道徳以外を教えます   作:マウスブン

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帰路

夜明けの光が町を黄金色に染め上げ始めた頃、宿屋の一室は静かな喧騒に包まれていた。昨夜、シャンバラでの死闘と5年ぶりの再会の喜びで、遅くまで語り合い、そしていつしか力尽きて眠り込んでいたエーデルガルトと黒鷲の学級の元生徒たちは、それぞれの寝床からゆっくりと身を起こし新たな一日の、そして新たな戦いへの準備を始めていた。部屋の隅では兵士たちが手際よく朝食の準備を進め、干し肉と硬いパン、そして水筒に注がれる水の音が、静かに響いている。

 

カシアンは昨夜ベレスが掛けてくれた外套を丁寧に畳みながら、窓の外に広がる雄大な景色を眺めていた。その隣には、既に身支度を整えたベレスが、カシアンの右腕を掴んだまま、静かに立っていた。彼女の緑色の髪が、朝日を浴びてキラキラと輝いている。

 

やがてエーデルガルトが皇帝としての威厳を取り戻した顔つきでカシアンとベレスの元へと歩み寄ってきた。彼女の紫水晶の瞳には、夜の間に何か大きな決意を固めたかのような、強い光が宿っている。

「カシアン卿、ベレス先生。昨夜は、貴重な情報と、そして何よりも心強い言葉をありがとう。私は、帝都へ戻り次第、直ちにシャンバラで得た情報を精査し、フォドラの真の解放に向けた次なる一手を進めるつもりよ」

彼女の声には迷いながらも前を向いていた。

 

「ええ、陛下。ご武運をお祈りしております」

カシアンはベレスに腕を掴まれたまま、窮屈そうにしながらも、一応の敬意を示して軽く頭を下げた。

ベレスもまたエーデルガルトに力強く頷き返した。

「エーデルガルト、気をつけて。また、必ず会おう」

「ええ、必ず」

 

黒鷲の学級の他の生徒たちも、次々とベレスとカシアンに別れの挨拶を告げに来た。フェルディナントは「ベレス先生!カシアン殿!貴殿らの武勇と知略、我がエーギル家の名誉にかけて、決して忘れはしない!また戦場でまみえる日を楽しみにしておりますぞ!」と熱く語り、ドロテアは「先生たちも、お身体にはくれぐれも気をつけてくださいましね。特にカシアン先生はベレス先生にしっかり手綱を握ってもらわないと、また無茶をしそうですから」と悪戯っぽく微笑んだ。リンハルトは最後まで眠そうだったが、「まあ、先生たちが無事なら、それでいいんじゃないですか…おやすみなさい」と、彼らしい挨拶を残していった。

 

やがてエーデルガルト率いる帝国軍の本隊は帝都アンヴァルへの帰路につくため、オアシス町を後にしていった。砂漠の砂塵の中に消えていく彼らの後ろ姿を、カシアンとベレスはしばらくの間黙って見送っていた。

 

一行の姿が完全に見えなくなると、ベレスはふと、カシアンの顔をじっと見上げた。その大きな緑の瞳には何かを探るような色が浮かんでいる。

「…カシアン」

「はい、何でしょう」

「エーデルガルトがカシアンのことを見て何かすごく悩んでいるような、難しい顔をしていたけれど…エーデルガルトに何をしたの?」

ベレスの問いは直接的だった。彼女はカシアンが時折言葉巧みに、あるいはその冷徹な分析力で人の心を揺さぶり、深い思索へと誘うことを誰よりもよく知っていた。

 

カシアンはベレスのその言葉に、頭巾の下で一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ると、軽く肩をすくめてみせた。

「何をした、と言われましてもね。私はただ、昨夜、皇帝陛下と少しばかり『未来』についてお話しさせていただいただけですよ」

その口調はまるで大したことではないとでも言うように、あくまで軽やかだった。

 

「未来…?」ベレスが首を傾げる。

 

「ええ」カシアンは、昨夜の会話を思い出すように、遠い目をして語り始めた。その声は、ベレスにだけ聞かせるかのように、少しだけトーンが落ちている。

「掻い摘んで言えば、こうです。このフォドラで、長年絶対的な価値を持っていた『紋章』というものの力は、遠からずその輝きを失うことになるでしょう、と。なぜなら爆薬や、より強力な鋼鉄の精錬技術といった、紋章の有無に関わらず誰でも扱える、そしてより効率的に敵を殲滅できる『技術』が、いずれ戦場の主役となるからです。そうなれば、特別な血筋や女神の恩寵といったものに頼らずとも、人々は自らの力で未来を切り開けるようになるかもしれない」

 

彼は昨夜エーデルガルトに語ったように、レアがそのような紋章に頼らない技術の発展を意図的に妨げ、禁書として封印してきたこと、そして、フォドラが紋章を中心に争い続けてきたのは、その情報統制と技術的停滞が大きな原因の一つであったであろうという彼の持論を、ベレスにも分かりやすく説明した。

「そして結局のところ、レアがどれほどフォドラを閉ざされた箱庭にしようとも、他の大陸からの新しい知識や技術の波は、いずれ必ずこの地にも押し寄せ、彼女の築き上げた歪な秩序は崩壊する運命にあった。エーデルガルト殿下の起こした戦いは、その歴史の必然を少し早めたに過ぎないのかもしれませんね、と。…まあ、そのようなことを、少々辛辣に、そして私の個人的な見解としてお伝えしただけですよ」

 

カシアンはまるで他人事のように、あっさりとそう言ってのけた。

 

ベレスはカシアンのその説明を黙って聞いていた。彼女の頭の中では彼が語った未来の可能性と、エーデルガルトがその言葉を聞いてどれほどの衝撃を受け、そしてどれほど深く思い悩んだであろうかということが、手に取るように理解できた。エーデルガルトはフォドラの未来を真剣に考え、そのために全てを賭けて戦っている。そんな彼女にとってカシアンの言葉は希望であると同時に新たな試練であり、皇帝としての重責をさらに痛感させるものだったに違いない。

 

やがてベレスは、ふぅー、と深くて大きなため息を一つ、ゆっくりと吐き出した。その表情には呆れと共感と、そしてカシアンという男への言葉にし難い複雑な感情が入り混じっていた。

彼女はカシアンの顔をじっと見つめ、そしてどこか諭すような、それでいて親しみを込めた声で言った。

「……カシアンは本当に意地悪」

 

その言葉は非難というよりは、むしろ彼のそういう性格を全て理解した上での、愛情のこもった指摘のようにも聞こえた。

 

カシアンは、ベレスのその言葉と、彼女の表情に、ほんの一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、次の瞬間、彼の口元から、くつくつ、と抑えきれない笑い声が漏れ始めた。それは、いつもの皮肉な冷笑ではなく、心の底から何かが込み上げてくるような、本当に楽しそうな、そして彼にしては珍しく、素直で温かい響きを持った笑い声だった。

「はは…はははっ! そうかもしれませんね、ベレス。私は昔から少々、性格が捻くれている自覚はありますので」

彼は、ベレスに掴まれたままの腕を、今度は自分からそっと彼女の手に絡ませるようにして握り返した。

 

ベレスもまたカシアンのその珍しい笑い声と、握り返された手の温もりに、つられるようにして、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。

朝日が、砂漠の地平線からその力強い光を放ち始め、二人の姿を、そして彼らがこれから共に歩むであろう、まだ見ぬ未来を、優しく照らし出していた。彼らの間には、言葉にしなくとも伝わる、確かな絆と、穏やかな空気が流れていた。

 

 

 

 

 

町から数日の旅路は二人にとって久しぶりの、そしてどこかぎこちないながらも穏やかな時間だった。カシアンの腕は依然としてベレスの左手に固く握られたままだ。

 

その夜宿屋の一室は、ランプの頼りない灯りが揺れるだけの、静寂に包まれていた。窓の外には満月が煌々と輝き、砂漠の夜風が微かにカーテンを揺らしている。日中の喧騒と、長かった戦いの記憶が嘘のように遠い。

カシアンは簡素な寝台に腰掛けベレスは彼の隣に、まるで彼の体温を確かめるかのようにぴったりと寄り添っていた。先ほど宿の主人が運んできた質素だが温かい食事を終え、二人だけの静かな時間が流れていた。

 

ふと、ベレスがカシアンの顔をじっと見上げた。その大きな緑色の瞳には、月明かりが反射して、吸い込まれそうなほどの深い光を宿している。

「…カシアン」

「はい、何でしょう」

ベレスは、握っていたカシアンの右手を、自分の両手でそっと包み込んだ。そして少しだけ頬を赤らめながら、しかし真っ直ぐに彼の目を見つめて言った。

「覚えている? シャンバラへ行く前…先生が私に、『戦いが終わったら、何でも言うことを聞く』と、言ってくれたことを」

 

カシアンはベレスのその言葉に、一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐに思い出したように小さく頷いた。確かに、あの絶体絶命の状況で、彼女を安心させるため、そして何よりも彼女の力を借りるために、そんな約束をした記憶がある。

「ええ…確かに、そのようなことを申し上げた記憶がありますね。それで…貴女の『要望』とは、一体何ですか? 」

カシアンはいつものように少しばかり皮肉めいた笑みを浮かべようとしたが、ベレスの真剣な眼差しに、それはすぐに消え去った。

 

ベレスは、カシアンの手をさらに強く握りしめ、そして、震える声で、しかし心の底からの願いを込めて言った。

「……カシアンに、お願いがあるの」

「はい」

「これから先…ずっと……私のそばにいてほしい」

 

その言葉は夜の静寂の中に、まるで小さな祈りのように響き渡った。カシアンはベレスのその純粋であまりにも真っ直ぐな願いに、一瞬息を呑んだ。彼の合理的な思考が、その言葉の意味と重さを処理しきれずに、ほんのわずかな間、停止したかのようだった。

やがて、彼はゆっくりと確かな温もりを込めて、彼女の手を握り返した。

「……分かりました、ベレス。貴女のその願い、確かにお聞き届けしましょう。私が貴女のそばを離れることは、もう二度とありません」

その言葉はいつもの彼からは想像もつかないほど優しく、そして誠実な響きを持っていた。

 

ベレスの顔がぱっと花が咲いたように明るくなった。その瞳から、安堵と喜びの涙が、はらはらと頬を伝って流れ落ちる。

「…! 本当…? 本当に…カシアン…!」

彼女は言葉にならない声を上げ、カシアンの胸に顔を埋めた。カシアンはそんな彼女の緑色の髪を愛おしそうに、何度も何度も優しく撫でた。

 

だが、カシアンの言葉は、それだけでは終わらなかった。彼はベレスを抱きしめる腕に力を込めると、彼女の耳元で、囁くように、しかしはっきりとした声で言った。

「ですが、ベレス。それは少し違うかもしれませんね」

「え…?」ベレスは、涙で濡れた顔を上げてカシアンを見つめた。

 

カシアンの瞳には、いつもの冷徹な光ではなく、深い愛情と、そしてどこか独占欲にも似た、熱い炎が燃え盛っていた。

「私こそ…私こそ、もう二度と、あなたを手放すつもりはありませんから」

その言葉は、彼女の心を再び強く揺さぶった。

 

そしてカシアンはまるで長年秘めてきた想いを、今、この瞬間に全て解き放つかのように、ベレスの瞳を真っ直ぐに見つめ、言った。

「ベレス……愛しています」

 

それはあまりにも唐突で、そしてあまりにもストレートな告白だった。ベレスはその言葉の意味を理解するのに数秒を要し、そして信じられないといった表情で、ただカシアンの顔を見つめ返すことしかできなかった。カシアンが、このカシアンが、私を愛している…?

 

カシアンはそんな彼女の動揺を見透かしたかのように自嘲気味な、しかしどこか切実な響きを帯びた声で、言葉を続けた。

「驚かれましたか? ええ、無理もないでしょう。私自身この感情が何なのか、長い間理解できずにいましたから」

彼は、ベレスの手を自分の胸に導き、そこに感じる確かな鼓動を彼女に伝えた。

「ベレス…貴女が、あのガルグ=マクの戦いの後、長い間深い眠りについていた時のことを覚えていますか。…いいえ正確に言えば、貴女がいなくなってしまったあの日々…貴女を失ったかもしれないという恐怖と絶望の中で、私がどれほど貴女の事を待ち続け、そして貴女のいない世界で、それでも尚、戦い続けたか、貴女には想像もつかないでしょう」

 

彼の声は徐々に熱を帯びていく。それは彼が長年心の奥底に押し込めてきた、ベレスへの深い想いの奔流だった。

「慣れない領地経営、アビスの者たちの生活の安定、そしてコルネリアという強大な敵との、先の見えない消耗戦…。なぜ私がそんな無謀な戦いを、指揮し続け、生き汚く生き延びてきたか、分かりますか? あのロングアーチも、飛行爆弾樽も、そして教会から禁忌とされた技術も…! それは全て、ただ一つの目的のためだったのですよ、ベレス!」

 

カシアンはベレスの肩を掴み、その瞳を覗き込むようにして叫ぶように言った。

「全ては! 貴女と! 貴女と安全に、そして穏やかに一緒に居たい! ただその一心のためだったのです! 貴女が目覚めた時に、少しでもマシな世界を用意しておきたかった! 貴女が、もう二度と、あのような悲しい顔をしなくて済むように、貴女を守れるだけの力を、私が手に入れたかった…! そのためだけに、私は…!」

 

彼の言葉は途中で途切れ代わりに荒い呼吸が部屋の静寂を破った。ベレスはカシアンのその魂の叫びのような告白に、ただ圧倒され、涙を流し続けることしかできなかった。彼が、自分のために、そこまで深く、強く想っていてくれたなんて。

 

カシアンはようやく呼吸を整えると、今度はベレスを優しく抱きしめ、その髪に顔を埋めるようにして囁いた。その声は、先ほどの激しさとは対照的にどこか弱々しく、そして切実な響きを帯びていた。

「…愛など、知らずに生きてきました。計算と合理性だけを信じ、人の感情など、非効率で理解不能なものだと、そう考えてきた身です。ですがベレス…この、貴女を何よりも大切にしたい、片時もそばを離れたくない、他の誰にも渡したくないという、この胸を焼くような激しい思いが…もし、これが『愛』というものなのであれば…私は、そうであってほしいと、心の底から願わずにはいられないのです」

 

その言葉はカシアンの長年の孤独と、彼がベレスという存在によって初めて知った、人間的な感情の全てを物語っていた。ベレスは、カシアンのその不器用で、しかし何よりも誠実な告白を、ただ黙って、彼の胸の中で受け止めていた。彼女の心は、言葉にできないほどの感動と、彼への深い愛情で満たされていた。

 

どれほどの時間が経っただろうか。窓の外はいつしか東の空が白み始め、新たな一日が始まろうとしていた。ベレスは、カシアンの腕の中で、静かに顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていたが、そこには一点の曇りもない、朝日よりも眩しいほどの、確かな愛の光が宿っていた。

彼女はカシアンの唇に、そっと自分の唇を重ねた。それは全ての言葉を超えた、二人の魂の結びつきを確かめ合うかのような、優しく、そして深い口づけだった。

 

フォドラの未来は依然として混沌とし、多くの試練が彼らを待ち受けているだろう。だが少なくとも今この瞬間、カシアンとベレスは、互いの存在を確かめ合い、そして共に未来を歩むという揺るぎない決意を静かに力強く分かち合っていた。夜明けの光が宿屋の小さな部屋を、そして二人の新たな始まりを優しく照らし始めていた。




Switch2、5回目でようやく当選しました。待ってろバナンザ。
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