くも感じていたことだった。王国貴族の子弟であるシルヴァンやフェリクスも訝しげな顔をしているし、平民出身で地理に詳しいアッシュも、カシアンの知識の深さに驚いていた。大修道院の教師が、これほど特定の地域の詳細を知っているのは不自然だ。
教室中の視線がカシアンに集まる。彼は生徒たちの視線を一身に受け止め、ほんの一瞬、動きを止めた。そして、まるで遠い昔を思い出すかのように、わずかに目を伏せた後、再び顔を上げ、抑揚のない声で語り始めた。
「詳しい理由か。簡単なことだ」
彼の声は、普段と何も変わらない。
「私は昔…まだほんの幼い頃だが、この王国の南部に住んでいた」
生徒たちの間に、驚きのささやきが広がる。
「ガスパール領に近い、名前も残っていないような、小さな村だったな」
カシアンは続ける。その口調は、まるで他人の物語を語るかのようだ。
「だが、ある日、村は何者かによって襲撃され、焼き払われた。理由は分からない。賊だったのか、どこかの私兵か、あるいは…もっと別の何かか。分かるのは、結果だけだ。私の家族も、他の村人も…そこにいた者は、皆殺しにされた」
教室は水を打ったように静まり返った。カシアンの言葉が、あまりにも淡々と、しかし衝撃的な事実を告げている。
彼は自分の手のひらを一瞥した。
「私だけが、偶然、村の外れの森にいて助かった。そして…その後は、一人で生き延びるしかなかった。追手がいたが、とにかく逃げた。森や山を何日もさまよい、木の実や草の根を齧り、川の水を飲み、獣に怯えながら夜を明かした。今、君たちに教えているような技術は…全て、その時に、この身をもって学ぶしかなかったことだ。近隣の村にたどり着けても、追い出されて長く放浪していた。だからこのあたりの地形や、そこで生き汚く生き延びる術については、そこらの書物よりも、少しばかり詳しいというわけだ。」
カシアンの告白は終わった。彼は、まるで授業の一環として豆知識を披露したかのように、平然としている。
しかし、聞いている生徒たちは違った。教室は、重い衝撃と沈黙に包まれていた。家族も故郷も一瞬にして奪われ、幼くして死と隣り合わせの過酷なサバイバルを強いられた過去。メルセデスは両手で口を押さえ、目に涙を溜めている。アネットも、アッシュも、言葉を失い、ただカシアンを見つめている。イングリットは、騎士の誇りも忘れ、ただただ彼の過酷な運命に同情するように唇を噛んでいた。シルヴァンでさえ、いつもの軽薄さは消え、複雑な表情でカシアンを見ていた。
そして、ディミトリ。彼は顔を伏せ、その表情は窺えない。だが、固く握りしめられた彼の拳は、自身の過去の悲劇と、目の前の教師が背負ってきた壮絶な過去とが、彼の内で激しく共鳴していることを示していた。カシアンの持つ、あの常軌を逸した冷徹さ、合理主義、そして倫理観の欠如。その根源の一端を、彼らは今、垣間見たのかもしれない。
だが、カシアンはそんな生徒たちの動揺を気にする素振りは一切見せなかった。彼は、まるで先ほどの告白など存在しなかったかのように、黒板に向き直る。
「感傷に浸っている暇はないぞ。私の過去がどうであれ、君たちの現状とは何の関係もない。重要なのは、君たちが同じような、あるいはもっと過酷な状況に陥った時、生き残れるかどうかだ」
彼は新しいチョークを手に取り、授業を再開した。
「続けるぞ。次は、安全な水分の確保についてだ。川の水が常に安全とは限らない。特に下流では…」
何事もなかったかのように続く、冷徹で実践的な講義。生徒たちは、カシアンの過去の衝撃と、彼の揺るぎない態度とのギャップに戸惑いながらも、再びその言葉に耳を傾けざるを得なかった。
ある日、カシアンはガルグ=マク大修道院の地下深くに広がる空間、アビスへと足を運んでいた。地上の荘厳さとは無縁の、薄暗く、湿った空気が漂う場所。壁には苔が生え、通路のあちこちには用途不明のガラクタが積み上げられている。行き交う人々も、どこか影を帯び、地上では見かけないような曰く付きの雰囲気を纏っていた。
カシアンは、そんなアビスの様子を、物珍しそうに、というよりはむしろ、分析対象を観察するかのように冷静な目で見ながら、ゆっくりと散策していた。彼の小綺麗な教師然とした服装は、この場所では明らかに浮いており、すれ違うアビスの住人たちは、訝しげな、あるいは警戒するような視線を彼に投げかけていた。
そんな中、一人の青年が、カシアンの存在に気づき、壁にもたれていた体勢からすっと立ち上がった。紫がかった髪を揺らし、軽薄そうな笑みを口元に浮かべているが、その瞳の奥には鋭い光が宿っている。彼は他の住人たちのように遠巻きにするでもなく、むしろ興味深そうに、真っ直ぐカシアンの方へと歩み寄ってきた。
そして、カシアンの数歩手前で足を止めると、馴れ馴れしく、しかし相手を見定めるような口調で声をかけてきた。
「よう、見かけねえ顔だな。アンタ、地上のセンセだろ?」
青年――ユーリスは、カシアンの身なりを一瞥して言った。
「こんな掃き溜めに何の用だい? 道にでも迷ったか?」
その言葉には、明らかに揶揄と警戒の色が混じっていた。アビスの流儀に則った、一種の牽制だろう。
しかし、カシアンはユーリスの挑発的な態度にも全く動じなかった。彼は足を止め、目の前の青年を冷静に観察する。アビスの住人の中でも、どこか違う空気を纏っている。おそらく、ただのチンピラではない。
「ああ、私はカシアン。大修道院で教師をしている」
カシアンは簡潔に名乗った。
「道に迷ったわけではない。用があってここへ来た」
ユーリスは面白そうに眉を上げた。
「へえ、用件ねぇ。こんな場所にいるセンセに、一体どんな用があるってんだか」
「仕事の話だ。それも、少々荒っぽい類のな」
カシアンは単刀直入に言った。その言葉に、ユーリスの表情がわずかに変わった。軽薄な笑みが消え、瞳の奥の鋭さが増す。
「…ほう? 荒っぽい仕事、ねぇ」
カシアンは続けた。
「そこで、聞きたいのだが、このような場所で、『戦い』が絡むような裏仕事について話をしたい場合、誰に取り次いでもらうのが筋なのだ? ここの取り纏め役は誰か、教えてもらえるか」
カシアンの直接的な物言いと、その内容。ユーリスはカシアンを値踏みするように、しばし黙って見つめていたが、やがて、ふっと息を吐いて、再び不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、戦いの仕事ねぇ。物騒なセンセもいたもんだ。地上じゃ頼めねえような、ヤバい話ってわけか?」
彼は芝居がかった様子で肩をすくめてみせる。
「取り纏め役、ねぇ…」
ユーリスは自分の胸を軽く叩いた。
「まあ、アンタが話したいのが、そういう表沙汰にできねえ筋の悪い仕事ってんなら…このユーリス様が、特別に聞いてやってもいいぜ?」
彼はカシアンの目をまっすぐに見据え、自信に満ちた声で言い放った。
「俺がここの、いわゆる『顔役』ってやつだからな。話があるなら、まずは俺を通しな、センセ」
地上から来た異質な教師と、地下世界の顔役。対照的な二人が、アビスの薄暗がりの中で初めて直接対峙した。カシアンはユーリスの言葉を黙って聞き、その瞳の奥で、目の前の男の価値と利用法を冷静に計算し始めていた。
ユーリスはカシアンを促し、アビスの一角にある薄暗い酒場のような場所へと案内した。埃っぽい木のテーブルがいくつか並び、カウンターの奥では店主らしき無愛想な男がグラスを拭いている。周囲のテーブルに座るアビスの住人たちは、よそ者であるカシアンと、彼らを連れてきた顔役ユーリスの組み合わせを、好奇と警戒の入り混じった視線で遠巻きに眺めていた。
二人は奥まったテーブルに向かい合って座った。ユーリスは足を組み、挑発的な笑みを浮かべてカシアンを見据える。
「さて、センセ。改めて聞こうか。アンタが持ち込んだ『荒っぽい仕事』ってのは、具体的に何だい?」
カシアンは動じることなく、落ち着いた声で話し始めた。
「近隣の街道で、このところ複数の盗賊団が活動を活発化させている。商人だけでなく、巡礼者なども被害に遭っており、看過できない状況だ。迅速かつ、秘密裏にこれを討伐したい」
彼はテーブルに肘をつき、少し身を乗り出した。
「ついては、君たちアビスの住人の力を借りたい。腕の立つ者を何人か集め、私の指揮下で、この盗賊団討伐作戦に協力してもらいたいのだ。いわば、影の実行部隊としてな」
ユーリスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「へえ、盗賊退治ね。まあ、俺たちにとっても、うろつかれると目障りな連中ではあるが…わざわざ俺たちに頼むってことは、それなりに厄介な相手なんだろうな。で?」
彼は値踏みするようにカシアンを見た。
「タダ働きはごめんだぜ、センセ。こっちへの見返り、代価は何だい?」
カシアンは待ってましたとばかりに、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。それは、素早く描かれた、しかし正確なガルグ=マク大修道院の一角を示す略図だった。特定の建物と、そこに至る通路が記されている。
「これは?」ユーリスが眉をひそめる。
「大修道院の、あまり知られていない物資貯蔵庫の一つだ」
カシアンは地図上の特定の場所を指差した。
「ここには、質の良い食料や医薬品が保管されている。時には、騎士団が使う武器や防具の類が運び込まれることもある。そして、この貯蔵庫は特定の曜日、特定の時間帯になると、警備が著しく手薄になる。この通路を使えば、人目につかずに侵入することも可能だ」
カシアンの言葉に、ユーリスの目が鋭く光った。アビスにとって、物資、特に食料や医薬品は常に不足している死活問題だ。この情報は、まさに喉から手が出るほど欲しいものだった。
「君たちアビスの住人にとって、これらの物資は必要不可欠なものだろう?」
カシアンは畳み掛ける。
「この情報を提供する。その対価として、今回の盗賊討伐、そして今後私が持ちかけるであろう同様の『戦い』に、君たちの戦力を、私の指示通りに動かせる駒として提供してほしい」
ユーリスは地図とカシアンの顔を交互に見比べた。魅力的な提案だ。だが、あまりにも話が出来すぎている。そして、何より目の前の男の素性が引っかかる。
「…大した情報だな、センセ。確かに、喉から手が出るほど欲しいのは事実だが…」
ユーリスは腕を組み、カシアンを疑念の目で睨みつけた。
「アンタ、士官学校のセンセなんだろ? 大修道院に仕える人間が、その心臓部とも言える場所の情報を、俺たちみたいな掃き溜めの住人に易々と渡すたぁ…どういう風の吹き回しだい? 教会を裏切るような真似して、ただで済むとでも思ってんのか?」
カシアンは表情一つ変えずに答えた。
「言ったはずだ、私は仕事の話をしに来たと。効率的な取引には、それ相応の対価が必要だというだけの話ですよ」
彼は少し間を置いて続けた。
「それに、個人的な話をすれば、私はレア大司教やセイロス聖教会の現在のやり方に、全面的に賛同しているわけではない。彼らの独善性や、歴史に対する不誠実な態度には、強い疑念を抱いている」
カシアンはテーブルに置かれた自身の指先を見つめ、静かに言葉を続けた。
「そして、もう一つ。最近のフォドラの空気は、どうにもきな臭い。いつ何が起きてもおかしくはない、と私は見ている。貴方も、地下から見ていてそう感じませんか?」
彼はユーリスに問いかける。
「どのような状況になろうとも、頼れる手駒と独自の繋がりを確保しておくことは、単なる保険以上の意味を持つ。特に、地上とは違う論理で動く君たちアビスとの関係は、将来、重要な意味を持つかもしれない。そう考えるのは、合理的な思考でしょう」
カシアンの言葉は、具体的な予測を避けながらも、不穏な未来と、それに備える必要性を匂わせていた。教会への不信と、将来への備え。ユーリスはその言葉の真意を探るように、カシアンの顔をじっと見つめた。目の前の男は、底が見えない。教師という立場でありながら、平然と教会を裏切るような情報を提供し、地下の住人と手を組もうとしている。その動機は、本当に彼が言うような「合理的な思考」だけなのだろうか。
ユーリスは提示された情報の価値と、カシアンという男に関わるリスクを慎重に天秤にかけた。アビスにとって物資は命綱だ。この地図は計り知れない価値を持つ。だが、迂闊に信用すれば、足元を掬われかねない。
ユーリスは探るような視線をカシアンに向けたまま、嘯いた。
「…きな臭い、ねぇ。まあ、あんたの言うことも分からんでもないが…随分と先を見越した話だな。アンタがただの変わり者のセンセなのか、それとも本当に何か企んでるのか…正直、まだ判断がつかねえな」
彼はテーブルの上の地図に再び目を落とした。この甘い餌に飛びつくべきか否か。
「だが…」ユーリスは意を決したように顔を上げた。
「もしアンタが本当に、教会に一泡吹かせたい、あるいはこの先の面倒事に本気で備えてるってんなら…話は少し違ってくる。俺たちにとっても、アンタみたいな地上の変わり者と繋がっておくのは、悪い話じゃないかもしれねえ。使い方によっちゃあ、な」
ユーリスはしばし考え込んだ後、挑戦的な笑みを浮かべた。
「…よし。面白い。まずは試しに、だ。今回の盗賊退治、アンタの言う通りに動いてやる。それでアンタの腕前と、この話の信憑性、そしてアンタ自身が信用に足る人間か、見させてもらうぜ」
彼はテーブルの上の地図を素早く畳み、懐にしまった。まだ完全には信用していないが、第一歩は踏み出すことに決めたようだ。
「いいだろう。それで結構だ」
カシアンは静かに頷いた。
そして、ユーリスは念を押すように付け加えた。
「もし、アンタが俺たちの期待に応え、こっちにも十分な見返りを今後も用意できるってんなら…その先の、アンタが持ちかける『面白い戦い』ってやつにも、付き合ってやらんでもない。だがな、センセ。裏切ったり、俺たちを利用するだけだって分かった時は…どうなるか、分かってるだろうな?」
その言葉には、地下世界の顔役としての、確かな脅しが含まれていた。
アビスの薄暗い酒場で、地上世界の異端な教師と、地下世界の顔役との間で、危険な駆け引きを含んだ協力関係が、まずは第一歩を踏み出した。互いの利害と思惑が交錯するこの繋がりが、静かに動き出そうとしていたフォドラの運命に、どのような影響を与えていくのか。それはまだ、誰にも分からなかった。