道徳以外を教えます   作:マウスブン

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止め

コルネリア軍の残党が蜘蛛の子を散らすように敗走していくのを、カシアンは第三防衛線の城壁の上から静かに見送っていた。夜明け前の冷たい風が、彼の頭巾と、その下に隠された淡い緑色の髪を微かに揺らす。長かった攻防戦の終結。夥しい犠牲と、焦土と化した街並み。その全てが、彼の脳裏を駆け巡り、そしてゆっくりと沈んでいく。

 

「…ふぅ。どうにか…なった、か」

カシアンは、誰に言うともなく呟き、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、その場にゆっくりと腰を下ろした。彼の周囲には激戦を生き延びたとはいえ、疲労困憊の兵士たちが数名、同じように荒い息をつきながら警戒を続けているだけだった。ユーリスやペトラ、アビスの主要な者たちは、敗走するコルネリア軍の追撃と、領内の残敵掃討のために別動隊を率いて出払っており、この司令部は一時的に手薄になっていた。

 

だがその僅かな油断と消耗しきったカシアンたちの状況を、闇の中から鋭い眼光で見つめる者たちがいた。アランデル公――タレスが、コルネリアとは別に、カシアン領の動向を探るために潜ませていた手駒、影の暗殺者たちだ。彼らは、コルネリア軍の敗北と、カシアンが孤立するこの瞬間を、辛抱強く待ち続けていたのだ。

 

シュッ、シュッ!

夜明け前の静寂を切り裂き数本の黒い矢が音もなくカシアンの周囲にいた兵士たちの喉や眉間を正確に貫いた。兵士たちは、声もなくその場に崩れ落ちる。あまりにも速く、そして正確な奇襲だった。

 

「なっ…!?」

カシアンは仲間が倒れる音と背後に迫る複数の殺気に、反射的に身を翻した。そこには、全身を黒装束で覆い不気味な仮面をつけた数名の暗殺者が、既に抜き身の刃を煌めかせながら音もなく迫っていた。彼らの動きは洗練されており、明らかに常人ではない。

 

(スパイか…!このタイミングを狙っていたとは…!)

カシアンは瞬時に状況を理解し負傷した体と疲弊した精神に鞭打って、その場から逃れようとした。だが先のコルネリアとの戦いで体力も魔力も限界近くまで消耗しており、その動きは普段の彼からは想像もつかないほど鈍重だった。

 

「逃がさん…カシアン卿」

暗殺者の一人が地を這うような低い声で呟き、その毒々しい紫色の刃がカシアンの背中へと容赦なく迫る。万事休すか――。

 

その刹那。

 

まるで神風が吹き抜けたかのように一条の緑色の閃光が、暗殺者たちとカシアンの間に割って入った。

キンッ!と甲高い金属音が響き渡り、暗殺者の刃は、その閃光の主が振るった剣によって容易く弾き返される。

 

「……!?」

暗殺者たちは、予期せぬ邪魔者の出現に一瞬動きを止めた。そしてカシアンもまた、信じられないものを見るかのように、その緑色の閃光の主を見つめた。

 

そこに立っていたのは見慣れた、しかし今はどこか神々しさすら纏う少女だった。陽光の下では淡く月明かりの下では鮮やかな緑色に輝く長い髪。その手にはまるで彼女自身の魂の一部であるかのように馴染んだ、聖なる輝きを放つ「天帝の覇剣」が握られている。そして何よりもその大きな緑の瞳には、長い眠りから覚めたばかりの微かな気怠さと、しかし目の前の脅威に対する揺るぎない意志、そしてカシアンを案じる深い情が静かに宿っていた。

 

ベレス――長い、長い眠りから、彼女はついに目覚めたのだ。

 

「…私の…カシアンに……指一本、触れさせるものか」

ベレスは静かだが、絶対的な拒絶の意志を込めた声で呟くと、天帝の覇剣を構え直した。その動きには一切の無駄がなくまるで長年の眠りが彼女の剣技をさらに研ぎ澄ませたかのようだ。

 

暗殺者たちはベレスから放たれる尋常ならざる覇気に一瞬怯んだが、すぐに任務を遂行せんと再び襲いかかろうとした。だが彼らの動きは、ベレスの神速の剣技の前にはあまりにも遅すぎた。

天帝の覇剣がまるで生きているかのようにしなり、踊る。閃光が迸るたびに、暗殺者たちの黒装束が切り裂かれ鮮血が舞い、そして一人、また一人と、声もなくその場に崩れ落ちていった。それはもはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。

 

わずか数十秒後。カシアンの周囲には息絶えた暗殺者たちの亡骸だけが転がっていた。

ベレスは剣についた血を軽く振るい落とすと、静かに鞘に納めた。そしてゆっくりとカシアンの方へと振り返る。

 

カシアンはそのあまりにも劇的な救出劇と、何よりも長い眠りから覚めたベレスの姿に、言葉を失い、ただ呆然と彼女を見つめていた。

 

ベレスはそんなカシアンの前に静かに歩み寄ると、その大きな緑の瞳で彼の顔を、その傷を、そしてその無事を確かめるようにじっと見つめた。そして長い沈黙の後、彼女の唇から掠れた確かな安堵と、彼への深い想いが込められた言葉がゆっくりと紡ぎ出された。

 

「……カシアンおはよう。私がいない間…随分と無茶をしたね……」

その声は少しだけ拗ねたような響きと、何よりもカシアンの無事を心の底から喜ぶ温かい響きを持っていた。

 

 

 

ベレスのその声はカシアンにとってどんな妙薬よりも魂に染み渡る響きを持っていた。彼はまだ完全に状況を飲み込めていない頭で、しかし目の前の現実――長い眠りから覚め再び自分のために剣を振るってくれたベレスの存在――をしっかりと認識し安堵と、それ以上の言葉にできない感情に包まれながら、ゆっくりと答えた。

「…おはよう、ベレス。そして、ありがとう。ええ、また…君に、命を救われてしまった」

その声にはいつもの皮肉めいた響きはなく、ただ純粋な感謝と彼女への深い信頼が込められていた。

 

ベレスはカシアンのその言葉に小さく頷くと、すぐに視線を周囲へと巡らせた。彼女の緑の瞳は、戦場の空気を瞬時に読み取り、そして先ほどまでコルネリア軍の残党が逃げ惑っていた方向――今はもうほとんど人影は見えないが、まだ微かに土煙が残り、遠吠えのような魔獣の鳴き声が聞こえる方角――を鋭く見据えた。

「…あっちか」

彼女は短く呟くと近くで呆然と立ち尽くし、この信じがたい光景の一部始終を見ていたカシアン配下の若い兵士の一人に、静かだが有無を言わせぬ覇気を込めた声で呼びかけた。

「あなた」

 

「は、はいぃっ!?」

兵士はベレスのそのただならぬ気配と、その手に握られた天帝の覇剣の輝きに完全に気圧され、裏返った声で返事をした。

 

「カシアンを…この人を、絶対に守れ。次に私が戻ってくるまで、傷つけさせるな。」

ベレスの言葉は静かだったが、その奥には逆らうことを一切許さない、絶対的な意志が込められていた。兵士はその緑の瞳に見据えられ、まるで魂の奥底まで見透かされているかのような錯覚に陥り、ただただ恐怖と畏敬の念に打たれながら必死に頷くことしかできなかった。

「は、はいぃ! か、必ず! この命に代えても!」

 

「よろしい」

ベレスは兵士の返事に満足げに頷くと、再びカシアンに向き直った。その表情は先程までの戦士の顔から、少しだけ柔らかいものへと変わっていた。

「カシアン。…後で、たっぷりと話がある。聞きたいことも話したいことも、山ほど」

彼女の声には長い空白の時間を埋めたいという切実な響きと、そしてカシアンへの深い親愛の情が滲んでいた。

 

カシアンは彼女のその言葉と眼差しを静かに受け止め力なく確かな声で答えた。

「…ええ。私もです、ベレス。また、後で。…必ず」

 

その約束の言葉を交わすとベレスはもはや一瞬の躊躇も見せなかった。彼女はカシアンに力強い頷きを一つ送ると、風のように身を翻し、コルネリア軍の残党が逃げていった戦場の奥深くへと、天帝の覇剣を手に疾風の如く駆け出していった。その緑色の髪が、夜明け前の薄闇の中で鮮やかな軌跡を描く。明らかに彼女は、この戦いに、そしてカシアンたちの戦いに、決着をつけるために参戦するつもりだった。

 

一人残されたカシアンは、ベレスのその勇ましい後ろ姿を、言葉もなく見送っていた。その胸には、安堵と、誇らしさと、そしてほんの少しの寂しさが入り混じった、複雑な感情が渦巻いていた。

 

しばらくしてベレスの姿が完全に戦場の喧騒の中へと消えていったのを見届けた若い兵士が、まだ恐怖で顔を引きつらせながらも、おずおずとカシアンに尋ねた。

「あ、あの…カシアン様…。い、今の方は…その、一体、どなた様なのでしょうか…? まるで…その…」

兵士は、適切な言葉が見つからず、口ごもった。

 

カシアンは遠く戦場の奥深くへと視線を向けたまま静かに、確信を込めて短く答えた。

 

「……女神、だよ」

 

 

 

兵士はベレスが消えていった戦場の奥深くを多少の畏敬と、そして何よりも圧倒的な理解不能の念を込めて見つめるしかなかった。

 

カシアンはそんな兵士の肩を軽く叩くと、いつもの冷静さを取り戻し、現実的な指示を出し始めた。

「おい、いつまでも呆けているな。君はすぐに、南と東の街道の状況を確認してこい。コルネリアの敗残兵が逃げ込んだ可能性もあるが、それ以上に新たな敵…例えば、この混乱に乗じて漁夫の利を得ようとする帝国軍の別動隊や、あるいはまだ懲りない王国軍の増援が来ていないとも限らん。状況を正確に把握し私に報告しろ。いいな?」

 

「は、はい!ただちに!」

兵士はまだベレスの衝撃から完全に抜けきれていない様子だったが、カシアンの有無を言わせぬ命令に、弾かれたように敬礼し、慌てて南の街道へと偵察に駆け出していった。

 

一人残されたカシアンは、ふぅ、と一つ息をつくと、まるで先程までの死闘や、女神の降臨(?)など、何もなかったかのように、実にのんきな足取りで戦後処理の指揮を執り始めた。

「さて、まずは負傷者の手当てが最優先だな。医務班はどこだ? 重傷者は奥の建物へ。軽傷者はここで応急処置を。それから、食料の確保だ。ユーリスたちが戻るまで、残った兵士と市民たちに温かい食事を配給できるように手配しろ。燃え残ったコルネリア軍の陣地からも、使えそうな食料や物資は根こそぎ回収だ。水もだ。井戸はまだ使えるか?」

 

彼の指示は的確で、無駄がなく驚くほど日常的だった。つい先ほどまで血と炎と死の匂いが支配していた戦場が、彼の指揮のもと徐々にではあるが、秩序を取り戻していく。まるで彼にとってこの凄惨な戦後処理は、研究室で薬品を調合したり、書庫で古い文献を整理したりするのと、何ら変わりない「作業」の一環であるかのようだった。

兵士たちはそんなカシアンの変わらぬ姿に、ある種の安心感と、そしてやはりどこか得体の知れない不気味さを感じながらも、黙々と彼の指示に従って動き始めた。

 

 

 

それからおよそ四、五時間が経過しただろうか。陽は既に中天に昇り、カシアンは回収された物資のリストを検分し、負傷者の報告に目を通し、そして暫定的な防衛計画のための簡単なスケッチを羊皮紙に描いていた。その時だった。

 

「カシアン!!!!」

 

慌てた、しかし彼が誰よりも聞き慣れた女の声が司令部の入り口方向から響いた。声と同時にまるで疾風のように、緑色の髪を激しく乱したベレスが部屋の中に飛び込んできた。その顔は煤と返り血で汚れ息も絶え絶えだったが、その瞳はカシアンの姿を捉えた瞬間安堵と、そして抑えきれない不安の色に激しく揺らめいた。

 

そしてカシアンが驚いて顔を上げる間もなく、ベレスは一直線に彼の元へと駆け寄りまるで大切な宝物でも抱きしめるかのように力いっぱい、彼の体に抱きついた。その勢いは凄まじく、椅子に座っていたカシアンは、危うく後ろへ倒れそうになるほどだった。

 

「ベ、ベレス!? どうしたんですか、そんなに慌てて…まさか、追手が!?」

カシアンは突然のベレスの行動に戸惑いながらも、彼女の背中を支え、優しく声をかけた。

 

「…終わった…」ベレスは、カシアンの胸に顔を埋めたまま、途切れ途切れだが確かな達成感を込めて言った。

「コルネリアは…私が、この手で…倒した…。アリアンロッドも…ユーリスたちが、陥落させた…もう、大丈夫だ…」

 

その言葉に、カシアンは静かに息を呑んだ。コルネリアを討ち、アリアンロッドを陥落させた。それはこの戦いにおける完全な勝利を意味していた。

「…そうですか。それは…ご苦労様でした、ベレス。そして、ユーリスたちも、よくやってくれた」

カシアンは、ベレスの頭を優しく撫でながら、労いの言葉を送った。

 

「腹が空いたでしょう? 今、温かい食事を用意させます。少し休んで…」

カシアンがそう言って、彼女を抱きしめる腕をわずかに緩めようとした瞬間、ベレスはさらに強く、まるで離れまいとするかのように、カシアンの体にきつく抱きついたまま、全く動こうとしなかった。その小さな体は、微かに震えている。

 

「ベレス…?」

 

「……また……カシアンが……死にそうに…なっていた……」

ベレスはくぐもった声だがその言葉には深い悲しみと、そしてカシアンへの強い執着にも似た感情を込めて、そう呟いた。

「私が…見ていないところで……また……」

 

カシアンは、彼女のその言葉の裏にある、彼女が体験してきたであろう主観的な時間の流れと、その中で彼が何度も「死にかけた」という事実を改めて思い起こした。モニカ(クロニエ)に襲われた時、レアの手によって地下牢で餓死寸前だったあの時、そして竜と化したレアに胸を貫かれたガルグ=マクでの激戦、さらにはつい先ほどのアランデルの暗殺者の襲撃。ベレスが眠っていた期間を考慮すれば彼女の認識の中では、ごく短い間に、カシアンは実に四度も、死の淵を彷徨ったことになる。彼女のこの異常なまでの不安と、彼にしがみつく行動は、そのトラウマの表れなのだろう。

 

カシアンはもはや何も言わず、ただ黙って震える彼女の背中を優しく、力強く抱きしめ返した。彼女の不安を少しでも和らげられるように。そして彼女がもたらしてくれた勝利と、何よりも彼女自身の無事を、心の底から感謝するように。

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