コルネリア軍を壊滅させ、アリアンロッドを陥落させた。だがその報せの少し前に、エーデルガルトはカシアン領の危機的状況をヒューベルトから聞き、ようやくカシアン領へ自身が援軍を率いて向かうと宣言。疫病や同盟軍の攻勢といった帝国内の諸問題に対し、迅速かつ的確な指示と人員配置を行うと、最小限の手勢ではあったが、自ら黒鷲の学級の元生徒たちを中心とした精鋭部隊を率い、カシアン領へと急行していた。彼女の胸には、戦略的な判断以上に、眠り続けるベレスとおまけでカシアンの安否への強い懸念があった。
数日間の強行軍の末、エーデルガルト率いる帝国軍の先遣隊が、ガルグ=マクの東にようやく到着した。そこで彼女が目にしたのは疲弊しきり数も少ないが戦勝に湧くカシアン軍の兵士たちだった。そしてその中に、信じられない、しかし何よりも待ち望んでいた緑色の髪の姿を見つけた。
「ベレス先生…!」
エーデルガルトは思わず馬を駆けさせ、その人物の元へと急いだ。埃と血の匂いがまだ残る陣地の中で、数人の兵士に指示を出していたのは、紛れもなく、長い眠りから覚めたベレスその人だった。その姿は、ガルグ=マクで最後に見た時よりも、どこか精悍さを増し、そして何よりも、その瞳には確かな光が宿っていた。
「エーデルガルト…!」
ベレスもまた帝国の旗を掲げ、見慣れた赤い鎧に身を包んだエーデルガルトの姿を認めると、驚きと純粋な喜びの表情を浮かべて駆け寄った。
久しぶりの再会。二人は言葉少なながらも、互いの無事を喜び、固い握手を交わした。その姿を、後方から追いついてきたヒューベルトや、フェルディナント、リンハルト、カスパル、ベルナデッタ、ドロテア、ペトラといった黒鷲の学級の面々も、それぞれの表情に安堵と喜びを浮かべて見守っていた。特にドロテアやペトラは、目に涙を浮かべてベレスに駆け寄り、その再会を心から喜んだ。
「先生、本当に…ご無事だったのですね!コルネリア軍を、カシアン卿の部隊が退けたと聞いた時も、にわかには信じられませんでしたが…まさか、先生までお目覚めになっていたとは…!」
エーデルガルトは、感極まった様子でベレスの手を握りしめた。
ベレスも力強く頷いた。
「ああ、エーデルガルトも皆も、無事で良かった。本当に…良かった」
その時、エーデルガルトの視線は、ベレスのすぐ隣に立つ、どこか疲れたような、それでいて妙に落ち着いた雰囲気を漂わせる男の姿を捉えた。頭巾こそ取っているものの、その淡い緑色の髪と、見覚えのある顔立ち。
「カシアン卿…あなたも、ご無事でしたか」
「ええ皇帝陛下。どうにかこうにか」
カシアンはいつもと変わらぬ抑揚のない声で答えたが、その言葉の端々には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。そしてエーデルガルトはすぐに、ある異様な点に気づいた。
ベレスの左腕が、カシアンの右腕を、まるで万力のように、がっしりと掴んで離さないのだ。その握り方は尋常ではなく、カシアンもどこか困惑したような諦めたような、複雑な表情を浮かべている。
「ベレス先生…? その…カシアン卿の腕を、なぜそのように…?」
エーデルガルトが訝しげに尋ねると、ベレスはカシアンの腕をさらに強く握りしめながら、きっぱりとした口調で言った。
「…離したら、カシアンがまた、どこかに行ってしまうかもしれないから」
その瞳にはカシアンを失うことへの、深い恐怖と強い独占欲にも似た感情が、隠しようもなく浮かんでいた。
周囲の黒鷲の生徒たちも、その異様な光景とベレスの言葉に、驚きと戸惑いの表情を浮かべる。ドロテアが、代表してカシアンに尋ねた。
「あの、カシアン先生…? ベレス先生と、何かあったんですの…? まるで、先生が逃げ出さないように見張っているみたいですけれど…」
カシアンはドロテアの遠慮のない質問に、深いため息をつくと、ベレスに掴まれたままの腕をわずかに動かしながら、やれやれといった表情で答えた。
「…ええ、まあ、少々。またしても、私は暗殺者に命を狙われましてね。それを間一髪のところで、ベレスに救っていただいたのです。…その後からどういうわけか、このように腕を離してくれなくなりまして」
彼はまるで他人事のように、しかしその声には確かな諦観と、そしてベレスのその行動を拒絶できないでいる、複雑な感情を滲ませていた。カシアン領でのジェラルトやユーリスらの前でもこの様子だった。帰ってから何を言われるか考えたくもない。
「過保護にも程があるとは思いませんか?全く人目があるからこちらは我慢してるのに、自分からだけべたべたと。」
カシアンのその「過保護にも程がある」というぼやきに、エーデルガルトはくすりと笑みを漏らしたが、すぐに表情を引き締め、カシアンの報告の続きを促した。そしてコルネリア軍の壊滅、アリアンロッドの陥落という驚くべき戦果を聞き終えると、改めてカシアンの戦術眼と、そして何よりも、彼の指揮下で奮戦したベレスとアビスの者たちの力に感嘆の息をついた。
「カシアン卿、申し訳ありません。あなたからの援軍の必要性は帝都に届いていました。我々の到着がここまで遅れたこと、弁解の余地もないわ」
エーデルガルトは申し訳なさそうに言った。
カシアンはベレスに腕を掴まれたまま、わずかに窮屈そうにしながらもヒューベルトに視線を向けた。
「…それでヒューベルト殿。一体何が? 帝国ともあろうものが、これほどの緊急事態に、なぜこれほどまで後手に回ったのですか?」
その声には純粋な疑問と皮肉が込められていた。
ヒューベルトはカシアンのその咎めるような視線にも臆することなく、冷静だがその声には隠しきれない疲労の色を滲ませて説明を始めた。
「…カシアン卿。貴殿からの第一報を受け、我々も即座に救援部隊の編成に取り掛かりました。しかしその矢先に、帝国各地で、まるで申し合わせたかのように、同時多発的に厄介な問題が噴出したのです」
ヒューベルトは指を折りながら、その悪夢のような数週間を振り返った。
「まず東部国境におけるレスター同盟の一部強硬派による、かつてない規模での攻勢。それに呼応するかのように、その前線地帯で発生した原因不明の悪質な疫病。さらには貴殿の領地の周辺だけでなく、ガルグ=マク要塞近辺においても、突如として多数の強力な魔獣が出現し、駐留部隊がその対処に追われました。ガルグ=マクでは、原因不明の大規模な崖崩れまで発生し、一時的に交通網が寸断される事態にまで発展したのです」
「それだけではございません」ヒューベルトは続けた。
「帝国内の複数の地方で、盗賊団が勢いを増し、村々を襲撃。さらには、本来なら魔獣など寄り付かぬはずの平野部にまで、小型の魔獣が群れをなして現れ、農作物を荒らし、民衆の間に大きな不安と混乱を引き起こしました。これら全てが、ほぼ同時期に、帝国の兵力と資源を分散させられました。それでも幾分かの兵力は送ったのですが、カシアン領までは届きませんでした。」
エーデルガルトが、苦々しげに言葉を継いだ。
「そしてこれらの不可解な事件の背後には、やはり…叔父上、アランデル公の影がちらついていたわ。彼の息のかかった貴族たちが不自然な動きを見せたり、疫病が蔓延した地域に、かつて彼が関わっていたという古い研究所の噂があったり…とね」
ヒューベルトは頷き、そしてここで初めて彼の声にわずかな高揚感が混じった。
「ですがこれらの派手な妨害工作は、我々にとって思わぬ副産物をもたらしました。アランデル公の不審な動きを徹底的に調査する過程で…『闇に蠢く者』たちの本拠地を特定することに成功したのです」
ヒューベルトの目が、仮面の奥で鋭く光った。
「シャンバラ…帝国の最東端、地下深くに築かれた忌まわしき地下都市。そこがアランデル公、いや、タレスと名乗るあの男の、そして奴らの牙城であることに間違いございません」
シャンバラ――その名を聞いた瞬間、カシアンの頭巾の下の瞳が微かに見開かれた。長年その存在を追い求めてきた闇の核心。それが今、ヒューベルトの口からあっさりと告げられた。
エーデルガルトは感慨深げに頷いた。
「ええ。ヒューベルトの執念が、ついに奴らの尻尾を掴んだわ。…積もる話は、山ほどあるけれど、まずは帝都へ戻り、態勢を立て直しましょう。連れてきたこの援軍も、これ以上この地に留まらせるわけにはいかない。帝都の守りも手薄になっているはずだから」
彼女は兵士たちに、帝都への帰還準備を命じようとした。
その時、カシアンが静かに、しかしはっきりとした声でそれを制した。
「お待ちください、陛下」
エーデルガルトは、カシアンのその意外な言葉に、驚いて彼を見た。
「どうしたというの、カシアン卿? 何か問題でも?」
「ええ、陛下」カシアンは、ベレスに腕を掴まれたまま、しかしその瞳には確かな光を宿して言った。
「今この瞬間こそ、陛下の本懐の一つを…いえフォドラの未来にとって極めて重要な一歩を、踏み出す絶好の好機かと愚考いたします」
「本懐…? それは一体…?」エーデルガルトは、カシアンの言葉の真意を測りかね、頭にはてなマークを浮かべた。しかし彼女は聡明だった。数秒の間、カシアンの真剣な眼差しと、ヒューベルトが先ほど口にした「シャンバラ」という言葉を結びつけ、そして、はっと息を呑んだ。
「…まさか、カシアン卿。あなたは…アランデル公をこの場で攻めろと、そう言うのね…?」
カシアンは静かに力強く頷いた。
エーデルガルトはそのあまりにも大胆な提案に、一瞬言葉を失い、思わず天を仰いで深く考え込んだ。シャンバラを攻める。それは彼女が長年抱いてきた悲願の一つであり、フォドラを覆う闇の根源を断ち切るための、避けては通れない戦いだ。だが今、このタイミングで?
カシアンはエーデルガルトの葛藤を見透かしたかのように、冷静な分析を続けた。
「陛下、ご懸念はごもっともです。ですが好機は常に危険と隣り合わせ。そしてこれほどの好機は、おそらく当分は訪れません」
彼はテーブルの上に広げられたフォドラの地図を指し示した。
「アランデル公は、ここ数週間の帝国内での妨害工作に、そのリソースの多くを割いていたはずです。まさか帝国の皇帝自らが、これほど迅速にその本拠地の喉元まで迫ってくるとは、夢にも思っていないでしょう。シャンバラの守りは、今この瞬間が最も手薄である可能性が高い」
「そして他の勢力ですが」カシアンは続けた。
「ファーガス神聖王国は、アリアンロッドを奪取され国内は未曾有の混乱状態に陥っているはずです。少なくとも数ヶ月は、まともな軍事行動を起こせる状態ではありますまい。レスター諸侯同盟もまた先の帝国への攻勢の失敗で、その力を大きく削がれ、今は内向きの対処に追われているはずです。彼らがシャンバラ救援のために、あるいは帝国の背後を突くために動く余裕は、当面ないでしょう」
カシアンは最後にエーデルガルトの瞳を真っ直ぐに見つめ、その声に確信を込めて言った。
「今、この場にいる我々の兵力は、確かに万全ではないかもしれません。しかし敵の油断と、周辺勢力の混乱という、これ以上ないほどの『地の利』と『時の利』が、我々にはあります。この機を逃さずシャンバラを強襲すれば…『闇に蠢く者』たちの多くを、その根城ごと葬り去ることも、決して不可能ではありますまい。陛下、ご決断を」
エーデルガルトはカシアンのその言葉の一つ一つを、深く、深く噛みしめていた。危険な賭けであることは間違いない。だが彼の分析は的確で、そして何よりもその提案には、フォドラの未来を大きく変える可能性が秘められていた。彼女の胸の中で皇帝としての責任感と、変革者としての野望が激しくせめぎ合う。
やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「……そうね、カシアン卿。あなたの言う通りかもしれないわ。このような好機二度と訪れないかもしれない」
彼女は、傍らに控えるヒューベルトに視線を送った。ヒューベルトもまた、カシアンの策の危険性と、しかしそれ以上に大きな魅力を理解し、静かに頷き返した。
エーデルガルトは再びカシアンに向き直り皇帝としての威厳を込めて、きっぱりと言い放った。
「分かったわ。攻めましょう、シャンバラを! この戦いで、フォドラの闇の歴史に、終止符を打つのです!」
そして、彼女は集まった帝国兵たちに向かって、力強く命令を下した。
「全軍に告ぐ! 目標変更! これより我々は、帝国の東端、シャンバラへと進軍する! フォドラの真の解放のために! 我らが皇帝の剣を、闇の心臓へと突き立てるのだ!」
その号令は夜明け前の静寂を破り、兵士たちの間に新たな闘志の炎を燃え上がらせた。カシアンの提案は、フォドラの歴史を、そして彼ら自身の運命を、再び大きく動かそうとしていた。