「…ならば、これが私の返事だ」
カシアンのその静かで氷のような響きを伴った言葉は、第三防衛線の物見台からコルネリアの陣営へと確かに届いた。コルネリアはその言葉の意味を測りかね、一瞬眉をひそめたがすぐに嘲笑を浮かべた。
「ふふん、何を馬鹿なことを。返事? あなたにこの私に一体何ができるというのです? 武器も兵士も尽きかけ、もはや風前の灯火。潔く首を差し出すか私の軍門に下り実験動物として余生を過ごすか…あなたに残された道はそれだけのはずですわよ?」
彼女の言葉は絶対的な勝利を確信した者の傲慢さに満ちていた。
だがその傲慢な笑みが凍りつくのにそれほど時間はかからなかった。
コルネリアの言葉が終わるか終わらないかのうちに、第三防衛線の奥深くカシアンが築いた最後の砦の隠された発着場から、突如として数十騎の影が夜明け前の薄闇を切り裂いて空へと舞い上がったのだ。それはペトラ率いる帝国軍の精鋭飛行部隊――ペガサスナイトとドラゴンナイトたちだった。彼女たちは先の戦闘での消耗から回復し、この瞬間のために牙を研いでいた。そしてそのペガサスやドラゴンの屈強な脚には、それぞれ大きな木製の樽がいくつも頑丈な革紐で括り付けられていた。
「今更飛行部隊!? あの程度の部隊で、一体何を…?」
コルネリアは驚きの声を上げた。そしてその樽に目を留め、ある可能性に思い至る。
(まさか…あの樽の中にベレスとかいう小娘を隠して、空から逃がすつもりですの!? 小賢しい真似を…!)
彼女は即座に闇魔術師に追撃を命じた。
「追撃させなさい!」
しかしペトラの部隊の動きはコルネリアの予測を裏切るものだった。彼女たちは、カシアン領から離脱するどころか翼を翻し、眼下に広がるコルネリア軍の本隊――特にタイタニスや攻城兵器が密集する第二層の陣地――へと、一直線に突撃してきたのだ。
「今更その程度で!」
コルネリアが飛竜部隊の様子を見る間にペトラの部隊はコルネリア軍の頭上に到達し、そして何のためらいもなく抱えていた木製の樽を次々と眼下へと投下し始めた。
ヒュオオオオッ!という不気味な風切り音と共に、数十個の樽がコルネリア軍の陣地へと吸い込まれていく。兵士たちは何が起きているのか理解できずただ空を見上げているだけだった。
そして樽が地面に激突し、あるいは運悪く魔獣の巨体に直撃した瞬間――。
ズドドドドドドドドォォォォーーーーーン!!!!!!!!
想像を絶するような大爆発がコルネリア軍の陣地の各所で同時に発生した。それはカシアンがこの日のために密かに開発を進めさ、新型の高性能爆薬を活用した「空爆」だった。開発途中で起爆成功率はそこそこだが衝撃を受けたら起動する魔法付きの爆弾。そして一つ一つの樽の破壊力は通常の爆弾を凌駕し、樽に入った金属破片が広範囲に撒き散らされるように設計されていた。
爆炎が天を焦がし衝撃波が大地を揺るがす。コルネリア軍の兵士たちは悲鳴を上げる間もなく爆風と破片に飲み込まれ魔獣たちもその強靭な甲殻を砕かれ、断末魔の咆哮を上げながら巨体を横たえる。堅牢なはずの攻城兵器もまるで玩具のように吹き飛ばされ、炎上していった。第二層の陣地は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと叩き落とされた。
「こ、こんな…馬鹿なことが…!?」
コルネリアは映し出された自軍の惨状に信じられないといった表情で絶句した。あの樽はただの樽ではなかったのだ。
だが悪夢はまだ終わらない。ペトラの飛行部隊は第一波の爆撃を終えると、少しも速度を緩めることなく翼を翻し再び第三防衛線の奥深くへと帰投していく。そして数分も経たないうちに、新たな爆弾樽を抱え第二波攻撃のために再びコルネリア軍の上空へと舞い戻ってきたのだ。その手際の良さと統制の取れた動きは、この作戦が事前に周到に準備され、繰り返し訓練されていたことを雄弁に物語っていた。
「総員、ロングアーチ、射撃用意! ペトラ殿の部隊を援護! 敵の行動を阻害しろ!
火の魔法が撃てる奴は狙わずに打て。不発弾に当たる可能性もある!」
カシアンの冷静な命令が第三防衛線の城壁から響き渡る。待機していたロングアーチが一斉に火を噴きペトラたちの進路を妨害しようとするコルネリア軍の弓兵や魔道士たちを的確に狙撃し沈黙させていく。
「おのれ…! 鳥の魔獣を! ありったけの鳥の魔獣を召喚して、あの忌々しい蝿どもを叩き落としなさい!」
コルネリアは怒りに顔を歪ませながら闇魔術師に絶叫した。
しかし闇魔術師の男が顔面蒼白で震える声で報告する。
「も、申し訳ございません、コルネリア様! 先の戦闘で飛行型の魔獣は…その、ほとんどを使い果たしてしまいまして…! 残存する個体ではあの数の飛行部隊を迎撃するのは…!」
「なんですって!? あの役立たずどもが!」コルネリアは忌々しげに吐き捨てた。
地上魔獣たちは空からの脅威に恐れをなしたのか、あるいは本能的に危険を察知したのか我先にと爆心地から離れようと暴れ始めた。だがその巨体とカシアンのロングアーチ対策として急遽装着させられた急所を守るための分厚い鉄板が逆に彼らの動きを著しく鈍重にさせていた。密集した陣形の中で彼らは互いにぶつかり合い、足を踏み外し狭い通路を塞いでしまい、かえって味方同士の邪魔をするという醜態を晒していた。
そしてその混乱の極みにあるコルネリア軍の頭上に、再びペトラ率いる飛行部隊が到達した。
「ブリギットの誇り、見せる! 全弾、投下!」
ペトラの勇ましい号令と共に、第二波の爆弾樽が今度はコルネリアの本陣が置かれている第二層の中央付近へと雨のように降り注いだ。
再び地獄の轟音が戦場を支配する。爆炎と黒煙、肉の焦げる臭い。コルネリア軍はカシアンの仕掛けた空からの奇襲爆撃によって完全にその組織的抵抗力を奪われ、ただ蹂躙されるだけの存在と化していた。カシアンの「返事」は、コルネリアの想像を遥かに超える冷酷かつ破壊的なものだった。
ペトラ率いるブリギット飛行部隊の空襲は一度では終わらなかった。爆弾樽を投下し終えた彼女たちは第三防衛線の奥深くへと一時退避し、待機していたアビスの補給部隊から新たな樽を受け取ると間髪入れずに再びコルネリア軍の上空へと舞い戻る。そして、眼下の敵陣へと無慈悲な「贈り物」を届けるのだ。爆撃、補給、再爆撃。そのサイクルはまるで精密な機械のように何度も何度も繰り返された。
「おのれ、おのれ、おのれぇぇぇっ! 誰か撃ち落とせねぇのか!」
コルネリアは自らがいるはずの安全な後方陣地にも爆炎と衝撃波が迫り来るのを目の当たりにし天幕の中でヒステリックに叫び続けていた。彼女の美しい顔は怒りと焦りと、そして屈辱で赤黒く染まっている。
「魔獣たち!何をぼうっとしているのです! あの忌々しい鳥どもを叩き落としなさい!」
しかし彼女の命令は空しく響くだけだった。地上魔獣たちは先程からの爆撃と炎上で、密集した陣形の中で右往左往するばかり。カシアンのロングアーチ対策として装着させられた急所の鉄板は、今や彼らの動きをさらに鈍重にさせ狭い通路で互いにぶつかり合い、身動きが取れなくなるという皮肉な結果を生んでいた。まさにカシアンの計算通りだった。
「闇魔術師たち!早く出やがれ! あの空飛ぶブリキの玩具どもを、闇の炎で焼き尽くせ!」
コルネリアは最後の望みを託すかのように、傍らに控える闇魔術師の一団に命じた。
闇魔術師たちは禍々しい呪文を詠唱し始め、ペトラの飛行部隊めがけて強力な闇の魔弾を放とうとした。しかし彼らが詠唱を完了するよりも早く第三防衛線の城壁から、無数の矢が雨のように降り注いだ。
それらの矢の先端には油を染み込ませた布が巻き付けられており、空中で火矢となって闇魔術師たちの頭上へと殺到する。
「うわっ!火だ!」「詠唱が…!」
闇魔術師たちは降り注ぐ炎の矢と、それによって引き起こされる小規模な爆発や煙に詠唱を妨害され有効な反撃を行うことができない。一部の魔術師は飛来する火矢によってローブに火が燃え移り、悲鳴を上げてその場を逃げ惑う始末だった。カシアンのロングアーチ部隊は爆弾樽を投下し終えたペトラたちが安全に離脱するための時間を稼ぎ、そして闇魔術師たちの対空攻撃を完全に封殺するという重要な役割を、的確に果たしていた。
そしてついに五度目の空襲が終わった。
「…結構です。ペトラ殿、貴女と飛行部隊の働き、見事でした。もはや十分すぎる戦果です。これ以上の無理は禁物。ただちに第三防衛線内部へと帰投し、負傷者の手当と部隊の再編を行ってください」
カシアンは冷静にそう指示を送ると眼下に広がるコルネリア軍の惨状を、物見台の上から静かに見下ろした。
度重なる爆撃によってコルネリア軍の陣形は完全に崩壊し、その兵力は見る影もなく削り取られていた。第二層の市街地はもはや黒焦げの瓦礫の山と化し、そこかしこで魔獣の死骸や兵士の亡骸が燻っている。生き残った兵士たちも度重なる爆撃の恐怖と混乱で戦意を完全に喪失しただ呆然と立ち尽くすか、あるいは我先に逃げ出そうと味方同士で醜い争いを繰り広げている有様だった。かつてカシアン領を蹂躙せんと進軍してきた大軍勢の威容はそこにはもはや欠片も残っていなかった。
カシアンはその光景を無表情で見つめていたが傍らに控えていたユーリスに命じた。
「ユーリス。…行け」
その短い命令を受け、ユーリスはニヤリと不敵な笑みを浮かべると、力強く頷いた。
「へいへい、お待ちかねだぜ、センセ!」
彼が合図を送ると第三防衛線の最後の砦となっていた巨大な城門が、ギギギ…と重々しい音を立てながらゆっくりと内側へと開かれていった。
城門の奥、薄暗い通路から姿を現したのは、この数週間死線を彷徨いながらも生き残ったカシアン配下の兵士たちの精鋭だった。先頭に立つのは、血と泥に汚れながらもその双眸に闘志を失っていない死神騎士、ユーリス、コンスタンツェ、ハピ。そして彼らに続くのはアビスの傭兵たちと、この町を守るために武器を取った領民兵たち。その数はコルネリア軍に比べればあまりにも少ない。しかし彼らの顔には絶望的な籠城戦を耐え抜き、そして今、反撃の狼煙が上がったことへの熱い高揚感と決意がみなぎっていた。
「な…なんだと…? あのネズミども、まだ…これほどの戦力を残っていやがった…?」
城門が開かれ、そこから鬨の声を上げて突撃してくるカシアンの兵士たちの姿を見てコルネリアは手がわなわなと震えるのを抑えられなかった。彼女の計算ではカシアン軍はもはや壊滅寸前のはずだった。
「…撤退! 全軍、ただちに撤退しろ! アリアンロッドまで退き、態勢を立て直しなさい!」
コルネリアは今更ながら必死の形相で撤退命令を叫んだ。だがそれはあまりにも遅すぎた。
「逃がすかぁっ!!」
ユーリスの鋭い叫びを合図にカシアンの兵士たちは、まるで堰を切った濁流のように、混乱し逃げ惑うコルネリア軍の残党へと襲いかかった。それはもはや戦闘ではなく、一方的な追撃戦、あるいは狩りに近かった。
数の上ではまだコルネリア軍が勝っていたかもしれない。だが度重なる爆撃で士気も組織力も完全に崩壊した彼らは、もはやカシアンの兵士たちの敵ではなかった。特に、コルネリアを守ろうと最後まで抵抗を試みた闇魔術師や、彼女の側近として前線指揮を執っていた将校たちは、ユーリスやコンスタンツェ、ハピといったアビスの猛者たちの連携攻撃の前に次々と討ち取られ、その首は無残にも刎ね飛ばされた。
カシアンはその追撃戦の全てを、第三防衛線の城壁の上から静かに見下ろしていた。彼の頭巾の下の表情は窺えない。ただ、炎に照らされたその横顔は、まるで長年待ち望んだ復讐の機会を冷徹に確実に遂行しているかのようにも見えた。
やがてコルネリア軍の抵抗は完全に沈黙し生き残った者たちも蜘蛛の子を散らすように敗走していった。戦場には夥しい数の死骸と燃え盛る炎、そして勝者の雄叫びだけが残された。
カシアンはその光景をしばらくの間、無言で見つめていたが、やがて、ふぅ、と一つ、大きなどこか憑き物が落ちたかのような、深い安堵のため息を夜明け前の薄暗い空へと静かに吐き出した。長かった戦いがようやく終わったのだ。