シャンバラでの死闘とエーデルガルトたちとの慌ただしい別れから数日が過ぎた。カシアンとベレスはフォドラの西へと続く古い街道を、二人きりでゆっくりと進んでいた。思いを通わせた二人の道中は驚くほど穏やかで、戦いの喧騒も陰謀の影も、今はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
その日の夕暮れは息を呑むほどに美しかった。二人がちょうど街道沿いの小高い丘の上に差し掛かった時、西の空一面が燃えるような茜色と柔らかな橙色、そして深い藍色が複雑に混じり合う壮大なグラデーションに染め上げられたのだ。地平線に沈みゆく太陽が最後の力を振り絞るかのように放つ光は眼下に広がる穏やかな田園風景や遠くに見えるなだらかな山並みを幻想的なシルエットとして浮かび上がらせていた。
「……わぁ……」
ベレスは思わず馬を止め、そのあまりの美しさに感嘆の声を漏らした。彼女の大きな緑の瞳は刻一刻と表情を変える空の色をまるで初めて見る宝物でも見つけた子供のように、キラキラと輝かせながら見つめている。風が彼女の淡い緑色の髪を優しく揺らし夕陽の光がその横顔を黄金色に縁取っていた。
「カシアン見て。すごく…すごく綺麗」
ベレスは隣で同じように馬を止めていたカシアンの腕を無邪気に軽く叩きながら、その感動を分かち合おうと弾むような声で同意を求めた。その表情には何のてらいもなく、ただ純粋な喜びと興奮が溢れていた。
カシアンはベレスのその言葉に一瞬だけ彼女の輝くような横顔を見つめたが、すぐにいつもの調子を取り戻すと、ふむ、と一つ頷き夕焼け空を冷静に分析するような目で眺めながら語り始めた。
「ええ、確かに興味深い光学現象ですね、ベレス。太陽光が地球の大気を通過する際光の波長が短い青色光は大気中に拡散されやすいため地平線近くでは波長の長い赤色光が相対的に多く目に届く。さらにあの上空に見える薄い巻雲…氷晶で構成されたあれが、太陽光を複雑に屈折・反射させることで、このように多様な色彩のグラデーションを生み出しているのでしょう。大気中の塵や水蒸気の量、そして温度分布などもこの色彩の鮮やかさに影響を与えていると推測されます。実に…効率的かつ合理的な自然の摂理の現れと言えるでしょう」
彼の解説はいつものように理路整然としており正確無比で、そして情緒というものが一切欠落していた。
ベレスはカシアンのその分析的な解説を最初は「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いていたが、やがてその表情に(ああ、また始まった…)という諦観と、どこか面白がるような色が浮かび始めた。彼女は、カシアンのこういう良くも悪くも「彼らしい」部分をもうすっかり受け入れているようだった。
そしてベレスは悪戯っぽい笑みをその美しい顔に浮かべるとカシアンが熱心に空の分析を続けている隙にそっと自分の馬を彼の馬に寄せた。そして何のためらいもなくカシアンのまだ包帯の巻かれた左腕に自分の右腕を優しく、しかししっかりと絡ませた。さらに彼の肩に自分の頭をこてんと軽く乗せる。カシアンの纏う少し硬いが安心する革鎧の感触と彼の体温、そして微かに香る薬草と彼自身の匂いがベレスの心を温かく満たした。
「ううん、もっと簡単でいいんだよ、カシアン」
ベレスはカシアンの耳元でまるで秘密を打ち明けるかのように甘く少しだけからかうような響きで囁いた。そして絡ませた腕に少しだけ力を込め彼の顔を覗き込むように潤んだ大きな瞳で上目遣いに見つめた。その距離は互いの吐息が触れ合うほどに近い。
カシアンのよどみなく続いていたはずの夕焼けのメカニズムに関する解説が、ぴたり、と途絶えた。
「………………」
彼の体がまるで石像にでもなったかのように完全に硬直したのがベレスにもはっきりと分かった。普段はどんな状況でも冷静沈着を保ち感情を表に出すことなど滅多にないカシアンの顔が、夕焼けの茜色とはまた違う鮮やかで、そして見る間に濃くなっていく赤色に染まっていく。その様はまるで茹でられたタコのようでもありベレスは思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。彼の大きな瞳は信じられないものを見たかのようにベレスを見つめ返し、そして次の瞬間にはどうしていいか分からないといった様子で、激しく左右に揺れ動き始めた。
「…あ…え、ええと…ベレス…その…き、君は、その…何というか…」
カシアンの声は完全に裏返っており言葉も途切れ途切れで全く意味を成していない。彼の合理的な頭脳はこの予期せぬ、そしてあまりにも近すぎるベレスの存在と彼女から発せられる甘い雰囲気によって完全に処理能力の限界を超えてしまったようだった。額には冷や汗のようなものまで滲んでいる。
ベレスはそんなカシアンの狼狽ぶりを愛おしそうに、そして満足そうに見つめていた。彼が自分だけに見せるこの人間らしい、そして少し子供っぽい一面が、彼女は何よりも好きだった。
やがて数秒間の硬直の後、カシアンはまるで何か大きな決断でも下したかのように、ごくり、と喉を鳴らした。そしてベレスから視線を逸らし再び燃えるような夕焼け空へと目を向けながら絞り出すような、しかしどこか吹っ切れたような声で言った。その声はまだ少し震えていたが、そこには確かな感情が込められていた。
「……ああ、ベレス。君の言う通りだ。この夕焼けは…確かに綺麗だ。そして…その、なんだ…」
彼は言葉を探すように何度か口を開閉させた。そして意を決したようにベレスの方をもう一度ちらりと見ると早口にだがはっきりと続けた。
「…その、夕焼けの光が…君の髪を…いや、君自身を、その…普段よりも…格段に…美しく…照らし出しているように、見える。…全くもって非合理的で、論理的な根拠に欠ける感想だが…そう、思わずにはいられない」
カシアンにしてはそれは驚くほど素直で、そして何よりもロマンチックな褒め言葉だった。彼が人の外見について特に「美しい」などという主観的で情緒的な言葉を使うこと自体が天変地異にも等しい出来事だった。
その言葉を聞いた瞬間ベレスの顔に夕焼けの光にも負けないほど明るく、そして幸せに満ち溢れた笑顔が花のように咲き誇った。
「ふふっ…!」
彼女はもう我慢できないといった様子で楽しそうに、そして嬉しそうに少し笑い声を上げた。
「ありがとう、カシアン。私も、あなたがそう言ってくれて、とても嬉しい」
カシアンはベレスのその笑顔と彼女から伝わる純粋な喜びのオーラに、自身の顔がさらに熱くなるのを感じながらもどこか救われたような、そして満たされたような、温かい気持ちに包まれていた。
夕焼けは、刻一刻とその色合いを変えながら空と大地を染め上げていく。そしてその美しい光景の中で二つの影は、寄り添うようにして、ただ静かに、そのかけがえのない時間を共有し続けるのだった。
カシアンとベレスはその日のうちに町を後にし、西へと向かう街道を再び歩み始めていた。カシアン領…いや、今は彼らの新たな拠点と呼ぶべきあの町への帰路は、まだ数日の道のりがある。昼間は他愛ない会話を交わしたり、あるいは黙って互いの存在を感じながら馬を進め、夜は街道沿いの小さな村の宿屋に身を寄せた。
その夜二人が泊まった宿屋の部屋は、簡素ながらもよく手入れされており窓からは満月が煌々と降り注ぎ、床には銀色の光の筋が伸びていた。カシアンは先ほど宿の主人から分けてもらったハーブティーを淹れ、ベレスと共にテーブルに向かい合って静かにそれを味わっていた。部屋には、ハーブの穏やかな香りと、時折パチリと音を立てる蝋燭の炎の揺らめきだけが満ちている。ベレスはカシアンの腕を掴むのはやめていたが、その代わりというように、テーブルの下でそっと彼の手を握りその温もりを確かめていた。
しばらくの間どちらからともなく言葉はなかったが、やがてベレスが、カップを静かに置くと、カシアンの顔をじっと見上げて尋ねた。その大きな緑の瞳には純粋な好奇心と、そして彼への深い想いが揺らめいている。
「…カシアン」
「はい、何でしょう、ベレス」
「私が…眠っていた、この1年半の間、一体何をしていたの?」
彼女の声は夜の静寂に溶け込むように穏やかだったが、その問いにはカシアンの過ごしてきた時間に寄り添いたいという切実な響きが込められていた。
カシアンはベレスのその問いに一瞬だけ遠い目をして、そしてふっと息を漏らした。
「何をしていたかですか。…そうですね、大体が働いていましたよ」
彼の声にはいつものような皮肉や韜晦はなかった。ただ事実を淡々と語っている。
「あの荒廃した領地で、まずはアビスの者たちと、そこに流れ着いた領民たちが生きていくための基盤を整えることから始めました。農業を奨励し水路を整備し、最低限の交易路を確保する。それと並行して町の防衛力を高めるための城壁の修復と増強、そしてロングアーチのような新しい兵器の開発と量産も進めました。コルネリアという厄介な蝿が、いつまたちょっかいを出してくるか分かりませんでしたからね。そして実際に彼女が攻めてきてからは…まあ、ご想像の通り、来る日も来る日も戦争の指揮と、そのための準備に追われる毎日でした。正直、眠る時間も惜しいほどにね」
カシアンはこともなげに語ったが、その言葉の端々には、彼が背負ってきた重圧と想像を絶するほどの激務の日々が滲んでいた。
ベレスはその言葉を黙って聞き、カシアンの目の下に刻まれた消えない隈や、以前よりも少しだけ厳しさを増したその横顔を改めて見つめた。彼女が眠っている間、彼は一人で、これほどまでに多くのものを背負い、戦い続けてきたのだ。胸の奥がきゅっと締め付けられるような痛みを覚える。
「…そうか。大変だったんだ、カシアンは」
彼女の声は労りと、そして申し訳なさで少し震えていた。
「他には?」ベレスはさらに問いかけた。仕事以外の彼自身の時間はどうだったのだろうか。
カシアンはベレスのその言葉に少しだけ意外そうな顔をしたが、やがて「うーん…」と、本当に何かを思い出すかのように、天井を見上げて数秒間考え込んだ。そして、ああ、と小さく声を上げるとどこか照れくさそうな、それでいて少しだけ得意げな表情を浮かべて言った。
「そうですね…他には、ああ、思い出しました。あなたたちから以前いただいた、あの恋愛小説や詩集、それからオペラの台本などを時間を見つけては読んでいましたよ。あとは帝都で評判の舞台があるという噂を聞きつければ、変装してこっそり観劇しに行ったりもしました。あれも一種の『勉強』でしたからね、私にとっては」
「小説や…舞台を?」ベレスはカシアンのその予想外の答えにきょとんとした顔をした。彼がそんなものに興味を持つとは到底思えなかったからだ。しかしすぐに彼女の表情は、何かを理解したようにふわりと和らいだ。そして悪戯っぽい笑みを浮かべると、自分の椅子をカシアンの隣へと引き寄せ、彼の肩にそっと寄り添うようにして座った。
「…それで、その『勉強』の成果はあった?」
その声には親しみと、そして彼を試すような響きが込められていた。
「覚えてるシーンがあるなら、一つくらい、先生に言って見せてほしい」
カシアンはベレスのその挑戦的な言葉とすぐ隣に感じる彼女の体温と柔らかな髪の香りに、一瞬だけ狼狽したような表情を見せたがすぐにいつもの冷静さを装って、コホン、と一つ咳払いをした。そしてまるで授業前の教師のように少しだけ背筋を伸ばすと、ベレスの緑の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥には普段の彼からは想像もつかないほど優しく、そして深い愛情の色が揺らめいていた。
彼はゆっくりと、そしてどこか不器用な手つきでベレスの頬にそっと触れた。その指先はまだ少しだけ戦いの緊張を残しているかのように硬かったが触れる感触は驚くほど優しかった。
「…ベレス。確か君たちが私に最初に読ませた物語の中に、このような一節がありましたね」
カシアンの声は囁くように低く、そして甘く響いた。
「『夜空に輝く無数の星々も、ただ一輪、荒野に咲く名もなき花の可憐さには敵わない。なぜなら、その花は、ただ一人のために、その命の限り美しく咲き誇ろうとしているからだ』…と」
彼はそこで言葉を切りベレスの頬を撫でていた手を、今度は彼女の淡い緑色の髪へと滑らせ、その一房を指に絡ませるようにして弄んだ。
「…全くもって非合理的で、感傷的な表現だとは思いますが…それでも今の私には、その言葉の意味が、少しだけ分かるような気がするのです」
カシアンの瞳がベレスの瞳を、熱を帯びたように見つめる。
「ベレス。貴女のその緑色の瞳は、どんな宝石よりも深く、そして美しい。貴女が戦場で見せる勇姿は、どんな英雄譚の騎士よりも雄々しく、そして気高い。そして何よりも…貴女が時折見せてくれる、あの太陽のような笑顔は、この荒みきった私の心すら、温かく照らしてくれる」
彼の言葉は小説のセリフをなぞりながらも、その一つ一つがカシアン自身の心の奥底から湧き出てきた、偽りのない本音だった。それは彼がこれまでに紡いだどの戦術論よりも、どの皮肉な言葉よりもずっと不器用で、しかし何よりも真摯な愛の告白だった。
ベレスはカシアンのその言葉と彼の瞳に宿る熱い想いに、全身の血が沸騰するかのような感覚を覚えていた。胸がドキドキと高鳴り顔が熱くなるのが自分でも分かる。まさかあのカシアンが、こんなにもストレートに、こんなにも情熱的に、自分を褒めてくれるなんて。しかもその言葉の元ネタとなった小説のそのシーンは彼女が密かに、そして何度も読み返していた、お気に入りの場面の一つだったのだ。
カシアンはベレスのその反応――真っ赤に染まった頬と潤んだ瞳、そして隠しきれない動揺――を満足そうに、そしてどこかしてやったりというような悪戯っぽい笑みを浮かべて見つめていた。
「…ふふ。やはり貴女なら、あのシーンが好きだと思っていましたよ。私の分析はなかなか的確だったようですね」
その声にはいつもの皮肉屋のカシアンの響きが戻っていた。
ベレスはカシアンのその言葉に、はっと我に返った。そして照れ臭さと、少しばかりの悔しさと、しかしそれ以上の大きな喜びが入り混じった複雑な感情でカシアンの胸を軽く叩いた。
「カシアンは、本当に…生意気な生徒!」
彼女は真っ赤になった顔を隠すように、ぷいっとカシアンから目をそらした。しかしその口元には隠しきれない幸せそうな笑みが浮かんでおり、握られたままのカシアンの手を、さらに強く握り返すのだった。