カシアンとベレスがアビスの者たちが守る西の領地へと帰還してから、数日が穏やかに過ぎていった。シャンバラでの死闘と、その後のエーデルガルトたちとの慌ただしい再会と別離。まるで嵐のような日々が嘘であったかのように、この辺境の町には、つかの間の平和が訪れていた。ベレスは、カシアンの傍を片時も離れようとはせず、彼が領内の復興作業の指示を出したり、傷ついた兵士たちを見舞ったりするのに、静かに常に寄り添っていた。その姿はまるでカシアンを守護する女神のようでもあり、あるいはようやく手に入れた安らぎを誰にも邪魔されたくないと願う、一途な少女のようでもあった。
カシアン自身はベレスのその甲斐甲斐しいそして少々過保護な世話を受けながらも、彼の頭脳は決して休息を知らなかった。その思考は既に次なる一手、フォドラ全土を覆う戦乱の未来を見据えて動き出していた。
その日カシアンは領主の館の地下深く、彼が密かに建設を進めさせていた活版印刷の工房に籠っていた。インクの独特の匂いと金属活字がカチャカチャと触れ合う微かな音、そして職人たちが黙々と作業に打ち込む熱気が、薄暗い工房を満たしている。壁には試作の印刷物が何枚も貼られ、その中には、カシアン自身がデザインしたと思われる、どこか扇情的なイラストの断片も見受けられた。
彼は大きな作業台の上に広げられた羊皮紙の束と木箱に整然と並べられた鉛製の活字を前に、まるで複雑なパズルでも組むかのように、あるいは新たな兵器でも設計するかのように、全神経を集中させていた。彼の傍らにはアビスから連れてきた、手先が器用で文字の読み書きができる数名の若者が、緊張した面持ちでカシアンの指示を待っている。
「…ふむ、この見出しはもっと大きく、衝撃的なフォントを使うべきだな。そしてこの挿絵の位置だが、読者の視線を効果的に誘導し、本文への興味を最大限に引き出すためには…ああ、そうだ、この角度と大きさが最適だろう」
カシアンは独り言のように呟きながら、赤インクのペンで羊皮紙のレイアウトに素早く修正を加えていく。その表情はいつものように冷静沈着だったが、その瞳の奥にはこれから生み出そうとしているものに対する確かな自信と、どこか悪魔的な愉悦の色が宿っていた。
彼が今心血を注いでいるのは、ファーガス神聖王国、そしてセイロス聖教会に対する、大規模なプロパガンダ工作のための印刷物の製作だった。それは単なる情報伝達の手段ではなく敵国の民衆の心を揺さぶり、その結束を内側から崩壊させることを目的とした、高度な心理戦の兵器となるはずだった。
「内容だが…まずはこれだ。『女神の教えは偽りか!? ガルグ=マク大修道院が隠蔽してきた、フォドラ創世の不都合な真実!』…ふむ、なかなか扇情的で良いタイトルだ。本文ではセイロス聖教会の教義の矛盾点や、歴史の改竄疑惑を、具体的な(あるいはそう思わせる)証拠と共に、分かりやすく提示する。特にレアとかいう女が、いかにしてその地位を築き上げフォドラを長年支配してきたか、その欺瞞に満ちた手口を暴露してやろう」
カシアンは満足げに頷きながら、次の原稿へと目を移す。
「そしてこちらが本命の一つ…『ダスカーの悲劇、その血塗られた真相! 真犯人は西方教会にあり!?』とでもしておこうか。王国がひた隠しにしてきたあの悲劇の裏に潜む陰謀とダスカーの民への不当な弾圧の実態を生存者の(とされる)証言やリークされた(という触れ込みの)機密文書を元に劇的に描き出す。もちろん真犯人が誰であるかについてはあえて曖昧に読者の想像力を掻き立てるような形で示唆するに留めておくのがより効果的だろう。疑心暗鬼は、何よりも強力な毒となるからな」
彼の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「これらの印刷物は全て白黒だが、民衆の目を引くための衝撃的な挿絵を多用する。文字が読めない者にも、その内容と我々の主張が直感的に理解できるように、視覚的なインパクトを最大限に重視するのだ。そして完成した印刷物は密偵や我々に協力的な商人たちを使って、王国の各地…特に教会への信仰心が揺らぎ始めている地域や王家の支配に不満を抱える領地の村々や町へ秘密裏にばら撒かせる。…ふふ、これで王国の土台は内側から静かに確実に崩れ落ちていくことだろう。実に楽しみだ」
カシアンはその計画の完璧さと、それがもたらすであろう混乱を想像し、頭巾の下で恍惚とした表情さえ浮かべていた。
その時工房の入り口からコンスタンツェとユーリスが姿を現した。二人はカシアンが何やら熱心に作業に没頭しているのを見て、興味深そうに近づいてくる。
「まあ、カシアン。また何か、面白そうなことを企んでいらっしゃるようですわね?」
コンスタンツェは扇子で優雅に口元を隠しながらも、その瞳は好奇心でキラキラと輝いていた。
ユーリスもまたカシアンが並べている原稿や挿絵のラフスケッチを一瞥すると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「へっ、相変わらずエグいこと考えるじゃねえか、センセ。こりゃあ王国の連中が見たら、卒倒する奴も出てくるんじゃねえのか? 教会の坊主どもも、顔面蒼白間違いなしだな」
カシアンは二人の言葉に顔を上げ、軽く肩をすくめてみせた。
「これも生き残るための、そして我々の理想とする未来を築くための、必要悪というものですよ。言葉と情報は、時に剣や魔法よりも強力な武器となり得る。それを最大限に活用しない手はないでしょう?」
「それはそうだけどよぉ…」ユーリスは少しだけ複雑な表情で腕を組んだ。
「俺たちもこの新しいオモチャ…活版印刷ってやつを、少し使ってみてもいいか、センセ? 別に教会や王国をコケにするような、そんな大層なもんじゃなくていいんだ。もっとこう…俺たちアビスの連中のための、ささやかなもんでいいんだが」
コンスタンツェもユーリスの言葉に同意するように、力強く頷いた。
「ええ、そうですわ、カシアン! わたくしも考えていることがあるのですの! 例えばわたくしが長年書き溜めてきた、ヌーヴェル家の栄光と、そしてフォドラの闇に翻弄された悲劇の貴族たちの魂の叫びを綴った、壮大な叙事詩! あるいは、アビスの子供たちが、地上で生きていくための知恵や美しい言葉遣いを学べるような、わたくし自らが筆を取った、優雅でためになる教本など…! そういったものをこの素晴らしい技術で形にして多くの人々に届けたいのですわ!」
彼女の瞳は夢見るように遠くを見つめていた。
ユーリスはコンスタンツェのその壮大な構想にやれやれといった表情でため息をついたが、彼自身も何か考えていることがあるようだった。
「まあ、俺はもっと現実的なやつだけどな。例えばアビスの連中が笑えるものや、まっとうな暮らしをするための、実用的な情報誌とか。あるいは、たまには息抜きも必要だろうから、くだらないけど笑えるような、風刺の効いた本とかそんなんでもいい。とにかく俺たちの手で俺たちのための何かを作ってみたいんだよ」
カシアンはコンスタンツェとユーリスのその意外だが彼ららしい提案に、しばらくの間、黙って耳を傾けていた。そしてほんの少しだけ考えるような素振りを見せた後、あっさりとどこか面白がるような口調で言った。
「…ふむ、なるほど。叙事詩に教本、情報誌に芝居の台本、ですか。まあ、私の計画しているプロパガンダとは方向性がだいぶ異なるようですが…」
彼は二人の顔を交互に見つめ、そして軽く手を振って見せた。
「いいでしょう。好きになさいな。この活版印刷の技術は、もはや私一人の独占物というわけでもありますまい。君たちが自分たちの手で何かを生み出し、それを誰かに伝えたいと願うのなら、それを止める権利は私にはありません。工房の職人や、印刷機が空いている時間を見つけて勝手に作成し自由に出版するがいい。」
カシアンのその言葉にコンスタンツェとユーリスは、顔を見合わせ、そしてぱっと顔を輝かせた。
「まあ、本当ですの、カシアン! ありがとうございます! きっと素晴らしいものが出来上がりますわ!」
「へっ、センセもたまには話が分かるじゃねえか。ま、期待して待ってな」
二人は新たな創作意欲に燃え早速どのようなものを作るか、熱心に話し合いながら工房の隅へと向かっていった。カシアンは、そんな彼らの後ろ姿を、頭巾の下で微かな笑みを浮かべて見送っていた。
(…好きにやらせてみるか。彼らがどのようなものを生み出すのか、それはそれで興味深い。それに、多様な出版物が市場に出回ることは、私の本当の目的を隠蔽するための良い煙幕になるかもしれん…)
彼の頭脳は常に冷静に、そして多角的に状況を分析し利用し続けていた。
活版印刷という新たな力がこのカシアン領で静かに様々な形で芽吹こうとしていた。
その日カシアンは自身の執務室兼研究室で珍しく、そして盛大に頭を抱えていた。テーブルの上には、インクの染みがまだ新しい数種類の粗末な作りの冊子や、一枚刷りのビラのようなものがまるで戦場の後のように散乱している。彼の頭巾の下の眉間にはこれまでにないほど深い皺が刻まれ、その口からは普段の彼からは想像もつかないような深くて長いため息が何度も漏れていた。
「……なぜ、こうなった……」
カシアンは呻くように呟いた。確かに彼はアビスの者たち――特にユーリスやコンスタンツェといった、ある程度の知識と表現力を持つ者たちに対しこう言った。
「工房が空いている時間に勝手に作成し自由に出版するがいい。」と。
それは彼らにとっても新たな娯楽や、あるいは自己表現の手段を与えることで彼らの士気を高め、この閉塞的な領地での生活に多少の彩りを与えることを期待しての彼なりの配慮…あるいは計算だったはずだ。
だがその結果として生み出されたものはカシアンの予想の斜め上を遥かに飛び越え、彼の頭痛の種を盛大にばら撒く、とんでもない「問題作」の数々だった。
まずカシアンが手に取り苦々しげに見つめている一冊の小冊子。その表紙には禍々しいオーラを纏い、背後に巨大なコウモリのような翼を生やした、どう見ても悪役然とした男が不敵な笑みを浮かべて描かれていた。そしてその男の顔は不本意ながらもカシアン自身に酷似している。タイトルはデカデカと『アビスの悪魔 カシアン』とある。
「……悪魔、だと……?」カシアンはこめかみを押さえながら呻いた。
中身を改めて確認する。そこにはカシアンの士官学校時代の「奇行」の数々――例えば禁書庫への度重なる不法侵入、教師陣との論争、そして生徒たちを恐怖のどん底に叩き込んだという、あの悪名高き「キルゾーン構築」の授業などがあることないこと面白おかしく恐ろしく脚色されて書き連ねられていた。曰くカシアンは古代の禁断魔術を操り夜な夜な不気味な実験を繰り返し時には生徒を実験台にしていた、とか。曰く彼の言葉一つで天候すらも操り、敵対する者を雷で焼き尽くした、とか。
ご丁寧に本文の約3割は、カシアン自身も認めざるを得ない「事実」に基づいていた。例えば彼が特異な戦術眼を持っていたこと、教会に反抗的な態度を取っていたこと、アビスの者たちと手を組んだことなど。だが残りの5割は明らかにユーリスあたりが面白がって付け加えたであろう荒唐無稽な脚色。そして最後の2割に至っては誰が考えたのか全くの嘘八百、完全な創作だった。
しかしこの「真実3割、脚色5割、嘘2割」という絶妙な配合が逆に読者の想像力を掻き立て物語に奇妙なリアリティを与えてしまっていた。紋章を持たない正体不明の教師がその知略と得体の知れない力で旧体制に戦いを挑んでいくという物語はアリアンロッドを落とした実績で補強されカシアン領の近隣の領まで届いて瞬く間に熱狂的な人気を博してしまったのだ。目新しさもあった。
「私が…私が、いつ悪魔などと呼ばれこんな悪逆の限りを尽くしたというのだ…! これでは、私がただの血に飢えた狂人ではないか! 帝国内での私の交渉にどれほど悪影響が出るか…!」
カシアンは自身の評判が地に落ちる可能性に本気で頭を抱えた。完全に否定しようにも一部は紛れもない事実であるだけに、余計に始末に負えない。
そしてカシアンの頭痛をさらに悪化させているのが、もう一つの一見すると何の変哲もない英雄譚風の物語だった。タイトルは『暗黒竜と光の剣』。
こちらの作者はどうやらコンスタンツェが中心となり、ハピや他のアビスの女性たちが協力して書き上げたものらしい。内容はどこかの王国で民を虐げる邪悪な「暗黒竜」を倒すため、いにしえの「光の女神」から聖なる剣を授かった若き王子が仲間たちと共に冒険の旅に出る、という王道的なファンタジーだった。挿絵もコンスタンツェの美的センスが反映されたのか比較的丁寧で美しいものが添えられており、特に子供たちやロマンチックな物語を好む女性たちの間で、こちらも序盤だけにも関わらずかなりの人気を博していた。
「…作品そのものに大きな問題があるわけではない。むしろ紋章の呪縛や貴族社会の矛盾といった、この世界の歪みを間接的に批判し希望を描こうとしている点は評価できなくもない。だが…!」
カシアンの顔が、再び苦悩に歪む。
問題はその物語の構図だった。「民を虐げる邪悪な暗黒竜」そして「その暗黒竜に仕える、禍々しい力を持つ闇の魔術師や騎士たち」。これがセイロス聖教会の内情やレアの正体、そして彼女がかつて「聖者セイロス」として竜の姿で戦ったという教会の最も深い部分に関わる「真実」を知る者――特にレア本人――の目に触れたらどうなるか。
「…あの女がこの物語を読めば間違いなく、この『暗黒竜』を自分自身への当てつけだと、そして『光の女神から剣を授かった王子』をベレスのことだと解釈し激怒しかねない…! ただでさえ私への憎悪は頂点に達しているはずだ。これでは火に油を注ぐどころの騒ぎではないぞ…!」
カシアンはレアのあの氷のような瞳と竜と化した時の圧倒的な破壊力を思い出し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。この物語がカシアン領への新たな、そしてより直接的な報復攻撃を招く引き金になりかねない。どうしてくれるのだと彼は天を仰ぎたくなった。
さらに厄介なことにこれら二つの「問題作」は、カシアンがその存在に気づいた時には、既に出版され領内外のかなりの数の人々の手に渡ってしまっていた。活版印刷の効率性とアビスの者たちの口コミによる拡散力はカシアンの想像を遥かに超えていたのだ。今更回収しようにもあるいは出版を差し止めようにもそれは反発を招くだけで、かえって噂を広める結果になるだろう。
「…私が自由にしてよい、などと安易に許可を出したのが、そもそもの間違いだったのか…? いや、しかし彼らの創作意欲や、情報発信の手段を奪うことも、長期的には…」
カシアンは自らの判断の甘さとアビスの住人たちの底知れないエネルギー、そして物語というものが持つ時に制御不能な力の前で珍しく本気で途方に暮れていた。彼の合理的な思考もこの文化的な大暴走の前では有効な解決策を導き出せずにいるようだった。
頭痛がさらに酷くなった気がした。
カシアンの執務室は普段の整然とした状態とは程遠く、まるで嵐が過ぎ去ったかのような惨状を呈していた。テーブルの上にも床にも、そしてカシアン自身が頭を抱えて座り込んでいる長椅子の周囲にも、例の「問題作」――『アビスの悪魔 カシアン』と『暗黒竜と光の剣』の粗末な冊子や、その挿絵の試し刷りと思われる羊皮紙の切れ端が、無秩序に散乱している。カシアンは頭巾を深く被り直し、その下で「ううむ…」「なぜだ…」「私の計算では…」などと、低く呻くような独り言を繰り返していた。その姿はフォドラの戦場で数々の奇策を弄し敵軍を恐怖のどん底に叩き込んだ冷徹な戦略家の面影はなく、むしろ手に負えない悪戯っ子たちに振り回され途方に暮れた哀れな教師そのものだった。
そのあまりにも人間臭く、そしてどこか滑稽ですらあるカシアンの苦悩ぶりを、部屋の隅に置かれた肘掛け椅子にゆったりと腰掛けたベレスが、くすくすと肩を揺らしながら実に楽しそうに見つめていた。彼女の大きな緑の瞳は悪戯が成功した子供のようにキラキラと輝き、口元には隠しきれない笑みが絶えず浮かんでいる。時折カシアンが特に大きなため息をついたり頭をかきむしったりするのを見るたびに、彼女は小さな声で「ふふっ」と笑い声を漏らしていた。カシアンがこれほどまでに感情を露わにし、そして本気で困り果てている姿は、彼女にとっても滅多に見られるものではなく、それが何とも言えず愛おしく面白いのだ。
そんな二人のやり取りを部屋の入り口に気だるそうに寄りかかったハピが、腕を組みながらじっと見ていた。彼女の半開きの瞳の奥には、状況を的確に捉える鋭い観察眼と、そして目の前の光景に対するある種の共感のようなものが微かに宿っていた。
「……ねえ、ベレス」
やがてハピが重い口を開いた。その声はいつものように抑揚がなくどこか投げやりな響きだった。
「カシアンの旦那、あれ、結構…いや、相当本気で悩んでるみたいだけど…。本当にこのまま放っておいていいの? いくらなんでも、ちょっと可哀想になってきたんだけど」
彼女の視線は未だに頭を抱えブツブツと何かを呟き続けているカシアンの背中に向けられている。
ベレスはハピのその言葉に悪戯っぽい笑みをさらに深めると、楽しそうに答えた。
「大丈夫。あれはカシアンにとって、きっと『良い薬』になるから」
その声は穏やかだったが、どこかカシアンを手のひらの上で転がしているかのような、自信に満ちた響きを持っていた。
「彼、いつも頭の中で難しいことばかり考えて、自分や人の気持ちなんて二の次、三の次でしょう? たまには自分の計算通りにいかないことや理屈ではどうにもならないことに頭を抱えて、人間らしい感情をたくさん経験するのも、彼にとっては必要なことだと思う」
そしてベレスはまるで秘密を打ち明けるかのように、ハピにだけ聞こえるような小声で付け加えた。その瞳は楽しげに細められている。
「それにね、ハピ。本気で落ち込んだり、困り果てたりしているカシアンなんて、滅多に見れない。 もう少しだけあの姿を堪能してから、優しく慰めてあげた方が、きっと彼も…そして私も、もっと楽しいと思う」
彼女はそう言うと、こてん、と小首を傾げ、悪戯が成功したことを喜ぶ猫のような蠱惑的な笑みを浮かべた。
ハピはベレスのその言葉と彼女の表情に浮かぶ、以前の彼女からは想像もつかないような「黒い」輝きに、一瞬だけ言葉を失った。そしてやれやれといった風に、本日何度目か分からない深くて大きなため息をついた。
「はぁ……。ベレス、あなた…いつの間に、そんな『意地悪』なこと言うようになったのよ…。まるでカシアンの旦那の悪いところが、そっくりそのまま移っちゃったみたいじゃない」
彼女は呆れたような、それでいてどこか納得したような表情でベレスと、そして未だにうんうん唸っているカシアンを交互に見つめた。
「…まあ、だとしたら、今のあの旦那の苦悩も、ある意味自業自得ってやつなのかもしれないわね。自分の撒いた種が結局は巡り巡って自分に返ってきてるんだから」
ハピはそれだけ言うとまるでこれ以上この面倒事に関わり合いたくないとでもいうように、ひらひらと手を振り、気だるげな足取りで部屋を出て行こうとした。去り際に彼女はもう一度だけカシアンの方を振り返り、その口元に微かな同情の笑みを浮かべると、「ま、せいぜい頑張りなさいよね、悪魔さん?」と、誰にも聞こえないような小声で呟いて、今度こそ本当に部屋から姿を消した。
後に残されたのは、依然として深刻な顔で頭を抱え続けるカシアンと、そんな彼を愛おしそうに、そして楽しそうに見守るベレスの二人だけだった。