道徳以外を教えます   作:マウスブン

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立場

カシアンの執務室は依然としてあの悪夢のような出版物――『アビスの悪魔 カシアン』と『暗黒竜と光の剣』の初版、そして重版、それらに対する領民からの主に面白がる感想や果ては続編を期待する声までが記された羊皮紙の束――に半ば埋もれていた。

 

カシアンがぶつぶつと自己問答と責任転嫁の狭間で苦悶していると執務室の扉が遠慮がちだが切迫した様子でノックされた。

「…入れ」不機嫌を隠そうともしない声で応じるとアビス出身の若い兵士が、緊張した面持ちで飛び込んできた。

 

「カシアン様!緊急のご報告です!領の南門に…その、コンスタンツェ様がお戻りになられましたが…その、ご一緒に、ファーガス王国のご婦人が…!しかも何やら王国軍に追われているような様子で…!」

 

「コンスタンツェが?王国のご婦人と?」カシアンの眉がピクリと動いた。コンスタンツェは数日前、「旧友とのささやかな旧交を温めに、少しばかり王国方面へお暇をいただきますわ」などと優雅な口実を並べ、ユーリスとハピの冷ややかな視線を浴びながら出かけていったはずだ。それが追われている?

 

「…次は何をやらかしやがったのか…」

カシアンは訝しげに呟きながらも万が一の事態を想定し、腰の短剣の感触を確かめた。

 

南門へと急行すると、そこには確かに息を切らせたコンスタンツェと彼女に庇われるようにして立つ、見慣れた修道服姿の女性がいた。優しく穏やかな微笑みを浮かべてはいるがその瞳の奥には深い疲労と何かを決意したような強い光を宿している。

「メルセデス?」

カシアンの口から思わずその名が漏れた。青獅子の学級のあの慈愛に満ちた女性。なぜ彼女がここに? しかも明らかに何かから逃れてきたような姿で。

 

「カシアン先生…!ご無沙汰しておりますわ。突然、このような形でお訪ねしてしまい、本当に申し訳ございません…」

メルセデスはカシアンの姿を認めると深々と淑やかに頭を下げた。その声には隠しきれない疲労が滲んでいる。

 

「メルセデス殿。それにコンスタンツェ、一体何があった? 報告では、王国軍に追われているとのことだったが」

カシアンは状況の把握を急いだ。

 

コンスタンツェは乱れた髪を手で整えながらも、その扇子を持つ手は微かに震えていた。しかしその表情はどこか得意げで、そして大きな仕事を成し遂げたかのような達成感に満ちている。

「ふふん、カシアン。驚きましたこと? わたくしの『ささやかな旧交』が、このような素晴らしい『お土産』を持って帰ってくるとは、夢にも思わなかったでしょう?」

彼女はメルセデスの肩を抱き寄せ芝居がかった口調で言った。

「メルセデスは、もう王国には戻りませんわ。彼女は全てを捨てわたくしたちと共に、このカシアン領で新たな道を歩むことを決意なさいましたの! …まあ、少々強引な『説得』とスリリングな『脱出劇』が必要でしたけれど。王国軍の追っ手も、わたくしの魔道とユーリスが急遽手配してくれた者たちの活躍で、今はどうにか撒いてきたところですわ」

 

「何だと…?」カシアンは絶句した。メルセデスが王国を裏切って、このカシアン領に? あのどこまでも優しく教会への信仰も篤かったはずの彼女が?

「メルセデス殿、それは…本当なのですか? 一体、なんで…何が貴女をそこまで…?」

カシアンの問いにメルセデスは悲しげだが静かに微笑んだ。

「はい、カシアン先生。コンスタンツェの言う通りです。私はもう、王国にも、教会にも戻るつもりはありません。…先生、そして皆さんには大変なご迷惑をおかけすることは重々承知しております。ですがどうかこの私をこの地に受け入れてはいただけないでしょうか…?」

彼女の言葉は穏やかでありながら、その奥に揺るぎない決意を感じさせた。

 

カシアンはメルセデスのその言葉と瞳の奥にある覚悟、そしてコンスタンツェのしたり顔を見て、再び深いため息をついた。頭痛の種がまた一つ増えた。いやこれはもはや「種」などという可愛らしいものではない、爆弾だ。

 

「コンスタンツェ…貴様、一体何を吹き込んだ…? いやそれよりもメルセデス殿、貴女が王国を捨ててまでここに来た、その『理由』を、詳しく聞かせてもらっても?」

カシアンの声には困惑と、そして事の重大さを認識した上での冷静な探求心が混じっていた。

 

メルセデスは一度コンスタンツェと視線を交わし、そして意を決したように、カシアンに向き直った。

「…先生。私がここへ参りましたのは…コンスタンツェが、教えてくれたのです。私の…私のたった一人の弟が…今、この地にいる、と」

その言葉は、カシアンの予想を遥かに超えるものだった。弟? メルセデスに弟が?

 

「弟…? それは一体…」

カシアンが問い返そうとしたその時、コンスタンツェが勝ち誇ったように口を開いた。

「エミールよ、カシアン。覚えていらっしゃるでしょう? 帝国でその禍々しい鎌を振るい、多くの者を恐怖に陥れた、あの死神騎士…その正体こそがメルセデスの実の弟、エミールなのですわ」

コンスタンツェの言葉はまるで爆弾を投下するかのようにその場にいたカシアン、そして彼の護衛として控えていた兵士たちにも衝撃を与えた。

 

「死神騎士が…メルセデス殿の弟…? まさか…」

カシアンは信じられないといった表情で、メルセデスとコンスタンツェを交互に見つめた。

「わたくしとメルセデス、そしてエミールは幼い頃家族ぐるみでお付き合いがございましたの。貴族社会の複雑な事情と、そして…あの忌まわしい『紋章』によって彼ら姉弟は幼くして引き裂かれエミールは心に深い傷を負い、行方も知れなくなってしまった。メルセデスはずっと弟の安否を気にかけ探し続けていたのですわ。そしてわたくしは偶然にも、あの死神騎士がエミールではないかと…彼の剣筋や纏う雰囲気に、かつての面影を感じ取っていたのです」

 

コンスタンツェはそこで一度言葉を切り慈しむような、どこか悲しげな目でメルセデスを見つめた。

「今回メルセデスにそれを伝え、そしてもし本当にそうなら姉として弟を救い、彼の歪んでしまった心を解き放つ手助けができるのではないか、と。…まあその結果、少々手荒な『亡命』となりましたけれど、メルセデスは自らの意志で弟のいるかもしれないこの地を選んだのですわ」

 

カシアンはコンスタンツェの説明を聞き終えると、改めてメルセデスを見た。

「はい、先生。コンスタンツェの言う通りです。もし本当にあの死神騎士が…エミールなのであれば、私は…姉として、彼のためにできることをしたい。たとえそれが王国を裏切ることであっても、教会に背くことであっても、もう迷いはありません」

その瞳には弟への深い愛情と、彼を救いたいという切なる願いが燃えていた。

 

「…イエリッツァ殿にも、確認を取る必要があるな」

カシアンは呟き近くにいた兵士に死神騎士を呼んでくるよう命じた。

ほどなくしてあの禍々しい黒鎧の騎士が、カシアンの前に姿を現した。彼の仮面の奥の瞳がメルセデスの姿を捉えた瞬間、ほんのわずかに確かに揺らいだのを、カシアンは見逃さなかった。

 

「イエリッツァ殿。単刀直入に聞こう。メルセデス殿は、貴様の姉であるというのは、真か?」

カシアンの問いにイエリッツァはしばらくの間沈黙していた。仮面の奥でどのような葛藤が繰り広げられているのか、誰にも窺い知ることはできない。やがて彼は重々しく、しかし否定のしようもない事実として短く低く答えた。

「…………ああ」

 

その一言は全ての憶測を真実へと変えた。

メルセデスはイエリッツァのその肯定の言葉を聞き、両手で口を押さえ静かに涙を流し始めた。それは悲しみの涙ではなく長年の苦しみと不安の末にようやくたどり着いた真実への、そして弟との再会への、万感の思いが込められた涙だった。

 

「…先生。改めてお願いいたします。このメルセデスを、どうかこのカシアン領の一員として、お力添えさせてくださいませんか。私の持つ回復魔法の知識や、ささやかながら紋章の力もきっとこの地の皆様のお役に立てるはずですわ」

メルセデスは涙を拭いカシアンに向かって再び深く頭を下げた。その姿にはもはや迷いはなくただひたすらに弟を想い、そしてこの地で新たな道を歩もうとする強い意志だけが輝いていた。

 

カシアンはその光景を黙って見つめていた。メルセデスの覚悟コンスタンツェの行動力、イエリッツァの秘められた過去。あまりにも多くの情報とそして重すぎる人間関係が一気に彼の元へと流れ込んできた。

(…さて、どうしたものか)

彼は王国との関係悪化、メルセデスの処遇、そして姉弟の複雑な運命をこの領地でどのように受け止め、そして導いていくべきなのか。カシアンの頭脳は新たな極めて厄介な問題に直面し再びフル回転を始めていた。頭痛の種はどうやら尽きることがないらしい。ちなみにカシアンは想像もしていないが、コンスタンツェがここまで思い切った策を考え実行したのはカシアンから学んだ為。つまり自分が教えた結果である。

 

 

 

アビスの者たちとカシアンの指揮のもとで再編された領民兵、そして何よりもベレスという圧倒的な戦力を擁するカシアンの軍勢は、帝都アンヴァルからの正式な支援を取り付けた後、王国東部への電撃的な侵攻作戦を開始した。彼らの主な目的は、単なる領土拡大ではない。カシアンが長年研究し、そして今まさに実用化の最終段階に入りつつある新型高性能爆薬――その安定供給に不可欠な、高品質な硝石と硫黄の鉱脈が眠るとされる、山岳地帯の確保にあった。

 

ユーリスや死神騎士イエリッツァ、そしてアビスの部隊といった主力部隊は、王国軍の注意を引きつけ、その戦力を広範囲に分散させるため、王国領内の複数の戦略拠点に対し、陽動と破壊工作を目的とした同時多発的な攻撃を仕掛けていた。彼らの神出鬼没な襲撃は、王国軍の指揮系統を混乱させ、各地で火の手を上げていた。

 

その陽動作戦が功を奏し手薄となった王国東部、山沿いに連なるカロン領、そしてその先に位置するガラテア伯爵領へと、カシアンとベレスは、選りすぐりのアビス兵と、帝国から派遣された少数の工兵部隊を率いて音もなく、しかし迅速に進軍していた。彼らの足取りは軽く、その瞳には明確な目的意識が宿っている。カロン領はカシアンの提示した「有利な条件」と、背後にちらつく帝国の影、そして何よりもベレスの圧倒的な武力を前に、ほとんど抵抗らしい抵抗もできずに降伏。カシアンはその地を爆薬原材料の採掘と輸送のための中継拠点として確保すると、休む間もなく、次なる目標であるガラテア領へと兵を進めた。

 

夕暮れが迫り空が茜色に染まり始めた頃、カシアンとベレス率いる侵攻部隊は、ついにガラテア領の古びた壁の前に到達した。ガラテア領はフォドラでも有数の貧しい土地として知られ、その城壁も長年の風雪に耐えてきたものの、修繕の手は行き届いておらず、所々に傷みが見受けられる。しかしその城壁の上には貧しいながらも故郷を守らんとする領民兵たちの、悲壮な覚悟を秘めた姿があった。

 

「全軍、攻撃準備! 目標、正面門! ベレス、先陣を頼みます。兵士たちはそれに続き、一点集中で突破!」

カシアンの冷静な有無を言わせぬ命令が夕暮れの戦場に響き渡った。

 

「うん、行こうか」

ベレスは短く応じると、天帝の覇剣を抜き放った。その緑色の髪が夕風になびき、彼女の全身から放たれる女神のオーラが、周囲の兵士たちの士気を高揚させる。彼女は馬の腹を軽く蹴り、カシアン軍の先頭に立って、ガラテア領の城門へと向かってゆっくりと進み始めた。

 

その時だった。城門がギギギ…と重々しい音を立てて開き、そこから一騎の蒼きペガサスが、夕陽を背に舞い上がった。そしてその背には見慣れた、しかし今は敵として対峙せねばならぬ騎士の姿があった。青銀の鎧に身を包み、愛用の槍を携え、その顔には悲壮な決意と故郷を守るという強い意志を浮かべた女騎士――イングリット=ガラテアだった。彼女の後ろからは、数で劣るものの、同じように決死の覚悟を固めたガラテア領の兵士たちが鬨の声を上げて続いてくる。

 

「ベレス先生…! そして…カシアン先生…!」

イングリットの声が戦場に響いた。その声にはかつての師と友への呼びかけと、しかし今は敵として刃を交えねばならぬ運命への深い悲しみとやるせなさが滲んでいた。彼女はカシアンとベレスが帝国側に与し、こうして故郷に攻め込んできたという事実を、既に理解していた。そしてその理由が何であれ、彼女には守るべきものがある。

「まさか…このような形で、あなた方と生きて再会することになるとは…夢にも思いませんでした…!」

 

ベレスはイングリットのその悲痛な叫びに、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。かつてガルグ=マクで共に学び、笑い、そして時には背中を預けて戦った大切な友人。その彼女と今、こうして敵として対峙している。それが戦争というものの非情さなのだと頭では理解していても心がそれを受け入れるのを拒んでいた。

「イングリット…」ベレスの声もまた悲しみに震えていた。

「私もあなたと戦いたくはない。でも私たちにはそれぞれ譲れないものがある。進むべき道が、違ってしまっただけなんだ」

その言葉はイングリットへの謝罪のようでもあり、そして自分自身に言い聞かせる決意のようでもあった。

 

カシアンはその二人のやり取りを頭巾の下で表情を変えることなく、ただ黙って聞いていた。彼の視線はイングリットの背後に控えるガラテア領の兵士たちの数、その装備、そして城壁の防御態勢へと注がれ冷静に戦力を分析している。しかしその瞳の奥には、かつての教え子たちが殺し合わねばならぬこの状況に対する、彼なりの複雑な感情が、確かに渦巻いていた。

 

「…問答はもはや不要でしょう」

カシアンは戦場の空気を断ち切るように言った。

「ベレス、兵士たち、攻撃を開始しなさい。目標はガラテア領の制圧。抵抗する者は…排除もやむを得ません」

その命令は非情なまでに合理的だった。

 

「…はい!」

ベレスはイングリットへの最後の視線を送り、そして天帝の覇剣を固く握りしめた。彼女の瞳から迷いの色が消える。カシアンと共に歩むと決めた道。そのためにはたとえかつての友であっても、刃を向けねばならない時がある。

 

「イングリット! 覚悟!」

ベレスの叫びと共に、二人の英雄の遺産が激しく火花を散らした。ベレスは地上から、天帝の覇剣のリーチと女神の力を活かした圧倒的な剣技でイングリットに迫り、イングリットはペガサスの機動力を駆使し、空から槍を繰り出してそれに応戦する。かつて模擬戦で何度も手合わせした二人だったが、今の戦いは互いの命を賭けた真剣勝負だった。

 

ベレスの剣は速く重く、そして正確だった。女神の力を宿したその一撃一撃は、イングリットの槍捌きを徐々に追い詰めていく。イングリットもまた、騎士としての誇りと、ガラテアの民を守るという強い意志を胸に、必死に食らいつく。ペガサスを巧みに操り、ベレスの攻撃を紙一重でかわし、あるいは受け流し、反撃の機会を窺う。だが力の差は明らかだった。ベレスの剣圧はイングリットの体力を容赦なく削り取っていく。

 

カシアンはその二人の戦いを馬上から静かに見守っていた。彼の脳裏には5年前、まだガルグ=マク大修道院が平和だった頃の光景が蘇っていた。訓練場で汗を流しながら剣を交えるベレスとイングリットの姿。実技訓練の後二人で楽しそうに昼食を囲む笑顔。そして、彼自身が、彼女たちに戦術や兵站の重要性を説いていた、あの教室での日々…。

(…あの頃は、まさかこんな未来が訪れるなどとは、そしてこんな感傷に浸るとは、夢にも思っていなかったな)

カシアンは頭巾の下で自嘲気味な笑みを浮かべた。だが感傷に浸っている暇はない。今は実戦だ。彼の役割はこの戦いを最も効率的に、そして最小限の犠牲で終わらせること。たとえそれが、教え子同士の悲しい殺し合いを容認することになったとしても。しかし、彼のその合理的な思考の奥底で、どこかやりきれない、複雑な感情が疼いているのを、彼自身も否定できなかった。

 

やがて戦況は決定的な局面を迎えた。ベレスの放った渾身の一撃がイングリットの槍を弾き飛ばし、がら空きになった彼女の胴体に天帝の覇剣の側面が深々と叩き込まれたのだ。ベレスは最後の最後で刃を反転させ、峰打ちに近い形で手加減をしていた。

「ぐっ…ぁ…!」

イングリットはペガサスの背から力なく崩れ落ち、地面に叩きつけられた。幸い命に別状はなさそうだったが、完全に戦闘能力を失い、悔しさに顔を歪ませながら荒い息をついている。

 

「…勝負、あったな」

カシアンが静かに告げるとアビスの兵士たちが素早くイングリットを取り囲み、その身柄を確保した。ガラテア領の他の兵士たちも指揮官を失い、ベレスの圧倒的な力を見せつけられたことで戦意を喪失し、次々と武器を捨てて降伏していった。

 

ベレスは捕虜となったイングリットの元へと歩み寄り、その前に静かに膝をついた。

「イングリット…」

その声は勝利者のものではなく友を傷つけてしまったことへの、深い悲しみに満ちていた。

 

イングリットは悔し涙を滲ませながらも力なく首を横に振った。

「謝らないで…ベレス先生…。これが…戦争、なのでしょうから…。私は…負けた。ただ、それだけです…」

そして、彼女は力なく付け加えた。

「どうか…領民たちには…寛大な処置を…」

 

カシアンはその二人のやり取りを、複雑な表情で見守っていた。ガラテア領は、こうしてカシアンの軍門に下った。爆薬の原材料確保という目的は、また一歩前進した。だがその勝利の味はどこか苦く、彼の心に重い何かを残すものだった。

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