第二防衛線の攻防はまさに血で血を洗う死闘と化していた。カシアンの指揮のもと、アビスの者たちと領民兵はロングアーチと地の利を活かしたゲリラ戦術、そして何よりも不屈の闘志で数に勝るコルネリア軍の波状攻撃を何度も押し返していた。しかしその奮戦も虚しく運命の日はあまりにも突然に訪れた。
それは夜明け前の薄闇の中、コルネリア軍が夜襲と陽動を巧みに組み合わせ守備兵の疲労がピークに達した瞬間を狙って敢行した一点集中の大攻勢だった。闇魔術師たちが召喚した、地中を潜行する能力を持つ異形の魔獣が城壁の基礎部分を内部から破壊。予期せぬ方向からの爆発と振動が既に無数の砲撃で脆くなっていた第二防衛線の城壁の一角を、轟音と共に派手な土煙を上げて崩落させたのだ。
「城壁が…破られたぞ!」
「敵が来る!缺口へ急げ!」
守備兵たちの絶叫が夜明け前の静寂を切り裂いた。缺口からは血に飢えた魔獣の群れと狂喜の雄叫びを上げるコルネリア軍の兵士たちが濁流のように雪崩れ込んでくる。第二防衛線の守備体制はこの一点突破によって一瞬にして崩壊の危機に瀕した。
「…まだやれるところを見せてやるか!」
その絶望的な状況を目の当たりにしたジェラルトは、司令部の片隅でまるで己に言い聞かせるように闘志を込めて吼えた。彼の右腕は、先の負傷と長年の酷使により、もはや満足に槍を握ることすら困難なはずだった。だが彼は壁に立てかけてあった愛用の古びた槍を震える左手で掴み取ると、右腕を無理やり動かし両手で柄を固く握りしめた。その瞳にはかつての猛々しい光が宿っていた。
「カシアン!ユーリス!ここは俺に任せろ!お前たちは残った連中をまとめて、何としても持ちこたえろ!絶対にここで全てを終わらせるわけにはいかねえんだ!」
ジェラルトはカシアンたちの返事を聞く前に手近にいた数名の古参の傭兵に檄を飛ばすと自ら先頭に立ち、崩れた城壁の缺口へと猛然と突進していった。
彼の槍はもはや全盛期のような神速の動きこそなかったものの長年培ってきた経験と、死をも恐れぬ覚悟が込められた一撃一撃はなおも恐るべき威力を秘めていた。缺口から侵入しようとする魔獣の眉間を正確に貫き兵士の盾を砕き薙ぎ払い、まさに獅子奮迅の働きで殺到する敵兵の勢いを一時的にではあるが見事に食い止めた。その姿は若い兵士たちを鼓舞し崩壊しかけた戦線に、僅かながらも秩序を取り戻させた。
だがその代償はあまりにも大きかった。無理に動かした右腕は、もはや感覚すら失いつつあり敵の攻撃を完全に捌ききれず、その体には次々と新たな傷が刻まれていく。肩から、脇腹から、そして太腿から夥しい量の血が流れ出し彼の足元を赤黒く染めていった。
「ぐっ…はぁ…はぁ…まだだ…まだ、やれる…!」
ジェラルトは朦朧とする意識の中で、何度もそう自分に言い聞かせたが、ついにその膝が力なく折れ愛用の槍を手放して地面に崩れ落ちた。
「ジェラルトさん!」
「親父殿!」
ユーリスやアビスの兵士たちが悲痛な叫びを上げ彼を助け起こそうと駆け寄る。
「見たか、ネズミども!あれが貴様らの英雄の無様な最期だ!」
コルネリアは水晶球に映るその光景を見て、甲高い嘲笑を上げた。そしてこの好機を逃すまいと、さらに追い打ちをかけるべく、闇魔術師たちに新たな、そして最も恐ろしい命令を下した。
「さあ、お披露目の時間ですわよ!我が軍の誇る『タイタニス』を投入なさい!あの忌々しい第二防衛線の残骸ごとネズミどもを踏み潰してしまいなさい!」
その命令と共にコルネリア軍の後方から、地響きと共に四つの巨大な影がゆっくりと姿を現した。それは通常の魔獣を遥かに凌駕する巨躯を誇り、全身が禍々しい紋様で覆われた鎧のような甲殻で守られた、まさに「タイタニス」と呼ぶにふさわしい超大型の機械だった。その一つ一つが小型の城砦ほどもあるかのような威圧感を放ち、歩を進めるたびに大地が揺れた。
四体のタイタニスはゆっくりと第二防衛線の缺口を乗り越え、カシアン領の市街地へとその巨足を踏み入れた。その圧倒的な存在感は、既に疲弊しきっていたカシアンの兵士たちに絶望という名の追い打ちをかけるには十分すぎた。
「…ギリギリだな」司令部でその報告を受けたカシアンは静かに目を閉じた。ジェラルトが倒れ、あのタイタニスが投入された今、第二防衛線をこれ以上維持することは不可能であり、無益な犠牲を増やすだけだと、彼は瞬時に判断した。だがただでは終わらせない。
「ユーリス、ハピ!」カシアンの声が、冷静に有無を言わせぬ響きで司令部に響いた。
「ジェラルト殿を連れて残存する全兵力を、ただちに第三防衛線まで後退させろ!急げ!」
そして彼は傍らに控えていた工作部隊の兵士たちに最後の指示を出す。
「お前たちは、私が指示したポイント…第二防衛線の主要な通路、広場、そして敵が密集しているであろう缺口周辺に用意済みの爆薬のみと、そして何よりも…あの『高濃度アルコール酒』の樽を可能な限り広範囲に手際よくばらまけ。保管庫の爆弾にはまだ手を付けるな。その後お前たちもすぐに撤退しろ。私が合図を送る」
兵士たちはカシアンのその言葉の真意を悟り、一瞬顔を強張らせたが、すぐに決然とした表情で頷き最後の任務へと散っていった。
間もなく第二防衛線の各所から、火の手が上がった。カシアンがこの地に来てから、来るべき籠城戦に備え、そしてアビスの者たちのささやかな楽しみのために、秘密裏に大量に醸造し備蓄していた高濃度の蒸留酒。それが今街を焼き尽くすための燃料として、惜しげもなくばらまかれ炎上していったのだ。
乾いた木材とアルコールという最悪の組み合わせは、瞬く間に第二防衛線を紅蓮の炎で包み込んだ。タイタニスもその巨体と硬い甲殻をもってしても、この業火と爆発的な炎上からは逃れられず異常を現す音を鳴らしながら動きを鈍らせる。侵入してきたコルネリア軍の兵士たちも炎と熱風、そして有毒な煙に巻かれ阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とされた。
カシアンの兵士たちの多くはその炎の壁を背に辛うじて第三防衛線への撤退に成功した。だが彼らの表情に安堵の色はない。残された最後の砦、第三防衛線。その背後には眠り続けるベレスと、そしてこの町の非戦闘員たちがいる。もう後がないのだ。
カシアンは、燃え盛る第二防衛線を冷ややかに見下ろしながら、静かに呟いた。
「…これで、少しは時間を稼げたはずだ。だが、奴らもすぐに体勢を立て直し最後の総攻撃を仕掛けてくるだろう。」
彼の瞳には絶望的な状況に対する諦観ではなく、むしろこれから始まるであろう最終決戦への冷徹な覚悟と微かな狂気にも似た闘志が燃えていた。
第三防衛線、そこはカシアン領における最後の砦であり、もはや城壁と呼ぶのも憚られるような、辛うじて原型を留めた建造物と、急ごしらえのバリケードが複雑に入り組んだ迷路のような区画だった。夜の帳が下り、真紅の月が空に不吉な光を放つ頃、カシアンは仮設の司令部に集めた僅かな兵士たちを前に、明日決行するであろう最後の作戦――絶望的な状況下での一点突破を目的とした突撃部隊の編成を、いつものように冷静な、しかしその奥に燃えるような決意を秘めた声で指示していた。
部屋の隅ではユーリスが消耗しきったアビスの傭兵たちにカシアンから渡された編成表を元に、それぞれの役割と突撃経路を説明している。ハピはもはやため息をつく気力もなく、ただぼんやりと蝋燭の炎を見つめコンスタンツェは煤と埃にまみれた扇子を固く握りしめ唇を噛んでいた。ジェラルトは動かぬ右腕をさすりながら、カシアンの指示に時折静かに頷き、その戦術眼に最後の信頼を寄せているかのようだった。
援軍の報は依然として届かない。それどころか、数少ない斥候が持ち帰る情報は、カシアン領の周囲を鉄壁の魔獣の群れが取り囲み、もはや蟻一匹這い出る隙間もないという絶望的なものばかりだった。かつてカシアンが用意していた秘密の脱出通路もコルネリア軍の執拗な捜索と魔獣の嗅覚によって発見され、既に土砂と瓦礫で完全に埋め戻されてしまっていた。市民たちは比較的堅牢ないくつかの建物に集められ、事実上の隔離状態に置かれている。彼らの運命はこの最後の戦いの結果に委ねられていた。
「…なあ、カシアンの旦那。もう、無理なんじゃねえか…?」
編成作業の合間、一人の年かさの傭兵が、掠れた声でカシアンに問いかけた。その瞳には、長引く戦闘による疲弊と、拭いきれない敗北の予感が色濃く浮かんでいた。
「俺たちは、旦那の指示通り、ここまで必死に戦ってきた。だが、敵の数はあまりにも多すぎる。それに、あの化け物じみたタイタニス…あんなもんがまだ何体もいやがるんだろ? 正直、もう…勝てる気がしねえよ…」
その言葉は、その場にいた多くの兵士たちの心の声を代弁しているかのようだった。司令部には、重く、息苦しい沈黙が満ちる。
カシアンは、その傭兵の顔をじっと見つめた後、静かにはっきりとした口調で言った。
「…気持ちは分かる。確かに現状は絶望的と言っていいだろう。だが」
彼は集まった兵士たち一人一人の顔を見渡し、そして、確かな力を込めて言葉を続けた。
「あと一日だけ…いや、明日の夜明けからの、ほんの数時間だけでいい。私に時間をくれ。この状況を覆すための最後の策がある。必ずこの膠着状態を打破してみせる。だから頼む。あと少しだけ、私と共に戦ってほしい」
その言葉には不思議な説得力があった。彼の揺るぎない自信と、その瞳の奥に宿る冷徹な計算が、絶望に沈みかけていた兵士たちの心に僅かながらも、再び闘志の火を灯したかのようだった。
兵士たちは顔を見合わせ、やがて誰からともなく力なく頷いた。カシアンという普通ではない男の言葉には信じさせる何かがあった。
翌早朝。第三防衛線の城壁の外からコルネリアの甲高い声が、魔力によって増幅され、カシアンたちの陣営へと響き渡った。それは最後通牒だった。
「カシアン! 聞こえていますわね? あなたのその矮小な抵抗も、もはやこれまで。これ以上、無益な血を流すのはお止めなさい。今すぐ武器を捨て私に降伏するのなら、特別に慈悲を与えて差し上げてもよろしくてよ?」
コルネリアの声は甘く、しかしその奥に底知れぬ悪意ーーここまで戦いを長引かせた苛立ちの発散と内部分裂の誘いーーを内包していた。
「そうね…例えば、あなた自身を、私の新たな『研究材料』…そう、素体として、丁重に扱って差し上げてもよろしくてよ? あなたのその小賢しい頭脳と、女神の血の残滓を宿したというその肉体、じっくりと隅々まで解析し有効活用させていただくわ。もちろん、多少の苦痛は伴うでしょうけれどフォドラの未来のためですもの、名誉なことではありませんか?」
彼女の言葉はカシアンに対する最大限の侮辱と、彼の存在そのものを弄ばんとする嗜虐的な響きに満ちていた。
「ですが…もし、あなたがまだ愚かにも抵抗を続けるというのなら…」
コルネリアの声のトーンが、一気に冷酷なものへと変わる。
「その時はあなたと、そしてあなたが必死に守ろうとしているあの『女神の器』…ベレスとかいう小娘もろとも、捕らえさせていただきますわ。そしてあなたたちのその忌まわしい力と魂が尽き果てるまで、何度でも、何度でも…そう、たとえ何度瀕死になろうとも、繰り返し繰り返し、私の満足がいくまで実験を続けさせていただく。ふふふ…どちらを選ぶか賢明なあなたなら、もうお分かりですわよね?」
その脅迫はカシアンの最も触れられたくない部分――ベレスの存在――を的確に抉り、彼の逆鱗に触れるには十分すぎた。
司令部でその降伏勧告を聞いていたカシアンは、最初こそ頭巾の下で表情を変えずにいたがコルネリアの最後の言葉を聞いた瞬間、彼の周囲の空気が、まるで絶対零度にまで凍りついたかのように、急激に変化した。
その瞳から全ての感情が消え失せた。喜びも、悲しみも、怒りさえも。ただ、底なしの、氷のような冷徹さと全てを破壊し尽くさんばかりの、静かで純粋な殺意だけが、その瞳の奥で禍々しく燃え盛っていた。
カシアンはゆっくりと立ち上がると、城壁の上に設けられた簡素な物見台へと、音もなく歩を進めた。そして眼下に広がるコルネリア軍の黒い大群と、その中央で傲然と指示を飛ばすコルネリアの姿を一切の表情を浮かべないまま、静かに見下ろした。
コルネリアはカシアンが姿を現したことに気づき、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あら、ようやくお出ましですか、カシアン。それで、返事は聞かせてもらえますの?」
カシアンは何も答えなかった。ただじっとコルネリアを見つめ返すだけだった。その無表情の仮面の下で彼が何を考えているのかコルネリアにも、そしてその場にいた誰にも、窺い知ることはできない。
やがて彼はゆっくりと口を開いた。その声は真冬の氷原を渡る風のように、冷たく感情が削ぎ落とされていた。
「……そうか」
ただそれだけだった。そして彼は続けた。
「……ならば、これが私の、返事だ」
その言葉を最後にカシアンは物見台から音もなく姿を消した。彼のその静かで、しかし有無を言わせぬ宣告は、これから始まるであろう、最後のそして最も凄惨な戦いの始まりをコルネリアに、そして紋章社会への不吉な狼煙となった。