エーデルガルトはカシアンのその言葉にどこか寂しげだが納得したような複雑な表情を浮かべた。彼が帝国のためではなく、彼自身のベレスのために戦うという事実は、彼女にとって寂しくもあり、同時に彼のその行動原理の一貫性に対するある種の信頼感も覚えさせるものだった。
「…そう。あなたらしいわね」
エーデルガルトはそれだけ言うと再び夜空を見上げた。砂漠の夜空はどこまでも澄み渡り、無数の星々がまるで宝石を撒き散らしたかのように輝いている。だがその美しい星空の下で、フォドラは今まさに、血で血を洗う戦乱の渦中にある。
「この戦いが終わった時…フォドラは、一体どのような姿になっているのかしら」
エーデルガルトは誰に言うともなく、静かに呟いた。その声には皇帝としての重責と、未来への不安、そしてわずかな希望が入り混じっていた。
カシアンは手に持ったグラスの中で揺れる葡萄酒を静かに見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。その声は夜明け前の静寂に染み入るように低く、そして確信に満ちていた。
「…どのような姿になっているか、ですか。それは誰にも正確には予測できません。ですが一つだけ、私がほぼ確実に予測できる『未来』があります。そしてそれはあなたが進める変革が成功するか否かに関わらず、遠からず必ずフォドラに訪れるでしょう」
エーデルガルトは、シアンのその言葉に、興味と警戒の色を浮かべて彼を見た。
「必ず訪れる未来…? それは一体何かしら、カシアン卿。あなたのその水晶玉のような頭脳が、また何か厄介なことでも見通したというの?」
その声には、わずかな皮肉が込められていた。
「ええ、厄介なことかもしれませんね。少なくとも現在のフォドラの権力構造を根底から揺るがすという意味では」
カシアンはグラスを置き、エーデルガルトに向き直った。その瞳には、未来の光景を幻視しているかのような、鋭い光が宿っている。
「紋章の価値の、絶対的な失墜です」
「紋章の価値が…失墜する?」
エーデルガルトはその言葉の意味を測りかね、眉をひそめた。フォドラの歴史は女神から授けられたとされる紋章の力と、それを巡る争いの歴史と言っても過言ではない。貴族の地位も騎士の武勇も、その多くが紋章の有無と力に大きく左右されてきた。その価値が失墜するとは、一体どういうことなのか。
カシアンは静かに頷いた。
「ええ。今この瞬間も、その兆しは世界のどこかで確実に進行しています。そしてその最大の要因は技術革新です。特に、兵器における技術革新は、戦争のあり方を、そして力の均衡を根底から覆す力を持っている」
彼はまるで講義でもするかのように冷静に、しかし熱を込めて語り始めた。
「考えてもみてください、陛下。私が先のコルネリアとの戦いで用いた、あの『爆薬』。あれはまだ原始的なものですが、その改良と量産化が進めばどうなるか。熟練した騎士の剣技も屈強な重装兵の鎧も、そして英雄の遺産が持つ強大な力さえも、適切に運用された僅かな量の爆薬の前には赤子の手をひねるように無力化されるでしょう。城壁を打ち砕き軍勢を一瞬にして壊滅させる力が、特別な血筋や、女神の祝福とは全く無関係な、ただの『知識』と『技術』によって生み出されるのです」
彼はさらに続ける。
「ロングアーチのような兵器も同様です。あれをさらに発展させ鋼鉄のようなより強靭な素材と、精密な機構を組み合わせれば、紋章を持たぬただの兵士が、熟練の騎士や魔道士を遥かに凌駕する射程と威力で、一方的に攻撃することが可能になる。一人一人の個人的な武勇や紋章の力に頼った戦術は、そのような『誰でも扱える、強力な武器』が戦場に普及した時点で、完全に過去の遺物となるでしょう」
カシアンの言葉はエーデルガルトの胸に深く突き刺さった。彼女自、紋章に縛られた社会の歪みを正し、個人の能力が正当に評価される世界を目指している。だがカシアンが語る未来は、彼女の理想とはまた少し異なる、より冷徹で、ある意味ではより平等だが同時に恐ろしい可能性をも秘めていた。
「そのような…紋章に頼らない技術が、本当に…?」
エーデルガルトの声には、まだ半信半疑の色が混じっていた。
「ええ、存在します。そしておそらくはかつてのフォドラにも、その萌芽となるような技術は確かに存在していたはずです」カシアンは断言した。
「私がガルグ=マクの禁書庫で発見した、活版印刷の技術。天体の運行を精密に計算し、暦を編み出す天文学の知識。あるいは、燃える黒い水…石油を示唆する記述。これらは全て紋章の力とは異なる、人間の知性と探求心が生み出した、偉大な発明であり、発見です。ですがそれらの多くはセイロス聖教会によって『女神の教えに反する危険な知識』あるいは『異端の技術』として禁書扱いとされ、その研究も、そして存在そのものすらも、長年に渡り徹底的に封印され、歴史の闇に葬られてきた」
彼は憎悪とも軽蔑ともつかない冷たい光をその瞳に宿らせて言った。
「レアという女はそれを最も恐れていたのですよ。人々が紋章や女神の権威以外の『力』…すなわち自分たち自身の知恵と努力によって世界を変えられるという可能性に気づいてしまうことを。フォドラ大陸でこれほどまでに紋章を巡る争いが絶えず、貴族たちがその血筋と紋章の力に固執し続けてきたのは、他の技術的な進歩が意図的に停滞させられ、力の源泉が紋章という、極めて限定的かつ教会がコントロールしやすいものに一極集中させられていたからに他なりません。それが彼女の歪んだフォドラ支配の、そして彼女自身の存在意義の根幹だったのですから」
エーデルガルトはカシアンのその言葉に、改めてレアとセイロス聖教会の支配の根深さと、その情報統制の巧妙さに戦慄を覚えた。そして同時に、そのような旧弊を打ち破ろうとする自身の戦いの意義をより強く確信する。
カシアンはまるでそんなエーデルガルトの心を見透かしたかのように、どこか皮肉な笑みを浮かべて付け加えた。
「ですが陛下。結局のところ、レアのその姑息な野望は、遅かれ早かれ失敗する運命にあったのですよ。彼女がどれほどフォドラ内部の知識や技術を封印し、人々を無知の中に閉じ込めようとしたところで、この世界はフォドラ大陸だけで完結しているわけではない。パルミラ、アルビネ…そして、我々がまだ知らない、海の向こうのさらに遠い大陸。そこではフォドラとは異なる歴史と文化の中で、独自の技術が発展し続けている。それらの国々との交流が完全に途絶えない限り、新たな知識や技術は、いずれ必ず、形を変え、姿を変え、フォドラの地にも流れ込んでくる。それは歴史の必然であり、誰にも止めることのできない大きな流れです」
彼は夜空に輝く星々を指差した。
「レアは星の運行すら女神の御業だと人々に信じさせようとしてきた。だが星は女神の意思とは無関係に動き季節は巡り、そして技術は進歩する。彼女が築き上げた紋章と信仰による閉ざされた箱庭は、いずれ必ず外部からの新たな風によって打ち破られる運命にあった。あなたの起こしたこの戦いが、そのきっかけを早めたに過ぎません」
カシアンの言葉はエーデルガルトにとってある種の救いと、新たな覚悟を与えるものだった。彼女の戦いは単なる覇権争いではない。それはフォドラを長年覆ってきた古い殻を打ち破り新たな時代の風を呼び込むための、必然的な戦いなのかもしれない。
夜明け前の静寂の中で二人の指導者は、それぞれの胸に、フォドラの未来という重いテーマを抱えながら、東の空が白み始めるのを、ただ黙って見つめていた。カシアンが語った未来は、希望と同時に、新たな混乱と試練の時代の到来をも予感させるものだった。
カシアンの言葉は夜明け前の静寂な砂漠のオアシスに重く、そして確かな響きを持って広がった。エーデルガルトは、彼が語る未来――紋章の価値が失墜し教会が封印してきた技術が解放されるかもしれないという、フォドラの根幹を揺るがすような変革の可能性――を、息を詰めて聞いていた。それは、彼女が目指す世界の姿と、どこかで重なり合いながらも、全く異なる、より混沌とした様相を呈しているかのようだった。
カシアンはエーデルガルトのその複雑な表情を見透かしたかのように、静かに言葉を続けた。その声は夜空の星々が一つ、また一つと姿を消し始め、東の空が微かに白み始めていくのと呼応するように、新たな時代の到来を予感させる響きを帯びていた。
「そして陛下。誰でも扱える強力な技術が普及し、個人の武勇や紋章の力が絶対的なものではなくなった時、必然的に起こる変化がもう一つあります」
彼は手に持っていた空の葡萄酒グラスを、まるでフォドラの未来をそこに映し出すかのように、ゆっくりと回した。
「それは支配の構造の変化です。貴族や王といった一部の特権階級が、その血筋や女神の恩寵といった曖昧な根拠だけで、多くの人々を支配し続けることが、極めて困難になるでしょう」
カシアンの言葉にエーデルガルトはハッとしたように顔を上げた。それは彼女自身が最も強く望み、そしてそのためにこの戦いを始めた目的の一つではなかったか。
「人々が紋章の有無に関わらず、自らの手で強力な武器を持ち、知識を得て、そして自ら考える力を得た時、彼らはもはや、ただ支配されるだけの存在ではなくなります。彼らは声を上げ、権利を主張し、時には既存の権力に対して異を唱えるでしょう。貴族がその血筋だけで領民を搾取し、王がその神聖さだけで絶対的な権力を振るう…そのような時代は必然的に終わりを告げる。誰でも技術と知識を手に入れられるようになれば、人々の力はより均等化され、支配できる範囲は今よりもずっと限定的なものになるはずです」
カシアンはそれが良いことなのか悪いことなのか、一切の価値判断を差し挟むことなく、ただ淡々と、歴史の必然であるかのように語った。
「一般の人々が本当の意味で『力』を持つ時代が来るのです。良くも悪くもね」
エーデルガルトはカシアンのその言葉に、深く考え込んでいた。彼女が目指すのは紋章に縛られず、誰もがその能力に応じて正当に評価され、自らの意志で生きることができる社会。カシアンの語る未来は、その理想と重なる部分もあれば、あるいはもっと無秩序で予測不可能な混乱をもたらす危険性も孕んでいるように思えた。一般の人々が力を持つ…それは素晴らしいことだ。だがその力が果たして常に正しく使われるのだろうか? 新たな争いの火種となるのではないだろうか?
彼女はカシアンの真意を探るように、その頭巾の下の表情を窺おうとしたが、彼の顔は影になっていてよく見えない。
「…カシアン卿」エーデルガルトは、確かな意志を込めて尋ねた。
「あなたはその未来予測を私に語って…それをどうしてほしいというのかしら? 私に、その『一般の人々が力を持つ時代』を、積極的に推し進めろと? それともその混乱を警戒し、新たな支配の形を模索しろとでも言うつもり?」
その問いには皇帝としての彼女の立場と、カシアンという男の底知れない知性に対する、複雑な感情が込められていた。
カシアンはエーデルガルトのその問いに、ふっと息を漏らすと、まるで肩の荷を下ろすかのように軽く肩をすくめてみせた。
「いいえ、陛下。特には何も」
その返事はあまりにも素っ気なく、エーデルガルトの真剣な問いかけをはぐらかすかのようだった。
「私はただ知り得た情報を、そして私なりの分析と予測を、お伝えしたに過ぎません。未来がどうなるか、そしてその未来をどう形作っていくかは、最終的にはその時代を生きる人々…そして何よりもあなたのような、フォドラの未来をその双肩に担おうとする指導者の選択にかかっている。私は一介の教師くずれですからね。生徒に知識を授け考えるきっかけを与えるのが仕事のようなものです」
そして彼はほんの少しだけ声のトーンを変え、どこか悪戯っぽい、しかし彼なりの激励とも取れるような響きで付け加えた。
「まあ、頑張ってください、皇帝陛下。貴女がどのようなフォドラを築き上げるのか、あるいは築き上げようとして失敗するのか…どちらにせよ、歴史の大きな転換点に立ち会えるというのはなかなか刺激的で興味深いことですからね。一観客として楽しませていただくとしましょう」
その言葉は突き放しているようでもあり、同時にエーデルガルトのこれから歩むであろう困難な道への、彼なりのエールにも聞こえた。
エーデルガルトはカシアンのその掴みどころのない言葉に、深いため息をついた。この男は最後まで自分の真意をはっきりとは示さない。だが彼の言葉は常に的確に本質を捉え、そして彼女に新たな視点と覚悟を与えてくれる。
「…ああ、そうだ。最後に一つだけ」
カシアンはまるで今思い出したかのように、何気ない口調で言った。
「陛下は、私がなぜ、王国や同盟ではなく、貴女の率いる帝国に、結果的にではありますが肩入れするような形になったのか、不思議に思われたことはありませんか?」
エーデルガルトはその問いにわずかに目を見開いた。確かに疑問に思ったことは何度もある。カシアンという男は、どの勢力にも与せず、ただ彼自身の合理性と目的のために動いているように見えたからだ。
カシアンは東の空がまさに暁の色に染まろうとしている、その美しいグラデーションを指差した。
「王国は過去の栄光と、癒えぬ悲劇の亡霊に縛られすぎている。同盟は自由を謳いながらも、結局は有力貴族たちの利権争いに終始し真の変革を生み出す力に欠ける。ですが帝国は…そして何よりも皇帝陛下、貴女はたとえそれがどれほど困難で、多くの血を流す道であったとしても、過去を断ち切りフォドラに新たな秩序を、新たな価値観を、本気で築き上げようとしている」
彼はエーデルガルトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私が他のどの勢力よりも貴女の帝国に、ある種の『可能性』を感じた理由はこれですよ。…まあ、もちろんレアという共通の敵がいた、ベレスが帝国を選んだという現実的な理由も大きいですがね」
カシアンのその言葉はエーデルガルトの胸の奥深くに、静かに確かな温もりと共に染み込んでいった。それは彼女が長年抱いてきた孤独な戦いの中で、計算や利害を超えた、純粋な共感と理解の言葉だったのかもしれない。
エーデルガルトは再び深く、深く考え込んでいた。カシアンが示した未来の可能性。そして彼が自分に寄せた、歪んでいるかもしれないが確かな期待。夜明けの光が、彼女の顔を、そして彼女が背負うフォドラの未来を、ゆっくりと照らし始めていた。この男と共に歩む道は、決して平坦ではないだろう。だがそれでも…。彼女の心には新たな、そしてより強い決意の炎が灯り始めていた。