ガラテア領を制圧し爆薬の原材料確保に一定の目途がついたことで、カシアンの軍勢にはほんのわずかながら戦略的な「余裕」が生まれていた。しかしそれは決して心からの安息を意味するものではなかった。むしろその余裕こそが、これまで戦術的な必要性に覆い隠されてきたより根源的で、そして何よりも心を苛む問題と向き合う時間を与えてしまったのだ。
その夜カシアンはガラテア領主の古びた館の一室――今は彼の臨時の執務室兼司令部となっている部屋で、ベレスと二人きりで向かい合っていた。窓の外には、戦禍の爪痕が生々しく残るガラテアの町が、月明かりの下で静かに息を潜めている。部屋の中には、燃え残った薪が時折パチパチと音を立てる暖炉の火と、二人の間に置かれたテーブルの上の軍事地図、そして重く言葉にし難い空気が満ちていた。
カシアンはイングリットを捕虜としたあの日の戦いを思い返していた。ベレスがかつての友に刃を向け、そして打ち破った時の、あの悲痛な表情。そしてこれから先彼らが進む道の上で、同じように敵として再会するであろう、他の元教え子たちの顔が、次々と脳裏をよぎる。ディミトリ、シルヴァン、アッシュ…彼らは皆それぞれの正義と信念を胸に、この戦乱のフォドラで戦っているはずだ。
「ベレス」
カシアンは沈黙を破り、静かに口を開いた。その声はいつものように抑揚に乏しかったが、その奥には確かな重みが宿っていた。
「先のイングリットの一件、そしてカロン領の制圧。これらによって我々の当面の戦略目標の一つである、爆薬原材料の確保ラインは、ほぼ確立されました。これにより我々の戦力は飛躍的に向上し、今後の戦いを有利に進めることができるでしょう。…ですが余裕が生まれると同時に、我々は避けて通れない問題に直面することになります」
ベレスはカシアンの言葉に静かに耳を傾けていた。彼女の緑の瞳は暖炉の炎の揺らめきを映し、その奥に深い思慮の色を浮かべている。
「…それはかつて我々が教鞭を執った、ガルグ=マクの生徒たち…私たちの元教え子たちと戦場で本格的に敵として対峙する可能性が、極めて高くなったということです」
カシアンは言葉を選びながら続けた。
「彼らはそれぞれの立場と信念に基づき、帝国、王国、あるいは同盟のいずれかの勢力に与し、この戦いに身を投じている。そして我々がフォドラの統一、あるいは我々自身の生存のために戦い続ける限り彼らとの衝突は、もはや避けられない。…その時我々は、彼らにどう向き合うべきか。それを今のうちに貴女と明確にしておく必要があると考えました」
カシアンの言葉は重く残酷な現実を突きつけていた。ベレスは息を呑み視線をテーブルの上の地図へと落とす。そこにはフォドラ全土が、まるで血の色のように、赤と青、そして黄色の勢力図で塗り分けられている。その一つ一つがかつての教え子たちの顔と重なって見えた。
「選択肢はそう多くはありません」カシアンは冷徹なまでに現実的な言葉を続けた。「彼らが我々に敵対し、武器を向けてくるのであれば…我々は彼らを殺すか、あるいは捕虜として捕らえるか、それとも何らかの形で我々に従わせるか。そのいずれかを選ばなければならない。戦場において、感傷や過去の情は、命取りになりかねませんからね」
ベレスはその言葉に、唇を固く結んだ。殺す? かつて共に笑い、悩み、そして未来を語り合った、あの子たちを? その考えは、傭兵として長い事生きてきたベレスの心を鋭い刃物で抉るかのように痛んだ。
カシアンはそんなベレスの葛藤を見透かしたかのように、しかしその表情を変えることなく、さらに言葉を重ねた。それは、彼自身が長年抱えてきた、合理性と人間性の間での闘いの一端を垣間見せるかのようだった。
「…もちろん私とてかつての教え子たちを無闇に傷つけたいわけではありません。ですが考えてもみてください、ベレス。この戦乱の中で、名もなき一般兵同士の間でも、かつての友人や故郷を同じくする者たちが、互いに武器を向け合い、命を奪い合っている…そのような悲劇は我々の目に見えないだけで、このフォドラの至る所で、数えきれないほど起きているはずです。我々だけがかつての師弟関係という個人的な情を理由に、彼らを特別扱いすることが、果たして許されるのでしょうか? それは他の兵士たちに対する不公平であり、そして何よりも、指揮官としての私の判断を鈍らせる、危険な感傷ではないのか、と…私も、そう考えずにはいられないのです」
カシアンの言葉には苦悩の色が滲んでいた。彼は合理的な判断を下そうとしながらも、その心の奥底では、かつての教え子たちへの複雑な想いを捨てきれずにいるのだ。
そしてカシアンは、ベレスの緑の瞳を真っ直ぐに見つめ静かに覚悟を込めて言った。その言葉は、ベレスの肩にのしかかるであろう重荷を、彼自身が引き受けようとする彼なりの深い愛情の表れだったのかもしれない。
「…ですがベレス。もし貴女が戦場で、かつての教え子たちと対峙し、そして…彼らの命を奪わねばならぬという、非情な決断を迫られたとしても。貴女はその罪の意識に苛まれる必要はありません」
彼はベレスの冷たくなっていた手を、そっと自分の両手で包み込んだ。その手は戦いの熱とは無縁の、しかし確かな温もりを伝えていた。
「仮に貴女が誰かの命を奪うことになったとしても、その罪は全て作戦を立案し攻撃を命令したこの私のものです。貴女はただ私の指示に従っただけ。貴女自身が、その重荷を背負う必要は、どこにもないのですから」
カシアンのその言葉はベレスの心に深く温かく染み渡った。彼の優しさ、そして自分を庇おうとするその強い意志。彼女はカシアンのその言葉に感謝と、そして彼と共にこの過酷な道を歩む覚悟を、改めて強くした。
ベレスはカシアンの手を握り返し、そしてゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。そこには、悲しみを乗り越え現実を受け入れ、そして前に進もうとする強い光が宿っていた。
「……ありがとう、カシアン。あなたの気持ち、よく分かった」
ベレスの声は静かだったが、そこには揺るぎない決意が込められていた。
「私も…もう、迷わない。かつての仲間たちと戦うことは、本当に辛い。でもそれが避けられない運命だというのなら、私はそれを受け入れる」
彼女は一度言葉を切り、そしてはっきりとした口調で自らの結論を告げた。
「これからはできる限り…可能な限り、彼らを捕虜として捕らえ、命までは奪わないように努める。でも…」
彼女の瞳に一瞬だけ鋭い光が宿る。それは女神の力を宿す戦士としての、冷徹な決断の光だった。
「…もし彼らが最後まで抵抗し、私たちの道を阻むというのなら…その時は、私も躊躇わない。たとえ相手が誰であろうとも、この剣で、彼らを討つ。…それがこの戦乱の世を生き抜き、そしてカシアン、あなたと共に未来を掴むための私の覚悟だ」
ベレスのその言葉は彼女が多くのものを乗り越え、そして成長したことを雄弁に物語っていた。カシアンは彼女のその決意をただ黙って、しかし深い信頼と愛情のこもった眼差しで見つめ返していた。
部屋の中には、暖炉の炎が静かに揺らめき、二人の間に生まれた重く、しかし確かな絆を、優しく照らし出しているかのようだった。フォドラの未来は依然として不透明なままだが少なくとも彼らは二人で、その困難な道を共に歩んでいく覚悟を、今、改めて固めたのだった。
カシアンとベレス二人の間に交わされた重い決意の言葉は、暖炉の炎の揺らめきと共に、静かに部屋の空気へと溶け込んでいった。ベレスは、カシアンのその言葉と覚悟を胸に、彼の手に自分の手を重ね、確かな温もりを感じながら、ほんの少しだけ安堵の息をついた。フォドラの未来は依然として不透明で、過酷な戦いは続くだろう。だが少なくとも、この男と共に歩む限り、道に迷うことはないだろうという、不思議な確信が彼女の中に芽生え始めていた。
しばらくの間二人は言葉もなく、ただ暖炉の炎を見つめていた。カシアンは先程までの緊張感から解放されたのか、あるいはベレスの存在がそうさせるのか、どこか憑き物が落ちたかのような、穏やかな表情を浮かべている。
ふとベレスはそのカシアンの横顔をじっと見つめた。そしてまるで長年心の中に引っかかっていた小さな棘を、ようやく取り除くかのように真っ直ぐな瞳で問いかけた。
「…カシアン」
「はい、何でしょう」
「…イングリットのことを、どう思っているの?」
その声は嫉妬や非難の色を含んでいるわけではなかった。むしろ純粋な疑問であり、そして何よりもカシアンという人間の、まだ知らない一面をもっと深く理解したいという、彼女自身の心の奥底からの欲求の表れのように聞こえた。
カシアンはベレスのその唐突な問いかけに、頭巾の下で大きな疑問符を浮かべたのが見て取れた。彼の思考回路は、なぜ今、イングリットの名前が出てくるのか、そしてベレスが何を知りたがっているのかを、瞬時に理解することができなかったようだ。
「イングリット殿、ですか? …そうですねぇ」彼は、腕を組み、少し考えるような素振りを見せた後、いつものように客観的で分析的な評価を述べ始めた。
「彼女は、非常に優秀な生徒でしたよ。騎士としての才能はもちろんのこと真面目で責任感が強く、そして何よりもフォドラの貴族としては稀有なほどに、純粋で良識のある価値観を持っている。セイロス聖教会への信仰も篤く、民を思う心も深い。この戦乱の世において、彼女のような存在は、いずれ王国の未来にとって、貴重な柱石となる可能性を秘めている、と私は評価しています。それが何か?」
カシアンの言葉はどこまでも教師としての、あるいは戦略家としての客観的な分析に終始しており、ベレスが聞きたかったであろう答えとは明らかにかけ離れていた。
ベレスはカシアンのその返答に、小さく息をつくと呆れたような表情を浮かべた。
「…違う、カシアン。私が聞きたいのは、そういう表面的な評価じゃない」
彼女はカシアンの手に重ねていた自分の手を今度は彼の腕へと滑らせ、その袖を軽く、しかし有無を言わせぬ強さでくいっと引いた。そして彼の瞳を真っ直ぐに見据え、言葉を続けた。その声には先程よりも明確な、探るような響きが込められていた。
「イングリットへの…カシアン、あなた個人の感情。それを聞きたい」
カシアンはベレスのその真剣な眼差しと、彼女の言葉の裏に隠された何か――おそらくは、女性特有の鋭い直感のようなもの――に、ようやく彼女の問いの真意を朧げながらも察し始めたのかもしれない。彼は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を泳がせたが、やがて観念したかのように、しかしどこか照れ臭そうに、そして彼にしては珍しく、慎重に言葉を選びながら答えた。
「…個人の感情ですか。難しいことを聞きますね、貴女は」
彼は暖炉の炎に視線を送り、まるで遠い記憶でも手繰り寄せるかのように、ゆっくりと話し始めた。
「イングリット殿は…そうですね確かに個人的にも信じるに足る人間だと思っていますよ。裏表がなく実直で、そして何よりも、彼女の持つ騎士としての誇りは、見ていて清々しいものがある。…それに」
カシアンはそこで言葉を切りほんの少しだけ、本当にごく僅かに口元を緩ませた。その表情は、ベレスにも滅多に見せない柔らかなものだった。
「…彼女は、実によく食べますからね。私が作る、お世辞にも洗練されているとは言えないような無骨な料理や、試作品の菓子などを、いつも本当に美味しそうに幸せそうに平らげてくれる。あの食べっぷりは、見ているこちらもなぜか満たされた気持ちになる。…ええ、そういう意味では確かに…可愛いとは思いますよ」
カシアンは、最後の「可愛い」という言葉を、まるで自分でもその感情の正体がよく分かっていないかのように少し戸惑いながら素直に口にした。彼にとってそれは異性としての魅力を指すというよりは、まるで見ていて飽きない小動物や、あるいは手のかかる妹に向けるような純粋で微笑ましい好意に近いものだったのかもしれない。
しかしベレスにとって、カシアンの口から出た「可愛い」という言葉は、彼女の心の奥底に小さな無視できない波紋を投げかけた。彼女はカシアンのその言葉を黙って聞いていたがその表情からは感情が読み取りにくい。ただ暖炉の炎を見つめる彼女の緑の瞳が、いつもよりも少しだけ深く複雑な光を宿しているように見えた。
(イングリットのことを…可愛い、と…)
ベレスは、自分自身の心の中でゆっくりとその言葉を反芻した。それは嫉妬、不安というにはあまりにも確かな名付けようのない感情だった。カシアンが自分以外の女性にそのような感情を抱いているかもしれないという可能性。そしてイングリットは確かに魅力的で気高く、そして何よりもかつての自分と同じようにカシアンの近づいた存在だ。
ベレスは静かに自分の心と向き合い、そして一つの結論に達した。それは彼女自身の感情と、カシアンという男への、強い強い想いに基づいた結論だった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、カシアンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その表情にはもう先程までの複雑な色はなく、ただ静かで揺るぎない決意が宿っていた。
「…そうか。カシアンはイングリットのことを、そう思っているんだ」
ベレスの声は穏やかだった。しかしその言葉には有無を言わせぬような、確かな重みがあった。
「ならカシアン。一つだけ約束してほしい」
「約束ですか?」カシアンはベレスのその真剣な眼差しに、少しだけ戸惑いの色を浮かべた。
「うん」ベレスは力強く頷いた。そしてまるで大切な秘密を打ち明けるかのように、しかしその言葉には一切の迷いもなく、はっきりとした口調で言った。
「これから先、もしあなたがイングリットと会うことがあるのなら…その時は必ず、私も一緒に連れて行ってほしい。絶対に、だ」
その言葉はカシアンにとって、あまりにも予想外のものだった。彼はベレスのその要求の真意を測りかね、頭の上にいくつもの疑問符を浮かべた。イングリットと会う時に、ベレスも一緒に? 一体なぜ? まさか、私一人がイングリットと会うのは、何か不都合でもあると?
カシアンの合理的な思考は、ベレスのその言葉の裏に隠された、女性特有の複雑な感情――嫉妬や独占欲――を、全くと言っていいほど理解することができなかった。彼は、ベレスのその真剣な眼差しと、彼女の言葉の裏にあると彼が勝手に解釈した、純粋な心配の念にむしろ感心したように、そしてどこか安堵したように、あっさりと頷いた。
「…ああ、なるほど。そういうことですか、ベレス。確かに私が一人で王国側の人間と接触することを、貴女は危険だと判断し、護衛として同行してくれる、と。…ふむ、それは実に合理的でかつ私にとっても心強い申し出です。分かりました、ベレス。約束しましょう。今後私がイングリット殿と会う必要がある際には必ず貴女にも声をかけ、同行していただくことにします」
カシアンはベレスのその言葉を自分への気遣いと彼女なりの合理的な判断だと、完璧に誤解し、そして満足げに了承したのだった。
ベレスはカシアンのそのあまりにも的外れな解釈と、彼の相変わらずの鈍感さに、一瞬だけ言葉を失いそうになったが、すぐに気を取り直し内心で深いため息をつきながらも、表面上は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
(…都合が良いからいいか。)
彼女の瞳の奥には、カシアンへの深い愛情と、そして彼を自分だけのものにしたいという静かで、しかし確かな独占欲の炎が、再び小さく揺らめき始めていた。
フォドラの空はいまだ戦乱の暗雲に覆われていた。王国の領土は貧しく帝国は広く豊かで、国力に差があった。更にアドラステア帝国がアリアンロッドらを陥落させ、その版図を大きく広げた一方で、北方のファーガス神聖王国は、未だセイロス聖教会を奉じるレア元大司教を匿い、帝国への徹底抗戦の構えを崩していなかった。そしてその王国の古き都フェルディアの一角、今はレアが仮の拠点として身を寄せる古城の一室は、夜の静寂と、彼女自身の深い苦悩と野望が渦巻く、重苦しい空気に満たされていた。
窓の外には戦禍で暗くなった王都の景色が広がり、遠くからは未だに帝国軍との小競り合いを知らせる角笛の音や、負傷した兵士たちの呻き声が風に乗って微かに聞こえてくる。だがレアの意識はそんな眼前の戦況よりももっと根源的で、そして彼女の存在意義そのものを揺るがしかねない新たな脅威へと向けられていた。
「…活版印刷…そして爆薬…」
レアは、玉座の間に設えられた質素な長椅子に腰掛け、その白い指先で傍らに置かれた羊皮紙の束――帝国領内で秘密裏に収集された情報報告書――を神経質に叩いていた。その美しい顔にはいつもの慈愛に満ちた微笑みは消え失せ、深い疲労とそれ以上に激しい焦燥と怒りの色が刻まれている。
報告書にはアドラステア帝国の支配地域、特にカシアンという男が実質的に統治する西の辺境領において恐るべき速度で新しい技術が開発され、そして一般の民衆の間にまで普及し始めているという信じがたい事実が記されていた。
「本が…それも女神の教えとは異なるふざけた思想や物語が安価に大量に複製され、民草の間に広まっている。 これでは長年かけて築き上げてきた女神の教えに基づくフォドラの秩序が、内側から崩壊してしまう…!」
レアはギリ、と奥歯を噛み締めた。活版印刷という技術は、彼女が最も恐れていたものの一つだった。知識と思想は一度解き放たれれば、もはや誰にも制御できない奔流となる。人々が自ら学び考え広めれば、そして教会の権威に疑問を抱くようになった時彼女が長年守り続けてきたフォドラの精神的支柱は音を立てて崩れ落ちるだろう。
「そしてあの『爆薬』…。カシアンという男が開発したというあの忌まわしき破壊の力。あれが戦場に本格的に投入されれば、いずれ騎士の武勇も紋章の力も、そして…あるいは我らが女神の眷属の力さえも、意味をなさなくなるやもしれぬ…。ただの鉄と石の塊が、神聖なるものを無慈悲に破壊し尽くす…そんな未来など、断じてあってはならない…!」
レアの脳裏にはカシアン領でのあの悪夢のような光景――カシアンの指揮のもと、アビスの者たちが投下した爆弾樽によって、アリアンロッドの王国兵たちがなすすべもなく蹂躙されていった光景――が鮮明に見えてくるようだった。それは新たな時代の、そして彼女の価値観の完全な否定を告げる、不吉な狼煙だったのだ。
(たとえ、この戦いで帝国を打ち破り、エーデルガルトの首を刎ねたとしても…もはや手遅れなのかもしれない…)
レアの心に深い絶望感が影を落とす。一度世に出た技術はもはや完全に消し去ることなどできない。例えこの戦いに勝利したとしても活版印刷によって広まった思想の種は人々の心に残り続け、爆薬という新たな力は誰かの手によって再び生み出されるだろう。教会の権威は地に落ち、女神の教えは忘れ去られ、フォドラは紋章や教会の秩序を失った、混沌とした、そして彼女にとっては価値の低い世界へと変貌してしまうのかもしれない。
(…いいえ。諦めるわけにはいかない)
しかしレアの瞳に、再び狂信的なまでの強い光が宿った。彼女にはまだ諦められない、たった一つのそして何よりも大切な悲願がある。
(お母さま…。必ず、必ずあなたを、このフォドラの地にお迎えする。そのためならば私は…私はどのような犠牲も厭わない。たとえこのフォドラの人間全てを敵に回すことになったとしても…!)
そうだ、フォドラの人間どもが愚かにも女神の教えを忘れ偽りの知識や力に惑わされるというのなら、一度その文明そのものを「浄化」し衰退させてしまえばいい。そして全てが更地になったその上で再び母ソティスを中心とした神聖で絶対的な秩序を、この大陸に打ち立てるのだ。それは歪んでいるかもしれないが彼女にとって唯一残された、そして最も確実な「救済」の道のように思えた。
レアはゆっくりと立ち上がり窓辺へと歩み寄った。その瞳にはもはや人間的な感情は消え失せ、ただ母への狂信的な愛とフォドラ全土を自らの理想郷へと作り変えんとする、冷徹で非情な決意だけが燃え盛っていた。
そして彼女は長年棄却してきた、最も忌むべき計画の一つをついに実行に移すことを決意した。
「…私の命令に疑問を抱くものに、私のこの『大いなる救済』の真の意味を、理解することはできないでしょうね」
レアは傍らに控えていた、セイロス騎士団の中でも特に彼女への信仰心が篤く、そして血も涙もない任務をも忠実に遂行できるであろう、選りすぐりの騎士たち――彼らは皆、かつてレアがその血と紋章石の欠片を与えることで常人離れした力と、彼女への絶対的な忠誠心をもった存在だった――に有無を言わせぬ口調で命じた。
「あなたたちには王国各地の、特に敬虔な信者が多く住まう町や村へと赴いてもらいます。そしてそこで選ばれた者たちに、『女神からの特別な祝福』を授けるのです」
レアは自らの指先を鋭い爪で浅く切り裂き、そこから滲み出た禍々しくも神聖な輝きを放つ自身の血を、用意された聖杯へと滴らせた。その血は強い信仰心を持つ者や、あるいは特殊な素質を持つ者が摂取すれば、女神の眷属にも似た強大な力を得る代わりに、レアへの絶対的な服従を誓う、狂信的な兵士へと生まれ変わる可能性を秘めていた。
「私の血を少々、そしてこの紋章石の欠片を大目に彼らに飲ませなさい。そして彼らを女神ソティス様の再臨と新たなるフォドラの誕生のために戦う、聖なる戦士へと『進化』させるのです。苦痛は一瞬。与えられるのは永遠の栄光と、女神の御許へ至る道です」
その言葉は慈愛に満ちた聖母のそれではなく、自らの目的のためには手段を選ばぬ、冷酷な支配者の宣告だった。騎士たちはレアのその言葉にまるで神託でも受けたかのように、狂信的な光をその瞳に宿らせ、深々と頭を垂れた。
「「「御意のままに、レア様」」」
彼らの声は、感情を失った機械のように、ただレアの命令を遂行することだけを誓っていた。
レアはその光景に満足げに頷くと窓の外に広がる、戦乱に疲弊したフォドラの地を、再び見下ろした。その瞳には母への愛とフォドラの民への歪んだ慈悲、そして底知れぬ野望がまるで夜空を覆う暗雲のように、不気味に渦巻いていた。
彼女のこの狂気に満ちた計画がフォドラにどのような新たな悲劇と混乱をもたらすのか。そして眠り続けるベレスとカシアンの運命に、どのような影を落とすことになるのか。それはまだ誰にも予測できない、恐るべき未来の始まりを告げていた。