シャンバラの奥深く金属とガラス、そして未知のエネルギーラインが複雑に絡み合う回廊を、アランデル公――タレスはよろめきながら逃走していた。その身に纏う禍々しいローブは引き裂かれ、露出した肌にはエーデルガルトの斧によって刻まれた深い傷と、ベレスの天帝の剣が残した灼熱の痛みが走っていた。肩で荒い息を繰り返し、その仮面の下の顔は苦痛と屈辱に歪んでいた。
「おのれ…おのれ、エーデルガルト! あの女神のなりそこないめが…!この私をここまで追い詰めるとは…!」
タレスは壁に手をつき、崩れ落ちそうになる体を必死で支える。シャンバラの防衛システムはカシアンの策によって一部機能不全に陥り、エーデルガルトとベレスの連携による猛攻は、彼の予想を遥かに超えていた。
その時通路の奥から数人の影が駆け寄ってきた。いずれも「闇に蠢く者」の黒い魔術師の装束に身を包んでいる。彼らはタレスの姿を認めると慌てたようにその前に跪いた。
「タレス様!ご無事でしたか!」
「お怪我は…!なんと痛ましい…!」
魔術師たちは口々にタレスの身を案じる言葉を口にするが、その声にはどこか芝居がかったような響きが混じっているのを、今のタレスは気づく余裕もなかった。
「…無事に見えるか、この様が!」タレスは吐き捨てた。
「だが、まだだ…まだ終わったわけではない! 光の杭をここに落とし、この場から離脱する! 奴らにこのシャンバラを渡してたまるものか…!」
彼はそう言うと再び壁に手をつき、ふらつく足で立ち上がろうとした。その時跪いていた魔術師の一人が、すっと立ち上がり、懐から取り出した金属製の容器を恭しく差し出した。
「タレス様、まずはこれを。喉も渇いておられるでしょう。水です」
その声は他の魔術師たちと比べ、どこか冷静で感情の起伏が感じられないものだった。だが極度の疲労と喉の渇き、そして部下への僅かな油断から、タレスはその違和感に気づかなかった。彼は差し出されたコップをひったくるように受け取ると、仮面をわずかにずらし、一気にその中身を呷った。
「すまない…」
そう言い終えるか終わらないかのうちにタレスの動きが止まった。水ではない。喉を、そして食道を焼き尽くさんばかりの、強烈な刺激と熱。それは彼が知るどの飲み物よりも純粋で、凶暴なアルコールの味だった。
「がはっ…! げほっ、ごほっ…!」
タレスは激しく咳き込み飲んだものを吐き出そうとするが、一度胃に収まった高濃度の液体は、逆流することを許さない。彼の体内で、まるで炎が燃え上がったかのような灼熱感が暴れ回る。
「き、貴様…! これは…酒ではないか! ここは戦場だぞ…!貴様、正気かッ!」
タレスは血走った目でコップを渡した魔術師を睨みつけた。非常識な奴への怒りと体内の灼熱感で意識が朦朧としそうだ。
するとその魔術師はゆっくりと立ち上がり、嘲るような、あるいは全てを計算し尽くしたかのような冷ややかな声で言った。
「ええ、正気ですよ。…そして貴方こそまんまと引っ掛かりましたね、タレス」
その言葉と共に魔術師は被っていたフードをゆっくりと外した。現れたのは淡い緑色の、しかしその瞳には氷のような冷徹さを宿した、カシアンの顔だった。彼は闇魔術師の装束をまるで汚れた外套でも脱ぎ捨てるかのように一気に脱ぎ去り、その下に隠していた軽装を現した。
「か…カシアンッ!? なぜ貴様がここに!? となると他の者たちも!?」
タレスは驚愕と混乱に叫んだ。
その問いに答える代わりに、カシアンは背後に控えていた別の「魔術師」――カシアン配下の兵士――に目配せを送った。兵士は音もなくタレスの背後に回り込むと、その抵抗をものともせず、力ずくで床に組み伏せ、両腕を背中に捻り上げて完全に取り押さえた。負傷とアルコールで弱ったタレスには、もはや抵抗する力は残されていなかった。
「ぐ…!離せ! この下郎どもが!」
床に押さえつけられ無様に呻くタレスを見下ろし、カシアンは静かに、しかしその声には確かな憎悪を込めて言った。
「見ろ、タレス」
彼は部屋の中央に鎮座するシャンバラの心臓部とも言える巨大な機械装置を指差した。それは光の杭を制御し、システムを統括している複雑怪奇な装置だった。
「貴様らが長年この暗い地下で守り、磨き上げてきた文明の心臓。あれを今この手で破壊してやる。貴様らが私の長年の研究成果、ガルグ=マクや我が領土で酒蔵を破壊した、その返礼としてな」
カシアンは懐から最後の秘蔵酒――アルコール度数90%を超える、彼が「至高の雫」と呼んでいた特別な蒸留酒――の瓶を取り出すと、その琥珀色の液体を、巨大な機械の表面に惜しげもなく振りかけ始めた。アルコールの甘くも危険な香りが部屋に満ちていく。
「やめろ…!やめろぉぉぉっ!! それだけは…!それだけは、やめてくれぇぇぇっ!!」
タレスは生まれて初めて、心の底からの絶望的な叫び声を上げた。それは彼らの文明の、そして千年にも及ぶ復讐の歴史そのものが破壊されようとしていることへの悲痛な叫びだった。
だがカシアンはその叫びをまるで心地よい音楽でも聞くかのように、口元に微かな笑みを浮かべた。彼は懐から一本のマッチを取り出すと、壁で擦り、シュッ、と音を立てて火をつけた。頼りない小さな炎が、カシアンの冷徹な瞳と、タレスの絶望に歪んだ顔を、不気味に照らし出す。
「さようならだ、タレス。そして貴様らの憎悪の歴史も、今日ここで終わりだ」
カシアンはその言葉と共に、燃えるマッチを、アルコールに濡れた機械へと、何のためらいもなく投げ入れた。
一瞬の静寂。そして、次の瞬間。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!!!
青白い炎が、まるで生き物のように機械の表面を走り、引火したアルコールが爆発的な勢いで燃え上がった。機械の内部で、ショートした回路が火花を散らし、圧縮されたエネルギーが連鎖的に暴走を始める。断末魔のような甲高い金属音が鳴り響き、シャンバラの心臓部は内側から凄まじい勢いで破壊されていった。タレスの秘密兵器が幾つあったか知らないが、悉くが使用不可になっていく。
カシアンは燃え盛る機械とその炎に照らされながら絶望の表情で崩れ落ちるタレスの姿を、ただ静かに満足げに見つめていた。復讐は果たされたのだ。
シャンバラの心臓部は今や断末魔の叫びを上げる巨大な機械と、それを貪り食う紅蓮の炎によって支配されていた。火花が滝のように降り注ぎ、熱風が壁を舐め、金属が歪む甲高い悲鳴が絶え間なく響き渡る。その地獄絵図のような光景を、カシアンはただ晴れ晴れとした顔で、満足げに見つめていた。その表情は長年追い求めてきた研究が完璧な形で結実した科学者のようでもあり、あるいは心の奥底に深く突き刺さっていた憎悪の棘が、ようやく抜け落ちた者のようでもあった。
(ジン…ウォッカ…バーボン…終わったよ)
失った同士たちを思い彼の唇から恍惚としたため息が漏れた。ガルグ=マクで失われた秘蔵の酒の代償として、この破壊の光景は彼の歪んだ美意識を十分に満たして余りあるものだった。これでようやく死神騎士が破壊した酒蔵の恨みを晴らせた。長年の怨敵、闇に蠢くものの首領タレスが床に押さえつけられ、無様に呻いている。彼の築き上げた文明が彼自身の目の前で灰燼に帰していく。これ以上の復讐が、これ以上のカタルシスがあろうか。
だがカシアンはキレた人間の、それも千年もの憎悪をその身に宿した存在の最後の力を侮っていた。またタレスの背にはトマシュの怨念も宿り、この悪魔を倒せと力を貸してくれている。
「おのれ……おのぉれぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
床に押さえつけられていたタレスの体から、黒いオーラのような禍々しい魔力が爆発的に噴き出した。それはもはや理性による制御を失った、純粋な憎悪と破壊衝動の奔流だった。彼を取り押さえていたアビスの屈強な兵士が、「ぐっ!?」という短い呻き声と共に、まるで木の葉のように軽々と吹き飛ばされる。
拘束から逃れたタレスはよろめきながらも立ち上がった。その目は血走り仮面は砕け落ち、憎悪に歪んだ素顔が炎に照らされている。
「カシぁん…! きしゃまらけは、この手でぇ…八つらきにぃ!」
タレスは震える両手をカシアンに向け、最後の切り札であるであろう、禁断の闇魔法を唱え始めた。その唇から禍々しい古代語が紡ぎ出されようとする。しかし。
「…ひっく…ぬぅ…うがが…だぁぁくねす…すぴあ……」
紡ぎ出されたのは力を失った老人のうわ言のような呂律の回らない言葉だけだった。足元は千鳥足のようにおぼつかず体は大きくぐらつき、今にも転びそうになっている。必死で魔力を練り上げようとするが、その思考は霧がかかったように不明瞭で、力の焦点が全く定まらない。
「なぁぜだ…? なぁ…だ? ひっく…わぁがが…、いぉこ、きかんぬぅ…!」
タレスは自身の体に起きた不可解な異変に、混乱と焦燥を隠せない。
そのあまりにも無様で滑稽な姿をカシアンは腕を組み、心底楽しそうに嘲るかのように眺めていた。
「…ふふ、やはり酒は素晴らしい。人の理性を麻痺させ力を奪い、時には英雄すらも、ただの道化に変えてしまう」
カシアンのその言葉に、タレスははっとしたように、カシアンが自分に飲ませたあの液体のことを思い出した。
(さけ…? まさか、このわらしが…ただの、よっららい…?)
タレスは高濃度のアルコールを空きっ腹に一気飲みしたことで、急性のアルコール中毒に近い状態に陥っていることに、今更ながら気づいた。だがもう遅い。彼のプライドも千年の憎悪も、今やアルコールの海の中で無様に溺れているだけだった。
「…やれ」
カシアンはその無様な道化に飽きたとでも言うように冷たく命じた。
その合図を受け、先ほど吹き飛ばされた兵士に代わり、控えていた別のアビス兵が、音もなくタレスの背後に回り込んでいた。兵士の手に握られた無骨な槍と錆びついた長剣が、一切の躊躇なくタレスの背中と胸を深々と貫いた。
「が…はっ…」
タレスの口から血の泡と共に最後の言葉が漏れた。
「…こん…な…ことで……」
彼が最後に見たのは燃え盛る自らの文明と、それを冷ややかに見下ろす、淡い緑色の髪を持つ悪魔の姿だった。千年にも及ぶアガルタの民の悲願は、一杯の強い酒によってあまりにもあっけなく滑稽な形で終焉を迎えた。
その直後だった。
崩れ落ちるシャンバラの中枢に、新たな来訪者が姿を現した。激しい戦闘の痕跡をその身に刻みながらも、その瞳に確かな勝利の光を宿した皇帝エーデルガルトと女神の器ベレスだった。
彼女たちが目にしたのは異様な光景だった。炎上し崩壊し続ける巨大な機械。その手前で胸と背を貫かれ、無残な亡骸と化したタレス。そしてその全てを満足げに眺めながら、部屋中に立ち込める場違いなほど芳醇で明らかにアルコールと分かる強い香りを、まるで高級な香水でも嗜むかのように深く吸い込んでいるカシアンの姿。
エーデルガルトはそのあまりの光景に理解もできずに言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。
しかしベレスだけは違った。彼女は武器を収めるのももどかしそうに、真っ直ぐにカシアンの元へと歩み寄ると、その顔をじっと見つめ、どこか呆れたような、それでいて全てを理解したような声で静かに尋ねた。
「…………飲んでる?」
カシアンはベレスのその問いかけに心外だと言わんばかりに、だがその瞳の奥は楽しそうに笑いながら両手を軽く広げてみせた。
「まさか。ここは戦場ですよ?」
そして彼は悪戯っぽく片目をつぶってこう付け加えた。
「…飲んだのはタレスだけです。」
その言葉にベレスは深くて長いため息を一つ、燃え盛るシャンバラへと吐き出すしかなかった。